愛を識る人②以下に十分ご注意の上、危ない空気を感じた方はお戻りください。
・きりちゃんがかなり可哀想な目に遭います
・きりちゃん総愛され気味
・きりちゃんの過去捏造(つどい設定含)
・戦の表現あり
・時代背景に合わないものがたくさん出てきます
・時間軸的にアニメ19期90話より前のつもりで書きました
大急ぎで峠を越えて、町の行きつけの店で戦利品を売りさばき、思いの外潤った懐は行きがけよりも随分と重い。身体の疲れも荷物の重さも忘れて、弾むように軽い足取りで道を下る。
この分なら次の休みにもう一回、合戦場で弁当を売り切ればなんとか学費の納入期限には間に合いそうだった。
良かった、と心の底から安堵して、つい頬が緩む。約半月、寝る間も惜しんで働いた甲斐があるというものだ。こういう充実感や達成感があるからまた頑張ろうと思えるし、次もきっと大丈夫だと思える。生きる為に働いているのは間違いないが、きり丸は働くことが好きだった。
そっと裏門の戸をくぐりながら、こそこそと一年長屋へと急ぐ。
通り道の井戸端で衣を脱いで頭から水を被った。井戸水の冷たさに声が出そうになって、既の所で吞み込んだ。
数回井戸水で身体を流し、髪を絞る。足元に出来た水たまりを踏まないように大股で横へずれた。
一通り身体を流し終え、きり丸はくんくんとにおいを確かめる。もうすっかり鼻が麻痺してしまったが、随分とさっぱりした。恐らくは大丈夫だろうと結論づけて釣瓶を元に戻す。
合戦場に立ち寄ったせいで、それ相応の臭いが染みついている気がしてならなかった。戦が終わったばかりの合戦場で死臭がつくようなことはないだろうが、何せきり丸の同室はしんべヱだ。恐ろしく鼻のいいしんべヱが何かに勘付かないとも言い切れない。この後風呂に入るにせよ、部屋に戻る前に幾らかでも汚れを落としておくに限る。合戦場に行くのはあと一回。次が最後なのだ。こんなところで余計な横槍が入ることだけは避けたかった。
大雑把に手拭いで濡れた身体を拭いて、衣を身に纏う。本当は衣も一緒に濡らしてしまいたかったが、生憎の一張羅。こんな時分から洗濯しても乾かないことは目に見えているし、着られなくなってしまったら明日以降のアルバイトに差し障りが出る。
「…しゃーねぇ。このまま戻るか」
「きり丸?」
手拭いを首に引っ掛けて、部屋へ戻ろうとしたきり丸を誰かが呼び止めた。
陽も落ち切った暗闇では、誰が誰だか判別もつかない。月明りを頼りにきり丸は目を凝らす。
「何してるんだ…ってお前その髪!」
声の主が、張り付いたきり丸の髪を指さして目を丸くする。ぽたぽたと髪から滴った水が地面に染みを作っていた。
「何やってんだこんな夜に!そんな遅い時間でもなし、風呂に入ればいいだろ!潮江先輩じゃないんだから…。風邪でも引いたらどうするんだ」
「わっ、」
ぷりぷり、という効果音が合いそうな勢いでそうまくし立てて近付いてくる——恐らくは上級生。声には聞き覚えがあるはずなのに、肝心の名前が出てこない。自前と思しき手拭いで髪を拭いてくれる手は小さいような気がした。
(四年生…いや、三年生の先輩かな…。)
目の前に来てやっと、その忍装束が萌黄色であることに気付く。見上げると、丸い瞳と目が合った。
「何だよ、そんな顔して。あ!またぼくの名前がわからないなんて言うつもりじゃ…」
見上げた先に居たのは、忍術学園一影が薄いと言われる忍たま——三年は組の三反田数馬だった。三反田数馬先輩、ときり丸が遠慮がちにそう呼べば、数馬はほっとしたように頬を緩める。
「…ありがとう、ございます」
手拭い越しに伝わる手の感触がなんだか心地良くて、きり丸はされるがまま、視線を下に落とした。
こうして誰かに髪を拭いてもらうことがあったような気がする、と遠い記憶を追いかける。
『きり丸、まったくお前は…。こら!じっとしろ!』
今みたいに毎日風呂に入れる、なんてことはなかったけれど、水浴びをしてきゃっきゃと騒ぐ自分を世話するのは年の離れた兄の役目だった。兄に構ってもらえるのが嬉しくて、わざと逃げ回ったりして困らせていたことを覚えている。
数馬の手は、記憶の中の兄の手より小さい。兄は幾つだったのだろうか。もう、そんなことさえも忘れてしまった。
「きり丸」
「っ、はいっ」
ぼんやりと物思いにふけっていたきり丸の頭を、数馬が優しく撫でる。水で重くなっていた髪は幾分か軽くなっていた。
「これでちょっとはましだろ。まったく、こんな日も落ちた時分に井戸水なんか被って」
乱太郎を通じてしか関わったことのないような自分にも、数馬は至極当然のように親切だ。優しい人だな、と思った。
「ん?なんだ、着物も随分汚れてるじゃないか。どこ行ってたんだ?」
「えっ?いや、あの、山菜を取ろうと思ってちょっと山の方に…。そしたら道に迷っちゃって」
あはは、と笑って誤魔化しながら、きり丸はさっと荷物を手に取る。
一年長屋の方へ一歩、二歩と後退った。
「三反田先輩、ありがとうございました。手拭い、汚しちゃってすみません。洗って返しますから」
「は?手拭い?何言ってんだよ。そんなこと気にしなくていい。持ってってもいいんだぞ」
「いえ、僕は自分のがありますから。ありがとうございます」
そう言ってやんわりと断れば、ほら、と言って手を差し出され、きり丸はおずおずとその手に数馬の手拭いを載せる。
それでいいとばかりに頷く数馬に、もう一度ありがとうございます、と言った。
「きり丸」
じゃあ、と背を向けかけたきり丸を数馬が呼び止める。
静かな声だった。
数馬のこんな声は聞いたことがない。何か粗相をしただろうか、もしかして合戦場に行ったことがバレたのか、ときり丸の心臓が早鐘を打ち始める。
ぎゅう、と祈るような気持ちで手に持った風呂敷包みを握りしめた。
「お前、怪我してるんじゃないのか」
「えっ…」
ドキリとして一瞬息が止まる。それから、慌てて首を横に振った。
「けっ怪我なんてしてません!ほら、こんなに元気なのに、」
「頭の後ろにたんこぶがあった。左腕だって少し上げにくそうだ。背中も、打ったりしたんじゃないのか?」
「…っ、」
思わぬ指摘に、きり丸は言葉に詰まる。
数馬は保健委員だったと気付いたのはそのすぐ後だった。
指摘された箇所は全部図星で、頭と左腕は山賊崩れの物盗りに殴られたところだし、背中は今日氷上に難癖をつけられた時にぶつけた場所だ。
頭と左腕に関してはもう二週間あまり前のことで、痣だってもう殆ど残っていない。頭のたんこぶももうわからないくらい小さくなっている。まだはっきりとした痛みが残っているのは背中だけで、それにしたって、そう大袈裟に庇ったりしているつもりはなかったのに。そんなにわかりやすかっただろうかときり丸は冷や汗をかきながら、やだなあ三反田先輩、と笑ってみせる。
数馬はきり丸をじっと見つめて、笑ってごまかそうとしたってだめだぞ、と眉を寄せた。
「怪我したんなら隠すなよ。今は大したことなくても、後からひどくなってくることだってあるんだぞ。ほら、保健室で看てやるから」
そっと腕を引かれて、反射的に振り払う。
ぱしん、と乾いた音が響いた。
「あっ…」
しまった。そう思った時にはもう遅かった。
慌ててごめんなさいと謝罪する。
「いや、ぼくこそごめん。痛かったか?」
嫌な顔など一つもせずに、数馬はただ心配そうにそう聞く。
数馬の顔を見た途端、急にカッと顔が熱くなって俯いた。なんだか自分が矮小な人間に見えて仕方なかった。
「ちっ違うんです!ちょっとびっくりして…。叩いたりしてすみません。三反田先輩、ぼく大丈夫ですから。乱太郎たちが待ってるのでもう行きますね」
失礼します、と息継ぎもせずに続けて言って、逃げるように背を向ける。
「あっ、おい!きり丸!」
背中越しに数馬の驚いたような声がした。
すみません、と心の中で謝って、立ち止まらずに走る。
振り払った手に顔も顰めずに、痛かったか、なんて。
数馬の顔を見た途端、自分が恥ずかしくて堪らなくなった。
(心配してくれてたのに…、なのに、おれ…っ、)
自分のことばかり考えていた。
身体の怪我を見られたら、きっといろいろ問いただされる。もしも合戦場のことがバレたら、もう絶対に合戦場には行かせてもらえない。授業料の支払い期日に間に合わなくなって、そうしたら自分はこの学園にいられなくなる———と、そんなことばかりが頭の中を巡っていた。きり丸の身を案じて、心の底から心配してくれていたのに、その優しい手を振り払って。
どうしてこんなにも上手くいかないんだろう、ときり丸はぐっと奥歯を噛み締める。
授業料のためにアルバイトして、失敗して、また働いて。
たったそれだけのことを繰り返しているだけなのに、どうしてこんなにも気持ちがゆらゆら、ぐらぐらと平らにならないんだろう。
今までなら、きっとこんなことにはならなかった。もっと上手に、いろんなことを割り切って、諦めて、時には捨てて、整理できていたはずだった。
(最近おれ、変だ…っ)
昔のことを思い出したり、変な感傷に浸ったり。失ったものに取り縋って何になる。恋しいとどんなに叫んでも、悲しいとどれだけ泣き暮らしても、何一つ返ってこないのに。気持ちばかりが落ち込んで、一銭にだってなりやしない。痛いほど身に覚えがあって、思い知っているはずなのに。
「…っ、ど、こん、じょうっ…!」
前を向くと決めたあの日にもらった言葉を思い出して口に出す。しばらく忘れてしまっていたその言葉は、思っていたよりも耳馴染みがいい。学園に入ってからも何度か耳にした気がすると頭の端に浮かんだが、すぐにそんな考えは後ろへ後ろへと追いやられてしまった。
『お前にこの言葉は、必要ないかもしれんなぁ』
そう言ったその人は、確か寂しげに笑っていた。
(……おっちゃん。)
どこで会ったのかも、どんな声だったのかももう思い出すことが出来ない。顔も名前も雰囲気も、何一つ。日に日に記憶は薄れていくし、あんなに嬉しかったのに、言われた言葉だってもう半分以上忘れてしまった。
───でも、あの日もらった温かさだけは、きり丸の胸にずっと灯っている。その灯りを頼りに、ここまで歩いてきた。
(大丈夫、大丈夫。おれはまだ大丈夫…!)
ここ最近、何度も自分に言い聞かせてきた呪文のような“大丈夫”を繰り返す。
明日アルバイトが終わったら、数馬にちゃんとお礼を言いに行こう。心配してくれたのにごめんなさいと伝えて、ちゃんと怪我だって見てもらえばいい。明日のアルバイトが無事に終われば、しばらくは合戦場に行かなくたって良くなる。
全部全部、明日が終われば元通りになる。こんなぐらついた気持ちも、らしくない感傷も。だから、前を向いて笑え、ときり丸はぐっと顔を上げた。
笑う門には福来る。笑えない奴に銭は商売なんて出来やしないし、銭だって回ってこない。
笑え笑え、と呟いた声は震えていた。
喉がぎゅっとなって鼻の奥がツンとする。
「きり丸?」
泣くな、と歯を食いしばった時、優しい声でまた誰かに呼びかけられて、きり丸は足を止めた。
恐る恐る振り返ったその先にいた人にはっと息を呑む。
「土井、先生…」
灯りを片手にこちらを見やった土井の顔は所々煤けていて、ほんのりと煙硝蔵の独特の匂いがした。そういえば以前、伊助が火薬委員で新しい火薬の調合を考えていると言っていたなと思い当たる。恐らくはその帰りなのだろう。また火薬の調合を間違えでもして、焙烙火矢になるはずだった花火か、花火になるはずだった火薬か、いずれにせよ何某かを爆発させたに違いない。
「どうした?あぁ、これか?いや、ちょっと火薬の調合を間違ってな」
自身の顔や手についた煤を払う素振りをして、土井は困り顔で笑う。
そうなんですか、と小さな声で返しながら、きり丸はどうしよう、と泣きたい気持ちで胸元の風呂敷包みを握りしめた。
(最悪だ…!)
会いたくなかった。今、この人にだけは絶対に。
だって、土井のあの瞳にはどうしたって勝てないのだ。どんな嘘も隠しごともお見通しで、誤魔化し通せた試しがない。
だから、絶対に会いたくなかった。こんな、自分の内側がぐちゃぐちゃで不安定な時に会ってしまえば、全部を放り投げてその手に縋ってしまいそうで怖かった。
「こんなところで何してるんだ?今帰ったのか?」
放っておいてくれればいいのに、土井はつかつかとこちらに近寄ってくる。
さっさと挨拶をして走り抜けてしまえば良かったと今更後悔しても後の祭りだった。こちらに灯りを向けられて、濡れた頭と汚れた着物が隠しようもなく露わになる。
灯りに照らされているのが嫌で、きり丸は一歩後退った。自分が今どんな格好をしているのか、一応の自覚はある。出来るだけ隠れるように、風呂敷包みを抱え直した。
「……きり丸、お前それどうしたんだ」
さっきまでの声音とは違う。緊張感を帯びた固い声だった。
黙り込んだきり丸を問い詰めるように、土井の視線がきり丸を射抜く。
「…っ、」
これっすか?いやあ山菜採りに山に行ったんすけど、ちょっとすっ転んじゃって、あんまり泥だらけだったもんだから、さっき井戸で水浴びしたんですよ。
さっきみたいにそう言って、笑えば良かったのに。そうしたら、全くお前は、といつも通りにちょっとした小言を言われるくらいで済むし、じゃあぼくこれからお風呂に行ってきます、と逃げ出すことだって出来た。
───わかっているのに、きり丸の口からはただの一言も言葉が出なかった。口を開けば声を上げて泣き出してしまいそうで、必死になって唇を引き結ぶ。息を吸うのも我慢して、暴れ回る心をどうにか落ち着かせようと俯いた。
「アルバイト先で何かあったのか?」
問われて、きり丸は黙ったままぶんぶんと首を横に振った。
滲み始めた視界の端に、ゆらゆらと灯りが揺れている。土井が手に持っていた灯りを下に置いたのだとわかった。衣擦れの音がして、さっきよりも近くで、きり丸と呼ばれる。顔なんて、上げられるはずもなかった。
そっと肩に手を添えられて、大きな手が頬に触れる。
「こんなに冷えて…」
土井がどんな顔をしているのか、俯いたままのきり丸には知る術はない。でも、頬に触れる手が、殊更優しい声音が、心配しているのだと言っていた。その声を聞くだけで、涙腺がざわざわと騒ぎ出してどうしようもない。なんでもありませんとそう言いたいのに、掠れて音にもならなくて、代わりにきゅう、と喉の奥がおかしな音を立てる。
「……ど、い先生」
どうにかこうにか、漸く絞り出すように発した声は消え入りそうに小さな声で、口に出したことをすぐさま後悔した。
(…なんだよ、今の。)
最悪だ、とぐしゃぐしゃになった気持ちのまま心の中で悪態をつく。まるで、”慰めて欲しい”とでも言っているみたいな、ひどく甘ったれた声だった。甘えるな、しっかりしろと己を叱責する。その声に混じって、刺々しい声が頭の端を過った。
『休みには土井先生のところで世話になって、アルバイトも手伝わせて。そんなの、おかしいだろ…っ!』
はっきりと蘇った言葉の鋭さに、胸の奥が刺すように痛んだ。言葉をぶつけられた時よりも、今の方がずっと痛い。冷水をかけられたように身体から熱が引いていくのが分かった。なんて寒いんだろう、ときり丸はぎゅっと身を縮こませるように背中を丸める。
「…きり丸、お前今日どこでアルバイトしてたんだ」
土井の問いかけに、つい、少しだけ肩が跳ねた。
土井がそれを見過ごす訳もなく、がっと強い力で両肩を掴まれる。
「きり丸っ!」
語調の強さにまた肩が跳ねた。掴まれた肩が痛くて身をよじるが、その拘束が緩む気配はない。
「危ないアルバイトは辞めろと言っただろう!まさかお前、」
「違いますっ!」
噛み付くように、きり丸が土井の続く言葉を遮る。
「土井先生に心配されることなんて何にもありません!」
こんなにも泣きそうなのは、悔しいからなのか、それとも悲しいからなのか。自分の心のありようさえも見失って、きり丸はぐちゃぐちゃになった感情のまま叫ぶ。
心臓の音がうるさい。息が上がって、苦しかった。
「…そんなにギリギリなのか?」
「……っ、」
違うと否定したかったのに、喉の奥が痛くて言葉に詰まった。それを肯定と受け取った土井が、きり丸、と努めて優しく名を呼ぶ。
「最近のお前は頑張りすぎだ。授業料の件は私から学園長先生にも伝えておくから、無理せずに今は休みなさい」
土井の言葉に、心の奥の方で何かが弾けたのがわかった。必死でつなぎとめていた手綱が切れた音のようにも聞こえたし、押し込めていた苛立ちとか、悔しさとか、そういう負の感情の煮凝りみたいなものが破裂した音のようにも聞こえた。
この気持ちはなんて言うんだろう、と自分の中の醒めた部分が問いかける。
名前なんて知らない。悔しさも情けなさも怒りもあった。悲しさもやるせなさも寂しさも。今まで感じたことがないくらい、強烈な思いだった。目の前が真っ白になる程の何かが、きり丸の中で弾けて飛んで、頭で追いかけることも出来ない。
「…んすか、それ」
そんな言葉にできない程強烈な感情を抱えながら、きり丸の口から出たのは乾いた笑いと笑えるくらい小さな掠れた声だった。
「きり丸?」
「…なんすか?学園長に伝えておくって。間に合いそうにないから、待ってて欲しいとでも?」
貼り付いたように、顔から笑みが剥がれない。
はは、と口から笑い声がもれる。
「それとも、先生がぼくの授業料を払っておいてくれるとか———そういうことっすか?」
そんなことある訳ない。違いますよね?先生だけは───そう思いながら祈るように聞いた言葉だった。
しかし、その切実な祈りに反して、土井がぴくりと反応を示したのをきり丸の目はしっかりと捉えていた。本当に、ほんの一瞬。眉が僅かに動いたかどうか。それくらいの変化だった。けれどそれは、きり丸を絶望に突き落とすには十分過ぎる答えだった。
「…っ、」
「待てきり丸、私は」
「同情してるんですか?土井先生も、おれのこと”可哀想”だって」
声が震える。
この震えは怒りだと、それだけははっきりとわかった。
たかだか生徒一人。いくら担当クラスの教え子と言っても、教師が肩入れする範疇を超えている。
忍術学園に通う生徒の中で、きり丸だけが孤児なのではない。氷上、村岡、他にも数人、親や庇護してくれる存在を失って、己で生計を立てている生徒はいる。後見人がいる者、後見人はいなくとも、決まった奉公先がある者、孤児院に身を寄せている者など、その背景や抱える事情は様々だが、皆きり丸と同じように、授業の合間にアルバイトに精を出し、必死で毎日を生きている。きり丸のような後見人も後ろ盾もない、正真正銘の天涯孤独というのはこの学園内では存外珍しく、だからこそ担任の土井が面倒を見ているのだが———他の孤児の生徒にとって、そんな細かな事情など知ったことではない。自分と同じような境遇の者が、殊更教師に可愛がられているという状況はどう考えたって面白い状況ではないだろう。ずるい、とそう思われても仕方がない。あれだけ可愛がられているなら、授業料だって援助してもらったり、融通してもらったりしているのかもしれない——そんな疑念を抱くのは、至極当然のように思う。それくらい、あほ筆頭の乱きりしんと名高いきり丸にだって理解出来た。
本当は、自分で探さなければならなかった。後見人とまでいかなくとも、奉公先や、住み込みで働かせてくれるような場所を見つけておかなければならなかった。
初めての長期休みまであと数日、という頃。お前はどうするんだと聞かれて、学園に残るか、それが駄目ならしばらくは野宿ですかね、なんて呑気に答えたりしたのがいけなかったのだと今になって思う。先生のところに泊めて欲しいとか、どこか寝泊りさせてもらえるところを紹介して欲しいとか、そういうことを期待して言った言葉ではなかった。今まで屋根があるところで寝られる方が珍しかったし、野宿なんて当たり前のことで、深く考えもせずに言った。そんなことを聞いた以上、担任教師として放っておくわけにはいかないだろうに、そこまで考えが及ばなかった。そして休みの前日になって、これから休みの間は土井のところで世話になるようにと学園長に言われた時は目玉が飛び出るかと思う程驚いたのだ。
随分とお人好しというか、手厚く面倒を見てくれるものだと感心を通り越して呆れたものだったが、孤児である自分の監視の意味もあるのだろうということは、すぐに気が付いた。盗みや質の悪い騙しなど、素行が悪いようなら矯正するのか始末するのかわからないが、監視することが目的なら必要以上の関わりを持つようなことはしないだろうと———あの時はそう思っていた。
(…なのに、)
そんな予想に反して、土井は積極的にきり丸に関わってきたし、それはもう小うるさく口も出された。これは駄目あれも駄目。危ないからやめなさい、と何度も言われて何度も反抗した。面倒くさいと思ったことなんて数え切れないし、不貞腐れて口をきかなかった日もある。
───でも、いつしかそれが当たり前になって、ここまでしても、ここまで言っても許されるのだと急に頭が理解したある日、ずっと癪に障る気に食わないとつかえていた気持ちがすとんと胸に落ちた。
それからは、土井と共にする食卓も嫌ではなかったし、アルバイトに口を出されるのも前ほど苛立つことはなくなった。
段々と義務的なものを超えた何かをきり丸は土井に感じ始めていたし、自惚れてもいいなら、土井もきっとそうだと思っている。大事になってしまったのだ。帰る場所をくれた土井のことが。
土井はいつだって当然のように『帰ろうきり丸』と言ってくれる。
今回の休みはどうなるだろうかといつも休みの前は落ち着かなくなることを、土井とともに連れ立って、あの家に帰ることができるのは一体いつまでだろうかと不安に思う夜があることを、土井は知っているのだろうか。
土井が自分の古着を仕立て直して贈ってくれた時は、嬉しくて眠れなかった。アルバイトを手伝ってもらったり、たまに宿題も見てもらって、稽古をつけてもらったり──それだけでも十分に特別で、過ぎた贅沢であることは知っている。だから、絶対に金銭面では頼らないと決めていたし、頼っていると思われないようにずっと努力してきた。土井の住まう長屋の家賃も、日々の生活費も、授業料だって、絶対に絶対に期日をきちんと守ったし、ちょろまかしたりだって絶対にしなかった。それを、土井はわかってくれていると思っていた。今まで一度もそういった施しをされたことはないし、そういう話をされたこともなかった。────なのに。
ぶつけようの無い気持ちがきり丸の中で渦巻いて、なのにただ笑うことしか出来ない。
「……同情なんて、いりません。土井先生からの同情なんて、一番要らない…っ!」
「…っ、違う。きり丸、私は…っ!」
「…そのお気持ちだけで十分です。ぼくは大丈夫ですから」
礼儀も弁えず大声を上げてしまいそうになるのを堪え、必死で体裁を取り繕った返事を絞り出す。
「きり丸っ!!」
肩を掴む手の力が強まって、きり丸は眉を寄せた。
黙ったまま顔を上げると、縋るような瞳と目が合う。珍しく心底動揺したような表情で、泣きそうだとも思った。なんであんたがそんな顔するんだよ、ときり丸は内心で吐き捨てるように呟く。
「…そんなつもりで言ったんじゃないんだ。すまない、きり丸。私はただ…、」
言葉に迷っているのか、歯切れ悪くそう言いながら、土井が言葉を切った。
「お前のことが心配なんだ。お前はいつも、弱音を吐かないから」
土井に対する怒りはまだ治まっていないのに、今度はまた別の気持ちがざわざわと騒ぎ始める。
「お前の気持ちはわかるが———」
"わかる"とそう言われた瞬間に、まるで脳内が沸騰したように怒りが湧き上がった。自分でも信じられないくらい腹が立って、続く言葉など耳に入らなくなる。騒ぎ始めた別の気持ちなど一瞬で上書きされて搔き消えた。
(わかる?わかるだって?わかるって何をだよ。何がわかるって言うんだよ…っ!)
殴られた時の痛み。弁償代に消えた銭。休む間もないアルバイト。食事を抜くことに慣れた身体。死体だらけの合戦場。懐から奪った六文銭。赤く染まる夕焼け。先輩の言葉。暴れる気持ちと自己嫌悪————今まで底に沈めていた気持ちが一気に噴き出すようだった。
「先生におれの気持ちなんてわかりっこない!!」
あ、と思った時には口から言葉が滑り出ていた。
土井が目を丸くして、力いっぱいきり丸の肩を掴んでいた手の拘束が緩む。その隙をついて土井の手から逃れると、きり丸、と呼ぶ声を背にしながら振り返らずに走った。
「きり丸!!」
追いかけてくる声を振り切るように、きり丸は全速力で暗い学園を駆ける。今なら乱太郎にも勝てるんじゃないか、なんて思う程早く。
「…っ、クソ、…ふっぅ、」
限界を超えていつの間にか零れた涙が頬を伝っていて、ぼやけた視界が煩わしくて仕方がない。拭っても拭っても、視界は滲むばかりで、一向に治まってくれなかった。
さっき見た、土井の傷ついたような表情が頭から離れない。
ただ猛烈に腹が立った。何も知らない癖に、簡単に“わかる”なんて。
アルバイトで何があったのかも、先輩に言われたことも、きり丸が抱える思いも。
何にも、何一つ知らない癖に。
『店番がこんなちっせぇガキひとりとは、随分と不用心だな』
『しつけぇガキだ。そんなに痛めつけられてぇか?』
『壊された商品代、半分はきっちり弁償してもらうからな』
『お前、顔だけは綺麗だもんな。そんな小さなナリで、色目でも使ったのか?』
『土井先生も、中在家先輩も大したことないな。潮江先輩なんて三禁三禁ってうるさいのに、所詮欲には忠実ってか?七松先輩だって、』
ぶつけられた言葉たちが、頭の中で反響して脳内を揺らす。特に、氷上から言われた言葉が、深々と心に刺さったまま抜けそうになかった。
こういうことを言われるのは、何も初めてじゃない。忍術学園に来る前から、そういった言葉をぶつけられることはよくあることだった。
『あいつ、よくやるよな』
『あいつって?』
『ほら、今年の一年に戦災孤児がいたろ。あいつ、土井先生とか、中在家先輩とか他の六年にも、よくアルバイト手伝わせてさ。厚かましいとか思わねぇのかな』
『あぁ、あいつか。きり丸だろ?一年は組の。あいつがどうかしたのか?』
『身体も売ってるって話だぜ。いくら銭がないったってそこまでするか?』
『綺麗な顔してるからってか?』
『…ガキでもあの見てくれなら何とでもなるだろう。先生や先輩方がああもあいつに構う理由はそれだったりしてな』
『は?さすがにそれは…』
『だってそうだろう?生意気だし、頭の出来だって良くない。構うだけ疲れるだけなのに、それでも相手にするんだ。何か見返りがなくちゃ割に合わない』
『…ふぅん?お前えらく過激派だな』
『…別に。ただ、そういう可能性もあるってだけの話だよ。まぁあんまり目障りだったらいっぺん痛い目見せるくらいいいかも、とは思ってるけど』
いつだったか、名前も知らない上級生が交わしていた噂話。
嫉妬混じりの疑問が行き着く先は、低俗で下世話な憶測だと相場が決まっている。人の不幸は蜜の味とはよく言ったもので、往々にして、人間は汚いものが好きだ。勝手に噂して、好き勝手に貶めて、己の立場を確かめる。自分だったら、到底そんなことは出来ない。仮に同じ立場でも、卑怯な手は使わない。そう言って、自分のコウケツさなんかを主張する。実際、にやにやと遠巻きにして、ひそひそと囁き合う先輩の姿を見たのは、一度や二度じゃない。———ただ、氷上とその先輩たちとの違いがあるとすれば、恐らく自身の経験に基づいているか否か、ということだろう。氷上の過去について詳しく知っているわけではないが、きっとそういうことがあったのだろうときり丸は思っている。
きり丸にも、心の奥底に沈めた記憶がある。鍵をかけて、重しをつけて、もう二度と浮き上がってこぬように。庇護してくれる何かを持たない子供が無垢でまっさらなまま生きていけるほど、この世界は優しくはない。望む望まざるに関わらず、そういう出来事に遭遇する確率の方がずっと高かった。
そう。知っていたはずだった。天涯孤独の戦災孤児という境遇の自分と関わりを持つことで、周囲の優しい人たちがどういう目で見られるか。痛いくらい、身に沁みていたのに。
(…おれのせいなのに。全部おれが悪いのに。)
土井がそんな風に言われてしまう原因を作っているのは、他でもない自分だ。
なのに——同情するな、お前に何がわかるんだと土井の言葉に信じられないくらいに苛ついて、差し伸べてくれた土井の手を拒絶した。
(こんなの、ただの八つ当たりだ…っ!)
他にいくらでも言いようはあったはずだった。
もっと上手に断ることができたはずなのに、感情の制御が出来なくて、積もった気持ちをそのまま土井にぶつけるみたいに、ひどい言い方をした。
(最低だ、おれ…!なんでこんな、)
堪えきれずに嗚咽がもれる。
土井から寄せられた同情めいた気持ちに怒りが湧いて──失望した。それは本当だ。けれどそれは、土井がきり丸を思っている証拠でもあると知っていた。土井の気持ちが煩わしくて、申し訳なくて、それでもやはり──嬉しかったのだ。こんな何にも持たない自分を殊更大事にしてくれることが、心を寄せて、優しさと温もりを分けてもらえることが堪らなくて嬉しくて、泣きたくなる程幸せだった。全てを失った自分にとって、それがどんなに得難いことなのか、ちゃんと分かっていたはずなのに。
いつもなら、もっと上手くやれていた。
アルバイトの失敗も、先輩からの嫌味も、土井の小言も、心配も。 もっと上手にいなしてかわして、いろんなことを誤魔化して、自分の中で整理出来ていた。
『 ────────────────』
あの日もらった言葉を口にしようとして、もう一文字も、思い出せないと気付く。
「なんで……、っ!」
大事な何かが、零れ落ちていくようだった。
きり丸はとうとう足を止めて、呆然と途方に暮れる。
涙の跡がヒリヒリと痛んで、息が苦しい。ひっ、としゃくり上げて、汚れた服の袖でめちゃくちゃに顔を拭う。
どうしたら元に戻れるだろう。いつもの自分に戻るには、どうしたらいいのだろう。
もう疲れた、と言いかけて、きり丸は言葉を呑み込んだ。その言葉を声に出してしまったら、もう本当に立ち上がれなくなってしまう気がした。
整理のつかない気持ちも、どうしようもない自己嫌悪も、どれが何かも分からずに、全部抱えたまま、きっともう二度と前を向けなくなるような、そんな気がしてならなかった。
「わらえ、わらえ…っ、」
念じるように、祈るように。頬をぐいと横に引っ張って、無理やりに口角を上げる。
「ぅう…、っほら、わら、えって、」
ぼろぼろと溢れて止まらない涙をまた袖で拭った。
何度か深呼吸を繰り返し、顔を上げる。バチン、と手の平で両頬を叩いた。
「…さーて、笑え!…っ、笑え!明日も稼ぐぞ」
涙はまだ止まらないし、どうしようもなく、声は震えていたけれど。
それでも精一杯明るく呟いたその言葉は、きり丸が己に課した、ひとつの決意だった。
***
『先生におれの気持ちなんてわかりっこない!!』
きり丸が叫ぶように言った言葉が、土井の中でまだわんわんと響いていた。
”わかる”などと、口にするべきではなかった。あの子が今まで一人きりで抱えてきた思いも、過ごしてきた日々も、まだ半分も知れていないのに、知ったようなことを言って。
(何をやってるんだ、私は……っ!)
ぐっと拳を握りしめて、土井はきり丸を思う。
土井にとってきり丸は、特別な生徒だ。担任を受け持つ一年は組の生徒の中でも、とびきりに。
最初は、半分監視のような目的で長期休暇中に預かるというそれだけの話だった。けれどいつからか、きり丸は土井にとって欠かすことの出来ない、大事な存在になっていった。
一年は組の生徒のことは皆大事だ。きり丸も含め、そこに優劣はないし、誰かに何かあれば、その要因となった者を許せないと思う。ただ、それがきり丸であったなら。自分はどうなってしまうだろうかと、土井は妙に醒めた頭で思った。
(───きっと、とても平静ではいられない。きり丸を害したものを、決して私は許せない。)
それこそ、地の果てまで追いかけてその命を奪ってやる───そんなことを思いかけて、自分のその考えにゾッとした。
およそ教師が一人の生徒に向ける感情ではない。口の端から乾いた笑いが漏れて、己の傲慢さに呆然とする。
(私は一体、きり丸の何のつもりだ。血の繋がりもない。ただの教師が…。)
時に弟のように。時に子のように。
そんなふうに慈しむ気持ちであったとしても、それは教師としての領域を超えたものだ。
きり丸と自分の間に引かれた線に気が付かず、ただ独りよがりに、自分の思いを押し付けて。
(…きり丸にああ言われて当然だ。)
「半助」
呼ばれた名に巡っていた思考が停止する。
顔を上げるとそこは教員室で、先輩であり恩人でもある山田伝蔵が土井を見つめていた。
「何かあったか」
言葉少なに問われた一言に、土井は思わず唇を噛み締める。
山田は手元の書類に視線を落としながら、きり丸か、と聞いた。
「…っ、」
その名前を聞くだけで先程のきり丸の声と表情が蘇り、胸が締め付けられるようだった。
「まぁ座んなさい」
穏やかな声で、山田が言う。
自分を抜け忍だと知りながら、手厚く看病し、家に匿ってくれたあの時にも、聞いたことのある声だった。
少し逡巡した後、黙って後ろ手で障子を閉めて、土井は山田の向かい側に腰を下ろす。
じじ、と油が燃える音と、紙をめくる音だけが響いている。常と同じく、静かな部屋だった。
「………きり丸に、言ってはならぬことを言いました」
どれくらいの間黙りこくっていたのか、土井はようやっと口を開く。
その言葉に、そうか、とだけ返した山田は手にしていた筆を硯に置いた。
「同情しているのかと聞かれました。私にはきり丸の気持ちはわからないと……」
誰よりもきり丸のことをわかっているつもりで、慢心していた。自分の言うことになら、きっと耳を傾けてくれるだろう、と。踏み込んではいけない境界を踏み越えて、きり丸の矜恃を傷付けた。
「ほら」
声につられて視線を持ち上げると、山田が湯呑みを差し出していて、ぎょっとして反射的にそれを受け取る。すみません、と小さく呟いた。
「半助、お前はきり丸のこととなると、どうも冷静さを欠く」
反論も異論もなく、土井は口を噤む。
教師としての範疇を逸脱している自覚はあった。
「説教じみたことを言うなら、教師としては良くないだろう。生徒には公平に接するべきだ」
「…はい」
「────だが、きり丸にはお前さんみたいな人間は必要だとも思う」
思わぬ言葉に、はっとして顔を上げる。
厳しさと優しさ。その両方を湛えた瞳が土井を真っ直ぐに見ていた。
「きり丸のことを助けてやりたいと思っているのは、半助だけじゃない。この学園には、そういう人間はお前が思っているよりもたくさんいる」
落ち着いた声音が、乱れていた土井の心に心地好く響く。
「この学園の孤児はきり丸だけではないが、それでも皆が殊更きり丸に目をかけるのは、きり丸の天性のものだろう。あれは小生意気だが、どうにも放っておけないと、そんな気にさせる何かがある」
だからといって、おおっぴらに贔屓することが許されるというわけでもない。まあそのあたりは、お前さんも弁えているから心配してないが。
ずず、と茶を啜り、山田は言葉を切った。
湯呑みを置いて小さく息を吐く。
頼りなげに揺れる土井の瞳を見つめて、続けた。
「半助、お前の境遇をきり丸に重ねるな」
「…っ」
「きり丸は私たちが思うよりずっと真っ直ぐだ。戦災孤児など、さほど珍しくもない。身を堕とすのも、心を失うのも容易だったはずだ。だがきり丸は、ごく自然と他人を思いやれる。あの境遇にあって、その心を失っていないというのは尊いことだと思わんか?」
「そう、です…っ、」
土井は、それがずっと眩しくてならなかった。
あの年で。あの小さな身体で。辛い目にもきっとたくさん遭っただろうに、きり丸は誰かを思いやって笑いかけることが出来る子供だ。
そんなきり丸が、ただ愛おしかった。
「私は…っ、」
ただ、笑っていて欲しかった。
どうかこの子がいつまでも健やかでありますようにと、願わずにはいられなかった。
無理をしているようで心配だった。
どうにかして助けてやりたかった。
「……──きり丸の気持ちを、裏切りました」
かける言葉は他にもあったはずなのに、そんな気持ちが前に出過ぎて。
「命を育てるというのは、そう簡単なことじゃあない」
「え…」
「私は、以前のお前さんより、今の方がいいと思うがね。きり丸にも半助が必要だが、半助、お前にもきり丸が必要だろう」
思い詰めるなと山田が諭すように言う。
「師弟でも、兄弟でも───親子でも、名前は何だっていいじゃないの。身動きが取れなくなるくらいなら、そんなものに囚われなくていい。大事なのは、お前がどうやって向き合うかだ」
「山田、先生…」
「きり丸に何かあって殺気立つのはお前だけじゃない。大事なものが害された時、平静でいられる者の方が少ないだろう。だが私たちは忍。その道を教え説く者だ」
それを忘れるな、と念を押すように言った山田に大きく頷いて、土井は血が滲む程きつく握り締めていた手をようやく解いた。
「泣きそうな顔するんじゃないよまったく。とにかく今日はもう休みなさい。明日はずっと後回しにしてるきり丸の補習用のプリント、作るの手伝ってもらうんだから」
年甲斐もなく泣きそうになって、土井ははいと返事をする。ありがとうございますと言った声はきっと震えていた。
聞こえない振りをしてくれた山田に感謝して、温くなった茶を飲み干す。
帳を下ろした夜は、まだ始まったばかりだった。
***
忍術学園から北に数里。ひとつの町とふたつの峠を越えてやって来た合戦場を目の前に、きり丸は引いていた荷車を止めた。
既に戦は始まっていて、両陣営の旗が眼下でひしめいている。
「…さて」
混戦している場所、比較的落ち着いている場所、鉄砲隊が隊列を組んでいる一帯───と順繰りに全体を観察する。それからなんとなく弁当を売り歩く範囲にあたりをつけて、合戦場へと歩を進めた。
「オウギタケ城と…ナラタケ城だっけ」
出来るだけ忍術学園からは遠い、なるだけ関わりの浅い城同士の戦はないものかと探した合戦がこれだった。
小さな城の同士が小競り合いをしているらしいと噂で聞いて、普段よりもうんと早起きをして、遥々遠出してきたのだ。こちらに向かいがてら新聞配達をして弁当屋の仕出しを手伝ってきたが、近隣の村々に荒らされた様子もなく、多少の動揺はあるものの、合戦中にしては平和なものだったから、その噂を信じても良さそうだなと重い荷車を引きながら思う。
(いい感じの合戦場が見つかってラッキーだったな。)
あまり激しい戦が続く合戦場だと、弁当売りどころではなくなるので、合戦場選びも実は楽ではない。幸か不幸か、比較的頻繁にどこかしらで合戦は起きているので合戦場探しで困ることは少ないが、その規模感や戦況によっては断念せざるを得ないこともある。
(今日は先輩たちと会うこともなさそうだし。)
あとは、上級生の実習場所と被っていないかどうか、という点も意外と大事なポイントだった。上級生にもなると、秘匿性の高い忍務や実習も増える為、案外これが一番骨の折れる作業だったりする。しかし今回に限っては、学園を不在にしている六年生と五年生の実習場所がこの近くではないことはそれとなく確認済だった。五年生は学園長先生の思い付きによる護衛任務に、六年生は組別にドクタケ城付近の調査をしているらしい。それぞれ正確な場所や忍務の内容は知らないが、少なくとも、合戦場で鉢合わせ、なんて自体は避けられそうだった。
合戦場に程近い、手頃な平地を見つけてきり丸は荷車を止める。
昨日の合戦場で仕入れた──というよりも盗ったという表現の方が近しいが──ものが思っていたより高値で売れたおかげで、今日仕入れた弁当をここで全て売り切ることが出来れば今月の授業料の額に間に合う計算だった。授業料の支払期限は明後日。全ては今日のこのアルバイトにかかっている。
「…よし」
ひとつ頷いて、立売をする時用の大きめの箱に、せっせと弁当を詰める。ざぁと風が吹いて、ふと薬草の独特の匂いが鼻を掠めた。
『お前が言いたくないなら詳しくは聞かない。ただ、怪我を隠すのはやめろ。お前の同室は乱太郎だろう。保健委員に怪我を隠すなんて、後でどんな目に遭っても知らないからな』
そう言いながら、背中に湿布薬を貼ってくれたのは数馬だ。こそこそと風呂を済ませた帰り道に、ちょっと付き合えと保健室に連行されて。
数馬の優しい手つきを思い出して自然と表情が緩む。乱太郎よりも手際がよく、包帯の巻き方も上手だった。
腫らした目元に濡れた手拭いと氷嚢を押し付けられ、あかぎれで痛む手にもよく効くからと軟膏を塗り込めてくれた。おかげでみっともなく目が腫れ上がることもなく、木枯らしに吹かれるだけでヒリヒリと痛んでいた手も今日は随分と調子がいい。
きっとお礼をしなくちゃ、と立ち売り用の箱を首から提げて両手を握り合わせる。
昨日数馬に優しい気持ちをたくさんもらった。嬉しかった。泣きそうなくらいに。
(…なのに、おれ…。)
昨日自分が抱えた気持ちは、まだ胸の中でぐるぐると渦巻いて、何一つ消化できないままだった。全部全部、心の奥の奥に追いやって、はち切れそうになっている蓋を無理やり閉めて鍵をかけてある。
苦しい、と奥から誰かが叫んでいる。
辛い、と奥で誰かが泣いている。
それから聞こえた、”どうして自分ばっかり”という昏い声に耳を塞いだ。
「…違うだろ」
言い聞かせるように呟く。
その声に頷いてしまったら、もうきっと、真っ直ぐに立っていられなくなる。
もう嫌だと全部投げ出して、助けて、ときっと誰かに縋ってしまう。
忍術学園に来るまでは、どんなことがあってもちゃんと一人で立っていられた。父も母も兄も、誰もそばにいなくても、この足で歩いていけた。
(これからもずっとそうだ。おれはひとりでだって生きていける。)
それはきり丸の矜持であり自負だった。
(土井先生に頼らなくても、先輩たちに手伝ってもらわなくても、おれは全部ひとりで、)
出来る、とそう思ってぐっと拳を握りしめた時、ぐぅぅと盛大に腹が鳴る。
「…ったく、うるせーの」
過度に張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ気がした。ひとつため息をついて、合戦場へと歩を進める。
ぐぅ。ぐぅ。一度自分が空腹であるということに気付くと余計に腹が減る気がするのはどうしてだろう。
いい加減空腹にも慣れてきたと思っていたのに、すっかり満たされることに慣れた腹はぐぅぐぅとやかましい。以前は二日三日何も口に出来ないことだってあったのに、随分と贅沢な身体になったものだと自嘲する。
腹が減っては戦は出来ぬとよく言うが、腹を満たすにも銭がいる。きり丸にとっての最優先事項は銭を貯めることで、使うことではない。授業料さえ支払うことが出来れば、またしばらくはあの温かい場所で生活ができる。屋根のあるところで眠ることが出来て、食うに困ることもない。寒い冬の日に、明日はもう目覚められないかもしれない、なんて恐怖に苛まれることもなく。そして何より、先生や先輩、大好きなは組の皆と一緒に居られる。きり丸にとって、それ以上に大事なことはなかった。
(銭さえあれば、あそこにいられる。)
何よりも、その権利が欲しかった。自分の腹具合など気にしていられない。多少飢えようが、水さえ飲んでいれば案外生きていられるものだ。
鳴り止まない腹の音にしんベヱみたいだと今度は苦笑する。
「あーもううるせえ!今はバイトだ!」
自分の腹に喝を入れて、きり丸はふん、と腹に力を入れて叫んだ。
「時は金なり!今日も稼ぐぞ!」
大丈夫、大丈夫。
今日も心の中で繰り返して、合戦場に向かって走り出した。
***
目を覚ますと、もう日が昇っていた。
今日こそはアルバイトに連れて行ってと言うつもりだったのに、部屋で盛大な寝息を立てているのは自分の他にはしんベヱだけで、三人目の彼はもういなくなっていた。
しんベヱと二人で朝食を済ませ、「あれ、今日は二人だけなのか?」「きり丸はどうした?アルバイトか?」と聞かれること数回。
定番の昼寝場所で寝転がりながら、乱太郎はぼんやりと青い空を見上げる。絶好の昼寝日和に違いないのに、どうにも眠る気になれず何度も寝返りを打つ。それはしんべヱも同じのようで、いつもならぐーすかとすぐに鼾を立て始めるのに、もぞもぞと落ち着かないようだった。そのひとつ隣を見やって、いつもならそこにいるはずの友人を想う。
「きりちゃん…」
きり丸が早朝からアルバイトに行くのはよくあることで、特段珍しいことでもない。出がけに乱太郎たちを起こすこともあれば、何も言わずに黙って出ていくこともあった。
アルバイトの手伝いだって、人手が欲しい時はきり丸の方から手伝って欲しいと言われるし、その申し出がなかったということは、今日の仕事は人手のいらない仕事だということだ。
そう。いつもなら、心配なんていらない。いつも通りの休日。夕飯前にはきり丸がアルバイトから帰ってきて、みんなで食堂に行って、お風呂に入って———けれど、何度そう言い聞かせても靄がかったこの気持ちは晴れそうにない。
(きりちゃん昨日、怪我してた…。)
昨日の夜、目を腫らして部屋に帰ってきたきり丸のことが心配でならない。湿布の匂いがして、どうしたのと問い詰めると、数馬に手当をしてもらったという。
『バイトの帰りに山に山菜取りに行ったんだけどさ、暗くて足元ちゃんと見えなくて、転んじまって。ちょっと高いところからひっくり返ったもんだから背中打っちゃって。暗いし寒いし、あんまり痛ぇから、いつもの道に出るまでめちゃくちゃ泣いた』
そう言って、きり丸はからからと笑っていた。
端から見れば、その笑顔はいつも通りだったように思う。
(…絶対、無理してた。)
それは、入学してから殆どずっと行動を共にしていた親友の勘だった。
どこか様子がおかしいと、本当はもうずっと前から気が付いていたのに、聞いてくれるなというきり丸の態度に気圧されて。
(いつから…。)
悲しい気持ちで記憶をたどって、もう随分と三人で出かけていないことに気付く。放課後も、休日も、いつだって三人一緒だったのに、もうずっと、きり丸がいない。最後にきり丸と一緒に夕飯を食べたのは?きり丸と一緒に補習を受けたのは?きり丸と一緒に町へ行ったのは———順番に思い浮かべて、両の手では足りないくらい前のことだと知って、乱太郎はやっと心のつかえの正体を知った。
「…ねぇしんベヱ」
「なぁに乱太郎…」
やはり眠れていなかったのか、しんベヱがいつもより随分と張りのない声で返事をした。
「きりちゃんと最後に夕飯食べたの、いつだったか覚えてる?」
「えっ?昨日───」
一緒に食べたじゃない。そう言いかけて、しんベヱがはっとしたように口を噤む。
「…思い出せないなんておかしいよね」
二人して黙り込んで、そっと身を寄せる。
「…しんべヱ」
「乱太郎…」
「…きりちゃんがいないと寂しいね」
しんべヱがうん、と泣きそうな声で頷いた。
無理をしていると知っていた。でも、やたらめったらと心配されることをきり丸はひどく嫌うから。おれは大丈夫だからと頑なになって、こちらの心配を跳ね除けるように耳を塞いでしまうから。
そういう時、本当はきり丸が何かを懸命に我慢していると、心のどこかで気付いていたのに。
何もかもを無理矢理に暴きたいわけじゃなかった。ただ、頼って欲しかった。いつもみたいに、手伝って、と一言言ってくれるだけでよかった。こっちの都合なんかお構いなしに、今日はアルバイトだからよろしく、なんて言ってくれることを期待していた。乱太郎、しんベヱ、と他の皆を呼ぶ時よりも少しだけ甘えた声で、呼んでくれるのを待っていた。───待って、しまった。
「…っ、しんべヱ!」
零れそうになった涙をぐいと袖で拭って、乱太郎が勢いよく立ち上がる。
驚いて後ろに転がりそうになったしんべヱの手を取って、行こう、と言った。
「行くってどこに?」
「きりちゃんのところ!きりちゃん今日は町に行くって言ってたから、会いに行こう!二人できりちゃんのアルバイト手伝って、帰りにお団子屋さんにでも行こうよ。たくさん話して、三人で一緒に帰ろう」
努めて明るくそう言って、乱太郎は笑う。懇願するようにしんべヱの手を握った。
しんべヱは目を二度ぱちぱちと瞬かせて、それからすぐに頷きを返す。
「そうしよう!早速着替えなくちゃ。お団子は僕ご馳走するから、たっくさん食べようね!」
「私、先生に外出届もらってくる!」
走り出した乱太郎としんべヱの足取りは軽い。
もう一人の親友の下へ、今すぐに飛んでいきたくて仕方がなかった。
***
「弁当いかがっすか~?」
「おう坊主、俺にひとつくれ」
「俺にも!」
「こっちにも!」
やはり兵糧だけでは足りないのか、弁当は飛ぶように売れた。
多めに仕入れてきてよかったときり丸は空になった箱をせっせと補充する。きっちりと箱に詰めて、帽子の鍔に刺さった矢を矢尻に触れないように慎重に抜いた。
弁当を売りながら小耳に挟んだ話によると、どうやらこの戦はなんちゃって戦というか、元々仲の良かった城主同士が、『あそこなんか仲良過ぎない?結託してうちの城落とそうとしてたらどうしよう』という根も葉もない噂の火消しに、『じゃあとりあえず一旦戦しとく?それなら周りも大人しくなるでしょ』『よし賛成~』という軽いノリで初めてしまった戦らしかった。その証拠に、きり丸はまだ死体はもちろん重傷者すら一人も見ていない。
そんな戦ありかよ、と呆れたものだったが、刃を交えながらも両陣営の足軽はどこか楽しそうで、仲が良いというのはどうやら真実のようだった。
城同士が決定的に対立するような激しい戦でなかったことにほっとするが、余計な銭をかけるくらいなら戦なんてしなければいいのにと思う。城同士の争いや柵というのは、想像しているよりもずっと面倒くさくてややこしいものだとそれなりに知ってはいても、そう思わずにはいられなかった。
戦をするのもタダじゃない。どうしたって銭はいるし、その銭は結局、城下の人々の暮らしを苦しめる。戦で家族を失い、住む場所を失い、飢えに苦しんでも、誰も責任なんて取ってくれないのだ。一人この世に取り残される寂しさを、もう誰にも感じて欲しくなかった。
「…なんつって、所詮綺麗ごとだよな」
自嘲気味に笑って、きり丸は一瞬きつく目を閉じる。
理由はどうあれ、戦は戦。油断していれば、死ぬのはこっちだ。
つまらぬ感傷に引っ張られている余裕などない。しっかりしろと気合を入れ直して前を向く。
「おーい坊主!」
「はーい!」
弁当を売って、補充して、それを五回ほど繰り返し、ついに持ってきた弁当は残すところあと二つだ。随分と温かくなった懐に気持ちが高揚するのを隠せない。
このまま無事に売り切ることができそうだとほっと息をつきかけたきり丸の横を、ひゅん、と長槍が飛んで行ったのは、銭の入った巾着を懐にしまったすぐ後だった。ぎょっとして振り向くと、矢がこちらに向けて飛んでくるのが見えて、咄嗟に背を向けて目を瞑る。
———そして、感じた浮遊感。何事かと慌てて目を開けると、見知った顔がそこにあって目を丸くした。
「利吉さん!?」
「…こんなところでアルバイトなんて感心しないな」
利吉の固い声に思わず口ごもる。
利吉はきり丸を横抱きに抱えたまま林を抜けて、合戦場から少し離れた小高い丘できり丸を下ろした。
とある城から仰せつかった忍務中。ちらちらと映る小さな影に、まさかなと思いながらどうにも無視できずに近寄った。頭にちらつくのは、小銭が大好きな働き者の子供。
この合戦場は忍術学園からはそこそこ距離がある。アルバイトをしに来るにしては随分と遠いこんな地で、まさか会うことがあるものか———そう思っていたのに、身体が勝手に動いていた。不意に飛んできた矢に咄嗟に抱き上げてみればそのまさか。こんなところで何してるんだとそう声を荒げかけて、抱えた身体の軽さに驚いた。こんなに華奢な子供だっただろうかと内心で狼狽する。
着物から覗く手足は頼りなげだ。大小様々な傷がついた肌が痛々しい。利吉は思わずぐっと眉を寄せた。
「…傷だらけじゃないか」
「え?」
顔を上げたきり丸の頬にも傷を見つけて、利吉の眉間の皺が更に深くなった。
「…危ないアルバイトはしない約束じゃなかったのか?」
そう問う利吉の顔は、いつになく険しい。
きり丸は俯いて口ごもる。
(よりによって利吉さんに見つかるなんてついてない。こりゃ明日にはお説教コースだな…。)
利吉がどんな忍務を引き受けているのか知らないが、もし利吉が今日中に忍務を終えてその足で学園に向かえば、早々に合戦場でアルバイトしていたことがバレてしまう。今日この弁当を売り切ることができればしばらくは合戦場でアルバイトしなくても良くなるとはいえ、余計な告げ口をされることは避けたかった。
「それはまあ…そうなんすけど」
もごもごと口の中でそう言って、山田先生と土井先生には黙っててくれませんか、と気まずそうに続ける。
「言いつけを破って戦の真っただ中でアルバイトをした上に、そんな傷だらけになってるお前を見て、私が黙っていると思うか?」
ぴしゃりと利吉が告げた言葉は予想の範疇で、きり丸は二の句が継げなくなる。
これ以上口答えをしても無駄な体力を失うだけだ。弁当はあと二つ。さっさと売り切ってしまわないと売れるものも売れなくなってしまう。この場をどうにかして切り抜けたくて、きり丸は気もそぞろに帽子の鍔をぐいと押し下げた。
「…怪我じゃすまないこともあるかもしれないんだぞ」
諭すような声音だった。
いつかの土井の声が頭に蘇る。同じようなことを言われた記憶があった。
(…怪我じゃすまないってそりゃあそうだろ。ここは合戦場だ。)
「…わかってます。運が悪けりゃ死ぬかもしれないって。合戦場に来る時は、いつだって覚悟しています。全部ちゃんとわかって、ここに来ました」
そんなこと、今更言われなくたって知っている。初めて合戦場に来たわけでもない。忍術学園に来るまで、何度だって来た場所だ。うるさい、と言ってしまいたかった。
「流れ弾がかすったことも、矢に当たったことだってあります。さっきまで座ってた場所に砲弾が飛んできたこともあるし、ほんの少し前に弁当を売ったおっちゃんが、一周して帰ってきたら死んでたことだってある。いつも無事でいられるなんて思ってません。大怪我するかもしれないし、もしかしたら今日死ぬかもってちゃんとわかってます」
淡々と、何でもないことのように。
いつものきり丸らしくない、落ち着いた口調に利吉は怒鳴りつけることも忘れてただ瞠目する。
「合戦場のアルバイトが一番給金がいいんです。危ない目に遭うんだから当然ですけど、それでもぼくは銭が欲しいから」
そう言って、きり丸は笑った。寂しそうでもなく、悲しそうでもなく、ただ、少しだけ困ったように。
「………———」
咄嗟に、なんと声をかけたものかと迷って、利吉は口を噤んだ。
この子はこんな顔をして笑う子だっただろうかと茫然とする。
トラブルに巻き込まれることも多いし、は組の良い子たちの中でも特に生意気で、本気でカチンとくることだってままある。けれど、利吉の知るきり丸は、こんな風に笑う子ではなかった。
きり丸のドケチは戦災孤児で苦労してきたことがそもそもの事の発端であると知っている。ドケチの天才アルバイターなんて悪名めいた二つ名を持っている、小憎たらしい少年。父が教師を務める忍術学園の授業料は、忍術を学ぶなら最高峰の学園と言われるだけあって、決して安くない。授業料に生活費、その全てを自力で稼ぐなど、並大抵の心持ちで出来ることではないだろう。まだたった十。幼い美空で、どれほどの苦労を経験してきたのか。それでも曲がらずへこたれず、明るく笑うきり丸が好ましかった。この世の全てを恨んでもおかしくはない境遇で、真っ直ぐに立っていられるだけの強さと、ひとに優しくできるだけのしなやかな心を持つことが、どれほど尊く難しいことなのか。利吉は痛いほど知っていて───それを思うと堪らなかった。
『いつも無事でいられるなんて思ってません。大怪我するかもしれないし、もしかしたら今日死ぬかもってちゃんとわかってます』
そんなことを言わせたくて、聞いた言葉ではなかった。
(——いや、違う。そこまで、きり丸が考えてるなんて思いもしなかった。)
甘い考えで来ているんだろうと思っていた。そこまでの経験をしているなんて思いもせずに。ただきり丸が心配で、けれど自分が言った言葉は浅はかだったのだと知る。
「…きり丸」
利吉は膝を着いて、きり丸に目線を合わせた。
「…きり丸が怪我して帰ったら、きっとみんな悲しむ」
言われて、きり丸の脳裏に一年は組の皆の顔が浮かぶ。優しい皆は、きっと心配するだろう。まるで、自分が怪我をしたような顔をして、「大丈夫?」「痛くない?」「僕たちで薬草摘んできてあげるから」なんて、なんの衒いもなく言って。
(皆馬鹿みたいに優しいんだもんなぁ…。)
『どうしたの!?怪我したの!?』
(乱太郎なんて、血相変えてさ。お人好しなんだよ。自分に関係ないんだから、痛がることも悲しむこともないのに。)
馬鹿だよなあ。そう内心で呟いて、何故だか泣きそうになった。
「…弁当、それで最後か?」
徐に、利吉が尋ねる。
一瞬呆気に取られながらも、はい、と頷くと、手を出せと言われて小銭が乗せられた。数えると、弁当二つ分にしては少し多い。
「えっ…?」
「足りないか?合戦場の弁当だとこんなもんだろう」
「いえっ」
足りてます、ときり丸は首を振る。
「でもこれじゃ多すぎます」
素直に釣りを返してきたきり丸に、取っておけと言いかけて、利吉はそうかと小銭を受け取った。
それからきり丸の首から提げた箱から二つ弁当を取って、ひとつをきり丸に差し出す。
「なんですか?」
「私が買ったんだ。どうしようと勝手だろう。これでアルバイトが終わるなら、それを食べてさっさと学園に戻りなさい」
有無を言わせない口調だった。怪訝そうな顔をするきり丸に、利吉はひとつため息を落とす。
「いらないのか?“タダ”で“あげる”と言ってるんだ」
「タダっ!?もらいますもらいますぅっ!」
チャリーン、ときり丸の脳内で銭の音が鳴った。利吉の差し出す弁当に飛びついて———はっとする。
口元を緩めた利吉とはたと目が合って、しまったと思いつつ、とりあえず弁当を箱に入れた。ドケチはもらったものは意地でも手放さない。あげるというならもらうだけだとやけくそで開き直った。
「ありがとうございます…」
「学園まで送って行ってやりたいところだが、生憎私はまだ仕事が残っていてね」
「この合戦の兵力でもお調べになってたんですか?」
きり丸からの問いかけに、利吉は浅く頷きを返す。
忍務の内容を聞くのはエチケット違反だときつく教えられている。それ以上突っ込むつもりはなかったが、そういえば、ときり丸は弁当売りの最中に耳にしたことを口に出した。
「この合戦は、多分直に終わると思いますよ」
「…どうしてそう思う?」
「だって、これは合戦の“ふり”みたいなものらしいので。オウギタケ城とナラタケ城…でしたっけ?結託なんてばかばかしい、戦なんてどこともするつもりはないって」
ぽろり、と世間話の延長のように口にしたきり丸の言葉に、利吉は目を剥いた。
「待てきり丸、お前どこでそれを聞いた?」
「弁当売ってる途中に、オウギタケの陣幕の近くで」
「陣幕!?お前そんなところまで行ったのか!?」
「はい。なんだか意外と激戦区ってほどでもなくて。結構売れましたよ」
「なんちゅうめちゃくちゃな…」
引き攣った笑みが顔に浮かぶ。
きり丸はきょとんとした顔で利吉を見上げていた。
「…誰が言っていたかわかるか?」
「多分、そこそこお偉いさんだと思いますけど。なんだか戦装束が豪華でしたから」
思わぬところからの思わぬ収穫。
大きくため息を吐いて、きり丸の手に小銭を握らせる。
「利吉さん!?なんすかこれ!?」
「…情報料だ。正当な報酬だぞ。有難く受け取っておけ」
「わっ」
くしゃりと頭を撫でて、利吉はきり丸に背を向けた。
「利吉さんっ」
ありがとうございました、と頭を下げたきり丸に、利吉は困ったように笑う。
「…お前は案外、いい忍者になるかもな」
「えっ?」
「寄り道するなよ。真っ直ぐ帰れ。いいな!」
きり丸があっ、と思った時には、もうそこに利吉の姿はなかった。
手の中の小銭がちゃり、と音を立てる。
弁当は売り切った。思わぬ臨時収入もあって、腹を満たす食事まで手に入れて。なんて幸運なんだろうと、きり丸はほくほく顔で丘をくだる。
軽くなった荷車を返すついでにちょこちょこと拾い集めていた具足やらを載せて近くの町まで持っていけば、きっと幾らかの儲けにはなる。本当なら、そのままあとひとつふたつアルバイトを入れたいものだが、生憎今日は遠方の地。あまり悠長にしていては、門限に間に合わなくなってしまう。あんまり遅くなると、忍務を終えた利吉が先に忍術学園に寄らないとも限らない
『お前のことが心配なんだ』
土井先生にだって怒られる、とそう思った瞬間、頭の隅に昨日の土井の姿がちらつく。
ひどい八つ当たりをして、傷つけた。
それをちゃんと自覚しているのに、とても謝る気持ちにはなれない。
同情なんて御免だと、燃え上がるように湧いた怒りも本物だった。
(土井先生にだけは…。)
土井にだけは、言われたくなかった。
父とも、兄とも違う。けれど、土井と一緒にいると、父や兄と共に暮らしていた、あの温かい空気を思い出す。だから、どうしようもなく苛立って、悲しくて、半ば裏切られたような気持だった。あんなにも目をかけてくれるのは、ただの同情心だけだなんて、思いたくなかった。
「…帰ろう」
僅かながらの戦利品を載せて、きり丸は荷車を引く。
合戦の雄たけびが、歩いても歩いても耳に残っていた。