「管理人室」。そう書かれたドアを前に、トトは違和感を感じざるを得なかった。3日分ほどの新聞やチラシが、郵便受けにパンパンに詰まっているのだ。
ここは、鴨の橋ロンという男が住まうマンションの一室。4連勤が明け、普段から事件事件とうるさい友人の様子でも見に行こうかと思い立ったのだが、ひょっとして、留守なのだろうか。はて、家を空けるという話なんてしていただろうか。そう思いSNSを開くと、そんな話をされていないどころか、3時間前に送った「昼頃に行く」というメッセージの既読すらついていない。
「……生きてるよな?」
モノローグのつもりが、無意識のうちにトトの口から最悪の考えが漏れ出す。ロンがもし普通の人間だったのなら、留守にしているのだと思っただろう。けれど、彼は言ってしまえばかなりの変人で、話を聞くにトトと出会う前は死んだように生きていたという。だからだろうか。鴨の橋ロンという人間が、ふと気がつくといつの間にかトトの前から消えてしまうのではないかと、そんな想像が容易くできてしまうのだ。
しかしそれはあくまでトトの想像。そんなはずはないとブンブンと頭を振りかぶる。そしてごくりと生唾を飲み込み、緊張しながらインターフォンへと手を伸ばした。
ーーピンポーン。
聞き慣れた電子音が、いやに寂しく響く。少し待ってみるも、反応がない。静まり返った空間。ますます嫌な想像が、トトの頭に次々と浮かび上がる。もしかして、M家に狙われたのではないか。もしくは、薬の副作用で突然死、とか。そう思うと、一気に血の気が引く感覚がした。
「ロンっ! おい、大丈夫か」
近所迷惑なんて一切考える余裕はなく、トトはドアをドンドンと叩く。
「いるなら返事を、ぶへっ!!」
不意に開いたドアに、盛大に鼻がぶつかる。
「…………うるさいよ、トト」
その声とともにボサボサのワカメ頭が覗いた。ジンジンと痛む鼻を涙目になりながら押さえつつも、トトは部屋の主が生きていたことに安堵の声を漏らす。
「なんだ、いるじゃないか……。メッセージの既読もつかないし、新聞はパンパンに溜まってるし、心配したんだぞ」
「メッセージ……? ごめん、気づかなかった……ゴホッ」
と、ロンがひとつ咳をしたところで、トトが気づく。覇気のない弱々しい声。もう昼だというのにも関わらずロンはパジャマ姿、しかも上から半纏を重ね着している。これは、もしかしなくても。
「……風邪?」
「よくわかったね」
「誰がどう見ても一目瞭然だよ! こんなに新聞が溜まってるってことは、もしかしてずっと寝込んでたのか?」
「ああ、なかなか熱が下がらなくてね……」
そう言う合間にも、ロンは湿っぽい咳を繰り返す。熱があるということは、立っているのも辛いはずだ。玄関で立ち話をしている場合ではない。
「そっか……起こしちゃってごめんな。俺のことはいいから、中で横になってろよ」
「ありがとうトト。……ん?」
「? どうした?」
「そこに落ちているのは君のかい?」
スラリと伸びた人差し指の先。トトがそちらの方へ顔を向けると、ちょうどトトの右前辺りにきらりと光る何かが落ちていた。なんだろうと思い、トトがそれを拾う。
「……ブローチ、かな? 俺のでは無いけど……」
「ふむ……。興味深いね」
微かに上がったロンの口角。前髪から覗く潤んだ空色の瞳がきらりと光るのを見て、トトは思わず「え"」と濁った声を上げた。
「このブローチの持ち主、探してみようじゃないか」
***
「ブローチってことは、女の人の落し物かな」
コポコポと温かいお茶を勝手に入れながら、毛布にくるまるロンに問う。ちなみにこのお茶は、ロンの家に来ると黒蜜しか飲み物(?)が出てこないのに呆れたトトが買ってきたものだ。怠惰の床と名付けられた床の上でクッションに頭を預けるロンは、どうだろうね、と疑問を口にする。
「その線は濃厚だけど、決めつけるのは早い」
「そっか……」
すっかり定位置となってしまった一人がけの椅子に腰掛けながら、トトは温かいお茶に口をつけた。コーヒーや紅茶よりも緑茶が好きなのは祖父母に育てられた名残だろう。
うーん、と唸りながらトトはもう一度落ちていたブローチをまじまじと見つめる。
そのブローチはどうやら鈴蘭を型取ったものらしかった。シルバーの細い茎から頭を垂れた花が三つ、それから真珠のようなものもいくつか付いている。この真珠は鈴蘭のつぼみを表しているようだ。
「ていうかこれ……本物の真珠ならかなりの値段なんじゃ……」
ブローチ自体は片手にちょこんと乗るサイズの小ぶりなものであるが、如何せん装飾が細かく鮮やかだ。それに、アクセサリーなどにはあまり興味が無いトトでも、真珠が高いということくらいは知っている。
「なあロン、この真珠本物だと思うか?」
気だるげに寝そべるロンの目の前に、手に乗せたブローチを差し出す。
「……なんとも言えないな。でも、偽物だとしたらよくできてると思うよ」
「さすがのお前でも、わからないか」
「うん。というか、目がかすんでよく見えない」
「なっ、そんなに熱高いのか!? 薬はちゃんと飲んでるんだよな?」
トトの問いかけに、ロンは視線を宙に泳がせる。いや、前髪で隠れてロンの視線なんて本当はわからないのだが、確かに泳いでいる気がするのだ。
「もしかして、飲んでないのかよ!?」
「薬がない。君と出会うまでろくに外にも出ていなかったから、風邪なんて引かなかったしね」
だったら買いに行けばいいのに。と、またもやモノローグのつもりがトトの口からつい本音が漏れ出す。そして小さなため息をひとつ。
「だったら俺が買ってくるから。ついでに何か食べられそうなものとかも」
「それはありがたいけど、ブローチの持ち主探しはどうするんだい?」
「それもちゃんとやるから、ロンは薬飲んで寝てろ」
「さすがお人好し」
ニマニマと楽しそうな笑みを浮かべるロンに対して、トトはじとりとロンを軽く睨む。
「一言余計だよ」
ごめんごめん、と心のこもっていないロンの言葉に再びため息を漏らすと、トトは上着を手に取りながら風邪の時に必要そうなものを思い浮かべた。こういう時だって、思い出すのは小さい頃に祖父母が看病してくれた光景だ。冷えピタ、スポーツドリンク、すぐに食べられそうな軽食、ゼリー、ヨーグルト、あとは薬があれば大体良いだろうか。
「何かいるものあるか?」
「特に」
「じゃあ行ってくるぞ。大人しく寝てろよ」
と、トトが玄関に向かって一歩踏み出すと、ぐにゃりと何か柔らかいものに足が当たった感触がした。驚いてトトが足元を見ると、予想通り。そこにはロンが刑事課のキクが送ってくれたという猫が仰向けになっていた。一応聞くけど、とトトは前置く。
「死んでる?」
「寝てる」
***