「二限どこでやるんだったかなぁ……ん?」
スマホで次の講義の予定を確認しながら校内を歩いていた零二はふと、視界の端に何か白い物体が映ったような気がしてそちらへと目を向ける。
するとそこには──
「え、うわ、人が落ちてる」
恐らく同じ大学生であろう、白衣を着た男性が床に倒れていた。
その身体には目立った外傷はないものの、意識を失っているのかピクリとも動かない。
(……どうしよう?)
一瞬考えた後、零二は周囲を見回した。
廊下を歩いている生徒達の中には彼に気付いている者もいるようだが、見て見ぬフリをしているらしく誰も助けようとしない。
(放っておいちゃマズイよね)
見ず知らずの相手だが、このまま放置するわけにもいかないだろうと考えた零二は足早に駆け寄るとその男を助け起こす。
「大丈夫ですか? しっかりしてください!」
ペチペチと頬を叩きつつ声をかけるも反応がない。
脈拍や呼吸の有無を確認するために首筋に手を当ててみる。
……正常だ。少なくとも命に関わる事態ではなさそうだと判断した零二はそのまま男の肩を担いで保健室まで連れていくことにした。
幸いにしてここからならさほど遠くない距離にあるため、そこまで苦労せずに辿り着けそうだった。
***
「失礼しまーす……」
ガララと音を立てて扉を開けると室内にいた養護教諭らしき女性が振り返る。
彼女は男子学生と担がれている男の姿を見るとすぐに事情を理解したらしい。
「あら、またなのね。そこのベッドに寝かせてあげてくれるかしら」
言われるままに零二は男を横たえると布団をかけてやった。
「先生、今またって言いました?この人よく倒れてるんですか?何か病気なんでしょうか?」
「ううん、その子いつも研究室に篭ってて、何度注意しても生活リズムを直さないし、こうやって偶に倒れてるところを運ばれて来るのよね」
頬に手を当てて溜息を吐く彼女を見て零二は何と言っていいものか分からなくなる。
「まあでも今回は運が良かったわね。よくあること過ぎて、知ってる子達には放っておかれてるところあるから……っといけない!私これから職員会議に出ないといけないんだったわ。悪いけど貴方ちょっと留守番お願いできるかしら?」
「え、俺一人でですか?」
「だって他に誰もいないもの。じゃあお願いね~」
言うだけ言ってさっさと出て行ってしまう彼女を呆然と見送りつつ、残された零二は仕方なく男が目覚めるまで付き添っていることにする。
それから三十分程経った頃だろうか。
男はようやく目を覚ますと上半身を起こした。
「ここは……あれ、ぼく……?」
状況を把握しきれていない様子の男に対し、零二は苦笑しつつ話しかける。
「えーと、まず自己紹介しますね。俺は零二です。貴方が倒れてたからここまで運んできたんですよ。気分はいかがですか?」
「……あぁ、そう、大丈夫。わざわざ運んでもらって悪いんだけど、ぼくもう戻るし、お礼とか期待しないでよね」
そそくさと立ち去ろうとする彼の白衣を掴むと零二は言った。
「待ってくださいよ。そんなフラフラの状態で戻れると思ってるんですか? せめてもう少し休んでいってください」
「あっぶないな!フラフラなの分かっててなんで勢い良く服掴むんだよ!?引っ張られた拍子に転ぶとこだわ!!」
「あ、すみません」
反射的に謝ると零二は手を離した。
すると彼は深い溜め息を吐いて頭をガシガシ掻くと言った。
「分かったよ、少しだけ休んでく。ちょっと休んだらすぐ戻るし、おまえだって授業があるんだろ?」
「えぇ、まあそのつもりなんですが、あの、ところで貴方のお名前は?」
「……レヴィアタン」
不機嫌そうな表情を浮かべながらも渋々といった感じで答える彼。
それを聞いた零二は一瞬キョトンとした顔になると、次の瞬間には満面の笑顔になった。
「えっと、じゃあレヴィさん」
「…………何だよ」
ジロリと睨まれても全く気にせず、むしろ嬉しそうにしながら零二は続ける。
「折角なので、もっとお互いのこと知りたいなって思って。だから連絡先交換してくれませんか? 俺もここの学生なんで暇な時はいつでも構いませんから」
「……」
無言のまま差し出されたスマホを零二は受け取る。
そして慣れた手つきで操作していく。
「はい、ありがとうございます」
「……」
「あの、どうかしました?」
「あ、いや、別に……」
顔を逸らす彼を不思議に思いつつも、零二はふと気になったことを口にした。
「そういえば、レヴィさんは先輩ですか?何年なんでしょう?」
「……三年生だけど、それがどうした?」
「じゃあレヴィ先輩だ。研究室に篭ってるって聞いたから、研究室を持てるくらいには凄い人なのかと思いまして」
「……違う」
「え?」
「ぼくは凄くなんかない。ただの引き籠もりだ」
自嘲気味に呟いたレヴィの顔を見て零二は思わず見入ってしまう。
(なんだろ、この感覚……)
それはまるで、何かを懐かしんでいるかのような、そんな不思議な雰囲気だった。
「とにかく、これ以上ここにいても迷惑かけるだけだからぼくはもう行くぞ」
「気にしなくていいのに……、あ、レヴィ先輩の研究室見たいなぁ」
「ダメ。絶対に見せるもんか」
断固拒否するレヴィに対し、零二は食い下がる。
「そこをなんとか!」
「嫌なものはイヤ」
「どうしても?」
「しつこいな」
「うぅ……」
少し上目遣いになりながら懇願する零二を見て、レヴィは呆れたように言った。
「はぁ……分かったよ。ただし、一回だけな」
「本当ですか!」
「仕方ないな……」
パァッと明るい笑みを浮かべる零二に対し、レヴィはやれやれと肩をすくめると、立ち上がって自分の研究室へと歩き出した。
***
「ほら、着いたぞ。これで満足か?」
「わ〜!これがレヴィ先輩の研究室かぁ!」
目の前に広がる光景に感嘆の声を上げる零二。
そこは彼の言葉通り、まさに研究室と呼ぶに相応しい場所であった。
室内に並んでいるのは大量の書籍や実験器具、パソコンにプリンターなど、大学にあるべき設備が一通り揃っているようだ。
だが、それらは整頓されているとはいえず、床には空き缶が転がり、ゴミ箱にはカップ麺の容器が山積みになっている。
「……うん、道端で倒れるのも頷けますね!」
「おまえ相当失礼だな。実際そうだけど」
ジト目を向けられてもなおニコニコしている零二を見て、レヴィは諦めたような表情で言う。
「まあいいか……。それで、もういいだろう?ぼくはそろそろ戻らないとだし」
「あ、はい。お時間取らせてすみませんでした。ところでひとつご提案が」
「ん、なんだよ」
ニコニコしたまま近づいてくる零二に対して警戒心を露にするレヴィだったが、時既に遅しだった。
「また倒れないように俺が生活改善してあげますよ」
「は?」
呆然とするレヴィに対し、零二は自信たっぷりに言う。
「俺こう見えて家事全般得意なんで任せて下さい。掃除洗濯料理に買い物まで、なんでもやってあげちゃいますよ?」
「……あ、えと、い、いや、結構です」
「遠慮しないでくださいよ〜」
「いや、本当に大丈夫だから……!というかなんなんだよさっきから!おまえには関係ないことだろ!ぼくのことは放っておいてくれよ!!」
突然大声を出す彼に、零二はきょとんとして首を傾げる。
「別に俺はただの善意でやろうなんて思ってませんよ?生活改善に協力する代わりに、レヴィ先輩に勉強教えてもらおうと思って」
「は、はあ!?」
「だってレヴィ先輩頭良さそうだし、先輩の研究室だって凄いし、それに……」
そこで一旦言葉を区切ると、彼は優しく微笑んで言った。
「友達になりたいなーって思ったんですよ」
その瞬間、レヴィの心臓がドクン、と大きく跳ね上がった。
「っ……!?」
「あれ?どうかしました?」
「べ、別に……」
「そうですか?なら良かった」
ニッコリ笑う零二にレヴィは何故か顔が熱くなるのを感じた。
(なんだこれ……?ぼく、どうしちゃったんだ?)
自分の感情の変化に戸惑っていると、零二はハッとした表情になって申し訳なさそうに言った。
「あ、すみません。俺ばっかり喋っちゃいましたよね。えっと、じゃあレヴィ先輩、また明日ここに来ますから、返事聞かせてくださいね」
「え、あ、ちょ、ちょっと待って……!」
慌てて呼び止めるも零二は聞く耳を持たず、そのまま行ってしまった。
(……なんなんだあいつ)
零二の姿が見えなくなった後、レヴィは一人考える。
何故自分はこんなにも動揺しているのか。
どうしてあんな奴の言葉に振り回されているのか。
自分でも理解出来ないまま、レヴィはしばらくその場に立ち尽くしていた。
***
「レヴィ先輩おはようございます!」
翌日、宣言通り研究室にやって来た零二は元気よく挨拶をする。
それに対しレヴィは相変わらず不機嫌そうな様子だ。
「あの、レヴィ先輩?」
「……」
「レヴィ先輩?」
「……」
「先輩ってば」
「……う、うるさいな。ぼくは今忙しいんだ」
「でも昨日は話を聞いてくれたじゃないですか」
「それは……」
言い淀むレヴィを見て零二はニコッと笑ってみせる。
「約束通り生活改善に協力しますから、これからよろしくお願いしますね?」
「……そのことなんだけどさ、代わりに勉強教えるのなんてたかが知れてるし、給料とか、出そうと思うんだけど」
「え、いいんですか?」
「うん。ぼくはどうせ外出ないし、あんまりお金使わないから貯金あるし……」
「ありがとうございます!」
「それと、ぼくのことレヴィでいいから。敬語もいらない」
「分かったよレヴィ。じゃあ早速始めちゃうね」
そう言って準備してきた掃除用具を手に取ると、零二はテキパキと作業を始めた。
それを眺めながら、給料をいくら出せばいいか考えつつ、レヴィは内心呟く。
(まぁ、悪くないかな……)
こうして始まった零二とレヴィの生活は、思いのほか上手くいった。
まず、零二の家事スキルの高さにレヴィは驚いた。
ゴミ屋敷寸前だった室内はあっという間に綺麗になり、散らかり放題だった服も片付けられ、部屋の中は見違えるほどスッキリしている。
さらに、食事面についても文句なしだった。
コンビニ弁当やカップ麺ばかりだった食生活は一変し、栄養バランスを考えたメニューに早変わり。
料理が得意というのは本当だったようだ。
「レヴィ〜!今日のお弁当美味しかった?自信作なんだよ〜!」
「……うん、いつも通り普通だったよ」
「え〜?そんなこと言わずに素直に褒めてよ」
「はいはい」
このように、すっかり甘えん坊になった零二の相手をするのも、存外悪いものではなかった。
だが、ひとつだけ問題があるとすれば……。
「あ、友達と遊ぶ約束してたんだ。ごめんねレヴィ。今日はこれで帰るよ」
「……」
「ん?どしたの?」
「……いや、何でもない。楽しんできなよ」
「うん!」
嬉しそうに笑う零二に手を振って送り出す。
(……結局あいつとは住む世界が違いすぎるんだ)
零二が出て行った扉を見つめて、レヴィはポツリと呟いた。
「ぼくには眩し過ぎるよ……零二」
***
それから数日経ったある日。
「レヴィ、最近調子悪そうだね?」
「……え?」
零二の言葉にレヴィは虚を突かれたような表情になる。
「いや、なんか元気無さそうに見えるからさ。何かあったの?」
「別に何も無いし、ほら、おまえ今日も友達と約束あるんだろ?早く行きなって」
「でもレヴィ……」
「ぼくは大丈夫だから」
「……そっか、わかったよ」
納得いかないといった様子の零二だったが、渋々部屋を出て行く。
その背中を見送った後、レヴィは一人ため息をつく。
「大丈夫、大丈夫……」
自分に言い聞かせるように何度も繰り返す言葉。
しかし、それが無駄な行為であることは彼本人が一番分かっていた。
「……」
少ししてから研究室を出て、廊下から外を眺める。
そこには零二の姿もあった。
待ち合わせている人物を探しているのか、キョロキョロと辺りを見渡している。
(……やっぱり、無理だよな……)
自分とは違う世界の人間である零二と一緒に暮らすなんて、やはり間違っているのだ。
そもそも零二だって、こんな陰気臭い男と一緒では気が滅入ってしまうだろう。
(ぼくが我慢すればいいだけの話だ)
そう結論付けた時、こちらに気付いた零二と目が合った。
すると彼は、笑顔で大きく手を振る。
「っ!?」
慌てて目を逸らそうとした時、零二に近寄って行く人物の姿が目に入った。
それは、彼の友人と思われる女性だった。
「っ……!!」
途端にズキリと胸が痛む。
(違う……ぼくは、あいつのことを……)
自分の気持ちに整理がつかないまま、レヴィは二人の様子をジッと見続けていた。
***
翌日、いつも通り零二は研究所にやってきた。
だが鍵がかかっていて扉が開かない。
「レヴィ、いないのー?」
ドンドンと扉を叩きながら呼びかけるが返事はない。
「あれ?おっかしいなぁ……」
首を傾げつつスマホを取り出したところで、ガチャリ、という音が聞こえてきた。
「あ、レヴィ。よかった、中にいたんだね。あのさ、今日の……」
「帰れ」
「え?」
「帰ってくれ」
「ちょ、ちょっと待ってよレヴィ。いきなりどうしたの?」
「うるさい!とにかくもうぼくに関わらなくていいから!」
バタン!と大きな音を立てて扉が閉まる。
「レヴィ……」
呆然と立ち尽くす零二の手には、いつものように作ってきた弁当が握られていた。
「……レヴィ、お弁当……置いておくよ……?」
ドアノブに引っ掛けるようにして弁当を置くと、零二はそのまま静かにその場を離れた。
***
それから数日間、零二は欠かさずレヴィの元に弁当を持って通った。
だが、一度も顔を見せてもらえず、ついには一言も喋ってもらっていない。
それでも零二は通い続けた。
しかし、レヴィが姿を見せることは無く、ついに1週間が経過してしまった。
「レヴィ、居る……?」
開いていないだろうなと思いつつ、ドアノブに手をかける。
「……ん?開いた……?」
鍵が開いていることに驚きつつも、零二は中に入る。
部屋の電気は消えており、真っ暗なままだ。
「レヴィ?……寝てるの?」
部屋の中はシンと静まり返っており、人の気配を感じさせない。
「……じゃあ、弁当だけ置かせてもらうね?」
そう言って弁当を置いて出ようとしたところで、後ろから突然抱きつかれる。
「うわぁっ!?」
驚いて振り向くと、そこに居たのはレヴィだった。
「レヴィ!良かった、急に会ってくれなくなったから、心配で……」
「……」
レヴィは何も言わない。
ただ黙ったまま零二に抱きついているだけだ。
「レヴィ?どうかし……」
「おまえさぁ」
「え?」
ようやく口を開いたレヴィは、どこか苛立ったような声色で続ける。
「何でそこまでするわけ?ぼくのことなんて放っておけばいいだろ……なんで毎日来るんだよ……」
段々と震えてくる声と、力のこもる腕に、零二はハッとする。
「レヴィ……」
「おまえが来てから、何もかも変なんだ……。おまえが友達と楽しそうにしてるのを見るとイラついて仕方ない……。おまえが友達と遊んでる間もずっとここに引き篭もってる自分が惨めに思えてしょうがないんだよ……。頼むよ……ぼくから離れてくれよ……じゃないと、ぼくは……っ」
泣きそうな声でそう告げると、レヴィは更に強く零二を抱きしめる。
「レヴィ……ごめんね」
「……謝るなよ。余計みじめになるだろ」
「うん、ごめん……。でもね、レヴィ……」
「……なんだよ」
話を聞こうとレヴィが力を緩めた途端、振り返った零二は思い切りレヴィの唇を奪った。
「んぐっ!?」
唐突過ぎるキスに動揺しつつも、抵抗しようと身体を押し返す。
だが、その前に零二はレヴィをベッドに押し倒していた。
「っ!?」
そのまま覆い被さるようにして、もう一度キスをする。
今度は先程よりも長く深いものだった。
「はぁっ……」
「れ、いじ……」
ようやく解放されたレヴィは肩で息をしながら、潤んだ瞳で零二を見つめる。
「レヴィ……俺ね、レヴィのことが好きだよ」
「……え?」
「だから、レヴィと一緒にいたい。俺はレヴィと離れたくないよ。……ダメかな?」
真っ直ぐに見据えてそう言う零二に、レヴィは顔を赤らめて目を逸らす。
「……別に、ぼくだって、本当は、零二と一緒にいたいし……」
そう小さく呟くと、レヴィは零二の首に手を回した。
「……ぼ、ぼくも……おまえのこと、好きだから……」
照れたようにそう口にすると、零二は嬉しそうに笑って再びレヴィに口付けた。