とらみみてとら とにかくまずい状況だ。
自室の洗面所の鏡に映る自分の姿を見て夢なら早く醒めてくれと鉄虎は願った。こんなことが現実であってたまるものか。
鏡に映るのは見慣れた自分の顔。視線を上に向けると頭部からひょっこりと出ているのは外側に向いたりしてぴくぴく動く耳。本来ならば顔の横についているはずの耳が頭についているのだ。そして何故か、尾てい骨あたりから尻尾も生えている。丸みを帯びた形状の耳、縞模様の尻尾から予測すると、これらは虎のものだろう。自分の名前の一部の動物であるため愛着のある動物だったけれど、こんな奇妙な現象が起こってしまっては好きな動物だから、などとは言っていられない。頭部に生えた耳、ボトムスからはみ出た尻尾に触れると柔らかい毛の感触に、これが現実なんだと思い知らされる。自分の身体が部分的に獣化してしまった──だなんて一体誰が信じるんだろう。
奇妙な現象には必ず原因がある。難しいことを考えることが苦手な鉄虎だが、その原因には心当たりがあった。
昼間、サークル活動で茨の勉強会に参加したあとのことだ。勉強会のあと、ESビル内の小会議室には同学年の宙と一学年上の夏目が何かきらきらした飴玉のようなものを机に広げていた。このあとの予定もなく、トレーニングルームにでも行こうかとぼんやりと考えていた鉄虎はそのきらきらしたものに興味を示し、『それは何スか?』と聞いてみた。本当に、ただの好奇心。興味本位だった。
『HiHi〜これは魔法のお薬です!』
『そウ。おとぎ話なんかでよく出てくる魔法の薬。でも人を殺したりなんてする魔女の毒林檎のようなものじゃなイ。なりたい自分になれるものだヨ』
『あはは……胡散臭いッスね』
あまりにも現実的ではない回答につい本音をこぼすと、夏目はあやしげに笑って『試してみル?』と宝石のようにきらきら輝く飴玉のような“魔法の薬”をひとつ、鉄虎に差し出した。
『鉄虎ちゃんがなりたい自分をイメージしながらこの魔法の薬を口にするだけで数分後魔法の効果が現われます!』
『あはは……まぁ、そういう謳い文句がさらに怪しいッス』
『信じることは悪いことじゃなイ』
『味は保証します! ちなみに宙はこの黄色の味がおすすめな〜レモン味です!』
『まぁ、ただの飴なら』
『ただの飴じゃなくて魔法だヨ。ほラ、なりたい自分をイメージして……あ、でもキミの場合はそこまで強くイメージしないほうがいいかもしれなイ』
──だってキミ、トラになっちゃったことがあるかラ……──
夏目から貰った飴をコロンと口に放り込むとき、夏目の言葉によって以前いとも簡単に催眠術にかかってしまったことを思い出した。
あのときはたしか、虎になりたいと願ったのだ。強くて威厳のある虎になれば、きっと自分の理想に近づけるのだと。
あのときのことを思い出しながら口の中のレモン味を転がす。ほどよく甘くて酸っぱいレモンの風味が口いっぱいに広がった。
そのあと、手を動かしたりして自分がまだ人間であることを確かめてみた。
『なんもないッスね。実はちょっと心配してたんで……』
『そウ。でも時間を置いて効いてくるかもしれないからネ』
『宙とししょーはこれからお仕事なので鉄虎ちゃんに何かあってもすぐに助けることができません。なので、もし何かあって、そのまじないを解きたいときはあることをしてください!』
『よくある話だから虎の子くんでもわかるかな?』
『え、いや全然わかんないッス』
『それはネ……──』
頬を思い切りつねってみて、これが現実であることを思い知る。こんな状態で外出出来るわけもなく、鉄虎は自分のベッドに潜りこみ、この耳や尻尾が消えることを願うしかなかった。
これが夏目の『魔法の薬』という名のレモン味の飴のせいなら、これを解く方法はひとつ。
でもそれは鉄虎一人で叶うものではなく、かと言って誰かに頼めるようなものでもない。
ベッドの中で悩んでいると、トスッと何かが布団に乗る音がした。この音もベッドの軽い振動も覚えがある。同室の嵐が飼っている猫のにゃんこだ。にゃんこはだんだん鉄虎に近づいて、スンスンとにおいを嗅ぎ、ぴくぴくと動く鉄虎の虎耳を不思議そうに前足でちょんちょんと触れてみる。
「にゃんこ、俺今虎なんスよ……だから遊んでる場合じゃないっていうか……」
数分で虎耳や布団からはみ出る尻尾に飽きたにゃんこはベッドの上に座って全身をグルーミングし始める。全身を綺麗にして満足したにゃんこは、耳をぴくぴく動かして首輪の鈴を鳴らしながら玄関に向かって駆けて行く。
にゃんこが玄関に向かって走る理由はひとつ。嵐の足音が近づいてきたからだ。
まずいと思った鉄虎は布団を頭までしっかりと被る。そして、布団の中で深呼吸をして、嵐が帰ってきて話しかけられてもしっかりと寝たフリをする決心をした。
「ただいま〜。にゃんこお迎えありがとっ」
玄関から嵐の声とにゃんこの甘えた鳴き声が聞こえる。
「鉄虎クンただいま……あら、お疲れなのかしら」
鉄虎のベッドの膨らみに気付いた嵐は、珍しいわねと言って布団にポンポンと触れる。その振動に、動かないように気を付けていた尻尾が布団からはみ出してしまう。
「え?」
揺れ動いて布団を擦る音が聞こえたからか、布団からはみ出る縞模様の尻尾を見たからか、嵐から疑問符が聞こえる。
「鉄虎クン?」
「……」
寝たフリをすると決めた鉄虎は嵐からの呼びかけに、ぎゅっと目を瞑って、ぴくぴく動く丸い耳を手で抑えて聞こえないフリをした。
すると、またベッドの上に再びにゃんこが飛び乗り今度は隙間から布団に入り込み、やわらかい毛が鉄虎の肌をくすぐる。
あまりのくすぐったさに思わず声が漏れたとき、さすがに怪しく思った嵐が「えいっ」と勢いよく布団を剥がした。布団の中にいたにゃんこは虎の尻尾にじゃれついている。
「え?」
「うう……」
「きゃああっ、かわいい! 猫ちゃんかしら?」
「とっ……虎ッスよ! たぶん……」
起き上がって丸い耳を確かめるように頭部に触れる。猫みたいな三角の耳ではない。
「いや〜ん、かわいい! 尻尾の触り心地がにゃんこそっくり。お耳も虎なのね!」
鉄虎の頭部にある柔らかい毛に覆われた丸い耳を撫でて、軽く揉み込むように触れるとどこからか低く響くような音がする。これは、にゃんこが甘えているときによく聞こえる音だ。それが、ベッドにいるにゃんこからではなく鉄虎自身の体から聞こえてくる。
「虎も喉鳴らすのねェ。かわいい! 顎の下は……そういえばこの前催眠かかったときはレオくんに触られるのすごく嫌がってたけど今日は大丈夫なの?」
そう言って嵐は鉄虎の顎の下に手を伸ばして猫を撫でるのと同じように撫でる。すると自分の体の内側が振動するように喉が鳴る。
「〜っ! あんまり触っちゃだめッスよ!」
自分の意思ではないのに喉はゴロゴロ鳴るし、それ以上に心臓の音もうるさい。幸い嵐には喉の音しか聞こえてないようだった。
「やっぱり嫌だったかしら? ごめんね、触り心地が良くてつい」
猫も構いすぎると怒っちゃうものね。と、虎ではなく完全に猫扱い。なりたいものは強くてかっこいい男のなかの男なのに。そういえばあの飴は『なりたい自分になれるもの』と夏目は言っていた。なりたいものはいつだって男のなかの男なのに。
「ていうか、なんでこんな姿になってるんだって驚かないんスか?」
「そうねェ……この前虎になったところ見ちゃったから耳や尻尾が生えてもあまり違和感がないというか……夏目ちゃんが絡んでるのよね?」
「逆先先輩の胡散臭い飴で」
「胡散臭いって。鉄虎クンが純粋だからそういうのかかりやすいってのもあるわよ?」
「うう……元に戻す方法も胡散臭くて」
「わかってるなら試してみればいいじゃない?」
鉄虎は言葉を詰まらせる。嵐ならそう言うと思ったからだ。
「童話の世界だったらキスで呪いから解放されるけど……」
「……っ!」
嵐のその言葉で尻尾の毛が逆立った。
「え、キスなの?」
「き……き、き…………そう、ッスけど」
──真実の愛のキスで元通りだヨ。夏目の言葉を思い出す。
馴染みのない単語を形にするのは気恥ずかしく、誤魔化しながらしどろもどろに答えた。
「あ、でも! ただのキ……すではなくて、」
「あらやだ、どんなすごいキスなの?」
「す、すごいって……違うッス! 逆先先輩は、その……『真実の愛のキス』って言ってて」
そもそも鉄虎には『真実の愛のキス』が何かがわからなかった。
好きなひととするキス?──そもそもキスは好きなひととするものだ。
愛し合う二人がするキス?───それだったら鉄虎にはその相手がいないからこのまじないは解けない。
「素敵ね」
「並んでる言葉だけ見たら素敵かもしれないけど、結構難しくないッスか? 何が真実の愛かもわからないのに」
「じゃあ……運命のひと?」
「それこそ目に見えてわからないッスよ」
「うーん……あ、わかったわ! 好きなひととのキスは?」
きらきら輝かせた瞳が不思議な姿になった鉄虎を映し出す。
好きなひとが運命のひとだったらいいのにね。夢を語るその目に心臓が高鳴って、体がソワソワして、尻尾がピンと上を向いてゆっくりと左右に揺れる。
「でも……こっちが好きでも向こうはどうかわからないのに、キ……スするとか」
「……え、待ってちょうだい! 鉄虎クン好きなひといるの!?」
思わぬ所に存在した恋心を発見した嵐は、さっきよりも目を輝かせてみせる。
「例えばの話ッス!!」
もうこの話は終わらせようと鉄虎は再びベッドに横になり、明日の朝には元に戻っているように祈った。
「にゃんこ聞いた? 鉄虎クンの好きな子いるんだって」
嵐と話している間ずっと鉄虎のベッドで寛いでいたにゃんこを撫でて甘い声で話しかける。にゃんこは嵐の頬のにおいを嗅いで頬を擦りつけ、最後に嵐の唇にちょんと鼻をくっつけた。
その様子を横になりながら眺めていた鉄虎にも歩み寄って、未だに慣れない鉄虎の丸い虎耳のにおいを嗅いでから、嵐にしたのと同じように、冷たい鼻をちょんと鉄虎の唇にくっつけた。
「ふふっ、にゃんこの鼻チューうれしいわよね」
「かわいいッスね」
「でしょぉ? まぁ、明日になったら元に戻ってるわ。ゆっくり寝ましょ」
「そッスね……あれ?」
鉄虎が頭部の虎耳に触れようとしたとき、さっきまであった柔らかい毛に覆われた丸い耳がいつの間にか綺麗に消えていた。
「あら……?」
つかの間の幻影だったかもしれない虎の耳と尻尾。それを解いたらしい『真実の愛のキス』とは一体何だったんだろうか。
(あれ? 今、鳴上先輩と間接……)