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    okaki32

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    okaki32

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    きりちゃんをとりまくあれやこれやのお話その4。
    すみませんあともうちょっとだけ続きます。次のその5で最後です!
    注意書き必読。
    お楽しみいただけますと幸いです。

    愛を識る人④以下に十分ご注意の上、危ない空気を感じた方はお戻りください。
    ・きりちゃんがかなり可哀想な目に遭ってます
    ・きりちゃん総愛され気味
    ・きりちゃんの過去捏造(つどい設定含・性的暴行を受けたことがある等)
    ・いろいろなものの捏造がひどいです
    ・きりちゃんの家族捏造しています。お兄ちゃんがかなり出張ります。(性格含めオリジナル設定てんこもり)
    ・夢などで亡くなった人と会う、というようなファンタジー展開がお嫌いな方はお戻りいただくことをおすすめします。
    ・解釈違いの香りを感じた方はそっとお戻りください
    ・時代背景に合わないものがたくさん出てきます



    ***


    「あー!!疲れたぁー!」

    学園長の庵を辞して、忍たま長屋へと帰る道すがら。そう声を上げたのは勘右衛門だった。

    「腹減ったぁ。なんか甘い物食べたい」
    「勘右衛門、さっき学園長先生からもらった饅頭食ったばっかりだろ」
    「あんだけで足りるわけない!」

    呆れた声で言った八左ヱ門に、駄々をこねるように勘右衛門が叫ぶ。

    「まぁまぁ勘右衛門。今日はもう無理だけど、明日皆で甘味処にでも行こうよ」
    「行くぅ!!さすが雷蔵!わかってる〜!」
    「それなら、町に新しい団子屋ができたって聞いたからそこに行くのはどうだ?」
    「あっ!そうだ!その近くに美味しい豆腐屋が、」

    また兵助の熱弁が始まったと皆して肩を竦めた時、どうしてですか、という言い争うような声が耳に届いて、ぴたりと一様に足を止めた。

    「…なんだ?」
    「今のは土井先生の声だ」
    「そういえば、なんだか学園の雰囲気が…」

    五人で顔を見合わせて、声のした方へと近づく。
    相手が山田と土井である以上、既に自分たちがここに居ることはバレている気がしたが、教師同士の会話にいきなり割り込む訳にもいかない。かと言って素直にその場を去る気にもなれず、出来るだけ気配を殺して死角になる校舎の角に身を潜めた。

    「どうして駄目なのですかっ!?私に行かせてください…っ!」
    「駄目だ」

    言い縋る土井の言葉をにべもなく一刀両断して、山田は険しい顔で言い放つ。

    「六年生が捜索に向かったと乱太郎から聞いただろう。松千代先生と厚着先生も出てくださっている。学園をこれ以上空にする訳にはいかない」
    「しかしっ」
    「行き違いできり丸が戻ってくる可能性もある。半助、お前はここにいるべきだ」

    きり丸、と聞こえた名前に皆瞠目して、反射的に走り出そうとした雷蔵の手を三郎が掴む。

    「待て雷蔵」
    「離して三郎!捜索って仰ってたの聞こえただろう!?もうこんな時間なのに戻ってないなんて…っ!何かあったんだよっ!早く探しに行かなきゃ…っ」
    「雷蔵、お前の気持ちは分かる。でも落ち着け。山田先生の言葉が聞こえなかったのか?先生方と六年生の先輩方が捜索出ているなら、私たちはここにいるべきだ」
    「でも…っ、」

    珍しく一分の迷いも見せず、一心にきり丸の身を案じて飛び出して行こうとする雷蔵に三郎は落ち着いた声でそう言う。

    「先生と先輩方を信じろ。きり丸はきっと大丈夫だ」

    掴まれた手から微かに震えが伝わって、三郎も懸命にこらえているのだと気付く。それでも目の前の自分と同じ顔はどこまでも冷静で、雷蔵は唇を噛んだ。

    「…っ、」

    湧き上がる焦燥を誤魔化すようにギュッと目をつぶって、雷蔵は上げかけた腰を下ろす。その肩を、三郎と八左ヱ門が慰めるように叩いた。

    (きり丸…っ、)

    可愛い可愛い、大事な後輩。
    詳しい事情はわからない。けれど、きり丸は学園には戻っていないという。彼が毎日アルバイトに勤しんでいると言っても、もう日没過ぎのこんな時分に学園に帰っていないなんて、いくらなんでも遅すぎる。上級生ならいざしらず、きり丸はまだ一年生。何かあったとしか考えられなかった。
    今すぐにでも飛び出して、きり丸を探しに行きたい────。雷蔵はぶつけようのない気持ちを堪えるように、拳を握りしめた。

    「山田先生っ!」

    響いた声に皆はっとして、ちらりと視線を交わしあう。
    尚も食い下がる土井に向かって、山田が短く半助と呼んだ。

    「冷静な判断を欠くとわかったお前を、学園の外から出すことは出来ない」

    厳しい、有無を言わさぬ声音だった。行くなら私を倒してから行け───暗にそう言っているのだと雷蔵達でさえわかった。ピリ、と殺気が肌を刺す。
    しかし土井も引く気は無いようで、合戦場での一騎打ちさながらの緊張感が漂い始める。

    「山田先生、土井先生ー!!」

    出て行くにも出て行かれず、果たしてどうするべきかと頭を悩ませ始めた時、不意に響いた声が重苦しい沈黙を破った。
    ギョッとして振り向くと、忍術学園きってのトラブルメーカー、一年は組の良い子たちが、わらわらと山田と土井目指して駆けてきていて、一気に脱力する。

    「さっすが一年は組…」
    「いや、逆に助かったんじゃないか?一触即発!って感じだったし…」

    力なく乾いた笑いをこぼす勘右衛門と八左ヱ門に、兵助がしぃと人差し指を立てる。小声で謝りながら慌てて口を噤んで、五人で団子のようになりつつ校舎の影からそっと向こうを覗き込んだ。

    庄左ヱ門を先頭に、十人が山田と土井の前にかたまって並んでいる。
    どうしたんだお前たち、と聞いたのは山田だった。

    「きり丸は見つかりましたか?」

    庄左ヱ門がしっかりとした口調で聞き返して、真っ直ぐに山田の目を見た。

    庄左ヱ門の顔は真剣そのもので、居並ぶ十人が十人とも同じ目をしている。山田はちらりと乱太郎としんベヱを見やり、肩を揺らした二人に嘆息した。

    「…いいや、まだ見つかっていない」

    そんな、と不安げな声が口々に漏れる。

    「心配するな。今六年生が総出で探しに出てる。先生方も探してくださっているから心配することはない。お前たちは長屋に戻っていなさい。戻ったら必ず知らせるから」
    「……わかりました」
    「お前たちの気持ちはわかるが、夜は危険…なんだって!?」

    僕達もきり丸を探しに行きたいです!と言われるものといつも通りに返事をして、返ってきた言葉が肯定であることに時間差で気付く。いつもなら言い聞かせるのに随分と骨が折れるのに、これは一体どうしたことか。何か企んでいるのではと一瞬勘繰ってしまうが、教師としてそういう先入観はよろしくないと山田は思い直す。気を取り直して、素直に問いかけた。

    「私が言うのもなんだが、今日はやけに聞き分けがいいな」

    どうしたんだと暗に聞いた山田の言葉を、珍しくきちんと理解したらしい乱太郎としんベヱが一歩前に出る。

    「わたしたち、”おかえり”ってきり丸に言ってあげるんです」
    「きり丸が帰ってきた時に、ひとりぼっちだときっと寂しいと思うから」

    今にも泣きそうな声音で、でも二人ははっきりと言った。
    その言葉に山田は目を丸くして、悔しさと焦燥で顔を歪ませていた土井も思わず顔を上げた。

    土井の脳裏にはにかんだきり丸の顔が蘇る。
    長期休暇の度に土井の家に連れ立って帰るようになって、しばらく。いつも少し遠慮がちに「お邪魔します」と言っていたきり丸が、「ただいま」と言って家に入って来たあの日のことを、土井は今でも昨日の事のように鮮明に覚えている。その日の夕飯はいつもよりさらに薄い粥だっただとか、持っていたおたまとお椀を鍋の中に落として、拾うのに苦労しただとか、そんなことまで。
    驚きのあまり言葉が出てこなくて、けれどなんとか絞り出した「おかえり」に、きり丸はくすぐったそうに笑ったのだ。あの時、自分がどれだけ嬉しかったか。湯気が目に入った、なんて馬鹿みたいな言い訳をした。油断すると泣いてしまいそうだったなんて、きり丸はきっと知らないだろう。

    土井は爪が食い込む程きつく握り締めていた拳をゆるゆると解いて、乱太郎としんベヱを見つめた。
    山田を見上げるその瞳は真っ直ぐで、土井にはあまりにも眩しい。二人は──は組の皆は、きり丸の帰りを待つと言う。いつもは後先なんて顧みず、「自分たちも」と駆け出していく子供たちが、きり丸を迎えてやるのだと。ひとりぼっちは寂しい。しんベヱが言ったその言葉を反芻して、そうだな、と土井は掠れた声で言った。
    きり丸は───あの子は、一人で生きていかねばならぬと、必要以上に気負う子だった。一人には慣れているからと、なんでもない振りをするのが上手い子供だった。まだたった十。親の愛情が恋しい盛りで、寂しくないなんて、そんなことあるわけが無いのに。「おかえり」と言った自分に、きり丸が嬉しそうに目を細めたのを誰よりも近くで見ていて、知っていたはずなのに────。

    きりまる、と土井の口から零れた声はまるで縋るような響きを持っていた。その囁き声をただ一人拾った山田が、その背を緩く叩く。温かい手だった。

    「…乱太郎、しんベヱ」

    土井はゆっくりと歩を進めては組の前に立つと、膝を着いてそっと二人を抱き寄せた。

    「きり丸はきっと大丈夫だ。六年生がきっと連れて帰ってきてくれる。お前たちは私と一緒に長屋できり丸を待とう」

    ここできり丸を待ってちゃだめですか、と口々に言いだす一年は組の良い子たち。
    その声にひとつひとつ答えを返す土井を見つめて、山田はふっと息を吐いた。
    その横顔には、もう先程までの昏い色はない。

    誰よりも先に飛び出して行きたかっただろう。きり丸を探しに行きたいという気持ちは山田とて同じだった。ただ、土井はきっと自分の比ではないだろうと思う。山田にとってきり丸は大事な生徒であり、守るべき命だ。そこに差異や優劣はない。けれど、土井にとってきり丸という生徒は、一際特別な、いっとう心を傾ける存在なのだと山田は知っていた。

    土井のそんな思いを知りながら、捜索を許可しなかった自分はさぞかし冷血漢に見えただろう。しかし、あのまま学園を出す訳にはいかなかった。なぜ、と聞かれてもうまく説明はできないが、長年の勘とでも言おうか、あのまま行かせては土井が向こう側へ行ってしまうような、出会ったばかりの───いや、出会う以前の土井に戻ってしまうような、そんな嫌な予感がした。

    土井は若くして優秀な忍ではあるが、時折こういう脆さが顔を出す。知識も豊富で、実践の経験も身のこなしも申し分ないが───忍者には向かない男だ。仕えた主がどれほど戦好きで悪辣であろうと、全ての情を捨てて命に従うのが忍、そして家臣としての忠義というものである。それができぬ男ではないだろう。しかし、きっとどこかで歪みが生まれる。己の心の柔らかい部分を捨て去ることも叶わず、己の正心と主の間でもがき苦しんで。─────どうにも、土井は優しすぎるのだ。

    休暇中に身を寄せる場所が決まっていなかったきり丸のことを土井に預けてみてはと学園長に進言したのは自分だ。
    殆ど監視の目的だったが、あの選択は間違っていなかったのだと、二人を見る度に思う。
    入学したての頃は同級生の輪に積極的に馴染もうとせず、どこか厭世的で諦観を湛えた瞳をしていたきり丸は、よく笑うようになった。休みが終わりに近づくと、早くは組の皆に会いたいと嬉しそうに床に就くのだという。そう語る土井の瞳はまるで我が子を慈しむような、温かい色を宿していた。それは初めて見る表情で、土井にとってきり丸の存在が癒しであり錨、そして標であると知った瞬間だった。
    似た境遇を持つ二人。どうか幸せになって欲しいと思うのは、年寄りのエゴかもしれない。ただ、互いを必要としている二人が、こんな形で別れることがないように。そう願わずにはいられなかった。

    山田は不意に後方へと視線を投げる。
    ぎくり、と肩を揺らしたのは未だ物陰に潜んでいた五年生である。

    『久々知、尾浜、鉢屋、不破、竹谷。そのままでいい、聞け』

    飛んできた矢羽根に、身を潜めていた五人は姿勢を正した。
    わざわざ矢羽根で話すということは、一年生には聞かれたく内容ということだろう。視線を交わし合って、頷く。聞き漏らさないよう神経を集中させて耳を傾けけた。

    『久々知、竹谷、裏山の方の捜索を頼む。乱太郎としんべヱの話によると、六年生は町に向かったらしいが、裏山の方に居ないとも限らん』
    『承知しました』
    『鉢屋、不破、尾浜。お前たちは一年生のことを頼む。まだこのことはは組しか知らないが、これだけ騒いでいては知れ渡るのも時間の問題だろう。あまり大事にならないよう頼む』
    『はい』

    「じゃあまた後でな」
    「…兵助、八左ヱ門、きり丸のこと、よろしくね」

    本当は自分が探しに行きたい———その気持ちを押し込めて、雷蔵は兵助と八左ヱ門に祈るように告げる。任せろ、と深く頷いて、兵助と八左ヱ門がさっと姿を消した。

    「さて、俺たちも行きますか」

    勘右衛門と三郎が、不安げな雷蔵を励ますように背を叩く。
    今は俺たちの出来ることをしよう、と勘右衛門が言った言葉にうん、と頷いて前を向いた。

    夕飯はもう食べた?まずは腹ごしらえをして、僕たちと一緒に長屋で待っていよう。きり丸が戻ったら、必ず先生方が知らせてくださるから。

    まるで自分に言い聞かせるように雷蔵はゆっくりとそう言って、乱太郎の肩を抱く。

    北の空で閃光弾が光ったのは、それからすぐ後のことだった。


    ***


    「どうしてきりちゃんに会えないんですか?」
    「ぼくたち、きり丸に会いたいんです」
    「話せなくてもいいから、顔だけでも」
    「伊作先輩、お願いします」

    保健室の前に揃った一年は組の良い子たちに向けて、伊作は苦笑する。
    きり丸が学園に戻ってから二日。まだきり丸が目覚める気配はない。
    昨夜やっと熱が下がり始めたところだった。外傷もひどく、横腹や背中には痛々しい痣が残っている。足も手も傷だらけだったが、幸い骨には異常がなさそうで、それだけが唯一の救いとも言えた。

    「伊作先輩」
    「乱太郎…」

    眼鏡の奥の瞳が揺れている。心配で心配で堪らないんだろう。
    まるい頭をそっと撫でて、ごめんね、と昨日と同じ言葉を繰り返す。

    「きり丸の目が覚めて、もう少し元気になったら。そうしたら必ず声をかけるから」

    ぎゅうと井桁模様の装束を握りしめ、乱太郎が俯いた。

    「こらお前たち。あんまり伊作を困らせるんじゃない」

    後ろからかかった声に、皆して顔を上げる。
    山田先生、としんべヱが呼んだ。

    「ほーら。次は実習だぞ。皆準備をして校庭に集合!きり丸は良くなってるから、心配しなくてもよろしい。お前たちみたいなのがじょろじょろ集まったら治るもんも治らなくなるでしょうが。今はまだ安静が必要な時期だから、新野先生と伊作に任せなさい」

    山田にそう諭されて、渋々ながら皆ははい、と山田の後について廊下を戻っていく。
    最後に振り返った乱太郎と目が合った。

    「伊作先輩。きりちゃんのこと、よろしくお願いします」

    頭を下げて、皆の後を追いかけていく。
    本当は自分が一番傍に居て、看病してやりたいだろうに。自分だって保健委員なのに、そう思って涙を呑んだことは伊作にも覚えがあった。悔しさを押し込めて、きっと自分もいつか、と。

    「頑張れ、乱太郎」

    眩しそうにその背中を見やって、伊作は保健室の戸を開ける。

    横たわるきり丸の横に、微動だにしない黒。
    きり丸を見つめる眼差しには悲愴感すら浮かべて。

    伊作は込み上げてくるやるせなさに似た複雑な気持ちを小さく頭を振ってやり過ごす。
    そっと障子を閉めて、土井先生と呼んだ。

    「これ以上は先生のお身体に障ります。きり丸のことは新野先生と僕が責任を持って見ていますから、どうか少しだけでも休まれてください」

    土井は視線すら寄越さずに黙ったまま、いいんだと小さく呟く。

    「きり丸の方が…ずっと…」

    無精髭を生やし、ボサボサ頭で、土井はじっときり丸を見つめる。
    きり丸がこの保健室に運び込まれてから二日間ずっと、土井はこうしてきり丸の傍に着いていた。誰がなんと言おうと傍らを離れようとせず、眠らず、泣かず、食事も摂らず、ただじっと。

    「…食事だってずっと摂られておられないでしょう。このままでは、きり丸より先に土井先生が」
    「いいんだ。伊作、ありがとう。私は大丈夫だから」

    何度となく繰り返されたやり取りに、伊作はぐっと唇を噛む。気の利いた言葉ひとつかけることも出来ず、何も出来ない自分が歯がゆい。

    土井ときり丸の関係を思えば、その心中は察して余りある。
    長次に背負われたきり丸を見た時、本当に血の気が引いた。動揺して、どうしてきり丸がこんな目に、とどうしようもなく怒りが湧いた。直属の後輩ではない自分でさえきり丸のことが心配で堪らないのに、土井の心配や恐怖はいかばかりかと胸が痛んで仕方がなかった。事実、長次は目に見えて落ち着きをなくしているし、日頃からアルバイトを手伝ってやったり、関わりが深かった小平太と文次郎も気が気でないようで、頻繁に保健室に顔を出していた。

    ───ただ、ひとつ。少し意外で、内心でほっとしたことがある。

    伊作は土井の横顔を見つめ、それから視線を落とした。

    少し意外で、内心でほっとしたこと。それは、己への怒りや悔悟、罪悪感のような感情が、土井は内に、長次は外に向かったことだった。
    逆だと思っていた。正確には、外に向いた長次の気持ちが追いつく前に、土井が全てを片付けてしまうだろうと。しかし、伊作の予想に反して、土井はただじっときり丸の傍に付き、長次は下手人を探しに外へ出た。

    きり丸が学園へと運び込まれた時の土井の顔を伊作は今でも忘れることが出来ない。感情をこそぎ落としたような表情できり丸の傍らに座す土井を見る度に、きり丸、と土井が叫んだあの悲痛な声が頭の中で蘇った。
    土井はいつでも穏やかで優しい、教師としても忍としても優秀な”皆”の”土井先生”だ。でも、あの時だけは、”きり丸”の”土井半助”だったのだろうと伊作は思う。愛し子を呼ぶ父のような、可愛い弟を呼ぶ兄のような、そんな温度があった。我を忘れて、長次からきり丸を奪い取らん勢いで取り縋って。土井の心を、あそこまで崩すことが出来るのは、きり丸だけなのかもしれない。

    「失礼しますよ」

    静かに開かれた障子。
    新野先生、と小さく呟いて伊作は姿勢を正した。
    新野は変わらない様子の土井を一瞥して、伊作に書き付けと急須を差し出す。

    「伊作くん、ここに書いてある薬を調合してくれるかな」
    「はい」

    伊作は書き付けを受け取って、棚から順に薬草を出す。書き付けに並ぶ薬草の名前に、おや、と片眉を上げた。
    そんな伊作の様子を後目に、新野は土井の隣に腰を下ろす。

    「土井先生」

    新野の呼び掛けにも満足な返事を返さず、土井は虚ろな目できり丸を見つめている。そんな土井を気にした風でもなく、新野は言葉を続けた。

    「きり丸くんは大丈夫です」
    「…………」
    「峠は昨日越えました」

    僅かに土井が反応を示す。新野にそう言われても、動く気配はない。いつこの小さな命の灯火が消えてしまうのかと、不安で堪らないのだろう。事実、昨晩はかなり危なかった。もしかするともう駄目かもしれない———そんな予感が頭を過らなかったかと聞かれれば嘘になる。新野と共に懸命に看護にあたり、どうにか峠を越えたとわかった時、自分ですら涙したのだ。土井の心配は当然とも言える。
    伊作は薬研の準備を整えながらちらりと土井を盗み見た。

    「月並みな台詞ですが、土井先生の今の姿を目を覚ましたきり丸くんが見たらどう思うか。それを考えたことはありますか?」

    責めるふうでもなく、新野は穏やかに問いかける。

    「土井先生は飲まず食わずでずっと付きっきりで看病されている。そんな風に窶れた土井先生を見て、きり丸くんは自分を責めてしまうかもしれない。それにもし、土井先生が倒れでもしたら。せっかく目を覚ましたきり丸くんに、余計な心配をかけてしまうと思いませんか?」

    自分のせいでと気に病んでしまうかも。

    新野の言葉に、土井は黙って首を振った。

    「…私は大丈夫です。倒れたりなどしません」

    漸く返ってきたにべのない返事に、新野はそうですかと相槌を打つ。

    「子供は敏感なものですよ。それが、親兄弟のように慕う人のことなら尚のこと」
    「それは…」
    「半刻だけでもお休みになりませんか。きり丸くんに何かあればすぐにお知らせすると約束します」
    「…私は、」
    「半助」

    言い淀む土井の言葉を遮ったのは山田だった。
    いつの間に鐘が鳴ったのか、授業は終わりを告げたらしい。伊作は引いていた薬研の手を止め、山田に向かって頭を下げる。

    「山田、先生…」
    「お前がそんなことでどうする」

    真っ直ぐに土井を見据えて、山田がそう言い放つ。虚ろな表情の土井に顔を顰め、半助、ともう一度呼んだ。

    「お前はきり丸の何だ?お前はきり丸の────帰る場所だろう。言ったはずだぞ、半助。お前の境遇ときり丸を重ねるなと。縋るな。揺らぐな!目を開け!」

    叱責と激励。両方が込められた一喝だった。
    土井がぴくり、と反応を示す。

    「…土井先生は大丈夫なんですか、と皆心配していたぞ」
    「…………………」
    「お前がきり丸の側に付いていることをあの子たちは気付いている。いつも授業だ試験だと言うとぶうぶうと文句を言うくせに、姿を見せないお前のことには文句ひとつ言わず、ただ、大丈夫ですかと聞いてくるんだ」

    静かな医務室に、山田の声はよく響いた。土井は俯いて、膝の上の手を握り締める。

    「教科の授業にも顔を出さずに、このままずっとそうやって死んだようにきり丸の側にいるつもりか?酷なことを言っているのはわかっている。だが、気をしっかり持て。お前は忍で、忍術学園の教師だろう」

    お前の生徒はきり丸だけか?

    「っ、わ、たしは…っ、」

    半助と呼びながら、山田がそっと土井の背を叩く。肩を震わせて、すみません、と切れ切れに告げた。

    「きり丸の為にも、少しは休め。そんな草臥れた顔で、無精ひげまで生やして。せっかくの男前が台無しじゃないの」

    土井の膝に涙が落ちたのを見て、伊作はそっと目を逸らす。こんなに弱った土井の姿を見たのは初めての事だった。誰かを想って感情を揺らし、涙を零す。きっとそれは、忍として褒められたものではない。感情の一切合切を捨てて、非情になりきることこそが忍のあるべき姿だ。けれど、嬉しい、とそう思ってしまう。土井がこんなふうにきり丸のことを大事に思っていることが、ただ嬉しかった。

    伊作くん、と呼ばれ顔を上げる。
    湯に煎じた薬を入れて軽く混ぜ、新野に手渡した。

    「土井先生」

    新野に差し出された湯飲みを素直に受け取って、土井はありがとうございますと小さく頭を下げる。

    「温かいものを摂れば、少しは気も休まりましょう。簡易の薬湯ですが、いくらかの効果はあるはずです。そんな鬼のような形相で看病されていては、きり丸くんだって目覚められません」

    二、三度頷いて、土井は薬湯に口をつけた。ゆっくりと時間をかけて飲み干して、やがて空になった湯飲みを盆に置く。

    「さぁ、土井先生。何かあれば必ず起こすと約束します。今はゆっくりとお休みください」
    「ありがとう、ございます…」

    そう言ってふっと眠りに落ちた土井を山田が支えて、やっとかとため息を吐いた。

    「新野先生、やっぱりこれって…」
    「眠り薬です。効果は薄いものなので、一刻半程でしょうか」

    書き付けを見た時からなんとなくわかっていたことではあったが、忍術学園の教師に一服盛ってしまったことには変わりはなく、末恐ろしいような気持ちになる。伊作は眠る土井に向かってすみません、と頭を下げた。

    「なに、気にせんでいい。こうでもせんと、どうせ眠れもしなかったんだから。新野先生、医務室の隅をお借りしても?このまま教員室に連れてったんじゃ、は組の良い子たちに見つかってしまいますので」
    「ええ、もちろん。きり丸くんが目覚めるまでは、医務室は別室で構えていますからどうぞお気になさらずに」

    隅と言わずに土井ときり丸を並べて寝かせ、あとは任せていいかと聞いた新野に返事をして、伊作はきり丸の赤い頬に手の甲でそっと触れた。

    「まだ熱いね…。きり丸、」

    頑張って、と言おうとして伊作は首を振る。
    きり丸は今までだってずっと頑張ってきたじゃないか、と膝の上で拳を握りしめた。
    頑張って頑張って、頑張り過ぎて。どうして気付いてあげられなかったんだろうと、そればかりが頭を過る。
    長く実習で学園を空けていたとはいえ、それまでに気付けるタイミングなんてきっといくらでもあった。
    どれもこれも今更後悔しても詮無いことと知りながら、それでも思考は止まってくれない。
    皆を救いたいなんて、傲慢な願いだと知っている。出来ることは限られていて、どんなに手を尽くしても救えない命があることもわかっている。けれどせめて、学園の後輩くらいは、助けられる自分でありたかった。乱太郎と仲の良いきり丸の変化くらい、気付けたはずなのに。
    『きり丸、なんだか疲れているんじゃないのかい?あんまり顔色が良くないけど…』
    『…そ、うですか?今日犬の散歩のバイトだったんですど、預かった犬がめちゃくちゃ走るもんだから、それでちょっと疲れたのかもしれません』
    そう言って笑っていたきり丸を、あの時引き止めていれば。煙たがられたって、もっと詳しく事情を聞いていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。

    「…きり丸」

    後悔ばかりに囚われるのは愚かだ。だって過去は変えられない。どんなに悔いても、失った命は戻ってこない。
    きり丸は生きていて、失った命なんかじゃないだろう。そう何度も自分に言い聞かせ、きり丸の頭をそっと撫でた。

    並んで眠る二人。きり丸の隣で懇々と眠る土井の目の下にはひどい隈ができていて、きり丸が目覚めるまでに、この隈が少しでも薄くなればいいとこっそりと祈る。

    土井半助と摂津のきり丸———この二人の関係は、学園内では少しばかり異質で特別だった。
    それを大っぴらに咎めるような者はこの学園にはいないが、それを面白く思わない生徒がいることも知っている。きり丸は決して弱音も愚痴も言わないが、時折嫌がらせめいたことをされていることも。
    表立って庇ってやることは簡単だが、きっとそれは火に油を注いでしまう。そうして、上級生の間で出した結論は”きり丸には決して悟らせない”ことだった。心無い言葉も、謂れのない暴力も、きり丸に届く前に出来うる限り、全て処理してしまおうと。
    孤児の身の上で忍術学園に通う生徒はきり丸だけではない。少数ではあるが、各学年に数名存在する。それでも、自分たちがこうもきり丸に肩入れしてしまうのは、辛い過去など微塵も感じさせない彼の明るさと優しさに救われているからだ。この小さな身体で、一体どれほどの悲しみや理不尽に耐えてきたのだろうと、それを想像するだけで胸が苦しくなる。

    「伊作くん」

    不意に呼ばれた名前にはっとして振り返った。
    やあ、久しぶり、と呑気な声でそう言って、包帯だらけの大男は手を振ってみせる。

    「…雑渡さん」

    音も気配もなく、一体いつの間に医務室にやってきたのか。若干の警戒態勢をとりながら相対して、それからはっと土井を振り返った。雑渡の気配で目を覚ましてしまったのではと危惧したが、振り返った先の土井は安らかに寝息を立てていてほっと胸を撫で下ろす。
    雑渡の気配にも目を覚まさないなんて、普段の土井では考えられない。それほどまでに疲れていたのか、それとも新野の睡眠薬の薬効がきつすぎたのか。後者の理由が強いような気がするが、間違いなく両者とも含まれている。あとで新野先生に材料と薬効について詳しくお伺いしようと内心でこっそりと決めて、伊作は雑渡をじろりと睨みつける。

    「…何の御用ですか?見ての通り、今はとても忙しいんです」
    「そんな怖い顔しないでよ。今日は伊作くんにひとつ、お知らせがあってね」
    「お知らせ?」
    「君の同級生に伝えておいて。探してる連中は、いくら探しても見つからないって」

    同級生、探してる連中———その二つから導き出された結論に、伊作はまさか、と呟く。

    「…たまたまだったんだけどね。先に見つけたのは私じゃないし。まぁ、成り行きってやつだよ。こっちも忍務中だったものだから、知らせるのが遅くなって悪かったね」

    きり丸を助けてくれたのだと悟って、首を横に振った。ありがとうございました、と深々と頭を下げる。

    「お礼を言われるようなことはしてないよ。私がたまたまあそこを通りかかったのも、この子の運だ。伊作くん、きり丸から運を分けてもらった方がいいんじゃないか?」

    雑渡の軽口に返事はせず、伊作は黙ってきり丸の頬をそっと撫でた。

    「…僕たちはいつも、きり丸に元気をもらっています。それだけで、もう十分なんですよ」

    穏やかな声で伊作はそう言って、雑渡の隻眼を見つめ返す。雑渡はきり丸をちらりと一瞥すると、くるりと背を向けた。

    「…強い子だよ、この子は」

    雑渡の小さな呟きに、知っています、と伊作がはっきりと言い切る。雑渡が微笑んだような気配がして、瞬きをした次の瞬間には、もうそこに雑渡の姿はなかった。
    相変わらずだなと短く嘆息する。

    触れたきり丸の頬は未だ熱い。大きな当て布がされた頬が痛々しかった。
    ぬるくなった額の手拭いを代えて、きり丸、と小さく呼びかけた。

    「一年は組の皆が、毎日きみを訪ねて来てるよ。長次も文次郎も小平太も、授業が終わったら毎日ここに来る。仙蔵は傷に効く薬草を摘みに遠くまで出かけて行ったし、留三郎は鼻緒が切れかけてたきり丸の草履を修理してた。三郎と雷蔵は、昨日乱太郎たちと一緒に内職をしたんだって。勘右衛門なんか、きり丸が目を覚ましたらおいしい団子を食べに行くんだって、新しい団子屋さんを開拓してるし、八左ヱ門はあったかい動物いるか、なんて聞いてきてたよ。兵助はきり丸が起きたら胃に優しいものが必要だろうって、なんだか新しい豆腐料理を研究してる」

    ぽん、ぽん、とそっと布団を叩く。

    「数馬は……」

    口を開きかけて、止めた。
    きり丸が怪我をして帰ってきたと知った数馬は、自分のせいだと泣いていた。前の日にきり丸が怪我をしていたことに気付いていたのに。あの時ちゃんと報告していれば、こんなことにはならなかったかもしれないと、そう言って。
    伊作は数馬の後悔が痛いほどわかった。保健委員として、きり丸の先輩として、己の不甲斐なさと、守ってやれたかもしれないという事実が、どうしようもなく自分を責め立てる。誰に何を言われても、この気持ちはきっとなくならない。悔しさ、無力感、後悔———そういうものをずっと背負いながら、もう二度とこんな思いをするものかと、前を向いて進むしかないのだ。

    「……きり丸、起きたら数馬と話してやって。お前のせいだって怒ってもいいから、数馬に会ってやってね」

    数馬はきっと泣くだろう。きり丸の怪我を見て、青い顔をして。
    でもそれでいい。“守ってやりたかった”というその気持ちをどうか忘れないで欲しいと伊作は影の薄い後輩を思った。

    「それからね、綾部も来たよ。今は六年生と先生方以外は医務室に立ち入り禁止だから、入り口までだけど。珍しく花なんか摘んで。お見舞いには花がいいって聞いたからって。多分タカ丸あたりに聞いたんじゃないかな。滝夜叉丸も心配してたよ。三木ヱ門も、守一郎も、タカ丸も。下級生にはあまり知らせていないから、知っている子は少ないんだけど、久作はきっと気付いてる。きり丸は大丈夫なんですかって本当に心配してたよ」

    ゆっくりと語りかけながら、名前を繰り返し呼んだ。

    「皆きり丸が起きるのを待ってる。何にも心配しなくていいんだよ。だから、早く目を覚ましておいで」

    あの後長次から聞いたきり丸の叫び。恐らく起こったのであろう出来事。
    帰る資格なんてない。自分だけ、“一年は組の良い子たち”じゃない。可哀想なんかじゃない。
    この小さな身体にどれほどの思いを抱えてここまで歩いてきたのだろう。長次から聞いた言葉を思い出す度、胸が締め付けられるように痛む。それだけ、きり丸が吐露した思いは重いものだった。たった十の子供が、こんなに我慢強くある必要はないと思ってしまうのは、自分が恵まれた環境で生まれ育ってきたからだろうか。たとえ、忍者を志す身の上でも、もっと自由に泣いて笑っていて欲しい———その考えを甘いと知りながら、それでも願わずにはいられなかった。

    「…頑張った。本当によく頑張ったね…」

    君は本当に強い子だ。

    静かな医務室に、優しい優しい声が響いた。


    ***


    きり丸、と優しい声で誰かが呼んでいる。

    「お寝坊さんなの?早く起きないと、お兄ちゃんが朝ごはん全部食べちゃうわよ」
    「母さんの朝ごはんは今日も美味いなぁ」
    「ほーらきり丸。お前の好きなおかず、兄ちゃんが全部食っちゃうぞ」

    朗らかな笑い声。
    温かい朝の団欒。

    誰かが頭を撫でる感触があって、きりちゃんと甘やかな声が自分を呼んだ。

    「……かあ、ちゃ…?」
    「ふふ。おはようきりちゃん」

    よく眠れたかしら。

    優しい眼差しと温かい笑顔。
    ぼんやりとする頭のまま身体を起こせば、顔を洗ってらっしゃいと優しく頬に触れられて、くすぐったさに目が細まる。

    「きり丸、今日は乱太郎くんとしんベヱくんと一緒に町に行くんだろう。早く準備しないと二人が迎えに来ちゃうぞ。母さん、おかわり!」
    「きりちゃん今日のこと楽しみにしてたでしょう?遅刻しちゃってもいいの?」
    「きり!顔洗いに行くんだろ!水汲んでやるからさっさと起きろ!」
    「わぁ!」

    布団を剥ぎ取られ、小脇に抱えられる。
    襲ってきた冷気に一気に目が覚めた。

    「兄ちゃんひどい!」
    「お前がモタモタしてるのが悪い!今日土井先生んとこにも行くんだろ。そんな寝惚けた顔でどうすんだ」

    口からするりと言葉が飛び出して、きり丸の頭に何故か疑問符が浮かぶ。

    (…あれ。おれ、なんで…?)

    「こら、乱暴にしないのよ!」
    「まあまあ母さん。それより俺におかわりちょうだい」
    「もう、あなたったら…。いつまでも甘えん坊なんだから」
    「そりゃあ俺は母さん大好きだから。息子達ばっかりずるいじゃないか。たまには俺のこと甘やかしてくれたって、」
    「なっ…!もう、馬鹿なこと言わないの!」
    「あいてっ」

    「あーもー朝から嫌んなるよなぁ。仲が良すぎて困る」

    井戸端で釣瓶を引きながら、兄がべ、と舌を出す。

    「ほら、気をつけろよ」
    「ありがとう兄ちゃん!」

    わしゃわしゃと頭を混ぜられて、それが何故だかとても嬉しくて、声を立てて笑った。

    仲の良い両親。優しい兄。
    休日に会う忍術学園の友人。担任の先生。

    (…………?)

    小さな違和感を覚えて手が止まる。
    どうしたと問い掛けられて慌てて首を振った。

    (………なんで。何もおかしくなんてないのに。)

    ばしゃん、と水が跳ねる。
    冷たい井戸水で頭がしゃんとした。びしゃびしゃになった自分のことを、仕方ないなと言いたげな優しい目で見つめて、兄が手拭いで顔を拭ってくれる。

    「よし、戻るか」

    差し伸べられた手を握って、後について行く。
    おかえりなさいと笑う母。こっちに来いと自分の膝を叩く父。背を押してくれる兄。

    ちり、と頭の奥に何かが過ぎる。
    心臓がドキドキとうるさい。嫌な汗が背中を伝った。

    (…嘘だ。何も、何にも違わない…!だってこれは、)

    いつもの。

    そう思いかけて、きり丸ははっとする。

    繰り返し見る悪夢。
    ”どうしてお前だけ”と責める声。

    「あ…っ!」

    バリン、と何かが割れる音が、遠くで聞こえた気がした。


    ***


    「……きり丸、ほんとに大丈夫なのかなぁ?」

    泣きそうな声音で呟いたのは喜三太で、傍らの金吾がそっとその背を撫でる。
    重い空気の流れる兵太夫と三治郎のからくり部屋で、頭を突き合わせる一年は組の良い子たち。誰ひとりにこりともせず、沈痛な面持ちで板の目を見つめていた。

    きり丸が大怪我を負って担ぎ込まれてから二日。何度伊作や先生に面会を頼んでも許可されず、依然きり丸が目覚める気配はないという。
    きり丸がこのまま目を覚まさなかったらどうしよう。そんな想像もしたくない恐怖を抱え、皆身を寄せ合ってきり丸が早く元気になりますようにと一心に祈っていた。

    「…許せない」
    「…え?」
    「おれ、どうしても許せない…!なんできり丸がこんな目に遭わなくちゃいけないんだよ…っ!」
    「団蔵!」

    ダン!と拳を床に叩きつけた団蔵を虎若が宥める。団蔵の言葉を聞いた皆は一様に俯く。皆心に思うことは団蔵と同じだった。

    「………それは、昨日もみんなで話しただろう。仕返しなんて、しちゃいけない」

    庄左ヱ門の声に、でも、と紡ぎかけた団蔵が口を噤む。

    「…乱太郎としんベヱは気付かなかったの?」

    次に口を開いたのは兵太夫だった。
    言葉に混じった棘に喜三太が肩を揺らす。

    「二人はきり丸と同室じゃない!きり丸が無理してるって、どうして気付いてやれなかったんだよっ!」
    「兵太夫っ!」

    乱太郎に掴みかからん勢いで兵太夫が立ち上がった。三治郎と伊助が二人がかりでそれを制止して、兵太夫の目に浮かぶ涙にはっとする。

    「なんとか言ったらどうなの!?」
    「やめてよ兵太夫!」

    叫ぶ兵太夫も止める三治郎もほとんど涙声だった。

    「兵太ゆ」
    「そうだよっ!!!」

    庄左ヱ門の声を遮って、乱太郎が立ち上がって叫ぶ。

    「そうだよ…!わたし、気付いてた。きり丸が最近無理してるって気付いてたのに…!!何にもしてあげられなかった!!変に気を遣われたり、しつこくあれこれ聞かれるのは好きじゃないからって!!何にも、なんにも聞かなかった!!!」

    らんたろう、とべしょべしょの涙声でしんベヱが乱太郎に縋って首を振った。

    そんなのぼくも同じだよ。きり丸ともうずっと一緒にお夕飯食べてなかったのに、それにも気が付かないで、ぼく、ぼく。

    しゃくり上げながらしんベヱが言って、堪えきれないように金吾が嗚咽を漏らして、喜三太が金吾と涙混じりの声で呼んだのを皮切りに、皆ぐすぐすと鼻を啜り始める。

    「…っ、わたっ、わたし、のせいだ」
    「乱太郎やめて!ぼくが、ぼくのっ」

    乱太郎のせいなんかじゃない。しんベヱのせいなんかじゃない。誰が言ったかわからないくらい、声が重なって狭い部屋に響いた。

    「そんなの、わかってるよ…っ!二人のせいなんかじゃないって、ほんとは、ぼくだって…っ!」

    ごめん、と絞り出すように言った兵太夫の両目から大粒の涙が零れ落ちる。兵太夫、と三治郎が腕に縋り付いた。

    二人のせいだと言うのなら、それはきっと自分たちみんなの責任だと、十人全員がわかっていた。
    同室じゃなくたって、毎日授業で顔を合わせていたのに。気付くタイミングなんていくらでもあって、それを見逃してしまっていたのは、それをいろんな言い訳をつけて見て見ぬふりをしたのは、自分たちだって同じことだ。

    「皆っ!!!」

    声を上げたのは、庄左ヱ門だった。
    その声にもやはり涙が滲んでいて、けれど彼の声に耳を貸さぬ者など、は組には居るはずもなく、皆揃って庄左ヱ門を振り返る。

    「喧嘩はやめよう。泣くのもよそう。ここでぼくらがこうしてたって、何にも変わらない」

    庄左ヱ門は溢れてくる涙を乱暴に袖で拭って前を向く。

    「ぼくたちは、今自分たちの出来ることをしよう。きり丸が目を覚ましたら、”ただいま”って笑ってくれるように」

    ”おかえり”と、きり丸に言いたい。
    帰ってきたきり丸に、心配したと少し怒って、夕飯を一緒に食べようと誘って、皆でお風呂に入って、手を繋いで眠ろうとそう言って───皆揃って、”おかえり”と。笑顔で迎えるのだと決めた。

    「ぼくたち一年は組は十一人でひとつ」

    そうでしょう、と少し無理やりに、それでも笑って言った庄左ヱ門に皆泣きながら頷く。

    出来なかったことを悔やんで泣くのは今日でお終いにしよう。
    今自分たちが出来ることは何なのか考えて、明日からはちゃんと前を向いて走ろう。───だってきり丸は、学園に帰ってきた。
    これからも皆で一緒にいる為に、自分たちに出来ることをしよう。
    罪滅ぼしでも、きり丸の為でもない。ただ、自分たちが望む、いつもと変わらない明日の為に。


    ***


    気がつくと、知らない場所にいた。
    緩慢な動作で身体を起こして、自分が花に埋もれていたことに気付く。

    「花畑…?」

    何をしていたんだっけ、と思い出そうとして、何も頭に思い浮かばない。ただ、ひどく幸せな夢を見ていたような、そんな気がした。

    「どこだ、ここ…」

    視線を落とすと、名も知らぬ花。
    綺麗だと思うより先に、高く売れそうだなというのが頭を過って、自分のどうしようもない性分に乾いた笑みがもれる。

    とりあえず立ち上がって辺りを見回すと、花畑の先に大きな川と桟橋。そして桟橋の傍らに船頭らしき人の姿が見えた。

    「人だ…!」

    桟橋に向かって駆け出す。
    遠いような近いような、よくわからない距離感に戸惑う。何度か蹴つまづきながら、桟橋に辿り着いた。かなり走ったはずなのにひとつも苦しくなくて、不思議な気持ちになる。

    「あ、あの…」

    遠慮がちに声をかけると、目深に傘を被った男がきり丸を振り返った。

    「ここはどこですか?川を渡った先に、町はありますか?」

    どうしてか顔が見えずに、急に不安が襲ってくる。まるでこの世のものではないような、そんな得体の知れないものと相対しているようだった。そんな薄ら寒い気持ちが込み上げてきてきり丸はぎゅうと胸元を握りしめる。

    「…片道六文」

    船頭はきり丸の質問には答えずに、ぶっきらぼうにそう言った。
    金とるのかよ、と悪態をつきかけて、ふと六文という金額に引っかかりを覚える。

    「六文…?」

    何か忘れている気がする。
    六文、ろくもん。
    口の中で繰り返し呟いて、きり丸は必死で頭を回した。

    どうして自分はこんなところにいるのか。見覚えも何も無いこんなところに、そもそもどうやって辿り着いたのか。

    確実に記憶の端に何かが引っかかっているのに、全部が靄がかっていてはっきりと思い出すことが出来ない。

    船頭は何も言わず、ただじっときり丸を見下ろしている。足下から順に視線を上げて、山藍摺の上衣にふと目が留まった。

    ────この色を、自分は随分と大切にしていた気がする。

    そろそろと視線を上にあげて、船頭の頭にたどり着いた時、自分の目に映った顔にはっと息を呑んだ。

    「───────にいちゃん、」

    そう口にした途端、きり丸の中に一気に記憶が流れ込んでくる。

    アルバイト先でゴロツキに襲われたこと。壊れた商品を弁償したら、蓄えが無くなったこと。それで無理をしてアルバイトを入れたこと。

    「あ……ぁ、」

    冷たい言葉。懐から奪った六文銭。合戦場で見た夕焼け。誰かの優しい手。言い争い。貰った弁当。遠慮も手加減もなく振り下ろされる足。女の人のかさついた指先。それから、それから───。

    「うっ…!」

    思い出した。
    きり丸はせり上がってくる吐き気を堪えて膝を着く。
    涙が溢れて止まらなかった。嗚咽が漏れて、手元にあった花を力任せに握りしめる。ブチブチと嫌な音がして、花が千切れたのだと気付いた。

    「───きり丸」

    優しくて、悲しい声音。
    きり丸が顔を上げるより先に、大きな手が頬を包む。零れ落ちる涙を親指が拭った。

    まるで、この世のものではないような。
    先程自分が抱いた思いに血の気が引いていく。怖いと思ってしまった。気味が悪いと。
    そう感じたのは、ずっと焦がれていた人だったのに───。

    「俺のこと、わかるか?」

    寂しげに、泣きそうに笑うこの人は。

    「にい、ちゃん…」

    小さく呟いたその呼称を聞き取ってくれたらしいその人は、心底愛しそうに自分を見つめて、そうだよ、と頷いてくれる。

    「お前の感じた感覚は間違いじゃない。俺はもうあの世の人間だからな」

    だからそんな顔するな。
    頬に触れた手の感触をきり丸は知っていた。
    大好きな、兄の手だった。

    「大きくなったなぁ。随分と美人に育っちまってまぁ。お前は母さん似だから、きっとこれからもっと美人になるぞ」

    朧気だった兄の姿が鮮明に蘇って、目の前の人と重なる。

    「ごめんな。お前のこと守ってやれなくて」

    兄ちゃん、と呼ぶとうん、と頷いてくれる声は優しい。涙が溢れて止まらなくて、途端に視界が滲んでゆく。胸の中に突進するように飛び込んで、叫ぶ。

    「何でおれも連れてってくれなかったのっ!!!!」

    それは、きり丸の心からの叫びだった。
    夢に見たあの温かな光景。自分が焦がれてやまない、あの日失ってしまった家族。
    あの輪の中にいられないなら、生きていられなくたって良かった。四人でずっと一緒にいられるなら、あの時一緒に死んでしまった方がずっとずっと幸せだった。

    「何でおれだけ生きてるのっ!!??!父ちゃんも母ちゃんも兄ちゃんも、皆居ないのに!!!何で、おれだけ…っ!!」
    「…っ、」
    「もういい!!!もうやだ!!!おれ、兄ちゃんとずっと一緒にいる!!!」

    もう二度と離すまいと、懇親の力で兄に縋り付く。何度も何度も兄ちゃんと呼んで、おれも一緒に連れて行ってと繰り返した。

    「きり丸…っ、」

    抱き締めてくれる腕の感触はひどく懐かしい。いつでも自分を守ってくれるこの腕が大好きだったと思い出す。
    きりちゃんはお兄ちゃんが大好きねと笑う母。俺よりも兄ちゃんの方が好きなのか!?と焦る父。これ見よがしに自分を抱き上げて、羨ましいか、なんてからかう兄。
    どうして忘れてしまっていたんだろう。こんなに、こんなに大事な、忘れたくない記憶だったはずなのに。

    「きり丸、きり丸。頼む、こっちを向いてくれ」

    乞われて顔を上げると、涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃな顔の兄がいて、こんな顔は初めて見たと面食らう。手を伸ばして目元を拭うと、温かい手に包み込まれた。

    「お前は優しいな、きり丸…っ、」

    ずず、と鼻をすすって、目の前の兄が笑う。

    「お前がくれた六文銭、ちゃんと持ってる。ありがとうな」
    「え…」

    なんで、ときり丸は目を丸くして聞いた。
    あんな粗末な、墓とも呼べない代物。その下に埋めた六文銭が兄に届いていたなんて信じられなかった。

    「父さんにも母さんにもちゃんと届いてる。あの二人は一足先にあっちに渡ったけど、お前のことずっと心配してたよ」

    頭を撫でる手は優しい。誰に撫でられるのとも違う、記憶の中にあるものと同じ、兄の撫で方だった。

    「あっちに行ったら、父ちゃんと母ちゃんに会える…?」

    目の前にある大きな川が何なのか、きり丸は漸く理解する。
    あぁおれはとうとう死んだのかときり丸は妙に納得した心地で兄を見上げた。

    「この川は、タダじゃ渡れない」
    「ただ…」

    タダ、という言葉にいつものように反応する元気はなくて、オウム返しに繰り返す。

    「六文かかるの?」
    「あぁ、そうだ」

    六文───三途の川の渡り賃。

    嘘や迷信じゃなくて、本当だったんだときり丸は目を瞠った。慌てて懐を探るが、小銭の一枚も出てこない。

    「なぁ、きり。お前、あっちに行きたいか?」

    うつむいたきり丸を撫でながら、兄が静かに問いかける。

    「俺の六文銭を使えば、お前はあっちに渡れる」

    俺の六文銭を使えば。
    それはつまり、兄の渡り賃を奪うということだ。もちろん今のきり丸に銭の持ち合わせなどあるはずもない。

    「…………おれが兄ちゃんのを使ったら、兄ちゃんはどうなるの?」

    きり丸の問いに、兄は黙って微笑んだ。兄ちゃん、と呼んでも、返事はしてくれない。

    「や、やだっ!一緒じゃなきゃやだっ!!おれだけ行ったって、兄ちゃんがいなきゃ…っ、」
    「…あっちには父さんと母さんが居るって言ってもか?」
    「………っ、やだっ!!!」

    ────会いたい。父と母に、どうしようもなく会いたい。けれどそれが兄を切り捨てて成り立つ邂逅なら、そんなものはいらない。自分がひとりでなくなったとしても、兄をひとりにしてしまうなら、そんな願いは叶わなくたっていい。

    「………お前なら、きっとそう言うだろうと思ってたよ」
    「兄ちゃん、ここで一緒にいよう!もしかしたら、すごい金持ちの人が来るかもしれないし、ここで、」
    「きり丸」
    「な、なに…?」
    「俺は、お前の望みは何だって叶えてやりたかった。ずっと傍で守ってやりたかったし、もっと、…っ、」

    じわ、と涙を浮かべた兄が言葉を切る。きり丸の頬に触れて、もう一度優しくきり丸と呼んだ。

    「いくら可愛い弟の願いでも、これだけは叶えてやれない」
    「…兄ちゃん?」

    そっと抱き寄せられて、背を叩かれる。

    「お前は本当にえらい奴だ。頑張ったなぁ。強いなぁ。よくここまで歩いてきたなぁ」

    ”よくここまで歩いてきた”と誰かにも言われた気がした。静かな優しい声で、こうやって優しく抱きしめてくれながら。

    「お前は俺の、自慢の弟だよ」
    「…っ、」

    『きり丸』

    こんな声音で呼ばれたことが───最近もあったような、ときり丸は首を傾げる。
    さっきから感じるこの妙な感覚はなんだろう。

    不思議に思いながら顔を上げると、目が合った兄は泣きながら笑っていた。
    そこはかとなく漂う別れの気配に、きり丸はイヤイヤと首を振る。

    「やっ、やだ!!」
    「きり丸、お前には帰る場所があるだろう。待ってる人たくさんもいる。お前はあっちに帰らなきゃ駄目だ」

    あっち、と兄が指さした方向は何だか白く光っていて眩しい。
    お前はまだ戻れる、と兄は言った。

    「兄ちゃんは…?兄ちゃんは一緒に行けないの?」
    「俺は行けない」
    「じゃあおれも行かないっ!」
    「きり丸!」

    強い口調だった。
    悪戯をした時。言いつけを守らなかった時。無茶なことをして怪我をした時。
    こうやって叱られていたなと目に涙が浮かぶ。

    「だって…!だって!!もう何にもない!おれ、全部失くしたんだ…っ!もう帰る場所だってないし、行くとこなんかどこにもないっ!だから…っ」

    兄ちゃんと一緒に居させて。皆のところにおれも連れて行って。

    喉の奥が熱くて大きな声が出せなくて、絞り出すように言った。

    「なぁきり丸、お前は本当にひとりか?あの日から今まで、本当にひとりだけで生きてきたのか?」
    「そうだよっ!おれはずっと、」

    ひとりだ、とそう言いかけて、ふと脳裏に声が蘇る。

    『きりちゃん、今日もアルバイト?』
    『きり丸、一緒にお団子食べに行こう』

    楽しそうな子供の声。
    誰だっけ、と首をかしげた。

    「思い出せ、きり。お前の居場所。守りたかったもの。帰りたかった場所。全部、まだお前の中にあるだろう?」
    「そんなの、」

    ひとつもない。
    そう言うつもりだったのに、言葉が出てこない。

    きり丸、としきりに誰かが呼んでいる。
    いろんな声が重なって、反響した。

    「聞こえるだろ?お前を呼ぶ声。ちゃんと返事をしてやらないと」
    「声、なんて…」

    『きり丸!』

    そう呼ぶ声はいくつもあって、きり丸は耳を塞ぐ。なんにも聞こえない、とそう言いたかったのに、頭に響く声は止んでくれなかった。

    『きりちゃん!』『きり丸!』

    一際大きく響いた声に、きり丸は顔を上げる。

    「乱太郎、しんベヱ…?」

    いつだってこの声が隣に居た。
    楽しいことは三倍、悲しいことは三ぶんこに。三人でいれば、なんだって出来る気がした。

    『泣け泣け。子供は泣くのが仕事だぞ』

    「おっちゃん…」

    死ぬことばかり考えながら、死ぬことに脅えていたあの日、前を向く勇気と元気をくれた人。

    『きり丸!!』

    「み、んな…」

    大好きな、大好きな仲間。
    休み明けはいつだって皆に会いたくて会いたくて、学園に行くのが楽しみで仕方がなかった。

    『きり丸ぅー!お前はまたこんなにアルバイト引き受けてきてからに!』
    『何か手伝えることがあればいつでも言いなさい』
    『きり丸、帰ろうか』

    「どい、せんせえ……っ!」

    ひどい八つ当たりをした。
    いつだって自分のことを案じて、心を傾けてくれる、父のような兄のような人だったのに。気持ちのままに言葉をぶつけて、傷つけた。

    「兄ちゃん、どうしよう…っ!おれっ」

    土井先生にひどいこと言ったまんまだ。

    つっかえながら言った言葉を拾って、兄はきり丸の丸いおでこを弾く。

    「いたっ!」
    「そういう時はなんて言うんだ?」

    紛うことなき、”兄”の顔だった。
    弾かれたおでこを押さえながら、きり丸はごめんなさい、と小さく口にする。

    「そうだ。悪いことしたってわかってるなら、ちゃんと謝らなきゃな。それとも”土井先生”はお前のごめんなさいも聞いてくれないような冷たい先生なのか?」
    「違うっ!」

    冷たい先生なんかじゃない。あんなに優しくてあったかい先生、他にいるもんか───そう食ってかかるように叫べば、ちゃんとわかってるじゃないかと兄が優しく笑う。

    「…お前はひとりじゃない。今までも、これからもずっと。ひとりになろうとしなくていいんだ。お前がそうやって周りを大事に思うように、皆お前のことが大事なんだよ」

    頭を撫でてくれる手はどこまでも優しい。もちろん俺も、父さんも母さんも、と続いた声にまた喉の奥がぐっと鳴った。

    「帰りたい場所、思い出しただろう?」

    兄の言葉に、きり丸はゆっくりと頷く。
    帰りたい場所があった。守りたい居場所があった。大事にしていた人たちがいた。

    「──俺の、俺たちの可愛いきり。俺はお前の兄ちゃんで良かった。ひとりにして本当にごめん。でも俺は、お前が生きていてくれることが何よりも嬉しいんだ」

    ぎゅうと抱き締められて、きり丸は肩口に顔を伏せる。そうしないと、涙が次々に溢れてきて呼吸すらままならなかった。

    なんて幸せで、なんて残酷な夢なんだろうときり丸はただ涙を零す。

    一度別れた兄と、また別れねばならないなんて。離れがたくて仕方がない。だってこの手を離してしまったら、もう二度と兄には会えないのだ。

    「兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん…っ!」

    何度も何度も、繰り返した。
    この温もりを、この声を、この優しい手を、忘れてしまわないように。

    ここにいたのが兄だけで良かったと思う。父と母まで居たならば、自分はきっと誰に何を言われようと、どんなことを思い出そうと、絶対に帰る気持ちになどなれなかった。一緒に行くと駄々を捏ねて、何がなんでも居座った。

    「…おれのこと、ここで待っててくれたの?」
    「待ってた、はちょっと違うな」

    肩口に顔を埋めたまま聞くと、兄は小さく笑って言う。

    「ずっと来なきゃいいと思ってた。俺がここに留まっていられる間、絶対に来てくれるなって思ってたよ」

    ぽん、ぽんと背を叩かれる。寝付きの悪い日にはいつもこうしてくれていた。

    「でももし来たら、全力で追い返そうって決めてた」

    きり丸、と呼ばれて顔を上げる。

    「はは。お前、顔から出るもん全部出てるぞ」

    がしがしと袖で顔を拭われて、そういえば大雑把な人だったなと思い出す。
    ぎゅっと手を握られて、真っ直ぐに目が合った。

    「きり丸」

    ほら、と背を押される。

    「走れ!」

    あの日と同じ言葉だった。
    突き動かされるように足が動く。白い光が眩しくて目が眩んだ。

    振り向きざまに、ありがとうと精一杯の声量で叫ぶ。振り返った先で見た兄はやっぱり笑っていた。
    眩い光に呑まれる。
    最後に聞こえた大好きだぞという叫び声に、愛してるという声が確かに二つ混じっていて、きり丸は目を凝らした。
    辺り一面の白。眩しい、と手をかざして立ち止まりかけたきり丸の背を押した手の感触は三つ。

    「…っ、」

    (父ちゃん、母ちゃん、兄ちゃん…っ!)

    「おれ、もうちょっと、こっちで頑張ってみる…っ!銭は盗られたし、授業料も足りないままだけど、でも…っ」

    まだあそこにいたい。

    出来る限りのことをやってみようと思う。他の誰に何を言われても、捨てられるものなんかじゃないと知ったから。

    「ありがとう!!父ちゃん、母ちゃん、兄ちゃん、おれが行くまで、もうちょっと待ってて!」

    にぃ、と口角を上げる。泣きながら笑って、きり丸は光の先に足を踏み出した。










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