愛を識る人①以下に十分ご注意の上、危ない空気を感じた方はお戻りください。
・きりちゃんがかなり可哀想な目に遭います
・きりちゃん総愛され気味
・きりちゃんの過去捏造(つどい設定含)
・暴力・嘔吐表現あり
・人が死ぬ描写あり
・名前付きのモブが出ます
・時代背景に合わないものがたくさん出てきます
『きり丸』
優しい声で、誰かが名前を呼んでいる。
『お寝坊さんなの?早く起きないと、お兄ちゃんが朝ごはん全部食べちゃうわよ』
『母さんの朝ごはんは今日も美味いなぁ』
『ほーらきり丸。お前の好きな物、兄ちゃんが全部食っちゃうぞ』
朗らかな笑い声。
温かい朝の団欒。
涙が出るほど懐かしい、いつかの記憶。
———父ちゃん、母ちゃん、兄ちゃん。
当たり前にそこにある日常。
何故だかぼんやりする頭で、けれどきり丸は破顔する。
あれもこれも、“夢だったんだ”とそう思って、“母ちゃん”と、呼びかけた。
ひとつ。ゆっくりと瞬きをしたその瞬間に、目の前の団欒が搔き消えて、ふっと辺りが暗くなる。
突然消えた温かい光に、ただ茫然と立ち尽くした。
「父ちゃん、母ちゃん、兄ちゃん…?」
さっきまであんなに温かったはずなのに、今は凍えそうなほどに寒い。
手の平で腕をさすりながら、きょろきょろと辺りを見回した。
『どうして』
自分の手の平すら見えない暗闇の中で、その声はよく響いた。
聞き覚えのある声だな、と一瞬考えて、行き着いた結論に絶望する。
———母ちゃん……。
『どうしてお前だけ生きてるの』
母の声が、きり丸に問いかける。
『俺はお前を庇って死んだのに』
兄の声が、自分を責める。
『俺たち家族は皆死んだのに、どうしてお前だけ』
恨みのこもった父の声が、また問うた。
———ごめん。ごめん、ごめんなさい。
火に巻かれたあの日、父は母を、母は兄を、兄は自分を庇って死んだ。
本当なら、きっとそこで自分も死んでいたはずだった。
家族の中でたった一人、生き残ってしまった自分は、きっと裏切り者なのだ。
逃げろ、と父は叫んでいた。
せめて子供たちだけでも、と母は泣いていた。
走れ、と兄は言った。
嫌だと泣き叫んで縋りつく自分を思い切り突き飛ばして、“生きろ”と。
兄は笑っていた。それが、自分の見た最期の兄の姿だった。
熱くて、恐くて、無我夢中でその場から逃げ出した。
どうやって逃げ出したのか、どこをどうやって走って、どうやって村から出たのか。何一つ覚えていない。
気が付いたら、小さな寺の中だった。川のほとりで気を失っていたのだと拾ってくれた住職が言っていた。
死にたくなかった。痛いのも熱いのも嫌だった。
けれど本当は———痛くても熱くても、皆の傍に居たかった。本当に、最後の最期まで。
死にたくはなかった。生きていたかった。でも、独りぼっちになってしまうくらいなら、生きていられなくても良かった。
『お前も死ねばよかったのに』
怨嗟の声が反響する。
ドロドロと姿を崩した、愛する家族だった何か。
まるで引き摺り落とそうとするように、足元にまとわりついてくる。
「…っ、おれだって…っ!」
─── 一緒にそっちにいきたかった。
赤黒い影が迫る。
いっそ連れて行ってくれという願いは本物なのに、怖くて怖くて堪らない。ひ、と口から引き攣れた悲鳴が漏れた。
息を吸うのも忘れてひたすらに走る。つんのめって蹴躓いた。
追いつかれそうになって思わず目を瞑って────目が覚めた。
「…っは…!」
飛び起きて、辺りを見回す。
何の変哲もない、忍術学園の、いつもの自分たちの部屋だ。
布団をめくってみても、赤黒い影はもうどこにもない。
夢か、と呟いて、膝に顔を埋めた。
(またこの夢…。)
初めて見る夢ではない。もう何度も──数えきれないくらい何度も見た夢だ。
楽しい、嬉しい、幸せ。ここ──忍術学園に来てから、そんな風に感じることが多くなった。そんな柔い気持ちにかまけて、薄れた過去の記憶が少しだけ頭の端にいった時。きり丸は決まってこの夢を見た。
まるで、一人だけ幸せになることなど許さないとでも言うように。何度も、何度も。
身体を縮こませて、湧き上がってくる恐怖心をやり過ごす。
夜着が身体に張り付いて気持ち悪い。ひどい汗だった。
裏山を走らされた後みたいに心臓がやかましく音を立てていて、耳に響く心音が鬱陶しい。うまく息ができなくて苦しかった。ぞわぞわと足元から何かが這い上がってくるような感覚が拭えない。ぎゅうと膝を抱えて小さくなる。震える手で布団を握りしめた。
ちらりと隣を見やると、豪快な寝相でひっくり返っているしんべヱと、布団にくるまって幸せそうにむにゃむにゃしている乱太郎がいて、無性にほっとする。
起こさなくて良かったと小さく呟いて、二人の寝息に耳を傾けた。普段ならうるさいと言って耳を塞ぐしんべヱの鼾すら、耳に馴染んで不思議と心地いい。そうしてしばらくじっとしていると、強張っていた身体から段々と力が抜けていくのがわかった。
ほぅと息をついて、肺を空気で満たす。漸く息が出来た気がした。
優しく笑う家族。昏い景色。消える温度。生き残った自分を責め立てる声。
真新しくも何ともない、見慣れた夢だ。
夢なんてすぐに忘れてしまうはずなのに、どうしてかこの夢の光景だけは、いつ見てもしっかりと記憶に残っている。こんな時ばかり記憶力が発揮される自分の頭が恨めしくて仕方がなかった。
たかが夢だと流してしまえば楽なのに、見る度に気持ちがどうしても重くなる。胸が痛くて、苦しい。乱太郎の薬で治ればいいのに、と膝に埋めた顔を歪めた。
『どうしてお前だけ』と責め立てる声が今も鮮明に耳に残っている。
「ごめんなさい…」
零れたのは懺悔を込めた謝罪。
届くはずもないと、わかっていた。
きり丸は、それきり黙って、同室の穏やかな寝息と騒がしい鼾に耳を傾ける。
頬を伝って落ちた雫が、じわりじわりと着物に染みを作っていた。
夜は、まだ明けない。
***
チャリンチャリン、と小銭が銭壺の中で跳ねる。最後の一枚を銭壺に落として、きり丸はため息をついた。
「やっぱり足りねえ……」
銭壺の蓄えを数え直して早五回。
何度数えても結果は同じで、銭壺を抱えて項垂れる。
頭の中で直近のアルバイトの給金を計算するが、これから朝晩休日と休みなく毎日働いたとしても目標には足りない金額だった。
「あ〜〜〜クソ…」
小さな声で悪態をつく。
本当なら、もう少し余裕があるはずだった。いつも通りのアルバイトの量で十分間に合うはずだったのに。
もう何度思い出して後悔したかわからない、数日前の不運。
いつも通りの、店番を兼ねた売り子のアルバイトだった。ただひとつ、違ったことがあったとすれば、その店の場所の治安がやや悪く、そして更に不運なことに盗賊くずれの男たちが来店した、ということだ。丁度客足も途絶えた時分だった。今になって考えてみれば、恐らくずっと見張られていたのだろう。客の相手に店の掃除、商品の整理とやることが多く、周囲の気配に気を配る余裕がなかった。
ガラの悪い男たちは、物盗りついでの憂さ晴らしとばかりに盛大に店を荒らした。曲がりなりにも忍者のたまご。自分なりに応戦はしたが、大人数人と子ども一人では出来ることなど知れていて、陳列した商品を壊され、軽くはない怪我もこさえた上にアルバイト先の主人にはしこたま怒られて、壊れた商品代の一部を弁償する羽目になった、というのが事の顛末である。(最後には、お前だけのせいじゃない、怒鳴って悪かったなと謝ってくれはしたが。)
ひどく腫れ上がっているような箇所がないから、恐らく骨は大丈夫だったのだろう。しかしまだ身体は痛いし、腹や腕には痣が残っている。痣が薄くなるまでは皆と一緒に風呂に入れないのが面倒だが、着物を着てしまえばわからないことだけが救いだった。忍術学園で治療をしてもらうと乱太郎や先生に筒抜けになってしまうので、以前乱太郎にもらった薬を二人が寝静まった後にこそこそちまちまと使っている。(鼻のいいしんべヱがいるので本当に少しずつしか使えないのが難点ではあるが。)
「…ちぇ、運が悪かったよなぁ」
弁償させられたことはかなり痛手ではあるし、悔しさと苛立ちが募るが、店番のアルバイトで商品を守りきれなかった自分が悪いのだ。こういうことは特段珍しいことでもない。いつもなら、そうすぐに切り替えて次のアルバイトを探すところだが——今回に限っては、あまり悠長なことは言っていられない事情がある。
忍術学園の今月の授業料の納期が、約半月後に迫っていた。
コツコツと貯めていた蓄えも今回の弁償金でほとんど無くなってしまった。つまりマイナスからのスタートで、約半分の期間でいつもの倍以上の銭を稼がなくてはならない。
「…あと半月」
眉間に皺を寄せて、きり丸は唸るように呟く。
本来であれば学期ごと、もしくは半年か一年ごとに一括で授業料を納めることになっているが、きり丸は特別に一ヶ月ごとの納付を認められていた。(単に小銭を数えるのが大変だという先生方の都合もあるだろうが、)ただでさえ特別待遇をしてもらっているのに、それすらも期日までに納めることが出来なければ、ここに居られなくなってしまう。
事情を話せば多少の融通はきかせてくれるかもしれない。しかし、自分の生い立ちを盾に情に訴えること──特に、この学園内でそれを使うこと──はきり丸の矜持が許さなかった。それに、余計な同情や哀れみを寄せられるのは御免だ。庇護してくれる親がいないことを特別不幸だと思ったことはない。自分のような戦災孤児など、この乱世の時代珍しくもないのだ。一人で銭を稼ぎ、一人で生きていくことは、きり丸にとってはもう当たり前のことで、周囲が思う程辛いことではない。要は慣れだと、きり丸は思っている。
浅くため息をついて戯れに銭壺を揺らしてみるが、妖術よろしく中身が増えるはずもなく。
よく引き受けるアルバイトを頭の中で浮かべて、最大効率で働いた場合の賃金を計算してみるが、それだけではとても追いつかなかった。
内職や子守り、犬の散歩や洗濯などの比較的簡単なアルバイトでは、貰える賃金もそう多くはない。学費の納期に間に合わせる為には、もっと稼ぎのいいアルバイトをする必要があった。
「…仕方ねーよな」
稼ぎのいいアルバイト──つまり、合戦場などの危険な場所での仕事や、あとは———色事のアルバイトだ。
こういう時、幼い自分が嫌になる。もう少し大きければ、色事のアルバイトだって出来るし、もっと効率よく稼げるのに。そう思いかけて、きり丸は大きく首を振った。
「……だめだめ。流石にそれはナシ」
色事のアルバイトが一体どういった仕事を指すのか、きり丸はよくわかっていた。伊達にここまで一人で生きてきたわけではないのだ。そういう店や仕事があるのも知っているし、自分のような小さな子供、しかも男を相手にしたいという人間がいることも残念ながら身を持って知ってしまっていた。
確かに一番銭にはなる。それこそ、他のアルバイトを毎日詰め込まなくても良くなるくらい。けれど、身体を売って稼いだ銭で忍術を学ぶというのは———いや、そういうことをしてまで銭を稼いだのだと、知られるのが嫌だった。
いつも優しい先輩や先生、大好きな同級生たちから、汚らわしいと手を払いのけられるところを想像して、ぐっと唇を噛む。寂しさには慣れきってしまっているはずなのに、心の奥の柔らかいところが氷みたいに冷たくなるような、そんな心地がする。他のどんな痛いことや辛いことには耐えられても、それだけは耐えられない。
そうなると、残る選択肢はひとつだけだ。合戦場のアルバイトは危険だから禁止だという土井の言葉が頭を過ったが、背に腹は代えられない。
ごめんなさいと心の中で謝って、きり丸は頭を回す。合戦場でのアルバイト代の大体の相場を思い浮かべて、ふむ、と腕を組んだ。
「授業料と生活費と…」
普段のアルバイトに加えて、合戦場のアルバイトを三回程こなせば足りそうだった。弁当の売り上げと戦利品次第では、もう少し少なくても間に合うかもしれない。あとは食費を少しばかり削って、放課後乱太郎達と遊んでいた時間をアルバイトに充てれば、なんとか。
「…よし」
抱えていた銭壺をいつもの場所に戻して、きり丸は力強く頷く。
生きていくには銭がいる。休んでいる暇などない。自分の居場所は、自分で守るしかないのだ。
「さぁて、働きますか!」
ぱしん、と手を叩いてきり丸は前を向く。
落ちかけた気持ちを引っ張りあげるように明るく言って、立ち上がった。
***
アルバイトから帰ってきたその足で、きり丸は図書室へと急ぐ。
下げられた本日終了の札に構うことなく勢いよく戸を引いた。
「あれ、きり丸」
貸出カードの整理をしていた怪士丸が顔を上げる。
アルバイトだったの?お疲れ様、と微笑んでくれた怪士丸への返事もそこそこに、きり丸はばしん、と顔の前で手を合わせた。
「怪士丸頼む!明日の当番代わってくれ!」
そう言って、勢いよく頭を下げる。
怪士丸はきょとん、と目を丸くしたあと、いつもの優しい顔で、いいよ、と諾の返事をした。
「怪士ま」
「駄目だ」
ほっと一息ついて顔を上げた瞬間、間髪入れずに固い声がきり丸の声を遮る。
まさかと思って振り向くと、そこに立っていたのは案の定、腕を組んで仁王立ちをする、能勢久作その人だった。
「げっ久作先輩…」
「先輩に向かって“げっ”とは何だ“げっ”とは」
「い、いやあ…」
いらっしゃったんですか、と曖昧に笑えば、ギロリときつい視線が飛んできた。
「俺がここにいちゃ悪いのか?」
「いえ、滅相もない…」
今日の当番は怪士丸と雷蔵先輩だったはずじゃ、と思わずこぼせば、また視線がひとつ。
「不破先輩は昨日から実習でいらっしゃらない。代わりに俺が入ってるんだよ」
「さ、さようで…」
(よりによって能勢がいる時に…!完全にタイミング間違えたぜ。)
心の中で盛大に舌打ちをして、うぐぐと眉間に皺を寄せる。(しかめっ面が顔の全面に出ていたようで、怪士丸に、顔、と注意された。)
「とにかく、駄目なものは駄目だ」
「なっ、何でっすか!?怪士丸はいいって言って、」
「きり丸、お前これで何度目だ?」
真面目であまり融通の利かない久作とぶつかることは、普段からよくあることだった。度々アルバイトのせいで委員会に遅刻したり、当番を代わってもらったり、そういうことをする度に、“ちゃんとしろ”と怒られた。きり丸とて、好き好んで委員会活動を休んでいるわけではない。アルバイトを入れる時は極力当番の日や平時の委員会活動に被らないように気を付けているし、急に委員会が入った時だって、どうにか都合をつけて必ず顔を出すようにしている。それに、そういう時は必ず委員長の中在家長次に許可をもらっていた。
忍術学園の委員会活動は、当然のことながら無償の奉仕活動だ。図書委員になったばかりの頃は、露骨に面倒くさがったり、嫌々仕事をしたり、確かに褒められた態度ではなかったと思う。けれど、図書委員として日々を過ごすうち、図書委員会というこの小さな集まりが段々と好きになっていった。顧問の松千代先生も、委員長の長次も、先輩の雷蔵も、同級生の怪士丸も、皆温かくて優しい。久作のことだって、別に嫌いじゃない。仕事はきっちりしているし、たまに揶揄われることはあっても、本気の嫌がらせをされたことは一度もない。一つ上の学年という、他の先輩とは違った気安さと、ちょっとした反抗心と対抗心。口に出したことは一度もないが、尊敬だって少しはしている。そういういろんな気持ちが相まって、つい、憎まれ口が先に出る。
久作もきっと、それをわかってくれていて、ここから他愛のない言い合いに発展するのが常だが———、今日はどことなく雰囲気が違う。本気で叱っているのだとわかった。
「先週だって、一度も当番に来てないだろう。委員会活動だってろくに参加してないじゃないか。それで、明日も代わってくれだって?」
いい加減にしろ、と言った久作の声はいつもより数段低い本気のトーンだった。噴火するように怒ることが多い久作が、こうやって静かに怒っていることは稀だ。怪士丸も、普段あまり見ない怒り方をする久作に驚いているようだった。
「…っ、」
だって、と言い訳じみた言葉が口から出かけて、きり丸は慌てて口を噤む。
今月の授業料が足りそうにない、なんて死んでも言いたくなかった。他の誰にそれを言ったとしても、久作にだけは、絶対に。
『───だって、ぼくは孤児なんすから。』
あれは、図書委員になって間もない頃。
ぽつり、と。あまりにも口うるさい久作に辟易してつい言ってしまったことがあった。
『ぼくは自分で働かないと学費どころか食堂の飯だって食えやしないんですよ。委員会活動なんて、こんなタダ働き、やってらんねーっす』
それを言ってしまえば、誰も何も言えなくなるのを知っていて、ちょっと落ち込んだ風に、わざとそうぼやいた。少し居心地が悪くなるかもしれないが、きっとこれで余計なことは言わなくなるだろう、とそんな打算も含んだ、ずるい言い方をした。しかし、返ってきたのは、”ごめん”という謝罪でも、”そういうことなら…”という気まずげな譲歩でもなく、”そんなこと知るか!”という言葉と、とびきりきついげんこつだった。
『それはお前の事情だろ。委員会活動にお前の事情を持ち込むな』
ケチのつけようもなくそれは正論で、きり丸はじんじんと痛む頭をさすりながら、久作を──図書委員会をほんの少しだけ好きになったのだ。
そんな久作に対してだからこそ、この一言は絶対に言えないし、何があっても言いたくなかった。
「わかってますよ!ぼくだって、申し訳ないってちゃんと思ってます…っ!でも、本当に、明日だけは、お願いします」
きり丸は、久作に向かって頭を下げる。
明日は先生方の都合で授業が半日で終わる日で、その後合戦場でのアルバイトの予定があった。このアルバイトを逃せば、いよいよ本当に授業料を払うことが難しくなってしまう。
正論ばかりで融通の利かない久作への腹立たしさとか、お前に何がわかるんだよと叫びたくなる、ぶつけようのない苛立ちとか、爆発しそうなものは山ほどあって、それでもきり丸はお願いします、と真摯に頭を下げた。プライドなんてものに拘っている余裕などない。ここで八つ当たりのようにいろんなものをぶちまけたって、結局は悪循環だ。
怪士丸がおろおろとしている気配があって、久作はきり丸を見下ろしたまま黙っていた。
しばらく沈黙が続いて、久作のため息がその静寂を破る。
「…今月は、次で最後だぞ」
いつもの、久作の声だった。
今月は、という言葉にきり丸はがばりと顔を上げる。
「えっ久作先輩…」
「お前の事情はわかってる。けど俺は、何でもかんでも許すつもりはない」
修繕するつもりの本なのか、机の端から端まで並べられた本をざっと指さして、これはお前の持ち分だ、とぶっきらぼうに久作が言う。
「えっ」
「先月古書市に行っただろう。貸出に出す前の補強と修復作業を皆で分担してるんだ。中在家先輩や不破先輩が合間合間でお前に割り当てられた分も手伝ってくれてる」
「…そ、れは」
久作にそう言われて、そういえば、とはっとした。少し量が多いから、しばらくの委員会活動は修復作業になる。当番の合間も出来るだけ作業を進めて欲しい。───と、確かに長次から言われていた。その時は、まだ懐に幾らかの余裕があった。こんなにアルバイトを詰め込む予定もなかったし、委員会を休むつもりも、当番を代わってもらうつもりもなかった。わかりました、とはっきりと返事をしたのに。そんなものが割り当てられていたこと自体、すっかり忘れてしまっていた。
「俺は手伝わないからな。お前だって図書委員なんだ。自分の仕事はちゃんとやれ」
いいな、と念を押すように問われた言葉に唇を噛みしめて頷く。
「……すみませんでした。おれ…」
やっとのことで出した声は、蚊の鳴くような声だった。うまい言い訳も、弁明も、何も出てこなくて口を噤む。
長次と雷蔵に申し訳なくて、久作に腹を立てた自分が恥ずかしかった。
二の句が継げなくなったきり丸の頭を、久作がぺしり、といつもよりも百倍優しい強さで叩く。
「…明日の当番は俺が代わってやる。怪士丸もあんまりこいつを甘やかすんじゃない」
「すみません」
全然“すみません”と思っていないような声音で、怪士丸が久作に言った。
怪士丸はきっと、優しい顔で笑っているんだろう。
「…怪士丸、その……。いつもごめん」
ありがとう、と続けたきり丸の言葉に、怪士丸は穏やかな声でどういたしまして、と返す。
なんで、ときり丸は小さく口の中で呟いた。長次も雷蔵も久作も、怪士丸だって、どうして許してくれるのか、きり丸は不思議でならない。
約束を破ったのは自分だ。与えられた仕事も忘れて、自分のことばかり考えていた。罰があるのは当然で、殴られようが、どんなに汚い言葉で責められようが、文句は言えない。いっそ、そうやって、分かりやすく責めてくれれば楽なのに、誰も、そんなことはしようともしないで。
「上の二人が甘いんだ。俺は絶っ対にお前を甘やかしてなんかやらないからな」
そう言う久作だって、結局は甘いのだ。
図書委員のメンバーは皆、きり丸の事情を知っていて、きり丸を気遣ってくれる。その気遣いが最初はどうにも慣れなくて、つっけんどんな態度をとったこともあった。一年生の癖に、とか、陰口を叩かれたって仕方ないくらいのことはしているのに、叱る時はいつも真正面で叱ってくれる。
いつも何かと自分を気に掛けてくれる長次。いつだって優しい笑顔をくれる雷蔵。は組の皆とはまた違った、居心地の良さをくれる怪士丸。その中で、久作はきり丸を決して特別扱いしない、“いつも通り”と“普通”をくれる存在だった。アルバイトで委員会や当番を休めば注意されるし、図書の並べ方から修繕の仕方、当番中の態度まで、ちくちくちくちくとそれはもう小姑のように粗を指摘される。あんまり喧しく言ってくるものだからつい喧嘩になって、それを怪士丸と雷蔵がまあまあと宥めて———久作はそういう、他愛もない日常を作ってくれる。優しい長次と雷蔵に代わってきり丸に雷を落とすのは、いつだって久作の役目で、それをきり丸はよく知っていた。
(なんだよ。結局、久作先輩だっておれに甘ぇの…。)
ぐぐ、と眉間に力を入れて、精一杯のしかめっ面で誤魔化した。
「…ちぇ。久作先輩が優しいなんて明日は雪が降るかも」
「何だとっ!」
「いたぁっ!」
ぼそりと呟いた一言をすかさず拾われて、今度は手加減なしのげんこつを食らう。
痛みのどさくさに紛れて、ちょっとだけ涙が落ちた。
そのまま久作から逃げるように、きり丸は脱兎の如く図書室から転がり出る。
「久作先輩」
入り口から顔だけを覗かせて、きり丸は久作を呼んだ。
「…ありがとうございます。来週の委員会は絶対に出席しますから!」
返事は聞かずに、長屋へと駆ける。
くさくさした気持ちはいつの間にかなくなっていた。
(おれ、図書委員でよかった…。)
心の底からそう思った。
むずがゆいような、じんわりと心の内側が温かくなるような、そんな心地がする。
しんべヱと入れ替わりで入った委員会だった。無口過ぎる委員長の長次は何を考えているのかわからなくて怖かったし、久作は真面目一辺倒で融通は効かないし、とことん馬が合わなくて、とにかく面倒だった。でも、今はそんな委員会が好きだと、まだ素直には言えないけれど、思っている。
(中在家先輩と雷蔵先輩に、お礼、言わなくちゃ…。)
たくさん、たくさん、過ぎるくらいの優しさと思いやりをもらっていて、自分がそれに釣り合った何かを返せていないこともわかっていた。
(もらってばっかだな、おれ。)
ドケチな性分としては、願ったり叶ったりな状況ではある。何しろ、元手はこの身ひとつ。自分が皆にあげたものなどひとつもなくて、それなのに、皆がたくさんくれるから。
(ひとっつも釣り合ってないのに。損したって思わねえのかなあ。)
そんなこと、誰も思っていないのを知っていて、きり丸はぐす、と鼻をすする。
湿っぽいのは性に合わない。泣いたって疲れるだけで、一つの儲けにもなりやしない。泣いてもどうにもならないし、誰かが助けてくれるわけでもないと、痛いくらい知っているはずなのに。
ここにいると、誰か助けてくれるんじゃないか、なんて思ってしまう。そんな気持ちに縋ってしまいそうになる。
(駄目だ、駄目だ…。)
いつ失うかわからないものに心を寄せ過ぎてはならない。いつだって、手放す心づもりをしておくべきだ。
この優しさに慣れてしまったら、今ある全てを失った時、自分はきっと、前よりずっと弱くなってしまう。自分の足で立つ力は、絶対に失くしてはいけない。
もらった温かさと泣きたくなるくらいの優しさを、いつか返さなくてはいけないと思う。今はまだ自分に十分な力はなくとも、できる範囲のことを、精一杯。ここに来るまで己の事ばかり考えてきた自分が、出来ることなんてたかが知れているかもしれないけれど。寄せてくれる想いを無碍にすることはもう出来そうになかった。
「…来週は、委員会絶対サボれないな」
無理矢理笑って、乱暴に袖で顔を拭う。
その為にも頑張らなくちゃ。そう呟いて、きり丸は長屋へと真っ直ぐに走る。
長屋の前から見上げた薄紫の滲む空が、夜の始まりを告げていた。
***
授業が始まるまで早朝バイト。終わったらまた売り子のバイト。
部屋に帰ってからは内職をこなし、休みの日やまとまった時間ができた日は弁当を持って合戦場を走り回った。
そんな生活を続けて十二日。授業料の納期までもう三日を切っていた。
ぼんやりとする頭で銭の計算をしながら、きり丸は授業が終わるのを今か今かと待つ。
うっかり眠ってしまいそうになるのをどうにかこうにか堪え、手元の教科書に視線を落とした。
(このあと今日は団子屋のバイトで、その帰りに犬の散歩して…。新しい合戦場のことも調べなきゃ。)
授業の終わりを告げる鐘が鳴る。
今日は何して遊ぼうか、と乱太郎としんべヱが楽しそうに言った。
「わり、俺今日バイトなんだ」
「また?きりちゃん最近ずっとバイトじゃない。手伝おうか?」
「きり丸、今日も遅くなるの?」
心配そうに眉根を寄せる二人に、きり丸はへらりと笑って見せる。
「大丈夫だって。今日はそんな人手のいる仕事じゃないし。また頼むな!」
夕飯はまかないが出るからいらない、と早口で言って、捕まる前に教室を出た───ところで、きり丸、と呼び止められる。
「…土井先生」
面倒な相手に捕まってしまったときり丸は内心で舌打ちした。
「お前、このところいつにも増して集中力がなさ過ぎるぞ。せっかく高い学費を払ってるんだ。授業はしっかり聞きなさい」
あまりにも先生らしい、もっともな台詞だった。
その学費を支払うために、こんなに懸命に働いているのに、と心の中がざわざわと揺れる。
うるさい、と言ってしまいそうになるのをぐっと唇を噛みしめて堪えた。
「きり丸」
呼びかける声は、先程よりもずっと柔らかい。
きり丸はそろそろと顔を上げた。
「お前、ここのところアルバイトし過ぎじゃないのか?」
心配そうに眉根を寄せて、無理してるんじゃないのか、と土井は膝を折ってきり丸に視線を合わせてくる。労わるように手が肩に触れた。この人の優しい手を、大丈夫です、と振り払うことは自分にはまだ出来ない。
きっと、無理をしてることなんてお見通しなのだ。どんなごまかしも、小さな嘘も、土井は難なく見破ってしまう。
それでも、その手に心のまま縋ることは、きり丸が自身の中で一番禁じていることだった。
極少数ではあるが、天涯孤独の身の上でこの学園に通うのは自分だけではない。長期休みの度に、担任である土井の家に身を寄せる自分のをよく思わない面々がいることを、きり丸はよく知っていた。
ぐっと拳を握って、精一杯の笑顔で土井先生、と呼ぶ。
「土井先生だって知ってるでしょ。もうすぐ授業料の支払いなんすよ。今月はあんまりいいバイトがなくて、ちょっとピンチで」
「…そうだったのか」
「でも大丈夫っす!天才アルバイターきりちゃんにかかればあっという間です!ってなわけでこれから団子屋のアルバイトなので、もう行っていいですか?そろそろ行かないと遅刻する!」
遅刻は信頼に関わりますから、と少し困り顔で言えば、土井は不安げながらわかったと頷いてくれた。
「何か手伝えることがあればいつでも言いなさい」
危ないアルバイトには手を出すなよ、と余計なことを言われる前に話を切り上げたかった。
「えっほんとですか?助かりますぅ!納期が明後日までの内職があるのでお願いしてもいいですか?」
いつもの調子でそう言うと、土井は仕方ないなと笑ってくれる。
ありがとうございますと頭を下げて、一目散に部屋へと走った。
(…合戦場のアルバイトは場所を選ばないと駄目だな。)
廊下を小走りに駆けながら、きり丸は眉間に皺を寄せる。
ただでさえ、実習中の上級生に出くわさないように気を遣うというのに、土井に見つかってしまったら、今後絶対に合戦場には行かせてもらえない。
心配してくれているのは知っている。他の一年は組の連中よりも、ほんの少し、自分が土井にとって特別な存在であることも。
けれど、背に腹は代えられない。合戦場に行けなくなるということは、学費が払えなくなるということだ。
授業の支払い納期が近づくと、どれだけ気をつけていても多少ピリピリしてしまうことを土井はよくわかってくれている。まだごまかしがきくうちに、合戦場でのアルバイトがバレてしまうことは避けたかった。
一旦部屋に戻って素早く身支度を整える。
押し入れに仕舞ってあった外出届を一枚取り出して懐に入れた。向こう一週間分の外出届は既にもらってある。(山田先生は何か言いたげな顔をしていたが、気を付けるようにとだけ行って黙って届をくれた。)最低限の手荷物を風呂敷に包み、裏門に向かって走った。
すれ違う上級生に会釈をしながら、きり丸は裏門へと急ぐ。
「どこ行くの?」「今日もアルバイト?」「手伝ってやろうか」なんて、ここの先輩達は本当に優しい。立ち止まる時間すら惜しくて、また今度お願いします、と半ばおざなりに言った自分のことを咎めるでもなく、気を付けろよと笑って見送ってくれる先輩ばかりだ。
「おい」
ちょっと近道をしてやろうと、思ったのがいけなかった。林の中を突っ切る最中、固い声で呼び止められて足を止める。
この声には聞き覚えがあった。
「聞こえてるんだろ」
一年は組摂津のきり丸、とご丁寧にそう呼ぶ声は冷たい。
ここの——忍術学園の先輩達は、何の見返りもなく打算もなく、当然のように下級生を守り慈しんでくれる。皆強くて、優しい人ばかりだ。──ただ、何事にも例外というのはつきもので。
きり丸はやや身構えながら声のした方を振り返った。
紫の忍装束。きつい瞳とかち合う。
「氷上、先輩…」
小さく名前を呼べば、不快そうに眉を顰められた。
ひょこりとその後ろから覗く青色に、村岡先輩、と続ける。
四年は組の氷上伊三郎。二年ろ組の村岡鈴之助。
この二人ときり丸には、ふたつの共通点があった。
ひとつ、孤児であること。ふたつ、日々学費を稼ぐ為にアルバイトをしていること。
二人の存在を初めて知った時、多少の親近感はあった。オススメのアルバイトや、授業とアルバイトの両立、学年を上がる時にどれくらいの銭が必要なのかなど———要するに、まあ主に銭関連のことについて、聞いてみたいことがたくさん。同じ境遇の者同士であれば、変に同情されることも、気の毒がられることもない。機会があれば話してみたい——そう無邪気に思っていた。
こんな風に、冷たい声で名前を呼ばれるようになったのはいつからだったのか。きり丸はもう覚えていない。食満先輩や竹谷先輩のように世話好き、というタイプではなかったけれど、初めのうちは優しかった。ごくごく普通の先輩で、アルバイトの情報交換をすることもあったし、偶に一緒に出掛けることだってあった。少なくとも、殊更冷たくされるようなことはなかった。
一体何が氷上の琴線に触れてしまったのか、ある日を境に、氷上はきり丸を避けるようになった。何かしてしまったのだろうかと気を揉んで、とにかく話をしようと会いに行ってみれば、頼むからもう近づいてくれるなと冷たい声で告げられた。お前を見ていると、苛ついて仕方がない。そんなことを言われた。どうして、とせり上がってくる言葉を飲み込んで、こんなことよくあることだと言い聞かせ、わかりましたと頷いた。理不尽には慣れている。そんなことぽっちで、いちいち傷ついてなんていられない。学年も違えば、所属する委員会も違う。接点なんて、持とうとしなければ自然になくなった。
氷上とは、それっきりだ。村岡も氷上の手前気が引けるのか、以前のように話すことはなくなった。
「久しぶりだな、きり丸。元気だったか?」
思いの外穏やかな口調で、氷上はきり丸に問いかける。
氷上を見上げると、怜悧な瞳と目が合った。
「…ご無沙汰してます」
笑顔を作ろうとして、失敗する。
冷たい視線に、胸のどこかが小さく痛んだ。
『よう、きり丸。これからアルバイトか?町でそこそこ稼ぎのいいアルバイト見つけたんだ。今度一緒に行かないか?』
アルバイト募集のチラシを手に笑っていた氷上の姿が脳裏を過って、痛みが増す。
最近あの先輩と一緒にいないね、と乱太郎に言われた時に感じた痛みによく似ていた。
「な、何かぼくにご用っすか?ぼく、これからアルバイトで…」
アルバイト、という言葉に、氷上の口元に浮かべていた笑みが消える。
きり丸、と変わらない冷たさで呼ばれた。
「…ひとりか?」
「え?」
「今日はひとりかって聞いたんだ」
「ひとりですけど…」
今日はって何だ、ときり丸は内心で首をかしげる。
知らぬ間に後退っていたのか、とん、と背中に木の幹が当たった。
「今日は先生や先輩に手伝ってもらわないのか?得意だろう、お前」
「氷上先輩…?」
「いいよなぁ、お前は。何でもかんでも手伝ってもらえて。土井先生だけじゃなくて、まさかあの六年生の先輩方まで手伝せるなんて驚いた。本当にさ」
なんだか雲行きが怪しい、と身構える。
氷上の言葉の端々に険を感じずにはいられなかった。
「なぁ、俺にも教えてくれよ。どうやって取り入ったんだ?」
「取り入る、って…。何の話ですか」
「だってそうだろう。たかだか一年生のお前に、どうして六年生が手を貸すんだよ。それだけじゃない。休みには土井先生のところで世話になって、アルバイトも手伝わせて。そんなの、おかしいだろ…っ!」
表面上は穏やかだった口調が崩れ、苛立ちを隠そうともせずに氷上が言った。
氷上の怒りの原因に行き着いて、きり丸は漸く得心する。氷上の苛立ちの理由はこれだったのかと、唇を噛んだ。
「町でも、学園でも…どこに行っても、“きり丸”、“きり丸”。本当にもううんざりなんだよ!!」
聞いたことのない氷上の大声に、思わず肩が跳ねる。
先輩、と村岡の焦ったような声がした。
「お前、顔だけは綺麗だもんな。そんな小さなナリで、身体でも売ったのか?」
「氷上先輩!」
“身体でも売ったのか”と、そう言われて、理解するのに一瞬かかった。まさか、先輩に——しかも、氷上に。そんな下卑たことを言われるなんて、想像もしていなかった。
「土井先生も、中在家先輩も大したことないな。潮江先輩なんて三禁三禁ってうるさいのに、所詮欲には忠実ってか?七松先輩だって、」
「馬鹿にすんなっ!!!!」
怒りで沸騰した頭のまま、氷上が先輩であることも忘れて叫ぶ。
「なっ」
「土井先生も、先輩たちも、そんな人じゃない…っ!馬鹿にすんじゃねぇ!!そんなクソみたいな言い掛かり、絶対に、絶対に許さない…っ!取り消せよ!」
勢いのまま目の前の氷上に掴みかかった。
不意をつかれた氷上が二、三歩後退して、けれど四年生と一年生の対格差で押し勝てるわけもない。胸倉を掴み上げられて、足が浮いたまま木に押し付けられる。
強かに背中を打って、一瞬息が詰まった。
「お前…っ!」
「氷上先輩…っ!駄目です!落ち着いてください!」
ここで引いて堪るかと嚙みつかんばかりの勢いで、怒りに震える氷上の瞳を真っ直ぐに睨み返す。氷上先輩、と村岡が氷上の腕に縋りつく。氷上の手から逃れようときり丸は身体を捩った。
視界いっぱいに映った氷上の顔はどこからどうみても憤然と怒っていて、けれどどうしてか泣きそうだとも思った。泣きてぇのはこっちだよ、と鼻白む。なのにふと、優しかった頃の氷上が頭を掠めて、頭か心か、どことも知れない場所が鈍く痛んだ。
そのまま互いに睨み合って、いよいよ息が苦しいと思い始めた時。先に目を逸らしたのは氷上の方だった。氷上はきり丸を放り投げるようにして解放する。
「きり丸!」
思い切り咳き込んだきり丸の背を、村岡がさする。
眦から零れた涙が生理的なものなのか、悔しさからくるものなのか、きり丸にもわからなかった。
段々と落ち着いてくる呼吸。村岡に向かって、ありがとうございます、と切れ切れに伝える。村岡は俯いたまま、ただ黙って首を横に振った。
「何してるの?」
突然平淡な声が割り込んできて、きり丸も村岡も、氷上すらもはっとして顔を上げる。
視線の先に居たのは、踏み鋤の踏子を肩に担いだ綾部喜八郎だった。
「…綾部」
「何してるの、ってぼくは聞いたんだけど」
淡々とした声で、喜八郎が氷上に問う。
短く舌打ちをして、氷上は何でもない、と答えた。
「…何でもない、ねぇ。本当かい、きり丸」
じ、と喜八郎がきり丸を見ていた。
喜八郎の丸い瞳を見つめ返して、一瞬逡巡する。何でもないっすと笑った。
「氷上先輩達とアルバイトしようって話をしてたんすけど、結構いい額が出そうなもんで、興奮しちゃって」
むせちゃったんす、とそう言って、右手で銭のポーズを作って見せる。
村岡が眉を寄せて視線を落とした。
相変わらずじっとこちらを見つめてくる喜八郎は訝し気な風でもなく、表情を変えない。
庇ってやる義理などなかった。けれど、さっきの話を喜八郎に聞かせるのも嫌だったし、何より、それが本人たちの耳に入ることだけは何としてでも避けたかった。喜八郎があれこれ吹聴するような性格ではないとわかっていても、あんな話題は口にしたくもないしもう二度と聞きたくない。それに、こういうことをされたと、告げ口めいたことをするのもなんだか格好悪い気がした。
「…ふぅん」
「村岡、行くぞ」
「……」
心配げにこちらを見つめてくる村岡に、大丈夫だという意味を込めて笑う。村岡はそれを見て一瞬ぎゅっと泣きそうな顔をして、氷上の元へ走った。
近づいてくる綾部と、遠ざかる氷上。
一瞬こちらを振り返った氷上と目が合った。
瞳の奥に揺らめく憎悪に気が付いて、怒りよりも先に“悲しい”が胸の端に落ちる。そんな自分に驚いた。
「…————————」
小さく小さく呟かれた言葉がきり丸の耳を掠める。
吐かれた言葉に息を吞んだ。ぐ、と拳に力を込めて握りこむ。
俯きかけたきり丸の頭に、ぽすん、と温かい手が乗った。
「わ、」
「きり丸」
「な、なんすか?」
「大丈夫なの?」
「…何がっすか?」
一体どこから見られていたのか、もしかすると最初から筒抜けだったのかもしれない。けれど、きり丸はすっとぼけてそう聞いた。
じとり、とさっきよりも幾らか読み取りやすくなった表情で、喜八郎はきり丸を見下ろす。
「…お前がそう言うなら、それでいいけど」
どこか呆れたように言って、優しくきり丸の頭を混ぜた。
「…綾部せんぱ、」
「わぁぁぁぁ!」
「うあぁぁぁぁぁ!」
きり丸の声を、突然上がった悲鳴が遮った。やや置いて、どしん、という振動。
「…綾部先輩」
「何だい」
「もしかして…タコ壺掘ってきました?」
「今日は調子が良くてね。とびきり深いのが掘れたんだ。」
Vサインを作る喜八郎に、きり丸は思わず吹き出す。さっきまでの荒れた気持ちが少し和らぐようだった。
「あんまり掘ってると食満先輩に怒られますよ」
そんな忠告も、喜八郎にはどこ吹く風である。
さっそく踏子でざくざくとここらの土の具合を確かめていた。
「それよりきり丸。お前、これからアルバイトなんじゃないのかい」
「あーっ!!!そうだった!綾部先輩、失礼します!」
慌ただしく喜八郎に頭を下げて、きり丸は全速力で裏門へと急ぐ。
きり丸、と呼び止められて、走りながら振り向いた。
「あんまり無理しちゃいけないよ」
きり丸はぱちくりと目を瞬かせる。
なんとなく、喜八郎らしくない台詞だと思った。
相変わらずあまり何を考えているのかわからないような表情で、喜八郎はじっときり丸を見つめている。
綾部喜八郎という先輩は不思議な人だ。何にも頓着しないように見えて、案外面倒見が良かったりもする。何にせよ心配してくれているらしいと悟って、きり丸はにかりと笑顔を返した。
「わかってますよ!今日もきっちり稼いできまーす!」
そのまま背を向けて駆けていったきり丸を見送って、喜八郎は浅くため息を落とす。
喜八郎にとってきり丸は、そう関わりの深い後輩ではない。けれど、どうにも気になる子だった。綾部先輩、と屈託なく笑うきり丸に頼まれると、ついつい二つ返事で頷いてしまう。それが穴掘りでも、そうでなくとも。
彼が戦災孤児であることなど、きっと傍目にはわかるまい。それほどに、逞しく強い子だった。がめつい奴だとか、ドケチもあそこまでいくときついとか、馬鹿にして嘲笑っている輩もいるが、そんなことは気にも留めず、意にも介さず、きり丸はあっけらかんといつだって明るい。
笑っていて欲しいと思う。様々な思いを抱えているであろうあの子が、出来るだけ、泣くことがないように。
甘え上手なようで、本当のところ、きり丸は甘えたり頼ったりすることが苦手な子なのだろうと喜八郎は思う。アルバイトだとか、そういうことに関しては遠慮なく手伝わせたりする癖に、本当に誰かを必要としている時には手を伸ばすことすら躊躇するような、あの子はそういう子だ。
「さて。もうひとつふたつ、ふかーいやつを掘ってやろうかな」
喜八郎は相棒の踏子を労わるようにそっと撫でで、ぽそりと呟いた。
***
裏門へと急ぎながら、きり丸はそっとため息をつく。
(見つかったのが綾部先輩で良かった。)
喜八郎なら、きっと余計なことは言わないだろう。これが伊作先輩や雷蔵先輩あたりだったなら、今頃質問攻めだったに違いない。
(中在家先輩とか食満先輩でも大変だっただろうな…。いやでも六年生の先輩たちは、全部わかって、黙っててくれるかも…?)
兎にも角にも、すんなり解放してもらえて助かったとふと視線を落とす。喜八郎が作ったと思しき仕掛け罠の目印が目について、咄嗟に大きく飛んだ。
そういえばあの二人は大丈夫だろうかと思いかけて、すれ違い様に呟かれた氷上の言葉がきり丸の頭を掠める。
『…——どうしてお前ばっかり』
聞き逃してしまえれば良かった。人よりも良い自分の耳が、今は恨めしい。
(どうしておればっかり、か。)
これは呪いの言葉だ。
あの目を、あの声音を知っている。
どうして自分ばかりがこんな目に遭うのかと、すれ違う幸せそうな親子を見る度に思っていた。寂しい、悲しい、ひもじい。どうして自分ばかり、こんな辛い目に遭わなくてはいけない。どうして。どうして。どうして。
進む度に沈んでいく、底なし沼の中にいた。ぬかるんだ泥に足を取られ、後は沈んでいくだけだった。前なんて向けなかった。後ろばかりを振り返っていた。
『ガキにこんな眼さしてちゃ、イカンよなあ』
死んだような目をした小汚い子供の頭を、乱暴に撫でて。
『なぁ坊主。辛いだろう、苦しいだろう。死んじまいたいだろう。でもな、そうやって下向いて、後ろばっかり振り返ってちゃ見えるもんも見えなくなっちまうぞ』
さあ食え、と握り飯を差し出してくれた人の顔を、もう思い出すことは出来ない。
でも、笑っていたと思う。豪快な笑い方だった。村を焼き出されてから大人にかけてもらった、初めての温度を持った言葉だった。
薄っぺらい同情でも、気まぐれな慰めでもない。まして、罵倒でも暴言でもなかった。辛いだろう、苦しいだろう、と抱える気持ちを面と向かって肯定されたのも初めてで、本当に久しぶりに顔を少しだけ上げた。
他にもぽつぽつと言葉をかけられた気がするけれど、どんな話をしたのかは記憶の彼方で、ただ、そっと背を支えてくれる手が温かかったことだけは覚えている。久方ぶりに人の体温に触れて———寂しいと初めて口にした。死にたいと声に出して、自分は生きたいのだと知った。
『泣け泣け。子供は泣くのが仕事だぞ』
一度泣いてしまえばもう堰を切ったように涙は溢れて止まらなくて、握り飯を食べながらわんわん泣いた。それでいいんだとばしばしと遠慮なく叩いてくる背中が痛くて、余計に涙が止まらなかった。
前を向くのは辛かった。楽しいことなんてひとつもなかった。
でも、その時を境に呪いの言葉を捨てた。どんなに辛くても、生きるために前を向くと決めた。
顔も声も思い出せないあの人は元気だろうかと今でもふと思い出すことがある。
もしも会うことが出来たなら、きちんとお礼を言いたい。
(おっちゃん。おれ、ちゃんと生きてるよ。)
辛いこともある。
悪意や敵意に晒されることは、慣れていたって悲しい。でも、その気持ちの誤魔化し方を自分はちゃんと知っている。
だからまだ大丈夫だと、きり丸は自分に言い聞かせるように呟く。
沈み切っていた気持ちが幾らか上を向いた。
これからアルバイトだと頭を切り替えて、裏門をくぐろうとしたところで———急に現れた“出門表”と書かれたバインダーに遮られた。
「おわっ!」
「きり丸くん!外出するなら出門表にサイン!」
「こ、小松田さん」
眉を吊り上げてぷんぷんと怒る小松田に大した迫力はないが、さすが忍術学園のサイドワインダーと呼ばれるだけのことはある。
いつの間に傍に来ていたのか、全く気が付かなかった。
忍術学園に彼がいる限り、不正に外出することは許されない。正門から出ようが、裏門から出ようが、塀を乗り越えようが、小松田の“外出者には出門表にサインをもらう”という決まりを守ることへの執念を振り切るのは、ほとんど不可能だ。来客も教師も生徒も、きちんと正規の手続きを踏まなければ学園の外に出ることは叶わない。曲者でさえ小松田の追跡には辟易すると言うのだから、大したものである。
不正を働こうとしていたわけではないきり丸は、ごめんなさいと素直に謝って、小松田に外出届を手渡す。
「きり丸くん、今日も外出するの?ここのところ毎日だけど、大丈夫?」
聞かれた言葉に、胸がどこかが小さく軋んだ。
(…大丈夫。)
知らず、筆を握る手に力がこもる。差し出された出門表にサインをして、きり丸はいつものように笑った。
「大丈夫っす!ぼく、稼げる時に稼げる主義なんで。ドケチに暇は厳禁なんすから!」
行ってきます、と小松田に筆を返して門をくぐる。
「きり丸くん!」
小松田の明るい声が背を叩いた。
「気を付けてね!いってらっしゃい」
背を向けたまま、きり丸は何かを堪えるように唇を噛む。
(……大丈夫。大丈夫。おれはまだ大丈夫。)
振り返れば、小松田が笑顔で手を振ってくれていると知っていた。
ぐっと拳を握りしめて、全速力で走る。後ろは振り返らなかった。
***
「きりちゃん、いつもありがとうね。これ今日のお駄賃」
「毎度!またお願いします!」
愛想よく笑顔を返しながら、受け取った小銭を大事に巾着の中に仕舞う。
あわや遅刻するかと大慌てだったが、どうにかこうにか約束の時間には間に合って、アルバイトは恙なく終了した。
予定通りの収入に胸を撫で下ろし、忍術学園の方へ足を向けかけて、きり丸はぴたりと足を止める。
きり丸の頭に蘇るのは、アルバイト中に小耳に挟んだ噂話だった。
『なぁ聞いたか』
『何をだ?』
『あれだよ。戦の話さ』
『あぁ、なんだか旗色が悪いって話だろ。今日だってあの峠を越えた先でやり合ってるって話じゃねぇか』
『ここの殿様は戦好きなお人じゃなかったのになぁ…』
『それはそうだが、そう悠長なことも言ってられねえ。あんまりのんびり構えてると、関所も通れなくなっちまうぞ。ただでさえ、塩やら味噌やら、たっけぇ関銭ふっかけられてんだ。商売もへったくれもあったもんじゃねぇ。監視が厳しくなる前におさらばするが吉ってもんだぜ』
『まあ俺たちみたいなのは、身ひとつありゃあどこでも商売出来らぁな』
うどん屋のアルバイトから犬の散歩のアルバイトを引き受けに行く途中で、通りかかった行商の小間物屋の店先。顔見知りだった二人に、坊主も気を付けろよ、と声をかけられて。
足を止めたまま、きり丸は思案する。
このまま東に行けば忍術学園、西に行けば峠だ。噂話を耳にしたのは申の刻の時分。峠の先の平野まで、ここからならそう時間もかからない。まだ夕暮れには早いし、長居しなければ忍術学園にも遅くなり過ぎない時間に帰りつける。
そこまで考えて、きり丸は西に足を向けて駆け出した。
合戦が終わっていれば少しだけでも戦利品を見繕えるし、終わっていなければそのまま引き返せばいい。合戦の様子によっては、明日以降のバイトの場所も考えなくてはならないのだから、様子見も出来て、どちらにしても無駄にはならない。
銭儲けとなれば、きり丸の足は軽やかで、ぐんぐんと峠を越えていく。
通りがかりの小川で水を汲んで、腰に下げた水筒を満たした。
いつもならそこそこの人通りがある峠は、人っ子ひとり見当たらない。耳を澄ましてみても、鳥の鳴き声と木々のざわめきが聞こえるだけだ。こうも静かだということは、合戦の只中という雰囲気でもなさそうだとひとまず胸を撫で下ろす。
気を付けろよと言ってくれた行商の二人の話は、なかなか信憑性が高そうだときり丸は足を早めた。
忍術学園から少し離れたここら一帯は、元々は穏やかで治安もそう悪くない場所だった。あの二人が言っていた通り、この領地を治める城主は戦好きではない。きり丸はその姿を見たことはないが、偶に臣下の目を盗んで城下に下りてくることもあるらしいと聞いたことがあった。気さくで温厚な方で、戦は出来るだけ避けたいお考えだから安心だと町の誰かも言っていた。
(———なのに。)
のっぴきならない事情があったのか、城同士の諍いは戦になり、とうとう町の近くまで来てしまった。しかも劣勢とくれば、この領内にある町や村はどうなってしまうのか。幼い頃の記憶が蘇りかけて、黙って首を振る。自分には関係のないことだと言い聞かせて、道端で光った小銭に飛びついた。
そのまま行きがけに二枚の小銭を拾い、懐の巾着に収める。なかなか幸先がいい。峠を越え切って、程なくして平野へ辿り着いた。
開けた視界の先を、きり丸はただじっと見据える。
両陣営の兵は引き上げた後らしく、人の気配はもうない。だだっ広い平野に転がるのは死体か、それに近しい者ばかりだった。
充満する独特の臭いに僅かに眉を寄せて、きり丸は歩を進める。
まだ戦う余力のある兵が残っていないとも限らないので、一応周囲にそれとなく気を配りながら、まだ使えそうな具足や腰籠、脚絆など細々したものを拾い集めた。
そこここに転がる物言わぬ亡骸を見つめて、黙って手を合わせる。ごめんな、と一言だけ小さく呟いて、懐を探った。チャリ、と耳に馴染んだ音がきり丸の心をどうにか繋ぎ止める。
「六枚…」
六文銭というのだと、教えてくれたのは誰だっただろう。
(三途の川の渡り賃…。)
父も母も、兄だってきっと持っていなかったに違いない、とこの六文銭を見る度に思う。
自分で銭を稼ぐようになって、六文銭のことを知った。ひとりで村の外に行くことなどまだなかった年頃に村を焼き出され、めちゃくちゃに走ってしまいには気を失った子供に正確な村の場所などわかるはずもなく、縁もゆかりも無い場所に墓と称して石を立てて、こつこつと貯めた六文銭を埋めに行った。村が焼け落ちて、もう何年も経った後だった。もう遅いと知っていて、それでも埋めずにはいられなかった。
きり丸は、手にした六文銭を握りしめる。
気が咎めるだとか、罪悪感だとか、罰当たりだとか、そんな気持ちは疾うの昔に捨てた。
自分が盗らなくても、どうせ誰かが奪うのだ。村人か、盗賊か、落ち武者か。それなら、誰が盗ったって同じことだ。お行儀よくしていたって、銭が空から降ってくるわけでもない。
随分と重くなった懐を抱え、十人目の懐を探る。懐からは薬袋くらいしか出てこず、銭は見当たらなかった。やや不貞腐れた気持ちで、これで最後にするかと立ち上がった時、くぐもった声が耳に届いて思い切り肩が跳ねた。
「っ、」
「…ずを…」
すかさず手を引っ込めて後退する。虚ろな顔の男がうわ言のように呟いた。
「な、なに…?」
「み、ずを…」
どうやら“水を”と言っているらしいと気付いて、きり丸は腰にぶら下げていた水筒に手を伸ばす。相変わらず心臓はドンドコとやかましかったけれど、きり丸の所業を咎めるわけでもなく、ただ水が欲しいと零す男を無視することはできなかった。
「………」
きり丸は恐る恐るそばに寄って、水筒を差し出す。
受け取られないことを不審に思いかけて、手を動かすこともできないのだとはっとした。
男の顔の近くまで移動して、水筒の蓋を開ける。男の視線が動いて、ぼうず、と言ったのがわかった。
僅かに開いた口元に向けて、慎重に水筒を傾ける。
下手くそで、随分と口から零れてしまったけれど、不思議と勿体ないとは思わなかった。
「…あぁ」
ゆっくりと喉仏が上下して、こくり、と喉が鳴る。
うまいなぁ、と男が顔を綻ばせた。
「ほん、とうに、うまいなぁ…。いてぇの、ふき…とん、じまった…」
男はそう言って嬉しそうに笑う。
「ぼうず、ありがとうなぁ…」
細められた眦の端から、涙がひとつぶ滑り落ちた。
「…おっちゃん」
きり丸はただぐっと唇を噛みしめて、笑って逝った男の顔を見つめる。
見ず知らずの男の死を悼んで泣いてやれるほど、自分の情は深くない。けれど、何も感じずにいられる程冷酷にもなれなかった。
旅立ってしまった命が、ただ空しくて、哀しい。この人にもきっと家族がいて、自分のように後に遺された子供がいるのだろうかと、そう思うと苦しかった。
「…お疲れ様でした」
小さく言って、もう一度手を合わせる。手にしていた六文銭を男の手に握らせてやった。
立ち上がって、風呂敷包みを背に負う。
ずしりと身体に伝わる重さは、きっと荷の重みだけではない。
きり丸は黙って峠へと戻る道に進みながら、振り返って平野を一瞥する。
降り立ってきた数羽のカラスがちょこちょこと歩いていた。ここに転がる死体は、明日になる頃にはきっと減っているのだろう。
ガシャガシャと音を立てる戦利品を背負い直す。
日が落ち始めた空は、すっかり橙に染まっていた。平野の向こうの空が血のように赤く見えて、合戦場に似合いの風景だなと嘲笑する。
カァ、カァ、という一際大きなカラスの鳴き声が、まるで責めているようだった。