信頼の晩餐 随分薄情だと思った男は、今目の前で歳下の男を困らせていた。
「ほら、憂太、こっち焦げそう」
「ちょっ、火、弱くしてください」
「弱くってどれぐらい?」
「もうっ、ここはいいので、五条さんは座っててください」
「やだ」
ずっと賑やかな会話が響いているのは、キッチンの方からだ。
そんな会話を聞きながら、夏油傑は乙骨憂太が出してくれたコーヒーに口をつける。甘党の五条悟は、自ら進んでコーヒーを飲むことは無い。長く苦学生だったと聞いた乙骨も、コーヒーにこだわる余裕なんてなかっただろう。
それを知っているからこそ、この香りの深いドリップコーヒーは、自分のために用意した物だと分かる。
夏油は今、五条の家に招かれていた。
一人暮らしだったはずの五条が、半ば強引に恋人となったばかりの乙骨と同棲をはじめたのは、つい二週間ほど前のこと。その間、毎日のように不満という名の惚気話を聞かされていた夏油は、二人の状況をある程度理解していた。
——家賃を払うって、憂太がバイトを減らそうとしない
——バイトで就寝時間が違うからと、寝室を分けようとする
——そのくせ、僕が遅くなる時は絶対起きて待ってるんだよね。さっさと寝ればいいのにさ
毎日のように聞かされている話を思い返し、夏油は苦笑を浮かべる。
(全部不満じゃなくて惚気だね。おまけに、せっかくの休日に乙骨が僕を招いたことが気に入らないんだろう)
その証拠に、夏油が五条の家を訪ねてから今の今まで、五条は片時も乙骨から離れようとしない。乙骨が自分を招くと決めたことも、五条にとっては不満だろう。
夏油が五条の家に来たのは、乙骨に招かれたからだ。彼曰く
——夏油さんにも迷惑をかけたので、御礼がしたいです
ということらしい。そこで外食ではなく、乙骨の手料理を振舞うことに決めたのは五条だ。
——傑はどうせ手料理なんか食べる機会ないだろ
と、嫌味なのか気遣いなのか分からない誘いを受けたのは先日のこと。独り暮らしが長い乙骨の手料理が美味しいということは、五条からも散々聞かされていた上、五条と乙骨がどんな生活を送っているのかは正直興味があった。
それもあって夏油は了承したのだが、これは予想以上だったな、と内心ほくそ笑む。
「五条さんもゆっくりしててください。ココア、用意しますから」
「手伝わせてくれないの?」
「五条さん、昨日も帰り遅かったじゃないですか。ゆっくりして欲しいんです」
そう言いながら、乙骨はずっと背中に張り付いている五条に腕を回し、そっと腕を撫でた。
(随分と手懐けられてるみたいだね)
夢でも現実でも一度も見たことない、拗ねたような表情を見せる五条に言葉にならない感情を飲み込むように、夏油は目を背ける。
夏油傑が五条悟と再会したのは、高校一年の時だった。いや、再会というのは不適切だろう。
なぜなら、今の夏油と五条は初対面だったのだ。
だが、何度も何度も繰り返し夢の中で五条に会っており、直接的には知らないはずの五条悟という男に対し、多少の罪悪感と親しみを感じていた。そんな五条から初対面の時に言われた言葉が「変な前髪」なのだ。そんな彼に対して、懐かしさを覚えるのも無理はない。
それと同時に、五条は知らないのだという事実は、どこか夏油を虚しくもさせた。なにせ、これまで誰にも言えずに過ごしていた、呪術だの呪霊だのが出てくる世界の夢の話を共有できる可能性のある相手とはじめて出逢えたのだ。それなのに、五条はなにも覚えていないのだとわかり、多少落胆したことは否定できない。
それでも、なんとなく五条と一緒に行動するようになり、親友とまでは言えないだろうが、友人と呼べる距離感へと徐々に変わっていく中で、夏油は気づいた。彼は、夏油の知る「最強」になる前の五条なのだ。
自分と他人の境界が明確で、自分が特別な存在であることを理解している。
呪術界では六眼と相伝の術式により、生まれながらにして特別であることが当然だったが、この世界においてもその特徴的な容姿により、周囲とは一線を画しているようだった。
そんな五条が大学に進学し、レンタル彼氏などという仕事をはじめると言い出した時は、夏油は驚いた。
あの五条が他人に従い尽くすような仕事を本気で出来るとでも思っているのかと。少なくとも、夢で知った五条にも、ここで改めて出会った五条にも務まるような仕事とは思えなかった。
驚きと好奇心から夏油も同じ仕事をはじめたが、夏油の考えに反し、五条はあっという間に人気トップのレンタル彼氏になった。
単に容姿だけでトップになれる訳ではない。相手の要望に応え、その要求を満たす。その点においても、五条は人気だった。
一度だけ、五条に聞いたことがある。
相手の求めに応じるのが、苦痛になることはないのかと。五条の返答はあっさりしたものだった。
「別に、ルール違反の要求でもない限り、相手も金払ってるんだから当然だろ? そういうサービスなんだから」
それは、夏油の知る五条とは思えない言葉。
「ただ要望通りにすれば満足するんだから、こんな楽なこともないだろ」
そう言って、五条は見事に客の要望に応えるレンタル彼氏としての虚像を作り上げた。それでも、夏油は五条の行動への違和感が消えなかった。
そんな夏油の違和感をさらに強くするように、五条は時間が空けば短い時間であろうとレンタル彼氏の仕事を入れるようになった。まるで、そうすることが己の役目かのように予約を取り、不特定多数の求める姿を作り続け、そうして出会ったのが乙骨憂太だ。
乙骨に出会って五条はまた変わった。
その時、夏油はようやく理解した。五条がレンタル彼氏なんてものをやって多くの人に会い続けていたのは、はじめから彼を探していたのだと。
「とは言え、極端すぎると思うけどね」
ぽつりと呟いた言葉に、五条が眉を寄せて振り返る。
「あ? なんか言ったか?」
「いいや、別になにも」
「すみません、夏油さん。僕が呼んだの時間かかってしまって」
出来立てを食べて欲しい、という配慮からか乙骨は夏油が訪ねてきてからコーヒーを淹れて以降は、ずっとキッチンで料理の仕上げを手際よく行っていた。五条の邪魔がなければ、もっとスムーズに作業が行えていたことだろう。
それでも完成が近いのか、漂う出汁の香りが食欲を誘い、食に対して特別興味のない夏油も、乙骨の手料理が楽しみになってくる。それに、待ち時間の間に見られる五条と乙骨のやり取りも、夏油にとっては興味深い。
気にしなくていい、と夏油が乙骨に声をかけるより早く、五条が乙骨の腰を抱いて言葉を被せる。
「いいんだよ。傑なんて待たせておけば」
話しかけられたのは自分なのに、なぜか五条が乙骨の言葉に応える。
こんなやり取りはすでに何度も繰り返されており、乙骨と直接会話させることさえ嫌なのかと、五条の独占欲の強さは傍から見る分には面白い。
(乙骨は、随分面倒な男に気に入られたね)
五条と乙骨の関係が深くなっていったのは、おそらく夢の中での夏油傑の死後だろう。
そういった意味では、夏油はなぜ五条がこんなにも乙骨に惹かれているのか、本当のところ理解できずにいる。だが、乙骨もまた五条に会わずにいられないほど惹かれていたので、ある意味似合いの二人だと思う。
(前世からの恋、か)
夢で見ていた世界は、何度繰り返し見ても特殊な環境だ。
呪いだ呪霊だなんて常人には見えない化け物の存在、自分を含め大人だけでなく未成年の者も生死をかけて戦う。まるで小説や映画のような話だ。
そんな特殊な環境下だからこそ、心を許し、分かり合える存在が居ることの尊さはなんとなく理解できる。だからこそ五条と乙骨の絆は、現世にまで続いたのだろう。
(……ほんと、薄情だな)
そんな絆を辿ってきたのは、夏油も同じなのだ。
それなのに、自分をきっかけに五条が前世を思い出すことは一切なく、また思い出した今もそのことについて話すこともない。今の五条にとっての夏油の存在は良くて友人、もしくはそれ以下だろう。
とはいえ、夏油にとっての今の五条はどういう存在かと問われても、似たような答えしか出ない。結局は、五条と乙骨の関係が特別なだけで、前世は前世、今は今であることに変わりはないのだ。
そんなことを考えながら二人のやり取りを眺めていると、やがて甘い香りが漂うマグカップを片手に、五条は夏油のいるダイニングテーブルに来た。
「ついに追い出されたのかい?」
「傑と話して来いってさ。別に話すこともないのにね」
招待しておいて随分な言葉だとは思うが、別に今更なので気にすることはない。五条は夏油の向かいに座りマグカップのココアを飲んでいるが、その視線はずっとキッチンにいる乙骨に向けられている。
調理も終わりが近いのか、乙骨は食器やカトラリーを用意し、盛り付けを行っていた。勝手知ったる様子で必要な食器を棚から出す乙骨の姿に、夏油は素直に感心する。
「それにしても、よく僕がここに来ることを許したね」
「ん?」
「独り暮らしの時ならまだしも、乙骨と暮らし始めた家に、悟が他人を入れるのは意外だったよ」
そう言うと、五条は夏油の方に視線を向け、僅かに眉を寄せる。だが、その視線はまたすぐに乙骨に戻り、代わりにぼそりと呟いた。た
「……すげえ顔して、喰ってただろ」
「食う?」
「あっちの頃。あんなもん不味いに決まってるだろ。だけど、あの時は旨い店とか傑の方が詳しかったからね」
「話が見えないんだけど?」
あっちの頃、とはなにを指しているのか。大体、夏油より頻繁にレンタル彼氏の仕事を入れていた五条の方が、店にも詳しいはず。
そう考えて、五条がいつの話をしているのか察する。
「……気づいていたのか」
夢の中での夏油の術式、呪霊操術。呪霊を喰らい、その力を使う術式。
行動を共にすることが多かった五条は、夏油が呪霊を喰う姿を何度も見たことがあるし、「そんなもん、よく喰えるな」って気持ち悪がるような目で見られたこともある。
それと同時に、お菓子をよく持ち歩いていた五条からそれを貰うことも多かったことも思い出した。
「その辺の店で食うより、憂太が作る方が美味いからな」
ただ素直に、自分が美味しいと思うものをお礼として夏油に食べさせたかった。
そしてそれは、今だけでなく前世から続く五条の想いの一部なのだと知り、夏油は堪らず顔を覆う。
「……君は、本当に分かりにくいのか分かりやすいのか」
「どういう意味だよ」
「言葉通りだよ」
そう言いながら顔を上げると、大きな皿を両手に抱えた乙骨が、夏油の前に皿を置く。
鯛を丸々一尾塩釜で焼いたメインの一品と、出汁の香りが広がる茶碗蒸し、野菜の煮浸し、筍の炊き込みご飯にぬか漬け。次々と運ばれてくる料理は見た目も香りもよく、五条が薦めるのも納得だ。「口に合えばいいんですけど」なんて乙骨は緊張した様子だが、そもそも五条は舌も肥えている上に、本当に美味いものにしか美味いと言わない。
礼として受け取るには十分すぎる内容だからこそ、夏油はふっと笑う。
「まあ。この御馳走に免じて、不必要な牽制を受けたことは許してあげるよ」
そう言いながら夏油は目の前のご馳走に手を合わせると、五条の隣に座った乙骨が、きょとんと目を丸めて首を傾ける。
「牽制……? 五条さん、そんなことしたんですか?」
「は? そんなことする必要ないだろ」
「はい?」
二人からの返答に、夏油にも疑問符が浮かぶ。
いや、あれだけ見せつけるように引っ付いて料理をし、一応招かれた客人である自分を放置し、あまつさえ乙骨と直接会話させないような五条の言動。それらが乙骨を自分のものだとアピールするための牽制以外のなんであるのかと、夏油の方が困惑する。
だが、少し考えたあと、乙骨が目を見開き、顔を染めながら頭を下げた。
「あ、あの、すみません。五条さん、家ではいつも、こんな感じなので……」
失礼な態度ですみません、と乙骨が恥ずかしそうに謝罪をする。だが、五条はまだなんのことか分かってない様子だ。
「は? なにがどう牽制したって?」
「あ、あの、だから、五条さんが一緒にキッチンに居たり、その……」
「付き合ってるんだから、これぐらい当たり前でしょ」
開き直ったような物言いに、乙骨の頬が増々赤くなる。
なるほど、つまりは牽制でもなんでもなく、常に家の中では片時も離れず側にいる状態で、牽制などではなくむしろ素を見せていたという話か。
そう理解すると、夏油は耐え切れないとでもいうように吹き出す。
「ははっ。あの悟がまさかこんな風になるなんてね。いや、悟に恋人ができたのなんてはじめてだから、僕が知らないのも当然か」
前世からの絆、なんて優しいものではなく、むしろ重い執着のようなものかもしれない。こんな二人の姿を見れただけでも十分に来た価値はある、と夏油はひとしきり笑うと少し不機嫌になった五条が鼻を鳴らす。
「別に、最初から傑を牽制する必要なんかないだろ。親友なんだから」
その言葉に、夏油は笑うのを止め五条を見た。乙骨はなぜか嬉しそうな笑顔を浮かべ、五条は恥ずかしがるそぶりもなく、尊大に笑う。
「第一、傑以外をこの家に呼ぶわけないだろ。ほら、せっかく憂太が作ったんだから、冷めないうちに全部食えよ」
そう言いながら五条は手を合わせ、誰よりも早く料理に箸を伸ばす。
客人を優先する、なんて五条がするはずがないのだ。
唯我独尊。
それを貫くのみならず、その世界が当然として生きてきた。それが五条悟という存在。
そんな彼から得る「信頼」は、時に誇らしく、時に残酷に、まるで甘い毒がゆっくりと身体を満たしていくことを、彼は知っているだろうか。甘い時は自らを奮い起こす力にもなるが、毒の時は己の無力さを痛感する絶望にさえなる。
そんな絶望に一度は落ちた男。その全てを知った今でも、彼は「親友」と呼ぶのか。
「君を見誤っていたのは、はじめから僕の方だったかもね」
そう誰にも聞こえないように微かな声で呟いてから、夏油も料理に箸を伸ばす。
張りのある白い鯛の身に箸を入れると、ほろりとほぐれるほど柔らかく、口に入れると程よい塩気の昆布の旨味が口いっぱいに広がる。五条が勧めるのも納得の美味しさだ。
(はじめから、分かっていたことだったね)
独占欲剝き出しで特別な恋人。そんな存在の手料理を食べることを許すほど、自分は五条にとって内側に入ることを許されているのだ。
(君を薄情だと思ったことは訂正しよう。僕は、君以上に情に厚い男を他に知らない)
そんな彼を一人遺したことが、前世の記憶を引き継いだ理由なのかもしれない。だが、それももう今日で終わりにする。今ここに居る夏油もまた、五条の親友なのだ。
こうして笑い合い、食事ができる今に感謝を込めて、夏油は三人での食事を楽しんだ。