そういう訳で則宗は部屋から出ることとなった。主命が掛かっている長谷部は迅速に則宗を机から引き剝がそうとして失敗し、非常に不服気な顔で長義の助力を願うと、ふたり掛かりで引き剥がすこととなった。あれよあれよと机から剝がされた則宗はそのまま別室へと連れ出され、主の務めがどんなものか、どれほど重要かつ大変なものかを滾々と説明される説教に入った。が、則宗はその重要かつ大変な任務に差し当たることは間々あり、内容を知り尽くしていたし、何なら改善点を出す側の者だった為、説教は無駄に終わるという訳だ。「というか菓子を持ってきていいか? 坊主に頼まれているんだ」「貴様よくもこの大事な話の最中に」「ああそうだアイスを強請られていたんだった。坊主、お前さんも何か選べ。前々から思っちゃいたが、お前さんには休憩が必要だ」「誰が仕事を増やしたと思ってる貴様!」「うははは!」こういう訳で説教は菓子とアイスの集う広間へと変貌した。なお執務室では相変わらず堅物の大佐が刀剣たちと共に任務をこなしている。こりゃ今は無理だな。則宗はアイスを舐めながら、一旦計略を仕切り直すことにした。
とすれば、あのときが良い。
大佐が隙を見せるひと時を、則宗は知っていた。作り出したと言っても良かった。
夜半時。酒盛りの賑わいと寝静まる静寂が重なり合う奇妙な夜の片隅。執務室の襖を開けた先、景観を前に聳える縁側に腰を掛け、月を見上げる男がひとり。
「よう」
わざと揚々とした口ぶりの声を掛ける。すると男はいつも片眉を歪める。だがそれだけだ。それ以上の拒絶は生み出さない。それがわかっていて、則宗は隣に腰を掛ける。
「いい酒が入ったんだ」
「お前はいつもそれだ」
「いつもいい酒だろう?」
無言は肯定の印だ。則宗は持ってきた瓶を傾け、ふたつのグラスに酒を注いでやる。そうしてふたりして、酒一杯分。何を話すこともなく月を見上げ続ける。そんな夜の片隅が、大佐と則宗の習慣だった。
この傷を慈しむいたいけな人間の捌け口になれればと願った。大佐と呼ばれるこの男は強い。運命にすら隙を見せず、抗って見せる剛毅がある。だからきっと、負った傷のひとつひとつを言い表せてしまうのだ。折ってしまった刀の、残った欠片を、袋に包んで持っているという噂はきっと本当なのだ。そうしてひとりで歩いて行けてしまう男だ。あまりに痛ましいのに強い、いびつな有様は則宗の美感覚を酷く刺激した。この男が幸福であってくれればと願うほどに。
最初の加州が折れたときも、則宗は酒を持ってやってきた。
沈鬱として何も話さない男は、たったひと言「ちゃんと愛してやれたんだろうか」と零した。まだ泣いていた方がいたましくなかったほどいじましい声音だった。則宗は胸を張っていった「おうとも」と「坊主は愛されて逝った」則宗は、自分が行ったことの正しさを知っていた。あの坊主は一点の曇りもなく愛のために逝ったのだ。どうしても突破しなければならなかった拠点だった。これ以上の撤退は許されなかった。突き進むしかなかった中で、加州清光は笑って言った「俺がいく」と。愛のため、これまで自分を愛してくれた主のためにと身をとした。その様を則宗は目の前でみていた。武器として正しく愛するというあの男の不器用でならない愛し方は、愛を求める刀に届いていたのだ。
「ちゃんと愛してやれるだろうか」
そう呟く大佐の手には一振りの刀があった。戦場で回収した加州清光だ。未だ誰も知らない加州清光。自分たちが知っていて、けれどそうではない誰か。依り代を大切に握る大佐に、則宗はいってやった。「そんな持ち方しておいて」もう愛しているようなもんだろ。
こうして無事、加州清光は本丸に馴染んだ。孫扱いに享受し、主がさほど興味を引かない爪紅をそれでも熱心に塗っている。最初の彼と同じで、けれど時々違う彼の姿の全てを、本丸は愛している。
そういう遍歴が多々あるものだから、チャンスはここしかないと則宗は思ったのだ。酒の力を借りてどうにか白状させようという作戦である。徳利を傾けながら、ううむと則宗は唸る。どうしたものか。執務室で切り出した時はあっけなく切り捨てられてしまったが、この場で在れば答えがくるだろうか?しかしあの調子はどうにも隠そうとする素振りだった。あまり言及し続けてもさらに殻に閉じこもるだけになるかもしれない。 もう少し強い酒を持ってくるべきだったろうか? しかし飲み比べ大会で日本号も次郎太刀をものしたこの男を酔わせるなど誰が出来るというんだ?
そう、思い悩む則宗に声が掛かった。
「お前は唸っていても綺麗だな」
どこから声がしたのか。則宗は思わず探した。どれだけ探しても、ここは本丸の執務室前で、飲み会に興じる連中が通りかかるようなところじゃない。正真正銘則宗と大佐のふたりっきりだ。解り切ってるはずなのに、則宗は誰かを探さざるを得なかった。綺麗だって言ったのか? この男が?
「お前の髪は陽光のようで、その目は宝石か何かか」
大佐は月が映る徳利に目を落とす。
「肌だって貴石を砕いて混ぜたようなありさまで」
驚いて丸める白藍の瞳に気付き、ぼんやりと顔を上げた。
「お前が微笑めば誰もが気を良くするんだろう」
目が出会う。出会っているのに、陶然と揺れる瞳は、則宗を映していない。そう、はっきりと理解できた。
「うらやましいよ」
それからくしゃりと、眉尻を下げて微笑んだ。
このとき則宗は、この男が本気で恋をしたことに、気付いた。