太陽の逃走(序) 村外れの安宿は、追われていた身を一息つけるのには最適だった。一番片付いていると言われた座敷に重いトランクを置くと、はあと思わず溜め息が漏れた。
「驚きましたわ、もう夜中ですものねえ。こんな辺鄙なところに観光ですか?なにぶん周りも閑散としてますしねえ、珍しいわあ」
無造作に置いてあった置き物や本を隅に寄せながら、お上さんが口を開いた。すると、彼が茶化すように言葉を返した。
「イヤ、僕たちねえ、実は駆け落ちモンなんですよ」
「あらやだ、ほほほ…あなた、お若いのに大変ねえ」
「ええ、まあ…」
僕は居心地が悪いような気持ちで、彼に背を向けた。視線が注がれているのが分かったけれど、何故か振り向く事ができなかった。
「ゆっくりしてって頂戴ね。お風呂は沸いていますから」
お上さんが出ていくと、僕は勢いよく振り返って彼を見据えた。彼はその様子に動揺しているのか、身体を少し引いている。
「黙太郎君、どうしてあんな事を言ったんです。僕達は追われてるんですよ、あんな風に言うなんて…」
「ああ言うしかなかったんですよ、ああも言わんと…やるせないじゃないですか」
「僕は旅行をしに来たのではありません」
「分かってますよ、僕だって…けどね金田一さん、アンタがどっか、焦って忙しないから…ねえ、どうしてそんな怒っとるんですか?」
「僕は怒ってません。黙太郎君、きみ、先に風呂に入って下さい。僕は後から入ります」
「ちょ…待って下さいよ、どこ行くんですか!危ないですよ、外は…」
「一人にして下さい。後生ですから」
そこまで言うと、もう彼は僕を引き留めなかった。僕は外に出て、真っ暗な星空を見上げた。そして息を深く吸い、迷いを含むように吐いた。いつ追われて殺されるかもしれない身の上で、これ以上贅沢を言うなんて。ずっと、彼と世間から逃げ続けていたいなんて。その方が、自分と向き合わなくて済むから。事件を荒立てて何も出来なかった後ろ暗さから、逃げる事ができるから。
(僕は、狡い)
そう思うと、慕ってくれる彼を裏切っているようで、酷く、心が冷たかった。いっそ僕が居なくなってしまえば、何もかも解決するんだろうか。彼の悲しむ顔が目に浮かぶ。僕は彼のやるせない気持ちが分かる。だからこそ、正面から向き合わなくてはいけない。
それができないのが今の自分だった。僕は耐えかねて、何度とも知れない溜め息を吐いた。