眠れウィステリア さっきまできれいに晴れていた空から、涙のようにぽろぽろと雨が降る。落葉樹の枯れた枝を点々と飾るだけだったそれは、おもむろに激しさを増していく。冷たい雨に打たれて、壁一面に張られた窓ガラスは曇っていた。
彼女の死後、突然呼び出された関東支部司令局長席の前には、ふたりの男しかいなかった。施設内はしんと静まり返っており、不気味なほどだった。
「……誠に大義であった、橘副官」
かつて彼女の師であった男が静寂を切り裂く。もやのかかっていた頭がうっすらと晴れ、彼に返す言葉を紡ごうともたげる舌を動かす。
「……身に余る、御言葉でございます」
「当分のうちは休暇を取るか?それともあいつの仕事を全て引き継ぐか?……ひとつの組織が壊滅したんだ。また忙しくなる」
「……」
「……まあいい、そこにいる右京とよく話し合うんだな。とにかくあいつの遺した仕事はまだたんまりある。……それ以上に成し遂げたものは多いが、な」
動けないでいる自分の背を叩き、局長室の外へ引っ張り出したのは、珍しく白衣ではなく規定の制服を纏った右京だった。「……あいつがいなくなった以上、隊長は俺かお前かのどちらかになる。……お前は無理せず休んでもいい」一息で吐き出すように言葉を発して、血色の乏しい顔でこちらを見上げる。
「ーー」
右京が何を言ったのか、自分では理解ができなかった。いや、恐らく理解を頭が、心が拒んだのだ。
窓辺に視線を向ける。ごうごうと白い雨が降っていた。
上官の命に従った。国を守った。ただそれだけだった。その結果、愛した女を自らの手で殺めた。
悲しむ心すら過ぎ去ってしまった。それほどに彼女は呆気なく散ってしまった。
月は欠けた。二度と満ちることはない。
彼女はその最期に、国を護ることが自分を救うことだとその震える唇をいびつに歪めて笑ってみせた。
今はもう、その哀しい笑顔すら思い出せない。
大きな黒い傘の下、ぼんやりと明日の仕事について考えてみる。自分が遠隔地からオペレーターとして任務の補佐を務める、誰を?一体誰の補佐をするのか?そのことに気がついて傘の柄を握りしめた。
右京が振り絞るように吐いた『お前は生きてくれ』という言葉を、まるごと呑み込めるほど、まだしたたかになれなかった。
雨はごうごうと、地面を抉る勢いで降り注いでいる。打ちつける雨に傘を持つ手が震えた。おびただしい湿気が肺の中にまで侵入してきて少しむせる。土と水と枯れた植物のさみしい匂いが混じった、重たい湿気だった。
雨の中、誰かの声が聞こえた気がして振り返っても、黒い傘の下から見えるのは白くぼやけた景色だけ。
ごうごうと冬の雨は降る。もう、愛した女の輪郭さえ見えない。