地底沈 フィガブラ 新作展示『移り香』「……ブラッドリー」
「あ?」
ミスラに呼び止められる。何の用だ。完全に無視すると後がめんどくせえ。一応返事をしながら俺は警戒態勢をとる。ミスラ相手だとお茶会に誘われるのも、突然攻撃されるのも、同じくらいの確率であり得ることだ。
ミスラは無遠慮に俺の肩を掴むと、ぐいと引き寄せ顔を寄せてくる。おいおいおいなんだなんだ。
混乱している俺をよそに、ミスラは俺の首筋に顔をうずめ、すん、と鼻をすする。まるで匂いでもかぐみたいに。皮膚に伝わるミスラの呼吸と、あと少しで触れてしまいそうな人肌の熱を感じて、俺はぶわりと鳥肌を立てる。
「おい! んだよ」
「あなた、いつもと違う匂いがしますね」
獣か。思っても口にはしない。振り払おうともがくも、なぜだか知らないがどうしても気になるようで、全く離そうとしない。まじでなんなんだ。
くん、と鼻を寄せ、何かを思い出そうとうんうん唸っている。一刻も早くこの場から立ち去りたい。
「おい、いい加減にしやがれ。気色悪ぃことやってんじゃねえよ」
「あ、フィガロだ」
「あぁ?」
この場にいない男の名前が突然あがる。脳裏に奴の姿が浮かび、チッ、と一つ舌打ちをこぼす。胸糞悪ぃ。俺を見下ろす目、菱形の奥の感情はいつも読み取ることはできない。北の大魔法使い、フィガロ・ガルシア。俺の身体をいいようにしてきた、憎たらしい男。いつかぶっ殺してやると息巻いて、今日まで殺せずにいる、むかつく野郎。
今度こそミスラの肩をぐい、と押しやり、とんずらこく算段を頭の中で立て始める。
「気のせいじゃねえの?」
「いいえ、絶対にフィガロです。あなたからフィガロの匂いがします。……なんでですか?」
「なんでおめーがフィガロの匂いわかんだよ」
「? 誰でもわかるでしょ」
「はあ? わかんねーよ」
「はぁ。で、なんでフィガロの匂いさせてるんですか?」
「ちげえって言ってんだろ、聞けよ……」
「治療でも受けました?」
「受けるわけねえだろ。殺されてえのか?」
「ちょっと、粋がらないでくださいよ。すり潰したくなるじゃないですか」
時刻は時計の針がてっぺんを回る頃、よく晴れて差す陽も暖かい。極寒なのは魔法舎の廊下、ここだけだ。周りの空気を置き去りにして、俺とミスラは際限なく治安の悪い気配を醸し出している。西のちっこいのが通りかかれば泣いて逃げ出すだろうし、東の兄ちゃんが見たら腰を抜かすに違いない。
「いいですよ、眠くてイライラしてたんです。ちょっと相手してくださいよ。手が滑って殺しちゃうかもしれませんけど」
「おーおー、北のミスラがおねむでばぶってんのかよ。かわいーもんだな」
口が回る回る。さっさとこの場を去ろうと思っていたはずなのに気付けば売り言葉に買い言葉、いつものやつだ。一触即発、今にも互いに魔法を撃ち出しかねない、ピンとした空気。むこうは眠そうに、俺は獲物を狙うように、互いを睨み合う。
「なになに、喧嘩? 廊下でやるのは感心しないなぁ」
「げぇ」
「うわ」
そこに響く緊張感のない声。そして続く、俺とミスラの全力で嫌そうな声。まさに、先ほどの話題に上った人物そのものが、ミスラの背後から現れた。最悪すぎる。ミスラなんざにかまわず、当初の予定通り早いところとんずらこいておきゃよかった。
フィガロはそのにやけたあほ面のままこちらに近付いてくる。そう、ミスラの後ろから、だ。
あ、と思った時にはもう遅かった。フィガロとミスラがすれ違う。ミスラの横を通り過ぎて俺の方へと向かおうとしたフィガロの後ろ首が、ミスラによって無遠慮に引っ張られる。そうしてミスラが今度はフィガロの首元へと鼻を寄せる。
「ぐぇ」
「…………やっぱり」
「何? 喧嘩売ってる?」
「ブラッドリー、やっぱりフィガロですよ」
「はぁ~~~」
「は? 何、話見えないんだけど」
俺とミスラの顔を交互に見ては怪訝な表情を浮かべているフィガロ。それはそうだろう、いきなり首根っこを掴まれて知らぬ話をされれば自然、眉間に皺も寄るというものだ。
俺は話を振られる前に今度こそこの場から立ち去るため、返事もせずにくるりと二人に背を向ける。
「《アルシム》」
「はああ?」
「おい、そろそろ離せって……ぐぇ」
ミスラがフィガロをずるずると引きずってこちらへ近付いてくる。背を向けていたってわかる。俺は足を前に踏み出そうにも、ミスラの魔法によってその場に拘束されているため、身動きが取れない。
「《アドノポテ……むぐっ」
「おいおいおい、今何やろうとしたの。こんなところでやめろってさっき言っただろ」
「ほら、やっぱり俺が合ってました」
「ンンッ!」
一発ぶちかましてやろうと呪文を唱えれば、フィガロが思いっきり口を塞いでくる。殺されてえのか。死ねッ、くそフィガロ。ミスラはミスラで相変わらず人の話を聞きやしない。自分の予想が当たっていたことをどうしても主張したいのだろう。早く飽きてさっさと消えてくれ。
呪文が唱えられるということは、身体が動かなくても口は動くということで。俺は俺の口を塞ぐ憎たらしいその手に、盛大に噛み付いてやる。手加減は無しだ。口加減か?
――ガブッ!
「いッ……た!」
「あはは、ださ」
「……おい、早く解けよ」
「おまえらなぁ……」
俺に噛まれて引っ込められた手。皮膚を食い破って滲んだ血が唇に着く。絶対にこれ以上長居したら俺の不利だ。ミスラの興味がフィガロに、フィガロの疑問がミスラに移っているうちにこの現状から早く抜け出さねばならない。だというのにミスラの馬鹿野郎はこの魔法を解く気がないらしい。もう一回呪文唱えるか?
「いえね、実は……」
「おいミスラ、早く解けって」
「うるさいな俺がまだ喋ってるんですけど」
頭をがしっと鷲掴みにされ、後ろへ引き倒される。おい、おめえ魔法解いてねえんだぞ!
倒れる、と思い衝撃に身構えた身体が、誰かにふわりと抱き留められる。この場にいる“誰か”はミスラかフィガロという最悪の二択しかないわけなのだが。
「おっと」
「なんでしたっけ」
「おいおい、言いかけて忘れましたは勘弁しろよ?」
俺を無視して会話が続いていく。俺の身体はフィガロに抱き留められたようだ。最悪の二択の中でもダメな方を引いたらしい。己の運の悪さに舌打ちしたい気分である。
「ああ、そうだ」
クソ、とうとう言われてしまう。俺は聞く前から口をへの字に曲げてそっぽを向く。絶対にソレを聞いた時のフィガロの表情を見たくない。
「ブラッドリーからあなたの匂いがしたんですよ」
「……ん?」
「それで聞いてみたら違うしか言わないし」
「…………」
「……へぇ?」
「でもやっぱり、あなたの匂いですね」
ミスラが再度すん、と鼻を鳴らす。犬っころじゃねえんだから……なんてことを言う気力もない。頑なにそっぽを向いている俺と、俺の顔を覗き込んでいるフィガロ。視線がうるせえ、死ね。
「ふぅん」
「なんでブラッドリーからあなたの匂いがするんですか?」
「知りたい?」
「はぁ、まあ。気になったから聞いたんですけど。そんなこともわかんないんですか? 意外と馬鹿なんですね、あなた」
「おまえ、もしかしてだけど俺をけなさないと死ぬ呪いにでもかかってる?」
「そんな呪いならかかっても一生死に至らなさそうですね」
「はあ……。ね、ブラッドリー。ミスラに教えてあげようか、なんで俺の匂いがおまえからするのか」
どうせにやにやといやらしい笑みを浮かべているのだ。そんな顔を直視したら腹が立ちすぎてどうにかなっちまう。俺は視線をよそへと逸らしたまま無視を決め込む。
俺を受け止めていた腕が怪しげな動きをし始める。ぞわりと背筋を這い上るのは果たして、危機感か、警戒心か、それとも……。
「ブラッドリーとはね、今朝までこういうことしてたんだ」
「んんん~ッ!」
「うっわ……」
ミスラがガチのマジのドン引きの声を出している。フィガロがミスラに見せつけるように俺にキスしたせいだ。
動けないのをいいことに、フィガロは俺の身体を情熱的に抱きしめる。まるで己の匂いを擦りつけるかのように。殺す、まじで、本当に。
こいつのことだ、口が動くのをわかっていないことはないだろう。ならば遠慮する必要もない。俺の口内を縦横無尽にいたぶっていくその薄めの舌に、俺は思いきり歯を立てる。
「ッ……たぁ」
「あはは、フィガロだっさ」
「次はおまえにしてやろうか?」
「ゲロ吐くんでやめてください」
「そ、そんなに? ひどくない?」
「……いい加減魔法解けや」
「あ、忘れてました」
魔法を解かれた瞬間に、俺はヤツの腕の中から抜け出す。ついでに向う脛も蹴っ飛ばしておく。
「いッ~~~ッ!」
「ださすぎて笑えてきますね」
「ふん、二度と触んじゃねえ」
足を抱えて蹲っている男を冷ややかに見降ろす。涙目でこちらを見上げてくるのを無視して今度こそ俺はその場を去るために歩き出す。
移り香なんて色気のあるもんじゃねえ。ありゃマーキングだ。なにが南の優しいお医者さん魔法使い、だ。北の男のやることでしか無くて、呆れてものも言えない。
怠い身体を引きずって、自分の部屋を目指す。今日は寝る。呪い屋よろしく引きこもるのだ、俺は。
その日の夜、招いていない来訪者が俺の部屋の扉をノックするのは、また別の話。