檸檬「ひとやさんの初めてのデートってどんなだったんすか?」
唐突な問いかけに、獄は口に含んだ酒を既のところで飲み下した。急な嚥下で詰まる胸元を叩きながら「はぁ?」と聞き返す声に向けられるのは、興味と好奇心に溢れたキラキラした瞳。
どうやら今し方TVで見ていた恋愛トークバラエティに感化された故の質問のようだ。
「ンなもん、覚えてねぇよ」
「えー。ひとやさん、頭も記憶力も良いっていつも言ってるのに……」
それに獄はウッと言葉を詰まらせる。日頃のしょうもないマウントがここにきてブーメランの如く返ってくるとは思いもしなかった。このままシラを切ることもできたのだが、自分を慕ってくれる恋人の眩しい瞳ががっかりした色に変わってしまうのかと思うとそれは惜しい気がしてしまう。
「最初っつっても中坊の頃だしな……」
恋人としての見栄を捨てきれず、獄は目線は手元のグラスに落としたままぽつりと話し始めると、十四はさっと近寄ってきてソファに座る獄の膝に手を乗せた。
「きっかけは? 何だったんすか?」
さらに目を輝かせて覗き込んでくる様子はまるで犬のようだ。
「中高男子校だったから相手は他校の女子で、たしか文化祭か何かで会った子だったと思う。俺の友だちと向こうの女友だちとグループでつるんで映画行ったり、夏祭り行ったり、付き合うつってもその程度だったよ」
だが、所詮は子ども同士のお付き合い。期待するような話でもないだろうと獄は鼻で笑う。
すると十四は目を半月状に細めて、口元を両手で覆った。
笑われている?
先ほどの獄の笑いは過去の自分への自嘲を含んでみせたものだったが、話すよう促した相手にも同じようにされると癪に触るものがあり、獄の眉間に自然と皺が寄った。だが――
「か、かわ、かわ……」
「は?」
「可愛いっすぅ……」
「はぁ?」
思ってもない言葉に間の抜けた声が出た。一体今の話の何が「可愛い」のか、獄はまったく分からない。
「て、手は? 手は繋いだんっすか?!」
「んー、あー、祭りの帰りに繋いだ気が、する」
「きゃー!!」
手足をバタつかせながら甲高い悲鳴を上げる十四に、獄は困惑するばかりだ。「中学生の男女が手を繋いだ」というだけの話のどこにそんなに興奮する要素があったのか。
「じゃ、じゃあ、キスは? その子とはチューしたんっすか?」
鼻息荒く身を乗り出してくる十四に勢いも身体も押され気味になり、獄はちょっと待てとストップをかける。
「ンなこと聞いてどうすんだよ。ガキの頃の話だろ」
「だって、ひとやさんがそんな可愛いお付き合いしてたなんて今からは想像できないっす! もっと聞かせてほしいんすよ!」
「……元カノの話だぞ?」
自分で言っておきながら違和感があり獄は自ら軽く首を傾げた。元カノと言って良いのかさえ迷うぐらいには幼く、そして今思えば清すぎる関係だった。だが敢えてこう言えば退いてくれるかもしれないと期待する。
「でも、聞きたいっす! で、どうだったんっすか? チューは? したんっすか?」
だが十四の好奇心はそれを上回っているようで、退く様子が全くない。獄はぐっと口を噤んでじとりとした目で見据えるが、十四も負けじと大きな目で応戦してくる。
そんな無言の攻防がしばらく続いたが、ついに獄がはぁ、と大きなため息をついた。
そして小さな声で「した」と答えると、十四は口から音として響く音域を超えてしまったような、悲鳴にならない声を上げた。
そのまま身悶えるように手足をバタつかせる十四。
それを見ながら獄はこれは断じて根負けではない、こうでもしないと先に進まないからだと眉間に皺寄せて不本意な表情を浮かべた。
これまで付き合ってきた女性は少なくはないが、一番最初の、青さ故におままごとのような付き合い方しかできなかった相手についてこんな形で掘り起こされるとは思わなかったと先ほどより長めにため息をついて項垂れる。そのままテーブルに置いていたグラスの中身を少し多めに呷るが、氷で薄まった中途半端な味に思わず舌打ちが出た。
「あの、ひとやさん……」
「ンだよ」
顔を覆った指の間からチラリと覗き見てくる十四に、そうしたいのはむしろ自分の方だと獄は顔を顰める。
「ち、ちなみになんっすけどね? その、初キスの時ってどんな味がしたんっすか? やっぱり、檸檬味っすか?!」
「お前、随分古臭いテンプレート知ってるんだな……」
「どうなんすか? ね! ね?!」
「ンなこと言われても流石に……」
これ以上は勘弁してくれと獄は視線を投げるが、逆にここまできたからこそと十四には退く気が見えない。
仕方がないと獄は顎をさすりながら、頭の中にある蓄えてきた知識と積み重ねてきた記憶の深いところに埋まったものをなんとか掘り起こしていく。
――あれは確か二人で映画を見た帰りだった。人目がないのを良いことに好奇心から唇を重ねた。夕日が沈みかけた、少し肌寒く薄暗い別れ道。ひぐらしの声が聞こえていたので多分季節は夏だった。
「味なんて、覚えてねぇ。つーかほんと、触れただけだったから、ンなもんなかったよ」
――恥ずかしさで直後はお互い顔を見られなかった。そしてそれがきっかけでなんだか気まずくなり自然と会わなくなって、結果別れてしまった。
相手の顔は朧げながら覚えてはいるが、もうこの歳だ、街中ですれ違ってもわからないだろう。
それぐらい淡く儚い青春の一時だったのだ。
だが十四にとっては期待した言葉ではなかったようで、少し口を尖らせて、それまで高かったテンションも若干盛り下がって見える。
そもそも「初めてのキスは檸檬味」などというのは青春の甘酸っぱさをそれっぽく形容した表現にすぎない。
互いに子どもすぎて知識も乏しく触れるだけで精一杯で、舌を入れるなどという発想すらまだなかった獄にとって、覚えていないというより知らないというのが正しく、これ以上は回答しようがない。
「お前は、どうなんだよ」
「へ?」
「俺ばっかり話すのは不公平だろうが。次はお前の番」
「うっ……じ、自分は、その……」
両手の指先を擦り合わせながらチラチラと送られる視線に獄は悠然と足を組んでホラと顎をしゃくってみせる。
「ひとやさんしか、知らないから……」
獄の心臓はその一言で盛大に跳ねて、思わず手に持ったままのグラスを取りこぼしそうになった。
さらに深く俯いた十四の顔は長い前髪が邪魔をして表情が窺えない。だが、耳は触れば熱そうなぐらい赤く染まっていた。
「キスも苦いのしか知らないし、だから、ひとやさんはどうだったのかなって……」
小さなその声は、俯いた顔から僅かにのぞいた瞳と同じく微かに揺れていた。
「あー」と唸りながら獄は天井を仰ぐ。
『ひとやさんしか知らない』
その言葉は獄が忘れていた檸檬よりも甘く酸い感情を思い起こさせて、今はただ噛み締めるしかできなかった。