愛になる日を夢見てる折に触れて、そっと頭を撫でてくれる大きな手が好きだ。
耳を澄まさないと聞こえないような大きさだけど、よくやった、と褒めてくれる静かな声が好きだ。
中在家先輩、と読んだ時、柔らかい表情でこちらを見つめるあの優しい瞳が好きだ。
ちらり、と隣に座る長次を見やる。きり丸は上がり始めた口角を、手にしていた造花でそれとなく隠した。
図書委員の仕事を疎かにしないことを条件に認めてもらった内職の持ち込み。(ちなみに、それを言ったのは図書委員長の中在家長次ではなく、二年い組の図書委員、能勢久作である。)今日は当番をしながら傷んだ図書の修繕をする予定だったが、長次が三分の二を受け持ってくれて、きり丸は思っていたよりも随分早く内職に取り掛かることが出来た。図書委員の当番の時の内職は案外と捗るもので、するすると手が動く。今日のノルマは今傍らに置いてあるこの箱で最後だった。
ぱらり。
傷跡のたくさん残る大きな手がゆっくりと書物をめくっていく。
閉室間際の図書室には自分と長次以外誰もいない。本当に静かだ。
外から差し込む光は段々と陰りを帯び始めていて、障子紙が橙色に染まっていた。
ぱらり。ぱらり。
長次は丁寧な所作で頁の合わせを確認して、本の背をそっと撫でた。どうやら修繕が終わったらしい。
長次は自分の修繕を上手だと褒めてくれるが、まだ長次にはとても及ばないときり丸は思う。傷だらけの大きな手は、思わず顔を顰めて仕舞うような細かな箇所の修繕も、難しい貼り合わせも、難なくやってのけてしまうから不思議だ。長次が本を扱う手は何処までも繊細で優しい。時に、長次のその手が羨ましくなってしまう程に。
無意識にそんなことを思って、きり丸ははたと手を止める。
(おれ、今…)
自分は今何を考えていたのか。
長次の本を扱う手を、なんと───。
「…きり丸」
小さく小さく名前を呼ばれ、きり丸は思い切り肩を跳ねさせた。
心臓がばくばくとうるさい。顔を上げられずにごまかすように笑うと、長次の指先が頬に触れた。
「っ、な、か在家せんぱ」
「顔が赤い」
思わず顔を上げて、真っ直ぐな瞳とぶつかる。どうした、と目線で問われて、余計に体温が上がった気がした。
「ちょっと、暑くて…」
馬鹿みたいな嘘で誤魔化して、きり丸は必死で手元の造花を量産していく。
長次は見事な手さばきで造花を積み上げていくきり丸をじっと見つめ、手にしていた本を修繕済みの山の中に載せた。それから、俯いたきり丸の額に、長次の少しかさついた手が触れる。飛び上がる勢いで驚いたきり丸を後目に、神妙な顔つきで熱は無いなと呟いた。
「〜〜〜〜っ!」
控えめにぽかりと一発。
叩かれた当の長次は怒るでもなく、きり丸の頭を撫でる。
(あーもう!)
今図書室に誰もいなくて良かった、ときり丸は内心でため息を落とした。
節くれだった手がこちらに近づいてくる気配があって、きり丸は今度こそ自分の意思で顔を上げる。そっと頬に触れる温かい手に目を細めた。
普通なら、多分ここで互いにはにかんで笑うような場面なんだろう。アルバイト先で、そうやって微笑み合っている夫婦や恋人をよく見かける。
けれどこの中在家長次という人は。
(またそんな一発で赤ん坊が泣きだすような顔して…。)
見上げた先のしかめっ面に、きり丸は思わず吹きだした。むっすりと口を引き結ぶ長次のことが、どうしてか可愛くてたまらない。
『私の”好き”ときり丸の”好き”は、きっと種類が違う』
長次にあの日言われた言葉が、ふと脳内にちらついた。
──遡ること一か月前。
事の発端は不運の保健委員長と名高い、六年は組の善法寺伊作だった。何代か前の保健委員長の書付を見つけたとかで、新しい薬を調合しようとして、その薬の調合を間違ったとかなんとか。そしていつも通り数々の不運を発揮して、保健室内で処分されるはずだったその怪しげな薬を頭から被ってしまったのが長次だ。早く保健室に行こう、大慌てで手を引く伊作と乱太郎、呆然とする長次。(この話を聞いた時、本を読んでいる最中じゃなくて良かったと心底思った。もしそうだったらちょっとした乱闘騒ぎになっていたに違いない。)笑う小平太と伊作の下敷きになったままの留三郎。呆れる仙蔵。驚く文次郎。それから、たまたまそこを通りかかったきり丸。頭から水らしき何かを被った濡れ鼠の長次にぎょっとして、中在家先輩と慌てて名前を呼んだその時、長次がいつになくはっきりと「好きだ」と。
(あの後大変だったんだよなあ…。)
新しい造花を作り始めながら、きり丸は思い出して苦笑する。
一緒に調合作業をしていた乱太郎曰く、伊作は鎮痛剤のようなものを作ろうとしていたらしい。何をどうやって間違えばあんな薬になるのかまったくわからないが、伊作が調合を間違って作った薬は、謂わば自白剤── あの後の様々な問答によって発覚したらしい──のようなもので、思ったことをすべて口に出してしまうという厄介極まりない代物だったというのだから驚きである。(これはこれで大変便利なので、もう一度作ろうとして、また別のややこしい薬が生み出されてしまったのは完全に余談だ。)———つまり、長次がきり丸に言った言葉は本心からの言葉というわけで、その事の重大性に気付いたのはしばらく経ってからだった。
『長次!?』
『何だ』
『いや何だじゃなくて!!今自分がきり丸になんて言ったかわかってる!?』
『好きだと言った』
『うん!?』
『私はきり丸が好きだと言った』
『うん、そうなんだけどね!?え…あれ?ちょっと待って…』
『伊作、その前にちょっと足を…』
『長次、それってあれだよね?後輩としてってことだよね?』
『伊作!?お前は何を聞いとるんだ!』
『だって文次郎!』
『長次はきり丸が好きなのか?私もきり丸が好きだぞ!』
『なんだか面白いことになってるじゃないか』
『伊作、悪いがいい加減どいてくれるか…?』
あの時の六年生の騒ぎっぷりと言ったらなかった。乱太郎と顔を見合わせて、どうしよう、と言ったのを覚えている。
『きり丸、私はお前が好きだ』
そんな同窓の様子など気にも留めず、長次はきり丸の傍にやってきて、膝を着いてもう一度言った。
長次はいつもちゃんと目を見て話をする人だが、あんなに真っ直ぐに、自分だけしか目に入らない、みたいな顔で見つめられたのは初めてだった。あの時の長次の瞳を思い出すと、今でも少しドキリとする。あの時は何が何がなんだかわからなくて、先輩たちはうるさいし、目の前の長次は"好きだ"なんて宣うし、しかも何だか妙に顔が熱い気がしてどうにもこうにも落ち着かなかった。なんと返すべきか迷いながら、正直にぼくも好きですよ、と返せば、寂しげな顔で首を横に振られて。
『私の“好き”ときり丸の“好き”はきっと違う』
『違う?』
『ほう、どう違うんだ?』
確か、あの時口を挟んだのは仙蔵だった。教えてくれ、長次とそれはもうにっこりと。
『どんな風…?』
仙蔵の問いに、長次はしばらく考え込むようなそぶりをして言った。
『どんな風にでも好きだ。時に弟のように思うこともある。後輩としても、一人の人間としても。私はきり丸が愛しくてならない』
長次ー!!!!と大声で叫んだのは伊作だったか、文次郎だったか。留三郎だったかもしれない。
『長次のそれには、恋い慕う、という意味も含まれているのか?』
『————…それはもちろん、含まれている』
『だ、そうだ。どうするきり丸』
へ、と間の抜けた声を上げた自分が、仙蔵になんと返したのか。それはもうすっかりと記憶から抜け落ちてしまったのに、不敵に笑った仙蔵の顔だけははっきりと覚えている。
何はともあれ、あの瞬間から、長次ときり丸の関係性は微妙に変化した。(薬の効果が切れた後、全てを覚えていた長次に土下座されたのは本当に大変だったが。)
『不快な思いをさせてすまない。気持ちを強いるつもりも、そもそも伝えるつもりもなかった。お前が望むなら委員会も———』
頭を下げてそう言った長次に、一番最初に湧いたのは怒りだった。あんなに真っ直ぐに好きだと言った癖にどうして突き放そうとするのかとなぜだか無性に腹が立った。
伊作先輩の薬のせいだったんでしょう、とか。
僕は気にしてませんから忘れてください、とか。
その場を穏便に切り抜ける言葉なんていくらでもあったのに。
『ぼく、不快だなんて言っていません』
言ってしまった後で、あ、と思った。
長次が目を丸くしていて、その驚いた表情にもなんだかまた腹が立って、そのまま畳み掛けるように続けた。
『そりゃあ少しは驚きましたけど、中在家先輩に“どんなふうにでも好きだ”って言ってもらえて嬉しかったのに。なかったことにしろって言うんですか?それに、図書委員だって…辞めたいなんてぼくがいつ言ったんですか』
苛立って、一息で告げた。
なかったことになんてしたくなかった。忘れてください、なんて言いたくなかった。
だって、”愛しい”なんて初めて言われたのだ。なんだか背中がむず痒くなるような、じわじわ心があったかくなるような、そんな心地がして、でも少しも不快ではなかった。
素直に嬉しいと思ったのに、告げるつもりはなかっただとか、挙句の果てに図書委員を辞めてもいいだなんて。
謝罪するにしたって、謝りどころがてんで違う。むしろ、長次の今の言葉を謝って欲しいくらいだった。
むすりと頬を膨らませて、負けじと睨み返そうと視線を上げた時、見たことの無い長次の表情に驚いた。それから、いつも静かな色を湛える瞳に自分が映り込んでいるのが見えて───思わず、いいなと思ったのだ。見たことの無い長次の表情を見るのも、この人の瞳に自分だけが映るのも。
"好きだ"と言った長次の瞳を。表情を。自分だけのものに出来たなら。それはきっと、とんでもない贅沢なんじゃないか、なんて。
ドケチに贅沢は大敵だけれど、長次が自分に、"好き"を"くれる"と言うのなら。
(おれの"好き"の半分を、先輩になら分けてもいい。)
心の中でも"あげる"とはどうしても言えなくて、分けると言ってごまかした。
あと半分は、は組の皆とか、土井先生とか、皆に向けたいろんな"好き"だ。なんとなく、長次に向ける気持ちとは違う種類の。それがはっきりとわかっている"好き"のかたまり。それを長次に渡すことは出来ないが、もう半分の、ゆらゆらもやもやそわそわ、まだ行き先を探している気持ちなら。
(好きだけどなぁ。おれ、中在家先輩のこと。)
仙蔵の言う"恋い慕う"という気持ちと、同じ好きかはわからない。しかし、きり丸にとって長次に向ける"好き"は明確に変化しつつあるのも事実だった。
(先輩は、答えなんてまだ出さなくていいって言ってたけど。)
『これからお前は、たくさんの人と出会う。まだ十だ。そんなうちから決めなくていい』
私は多分、ずっときり丸が好きだから、と付け足して。
そう言われた時、ほっとしたと同時に残念にも思った。
なぁんだ。先輩はおれが先輩のこと好きじゃなくてもいいんだ。
そんなことを思って、面白くない、と少しの間臍を曲げた記憶がある。
その話を聞いて、長次らしいなと仙蔵は言った。
『逃げ道があるうちに、ほかに添い遂げたい者を見つけるもよし。長次はあれで意外ともてる男だからな。ぼやぼやしてると、横から誰からとられるぞ』
そう言われて、胸のあたりが急にもやもやした。
あの瞳が、指が、想いが、自分以外の別の誰かに向けられるかもしれない。そう思っただけで、胸が痛いやら腹が立つやら。知らずに顰め面になっていて、仙蔵に眉間の皺をちょんとつつかれた。
『きり丸、焦らなくても答えはきっともうお前の中にある』
頭を撫でる仙蔵の手は優しくて、長次とはまた違った撫で方だった。
長次の手が恋しいと、ふとそう思ったことは黙っていたけれど、仙蔵にはバレバレだったかもしれない。
恋なんて知らない。愛なんてわからない。でも、逃げ道なんていらないと思った。
長次の言う“好き”がわかるようになるまで、まだきっと時間はかかる。でも、近づきたいと素直に思う。
きりちゃんは中在家先輩が大好きなんだね、と乱太郎に言われて、今は素直に頷けるようになった。きり丸にとって、それは大きな心境の変化だ。
ぴとり、と距離を詰めて長次の傍に寄る。見上げると優しい瞳と目が合って、頬がまた熱くなった。
おいで、と手招きされて膝の上に乗せてもらうのは、最近漸く慣れてきた。
長次の傍は、ドキドキもするけれど、同じくらい安心するから。
無口で不愛想でコワイ、とか。笑顔が不気味、とか。そう言って遠巻きにしていたのに、現金だなと自分でも思う。でも今は、長次のそれが有難くもあった。
『長次はあれで意外ともてるからな』
仙蔵の言葉を思い出してむっとする。
図書室の利用者がいないことを確認して、中在家先輩、と呼んだ。
「どうした」
「中在家先輩はずっとそのままでいてくださいね」
「…どういうことだ?」
「ぼくは、ありのままの中在家先輩が好きだってことです」
長次の目が丸くなったのを見て、ふいと目を逸らす。さすがに照れくさくて、見つめ合ってなんていられない。
(だって、中在家先輩の笑顔が不気味じゃなくなって、伊作先輩とか、食満先輩みたいに自然に話せるようになっちゃったら困るもん。)
絶対絶対、人気が出るに決まってる、ときり丸はひとり憤然とする。気を紛らわせるように造花を作る手が早くなった。
「わっ、」
ぎゅう、と突然後ろから抱きしめられて手にしていた最後の造花がぽとりと畳に落ちる。
中在家先輩、と呼んでみるが、長次からの返事はない。
「…有料ですよ」
とんでもない照れ隠しを口にして、ぺち、と長次の大きな手を叩く。
「…明日のアルバイト」
もそもそと耳元で囁かれた言葉に、きり丸はしょうがないですねぇと笑った。
抱き寄せてくれる長次の温かい腕が好きだ。
甘やかしてくれる優しいところも、ちゃんと叱ってくれる厳しいところも。
「…それって逢引きですか?」
ぴしり、と固まった長次にきり丸は意地悪く笑う。きり丸がそう思ってくれるなら、と控えめに返ってきた答えに、可愛い人だなと胸がきゅんとなった。
先の事なんて何もわからないし、想像もできないけれど。
長次と共にある未来があればいいと思う。
あんなこともあったな、と今日の事を笑い合うような、そんな日がいつか。
先に閉室の札を出してくれば良かった、なんてずるいことを考えながら、落とした造花を拾って箱に入れる。
ぽんぽんと腕を叩いて拘束を緩めてもらうと、長次と向かい合うように身体を反転させた。おずおずと見上げた先の瞳は、変わらずに優しい。今はこの瞳に映るのは自分だけ、という時間が嬉しくて、この先もずっとそうであればいいのにと思う。
ぎゅう、と甘えるように抱き着いた。
「…中在家先輩と当番するのが一等好きです」
今伝えられる最大限の"好き"を込めて、きり丸はぽそりと呟く。瞬間に高鳴った長次の胸の鼓動を耳元で聞きながら、じわじわと熱くなる頬を隠すように広い胸に顔を埋めて目を閉じた。
title:確かに恋だった