不壊の血は永遠に燃ゆる ポケモン達を行使し暴れる者達がこの街に現れたと聞いたのは、昼過ぎの事だった。
幸いにもプラズマ団とは違い小規模だったこともあり、居場所などはすぐに特定できた。しかし、小規模ということはそれなりに統率も取れているということ。その上、手練れのトレーナーも数名いるようで、場を押さえてくれているポケモンとトレーナー達は苦戦を強いられているようだった。
駆け付けた先に見たのは、逃げ惑う街の人々と、それを誘導しているある者の姿と、ジムトレーナー達が応戦してくれている様子。そして──転んで逃げ遅れた少女に、暴漢のポケモンが技を放つ瞬間だった。
急いで自らのモンスターボールを投げた。技が少女とポケモンの間まで飛んだ。
モンスターボールからポケモンが出た。少女の体になにかが重なる。
ポケモンが着地した瞬間。ポケモンの技は、少女がいた位置……一人の少年の、背中に当たった。
「カキツバタ!!!」
彼の体は膝から地面に落ち、背中は崩れるように丸まっていく。
少女は必死に押さえ込んでいた恐怖が溢れてしまったのか、悲痛な声で泣き始め、あたりに声が響き渡った。
その時。彼の丸まった背中がぐぐ、と伸ばされる。黒いジャージに印刷されたポケモンの顔が斜めに切り裂かれ、その間から赤い色が滲み広がっていく。それでも彼は笑顔を携え、目の前の少女に笑いかけてみせた。
「っ……、大丈夫、だいじょーぶ。ちょっとぶつかっただけだぜぃ。それより、転んだところは大丈夫かぃ?痛みは?」
「う、う……うん……いたく、ない……」
「そりゃあよかった。ほら、早く逃げな」
「でも……お…おにいちゃんは……?」
「おにいちゃんは、つよーい市長サマが守ってくれるからヘーキ。市長が強いのは知ってるだろぃ?」
「うん……」
「よし。じゃあ、かけっこだ。ちゃーんと足上げて、腕振って、あそこで待ってる母ちゃんの腕ん中に真っ直ぐ走ってけよぅ。振り返ったらダメだぜぃ」
彼が指を指した先にいたのは、逃げる人々の間に立ち、今にも泣きそうな顔をしていた女性だった。
彼の声を聞いた母親は、すぐに地面に膝をつき、手を広げる。
少女もその姿を見るや否や、母親の元へと駆けていった。言われた通り、足をしっかり上げ、腕を振り、一度も振り返らずに。
母親が少女を抱き締めるのを見届けると、痛みに耐えていた体は限界を迎え、もう一度地面に崩れ落ちた。それでも彼は、這いながら重たい手を上げて、母親に手を振り払ってみせる。
母親はそのハンドサインの意図を読み取ると、眉をぐっと寄せ、唇を噛み、頭を下げ、少女を抱えて走り去って行った。
「カキツバタ……!!」
ポケモン達とジムトレーナー達が暴漢共を抑えている間に彼の元へ駆け寄り、背中に手を置く。
決して薄くはないジャージにじっとりと染み込むほどの出血量と、自身の手についた血の多さ。その二つに息を震わせると、彼が、声をこぼした。
「じい……ちゃん……」
「……!カキツバタ。すぐに治療を」
手が空いたトレーナーを呼ぼうとした時だった。
彼が震える手を伸ばし、ネクタイをぐ、と掴んで引っ張ってきた。近付いて、喉の奥から絞り出すように言われた言葉。
「……まけん…なよ……」
そう言って、眉間にしわを寄せ痛みに耐えながら、笑って見せた。
「っ……負けるわけがないだろう。私は市長で、ジムリーダーで……お前の祖父なのだから」
ネクタイを掴む彼の手を握り締めて返せば、安心したように微笑んで、ふっと目を閉じ、手の力が抜けてだらりと下がった。
ネクタイを外して、その手をそっと地面に下ろし、彼の手をもう一度強く握る。
手が空いたジムのベテラントレーナーに彼を託すと、膝に手を置いてゆっくりと立ち上がり、彼に背中を向け、歩み出す。
「覚悟は出来ているのだろうな」
握り締めた拳が、ミシミシと音を鳴らす。怒りは自らのポケモン達に伝染し、怒気が広がっていく。
「竜の財宝に手を出した愚行」
酷く静かな、冷ややかで鋭い怒りが、満ち満ちていく。
腕を捲り、手袋をはめ直し、呼吸を一つ。
「後悔を持って知るがいい」
──刹那。ポケモン達の激昂が轟いた。
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白く長い廊下を足早に進む。部屋のドアの横に書かれた数字が次々と増えていく。
角を曲がった先に、ようやく見覚えのある姿を捉える。廊下に設置されたソファに座っていた男もこちらの姿を捉えると、すぐに立ち上がった。
「市長。ご無事でしたか。あの暴れていた者達は?」
「鎮圧したあとは警察に任せた。おそらく君も後ほど事情聴取を受けることになるだろう。……カキツバタは?」
「こちらの部屋です」
男が指し示したのは、右斜め前の部屋。
ありがとう、と礼を一つ告げると、横開きの重いドアをゆっくりと開けた。
「カキツバタ」
白い部屋に、白いベッド。一定の間隔で鳴る電子音。無機質な銀の棒に吊るされた点滴袋。酸素が供給される薄い音。
それらの中心に、彼は寝そべっていた。
「……じい…」
彼の掠れた声と一緒に、布団がかすかにもぞりと動く。手を動かそうとしていることに気付き、部屋の扉を閉め、すぐに彼の元へ近づいて、床に膝をついた。
「カキツバタ……」
細い管が伸びた布団の中に手を入れ握り締めると、いつもの暖かみは無く、指先は冷え、力も入っていない。初めて見る彼の弱り果てた姿に、不安と心配、そして怯えが頭を埋め尽くす。
そんな感情を察したのか、はたまた顔に出ていたのかはわからない。だが、彼は乾いた短い呼吸をふっと吐き出した。
「……んな…ツラ、すんな…よ……。子ども…どころか……大人、も……にげる…っ……」
「カキツバタ。無理をするな」
言葉を静止し、立ち上がって軽く体を押さえれば、彼は短い呼吸を必死に吐き出し、痛みから逃れようとする。
ベッドの傍に置かれていた簡素な丸椅子に腰を下ろし、手を強く握り締め、視線を落とす。
彼の体に繋がる管は、彼の自由を奪い、安寧を妨げている。それを今すぐにでもどうにかしてやれない自分に腹が立った。こんな事になる前に守ってやれなかった自分が情けなかった。
「……な…。……ほかに……ケガ、した……やつは……」
「いないよ。逃げる際に転んだ者などはいたが、大きなケガをした者は、お前の他にはいなかった」
「そ……よかった……」
「っ……。よく、など……」
握る力に、更に力が加わる。彼の表情がほんの少し歪んだのを見て、すぐに手の力を抜く。それはもはや握るというより、重ね合わせているだけだった。
「…………」
「…………」
彼の目を見ることができない。
自分がもっと早く駆けつけていれば。
自分がもっと強ければ。
自分がもっと傍にいたならば。
彼は、こんなにも辛い思いをせずに済んだかもしれなかったのに。
そんな後悔と罪悪感が、彼への後ろめたさを生み出していく。
「……すまない…」
こんなことを口にしたところで、楽になり救われるのは自分だけだ。そんなことはわかっている。それでも、耐えきれずに溢れてしまった言葉。
それを、彼はしっかりと聞いていた。
「……なあ……じーちゃん……」
重ねていた手が、やんわりと包まれる。力のこもっていない手は、まるで恐怖に怯える子供を宥めるかのように、親指で手の甲を撫でてきた。
「アンタのことだから……どーせ、オイラのこと…守れなかった…って……思ってんだろぃ……」
「…………」
「図星、か……。……でもさ……ちゃんと……守って、くれたろ……」
「守れてなどいない。現に、お前は……」
「守ったんだっての……。オイラのことも……オイラとの…約束も……」
「……!!」
顔を上げる。
彼の上下する胸元から。息を吸い込む喉から。伏せていながらも、力強い眼差しから。目が、離せなくなった。
「でもな……。当たり前、なんだよ……」
深く静かに息を吸い、一つ一つの言葉を丁寧に繋ぐ。
「アンタは…市長で……ジムリーダーで……」
指先の力を感じるほどに、力を込めて握られて。
「オイラの……じいちゃんなんだから」
そう言って笑った顔は、あの時見せた笑顔に、とてもよく似ていた。
「っ……カキ、ツバタ。すまない。私は。私は……」
喉が狭くなり、鼻の奥が詰まり、吐き出す呼吸も声もか細くなっていく。握り返せずにいた手を縋るように強く握りしめれば、それに応えるように、彼の今持つ限りの力で握り返してくれた。
「もう、謝んなよ……。……な」
そんな私を見て、カキツバタは眉を下げ、困ったように笑ってみせる。
彼の笑顔に、言葉に、何度助けられたか。何度勇気をもらったか。何度、救われたことか。
「カキツバタ。……ありがとう」
「ん……」
「本当に感謝しているよ。お前は私の誇りだ」
「……!あ、謝るなとは、言った、けど……褒めろとは…言ってねえだろぃ……」
「ああ、わかっている。私が自らの意思で、心から思ったことを伝えたまでだ」
「余計に……タチが……悪い、っての……」
ハアと吐き出されたため息が、普段聞くものと近いことに安堵する。その時初めて、頬がずっと動いていなかったことに気がついて、思わず頬に触れる。それを誤魔化すように髭を少し撫でて、小さく咳払いをした。
「そういえば……なにか、必要なものはないか?持ってきて欲しいものや買ってきて欲しいものがあれば、遠慮なく言って欲しい」
「あー……じゃあ……着替えと、スマホロトムと……」
言われたものをスマホロトムにひとつ漏らさず書き連ねていく。必需品やいくつかの娯楽品を書き込んだところで、言葉が止まる。呼吸を整えているのかと思ったが、そういった様子でもなさそうだった。
「あと……」
「あと?」
続きを待つが、口を柔く開いては言葉を喉に詰まらせ、口を閉じる。
なにか言いにくいことなのかと、難しい頼み事なのかと聞こうと思ったが、急かしてはなおさら言いにくくなってしまうだろう。黙って待つ事を決めたとき、小さな声が、部屋に落ちた。
「ケガ、治ったらさ……一戦だけで…いいから……バトル……して、くんねえかな……」
そんなささやかな、密やかな、最後の方は小さくなってかき消えてしまった願い事。
「すまない。それは……難しい頼みだ」
「…………あっそ……」
背けられた顔に、かすかに震えた声。言い方が悪く勘違いをさせてしまったことは明白だった。だから、食い気味に言葉を繋げる。
「私もお前も、一戦だけで満足などできないだろう?」
「……!!」
それを聞いた瞬間、伏せていた目がほんの少し見開かれ、驚いた表情を見せる。おそるおそる向けられた不安を宿した心に対して、自らの心意を、今度は言い方に充分気をつけて伝えた。
「体が回復し、医者からの承諾が出れば、すぐにでも休みを取ろう」
「……い、いいの、かよ。市長サマが、そんな……。ジムだって……」
「お前と二人でいる時は、市長でもなく、ジムリーダーでもなく、お前の祖父でありたいのだ」
「………………」
愚直とも呼べるほどまっすぐに伝えた感情は、彼の心にしっかりと届いたようで。
みるみる赤くなっていく頬に手の甲を触れさせると、彼は逃げるように顔を背けてしまった。
「カキツバタ。顔を見せてくれないか」
「うるせえ……クソジジイ……」
「ふふ。……早く治るといいな」
残念ながらこちらを向いてくれはしなかった。しかし、小さな声と小さな頷き。それが返ってきただけで、満足だった。
しっかりと握り繋がれた手の暖かさは、今やどちらのものか分からかった。