The trivial story of one rainy night. カインが空腹で寝付けずにキッチンへ向かうのは、そう珍しいことではなかった。任務や執務に追われてきちんと食事の時間をとれなかった日や、休暇で一日中眠ってしまった日、夕食後にトレーニングをした日。あるいはそういった理由がなくとも、食べ盛りである彼にとって夜食は抗い難い、甘美な誘惑であった。とりわけ、偶然にもネロがキッチンに立っていようものならばこれ幸いと言ったところで、強請ってみるととしょうがないなと呟きながら、手間のかかるようなものでなければ、大抵はリクエストに応えてくれるのだ。
今晩、カインが目を覚ましたのは、空腹だけが理由ではなかった。雨が降っているのだ。昨晩もキッチンへ足を赴いたために、今夜は耐え忍ぼうと布団に潜り込んだものの、ざあざあと降り頻る雨が窓を叩く音は、カインに休息を与えようとはしなかった。結局、そうして寝付くことができずに部屋を出たのだった。
舎内はすべて消灯しており、頼りは手元のカンテラだけであった。廊下には雨音とカインの足音とがしんしんと反響している。賢者や、アーサーの部屋からは扉の向こうで眠っている気配を感じ取り、安堵した。それは無意識のうちに気取ったものだった。元来騎士として人の気配には敏感なカインではあったが、見えなくなってしまってからは、そうした能力に拍車がかかった。彼にとって喜ばしいものでも、寂しいものでもある複雑な変化であった。
注意深く先を照らしながら階段を下り、キッチンのある方へと向かう。灯りは漏れていないが、微かに物音があった。自分と同じように、腹を空かせて眠れない者がいるということを、カインは嬉しく思った。夜目に慣れているシノか、それとも、ネロの仕込みをこっそり貪ろうと目論むブラッドリーあたりか。カインは期待に胸を躍らせながらキッチンを覗いた。けれどもそこに佇んでいたのは、彼が予見したどちらの人物の背中でもなかった。真っ暗な部屋の中、カンテラの灯りに照らされた銀髪が白く浮かび上がる。
「オーエン」
カインにそう呼ばれた人物は、ゆったりとした動作で後ろを振り返った。檸檬色をしたカインの左目と、柘榴の一粒の様な、彼自身の赤い右目が向けられる。それらは突然あらわれた光源に、まぶたによってぎゅっと細められた。
「それ、下げて」
「え?」
「眩しい」
「ああ、悪い」
オーエンの指摘を受けたカインは、胸のあたりに掲げていたカンテラを腿の横で下げた。キッチンでオーエンに遭遇するのは初めてではなかったものの、たいへん珍しいことではあった。そもそも、夜中に彼と出くわすこと自体が稀有であった。自室で眠っているのか、あるいは魔法舎から離れているのか、気が差し向かなければーーーーーー彼にとってそれは大抵悪戯か嘲り等の類であるーーーーーーそもそも共用スペースに顔を出すということをしないのだ。
オーエンは手頃なおもちゃを手にした子どものような笑みを浮かべた。
「残念だったね。ネロじゃなくて」
「そんなことないさ。おまえがいて良かったよ」とカインは朗らかに応えた。「一人で食べるのは寂しいからさ」
カインはキッチンに入り、カンテラをテーブルに置くと、視線でオーエンを捉えた。寝巻きなのだろうか、初めて見るラフな格好をしていて、それがカインの目には新鮮だった。オーエンの眉が勝気に吊り上がる。
「おめでたい騎士様。どうして僕がおまえと一緒に食べると思うの?」とオーエンは言った。
「嫌か?」
「嫌」
「なら、無理に誘ったりはしないよ」
「それって僕の意思を尊重している気? むかつく」
「弱ったな。じゃあ、どうしたらいいんだ」
カインは困り顔でオーエンを見遣った。今晩の彼はいつも以上にひりついているらしいことを察したものの、原因がわからない以上、宥められそうもなかった。
シンクで手を洗うと、丁度オーエンと隣り合うようなかたちになる。調理台にはたっぷりの生クリームが詰まったボウルが乗っていて、その白い塊がこれからオーエンの胃に収められるものであろうことは明らかだった。
彼はボウルを眺めながら手持ち無沙汰にぼんやりと突っ立っている。カインは雨音の隙間からオーエンの息遣いを聴き取った。少し落ち着きがないような感じがした。
「食べないのか?」とカインはオーエンに訊いた。
「食べるけど。僕がいつ食べようと関係ないだろおまえには」とオーエンの反論は口早であった。
毛を逆立てた猫のように、オーエンは投げかけられる言葉のすべてを反転せんといったばかりだった。けれども、カインは対話が望ましかったし、今夜その機会を逃すのはたいへん惜しいことのように思われた。
「ココアを作るんだが、それ、乗せたらうまいと思うぞ」
「ココア? きみが?」
オーエンは目を丸くした。それは平常よりも幾分か幼い表情だった。彼の食いつきに、カインは口の端を上げた。
「賢者様が教えてくれたんだ。眠れない時はココアが良いんだってさ」
「知ってる」僕は賢者様に作らせたし、ミチルと三人で飲んだ。
「珍しい組み合わせだな。どんな話を?」
「……ミスラはまぬけで最悪って話?」
「あはは。悪口は良くないぞ」
「ミチルだって言ってた。それに、おまえ今笑った」
「そうだな。良くなかった。ミスラに謝っとくよ」
「言われたってミスラはわからないだろ」とオーエンは言っておかしいといった風に笑った。けれども彼自身はそのことに気が付いていないようすだったので、カインは何も言わずに一緒になって笑った。湿気が軽くなり、空気が和らいだような感じがあった。
オーエンは腕を組み、調理台に寄りかかって体をカインの方へと向けた。
「ねえ。作らせてあげるから、早くして」
少しだけ声の機嫌が良くなり、カインに期待してみせるようなしぐさをとった。カインはまかせろと言ってニッと歯を見せた。
◇
湯気立つ二人分のマグを、カインは談話室へ運び、それぞれテーブルの上に置いた。クリームがたっぷり乗ったココアはオーエンの、生姜を少し加えたココアはカインのものであった。蝋燭がひとりでに灯り、オーエンが魔法を使った気配をカインは遅れて気取った。
二人は対面に設えられたソファに座った。向かい合うことに慣れているからか、自然に、必然と、そう位置取っていた。
オーエンは足を組み、持ち込んだボウルを太腿に乗せて、手のひらで掬った白い塊を舐めている。カインは非常食のビスケットをさらにテーブルに置いた。そのビスケットは「みなさんが小腹を空かせた時の為に」とカナリヤが焼いてくれているものであった。
たなびく蝋燭の橙の灯りがテーブルやソファやシャンデリアの影をゆらゆらと不安定に象っている。じっと眺めているとカインは揺られているような心地がした。外の雨足は弱まるようすもなく、相変わらず窓をちいさく叩き続けていた。
「おまえが誘ったんだから、なにか面白い話をしろよ」とオーエンは言った。
「難しいリクエストだな」
「面白くなかったら、そこのビスケットは一枚も食べちゃ駄目」
「面白かったら?」カインはココアを啜った。生姜が舌と喉とをあたためた。
「鼻にクリームを塗ってあげる」
そしたら舐めていいよ。オーエンは、鼻や頬や髪の先などあちこちにクリームの白いかけらをつけていた。
カインはううんと唸りながら思案し、朝起きてから今へ至るまでの一日を回想した。そして数ある出来事の中から最も愉快なことは何であったかを考えた。しばらくののち、思い至って顔を上げると、オーエンは挑戦的なまなざしを向けていた。
「今日、中庭でラスティカのチェンバロを聴いていたんだ」とカインは始めた。「みんな自然と集まってきてさ。吸い寄せられるみたいにふらっと。あの音色を聴くと、苛立っていたり、悲しいことがあって沈んでいても、心が安らいでいく感じがして、不思議だよな。おまえにだって覚えはあるだろう?」
「はあ。分からないでもないけど、それで話は終わり?」
オーエンの鋭い指摘に、カインは頬を掻いてつい脱線しちまった、と応えた。カインは続けた。
「それから、小鳥までやってきてラスティカの頭や肩やチェンバロの上にまで止まったんだ。曲に合わせて囀ってて、かわいかった。演奏が終わって、拍手をしていたら、ボン!って音を立てて小鳥が爆発してさ。何事かと思ったら、止まっていたうちの三羽はムルとシャイロックとクロエだったんだ。全然、気付かなかったよ」
「魔力でわかるだろ」
「そりゃあおまえはな。それで、三人とも人型に戻って拍手をしていたんだが、ラスティカがあいつらを花嫁だと思ったみたいでさ! 順繰りにまた小鳥にしては、鳥籠に入れたり出したりしたんだよ」
カインは、眼前で彼が話している場面が繰り広げられているかのように、肩を揺らして笑った。オーエンはクリームココアを啜りながらカインのようすを眺めていた。ひとしきり笑うと、カインはどうだ?といった具合にオーエンを見遣った。するとオーエンは黙って指を鳴らし、カインの眼前からビスケットを消し去った。カインがあっと声をあげた時には、既にビスケットはオーエンの元に置かれていた。
「ええ……駄目か?」
「全然、てんで駄目。僕はそんなくだらないことに微塵も興味ない」
「いけると思ったんだけどなあ」とカインは嘆いた。オーエンは引き寄せたビスケットを摘み、たっぷりとクリームを乗せて口へ運んだ。
「賢者様がみじめに怯えていた話とか、オズの間抜けた話だとか、そういうの聞かせてよ」
「俺とおまえじゃあ、そもそも面白いと感じることが全く違うから、難しいな」
カインは眉を下げ、ビスケットを未練がましく見つめながらココアを啜る。オーエンがビスケットを咀嚼する音がカインの空腹を誘い、オーエンはそのことを理解していたので、わざと見せつけるようにして齧った。
「おまえは?」
「何」
「おまえは今日、何をしてたんだ?」
「今日……」
オーエンの視線はちらりと大窓の方を向いた。それからしばらく言葉に詰まったように沈黙し、カインはオーエンの言葉を待った。オーエンは組んでいた片足を、靴を脱いで、両腕でその膝を抱えるようにして姿勢をとった。
「中央の市場へ行った。ばかみたいに人がいた」
「誰かと?」
「ううん」
「ひとりで?」
「当たり前だろ。僕はどこかへ行くのに誰かを誘ったりしない」
「でも、誘われて行くことはあるだろう」
「うるさいな」とオーエンは言った。口の周りがべたべたとクリームで汚れていた。
「それで?」
「それで? ……何もない。雨が降ってきて、じめじめして、濡れるのが嫌だったから、帰った。つまらなくて、甲斐がなかった」
オーエンはゆらゆらと不規則に揺れる蝋燭の炎をじっと見つめている。そうしていると両の眼が橙の光に反射して、瞳の色が見えなかった。カインは確かめるように、視線を合わせようと、膝で頬杖をついてオーエンの顔を覗き込んだ。すると彼の黒目は一瞬怯むように収縮した。
「雨の日は……」とカインはオーエンに語りかけた。「なんだか、いつも呼吸をしづらそうだ」
「おまえ、息すらまともに吸えなくなったの?」とオーエンは言い、忌々しげにカインを睨みつけた。それはキッチンでしていた表情と同じものだった。警戒されているな、とカインは感じ取った。
「俺の話じゃない」
「じゃあ、誰の?」
「雨は嫌いか?」
「黙れよ」
オーエンが人差し指をくいと曲げると、カインの身体は衣服に引っ張られて強引にオーエンの元へと引き寄せられた。その拍子にテーブルの上のココアやビスケットが倒れて割れて床を汚し、けれども辛うじて、蝋燭だけは身を捩って避けられたことが確認され、カインは安堵した。
カインはオーエンによってソファの肘掛に体を押さえつけられ、咳き込んだ。「そうやって弱みを探る気だった? 楽しかった?」とオーエンは言った。
「そうじゃない、オーエン、話を聞いてくれ」
カインは胸倉にあるオーエンの手を握った。骨ばった、冷たい、かたい手であった。
「おまえを馬鹿にしようだなんて思ってないし、誰かに言ったりしない。ただ話がしたいだけなんだ」とカインは言った。カインの強いまなざしに射抜かれたオーエンは、逸らすことができないまま、ただまなじりを揺らした。
しばらくの間、そうして交わりを解かずに見つめ合い、視線の攻防の末、先に折れたのはオーエンであった。
「ねえ、手、離して」
「え? ああ……」
そうしてカインが握っていた手を解放すると、オーエンは乗り上げていた体を離れ、反対側の肘掛にもたれ掛かるようにして脱力した。カインの拳にはオーエンの皮膚の冷たい感触が、オーエンの手にはカインの血の熱がそれぞれ余韻していた。
「おまえの手、熱くてかたくて嫌い」
「俺は確かに体温が高いけど、おまえの手は冷たいから、丁度いいんじゃないか」
「なにそれ」意味がわからない、とオーエンは言った。
「別に深い意味はないけど、意味がある話ばかりじゃなくたっていいだろう」
「例えばどんな?」
「そうだな……」
カインは肘掛けから体を起こし、背もたれに座り直してうーんと考えるしぐさをとった。オーエンは興味ありげにカインを観察した。
「さっきの話なんだけどさ」
「どのさっき?」
「雨の話だよ。おまえ、遮っただろう」
「つまらなかったら殺すから」
「まあ、聞いてくれよ」と苦笑いを浮かべながらカインは言った。「俺はおまえの表情や態度で辺りの状況を確認することがあるから、よく見えちまうんだよ。雨の日は、なんだかあんまり楽しそうじゃないなって、なんとなく感じたんだ」
「楽しそうじゃないって、どんな風に?」
「うーん……口がへの字になってたり、こめかみが揺れてたり、まつげが下がってたり? 後は、いつもより誰かを突っついたりしないような気がする」
カインはその時のオーエンを回想しながら、思い当たった手がかりをひとつひとつ述べた。蝋燭が小さくなり、もうじき灯りは消えてしまいそうだった。
「さっきもキッチンで、息苦しそうだと思って、それで」
オーエンは、肘掛を枕に、片足を曲げてソファに乗せて寝っ転がりながら、黙ってカインの話を聞いていた。そのようすが少し眠そうだったので、カインはオーエンに見つからないようにして笑みを浮かべた。
「笑っただろ」とオーエンは言った。
「ばれたか」
「何がおかしかったの?」
「おまえが、眠たそうだったから」
「そんな訳ないだろ」
カインは横からオーエンに蹴り上げられ、うっと呻いた。眠たそうという言葉が気に触ったのか、体を起こし、足を組んで座る最初の体勢に戻った。「眠たいのはおまえだろ、赤ちゃん」とオーエンは言った。
「確かに、眠くなってきたかも」
「ほらね」
「雨、止まなかったな」
「……そうだね」
二人は同じくして窓の方を見遣った。外は依然として雨模様で、雨水が絶えずガラスのおもてを流れていた。
カインは思い出したようにソファを立ち、床にしゃがんで零れたビスケットを皿に乗せて拾った。割れたマグは手を切らないように注意深く触れた。「魔法を使えばいいのに」という言葉が飛び、そうだったとちいさく呪文を唱えて割れたビスケットの破片も残さず魔法で拾い上げた。
「雨がうるさくて、眠れなかった」とオーエンは言った。
「え?」
「布団にまで潜ったのに、ざあざあうるさいし、湿気てるし、だから、それで出てきた」
オーエンの口調はぽつりぽつりとたどたどしいものであった。床を一通り綺麗にすると、カインは再びオーエンの隣に腰を落ち着けた。まっすぐオーエンの方を向いて「俺も同じだよ」とカインは言った。
「お腹は空いたし、雨の音で眠れなくてさ」
「なにそれ。子どもみたい」
「それを言ったらおまえもだろ」
「僕はお腹を空かせていた訳じゃない。同じにしないで」
「ビスケット盗ったくせに」
「あれはきみが僕との勝負に負けただけ」
カインはむっとしてオーエンを見つめた。するとオーエンは、いつも通りのあの、にやにやとした余裕のある、いやみな表情をしていたので、カインは自身でも意識されないところでそのことに安堵した。
蝋燭がついに消えた。真っ暗になった談話室には溶けた蝋の匂いだけが微かに残った。けれども二人が互いに、互いの存在の認知を失うことはなかった。
「片付けて、今日はもう寝よう」とカインは言った。
「眠れなかったら?」とオーエンは言った。少しだけ不安げな響きがあった。
「眠れるよ。そんな気がする」
「どうして」
「たくさん喋って疲れたし、ココアを飲んだし、雨で眠れなかったのが自分だけじゃないってわかったから?」
「わかったら眠れるの?」
「わからないより、なんとなく、安心するだろ」
安心すると眠くなるものだから。カインはオーエンの背中を軽く叩き、立ち上がってテーブルの上のものをトレーに乗せた。談話室を後にしようと歩き始めると腕を引かれたので、後ろを振り向いた。そこには俯くオーエンが座っていた。
「おやすみ」とオーエンは言った。