雨の残り香自宅とは違う洗濯物の匂いにつつまれて、暦はかすかな胸の高まりを感じた。
それは決して性的な興奮の類ではなく、菊池の自宅に通され風呂まで借りて、そして普段菊池が使用しているであろう、グレーのスウェットを自身が着用しているという非日常のせいである。壁を数枚隔てた先から聞こえるシャワーの音が腹の下を撫でるように刺激するのを、暦は必死に自身への言い訳でかき消した。
Dopesketchからの帰り道、通り雨に降られ下着まで濡れてしまった暦の近くを偶然菊池の車が通りがかり、促されるまま車内に乗り込んだのだった。
ずぶ濡れの暦を車内に招き入れることで助手席が濡れることを気にするでも、暦の様子を気遣うでもなく、菊池は左手の時計を一瞥すると「遅いな」と呟いた。
「高校生が一人で出歩いていい時間ではない」
「は?」
「ここからだと私の家の方が近い。ご両親に一報し、明日の早朝帰宅しろ」
「や、こんくらいの時間別にSで慣れてっし……って、おい」
困惑する暦のことを置き去りにするように、菊池はウインカーを出しアクセルを踏んだ。
「おい、別に大丈夫だって、なあ」
暦の戸惑いに、菊池は答えない。なめらかに道路を動く車体の天井を、雨粒を叩く音とワイパーの音だけが車内に響く。
「そもそも俺、アンタん家に別に泊まるなんて一言も」
「下着類」
喚く暦の言葉を、唐突に菊池が遮る。信号が赤になり、車も一緒に停車し、滝のような雨水がフロントガラスを濡らした。ウインカーの点滅音と、ワイパーが左右に行き来する音が忙しなく車内に響く。
「寝巻きの類は貸与するが、下着はさすがに貸与できない。金は出してやるからコンビニで一式揃えてくれ」
「は?」
唐突な菊池の提案に面食らう暦に構わず、菊池は続ける。
「仮に返却されたとして、君が一度履いた下着を洗濯して身に付けるのはさすがに抵抗がある」
「おまっ、そんなの俺だってヤだよ!」
「君がそういう類の変態ではなくてよかった」
「イヤに決まってんだろ! 何言ってんだ!」
菊池はスーツの内ポケットから長財布を取り出すと、札を一枚取り出して暦に差し出した。ゼロが4つ印字された金額に、暦は目を見開いた。
「そんな受け取れねえよ」
「では私の下着を身につけて帰るか?」
「なんでそうなるんだよッ!」
そのまま信号が青になり、再度車が発進する。
菊池の細長い人差し指と中指に挟まれた札には折れ目がついておらず、菊池の几帳面さと金額に対する無頓着さが不釣り合いだった。
横目で菊池を見る。目の前の道路をまっすぐ見つめる淡いグリーンが、雨で濡れたナトリウムランプの光をてらてらと反射している。菊池の全身が、指先に挟まれたままの万札にも、そして助手席に座る暦にすら興味を失ってしまったようだった。おそらく暦が金を受け取るまでこのまま左手を差し出し続けるだろう。
「…………わかったよ。その、サンキューな」
観念して暦が万札を受け取ると、菊池の左手が静かにハンドルに吸い付いた。程なくして雨音に混じりウインカーの音が鳴り、二人を乗せた車は静かに左折し、コンビニの駐車場に侵入しだのだった。
菊池と二人きりになるのは二度目だが、初めてまともに言葉を交わした場所が場所なだけに、他意がなくとも妙に意識してしまう。ベッドとローテーブル、そしてテーブルにはスマホと仕事用であろう、薄いラップトップのPCが置かれている。暦は所在なく狭い室内をうろうろとしていたが、やがてローテーブルの前に腰を下ろした。ベッドに腰掛けなかったのは、なんとなく自分の領域が侵されかねないと感じたからだった。
仕方ないにせよ、流れでよく知らない大人の家に転がり込んでしまった。突如見知らぬ世界に迷い込んでしまったような不安と、顔見知りとはいえよく知らない人間と一夜を過ごす高揚感。そして暦の胸に渦巻く感情は、それだけではない。
生活感をとことん排除された空間に立てかけてある傷だらけのスケートボードが、より一層非日常感を掻き立てていた。床はフローリングが剥き出しで、ちりひとつ落ちていないがラグやカーペットも敷かれていない。それがかえってさみしさともわびしさともつかない感情を暦に想起させる。大家族の中で暮らす暦の部屋とは対極のような部屋だった。他者の生活音は皆無に近く静かな空間。
この部屋で、少なくとも菊池は生活している。それが生活と呼べるようなものなのか、暦にはわからない。きっと菊池の中心に据えられているのは以前ラブホテルでの会話にあがった「主人」で、あくまで菊池はその添え物、という意識なのかもしれない。主人と従者という関係とはいえ、ここまで自分に無頓着でいられるものだろうか。暦はつくづく、菊池が今まで相対したことのない人間なのだと思い知る。
「寝ていなかったのか」
不意に背後から声をかけられ、暦の肩が跳ねる。
振り返るとシャワーを浴びた菊池がドアの前で立っていた。濡れた髪は一層黒さを増し、熱で頬が微かに染まっている。
「一応、アンタがフロ上がんの待ってたんですけど」
「なぜ」
「そりゃ一応泊めてもらうわけだし」
「そうか」
意外にも、菊池は暦の隣に腰を下ろした。コトンとローテーブルの上に缶ビールが置かれ、プシュ、とプルタブが開けられる音が響いた。
「え、アンタ酒飲むの?」
「まだ2本目だ」
「いつの間に……」
「君がシャワーを浴びている間に」
菊池が缶ビールを煽る。菊池の大きく上下する喉仏から、暦は目を離すことができなかった。
「残念ながら君の分はないが」
「未成年だっつの」
「案外真面目だな」
淡いグリーンと視線が交わる。シャワーの熱とアルコールでほぐれた眼差しが、今の暦には眩しく感じられた。暦に貸し出してくれたものと同じグレーのスウェットも相まって、菊池を普段よりずっと無防備に見せている。アルコールで湿った菊池の口許に、思わず唾を飲み込んだことに、暦は自分で驚嘆する。
慌てて視線を逸らすと、再び菊池が喉を鳴らす音が聞こえた。やがて菊池が小さく息をつく音と、空になった缶がローテーブルの上に置かれる音が聞こえた。暦が改めて菊池に視線を戻す。潤んだ瞳と滲むように火照った頬に、暦はラブホテルの艶やかな照明を思い出し、膝を抱え込んだ。胸の鼓動がやけにうるさいが、緊張によるものだと思い込もうとする。沈黙に耐えかね、暦はふたたび菊池に話しかける。
「酒、普段から結構飲むのか」
「ほとんど飲まない」
「じゃあ何で今日は飲んでんの」
「そういう日だから」
「なんだそれ」
らしくない理由に暦が思わず笑うと、菊池も小さく口角をあげる。酒のせいか、菊池は僅かに上機嫌なようだった。
ラブホテルやSで見た時よりずっとリラックスした表情だった。二缶目も飲み干してしまうと、菊池はアルミ缶を右手で小さく潰した。ぺきょ、と小気味よい音が室内に響く。
「そろそろ寝るか」
「ん、」
「君はベッドを使うといい、私は床で寝るから」
菊池は小さく伸びをすると、視線で暦に促した。
「は? 俺が床でいいよ」
「君も遠慮をするんだな」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味だ」
そのままどちらが床で寝るかの問答がしばし続くかと思われたが、不意に菊池のスマホが震えた。失礼、と小さく呟いた菊池がスマホに手を伸ばす。そういった連絡には無頓着に見えるが、菊池が事実上Sを仕切っていることを鑑みるとそうではないのかもしれない。時刻を確認するとちょうど0時を過ぎたところで、急ぎでなければ翌朝返信すればいいものを菊池は律儀に返信しているようだった。菊池の柔らかなままの表情から察するに、暦は菊池も隅におけないものだ、と素直に感心した。頬が緩みそうになるのを堪えながら、暦は菊池に尋ねる。
「誰から? 女?」
「ちがう」
「でも仕事って感じでもねぇんじゃん?」
「……私の主人からだ」
あまりに予想外の答えに、暦は目を丸くする。
「へ? 主人? 仕事ってこと?」
「今日は私の誕生日だからな。わざわざ祝いのメッセージをくださった」
「……はあ?!」
思わず暦の声が大きくなる。つい先刻普段飲まない酒を飲んでいたのにも合点が行く。静かにと菊池が諌め、暦は少しだけ声をひそめた。
「いや誕生日て! なんで俺なんか家に泊めてんだよ! てか言ってくれたらさっきコンビニでケーキとか……あーもう!」
つい1時間ほど前のコンビニのやりとりを思い出す。家に何もないからという理由で下着類の他にコーラと腹が減った時のため菓子をいくつか購入しただけだった。
「私の誕生日がいつであろうと君には関係ない話だろう」
「そういう意味じゃなくて……じゃあ尚更俺が床で寝る」
「なぜ」
「そりゃそうだろ、今日誕生日のやつを床に転がせねえって」
強引に菊池をベッドに押しやり、暦は床に転がった。せめてと菊池がタオルケットを暦に投げてよこす。背中にひんやりとしたフローリングの温度を感じながら、そういえばコンビニで購入した菓子には手をつけていないことを思い出す。腹が減るかと思っていたが、案外そうでもなかったのだった。
身体を起こし、リュックに無造作に詰め込んでいた未開封のポテトチップスを取り出すと、ベッドに座る菊池に差し出した。
「これ、やるよ。誕生日プレゼント」
「私に?」
「いらねえかもしんねーけど。誕生日おめでと」
菊池は目の前に差し出されたポテトチップスを不思議そうに眺めていたが、やがてそれを受け取った。
「ありがとう、もらっておく」
「アンタの金で買ったやつだけどな」
ふ、と菊池が小さく笑う。暦もつられて笑った。
「ホントアンタ意味わかんねーよな。その、菊池サン? Sではスネークなんだっけ」
「君の好きに呼ぶといい」
「じゃあスネークだな。次に会うのってどうせSだろ」
「君がまた突然車道に飛び出してこなければ」
「るせえっての」
「……ふ、そろそろ寝よう。明日も早い」
菊池が照明を落とす。シーリングライトの灯りが緩やかに消えると、空気も一緒に静まり返ったようだった。
雨音はもう聞こえない。どうやら雨はもう上がったようだった。かたく冷たいフローリングの感触が不思議と心地いい。Sとはまた違う高揚感をその身に感じているからだ。タオルケットを抱き込みながら、暦は静かに瞼をおろした。