猫 ただの偶然だった。今どきのアパートにしては珍しく、日下部の家の大家はアパートの家賃を振込にしていない。手渡しである。このアパートには(と言っても数室だが)一人暮らしの者が多く、「顔見てないと元気かどうかわかんないからね。親御さんも心配なさるし…」と言って持ってこさせる様にしているのだ。日下部が任務などで立て込んで遅れがちになるから自分だけは振込をさせて欲しいと言っても「遅れても良いから顔を見せて頂戴?」と言ってのらりくらりと躱されているのであった。
そして今日も少しだけ期日より遅れてはいるが、何とか時間の合間を縫って大家の家を訪ねた日下部は、呼び鈴を一度押した。遠くの方から「はーい」と返事は聞こえたが、暫くすると「わぁっっ!」の声がした後、揺れた様な気配と大きな音が聞こえたのである。大家とも長い付き合いだが、聞いたことも無いような声が聞こえて慌てて玄関を開けた。普段は防犯の為に鍵を掛けろと大家に提言をしていた日下部が、あのババア…と毒づくと「邪魔するぞー!」と声を張り上げて大家を探し始めたのであった。色々な部屋を開けては閉めてを繰り返し、とある部屋を開けた日下部が見たものは苦悶な表情をして倒れている大家が居た。自力で立ち上がることが出来なくなった大家を病院へ連れて行き、下された診断結果は骨盤骨折。安静のために大家は入院となったのである。
それから数日後、帰宅した日下部が「狭い部屋だが入ってくれ」と後ろを振り返った。「お邪魔する」と小さい声で断りを入れた男は日車寛見。先の戦いで背中を預けあい、気がつけば互いに好意をいだいていた。だが互いにいい大人であり、青春は遠の昔なのでお互いに何となくで気がついていても、告白など以ての外であった。そんな日車が高専の呪術師として迎えられる事になり、彼の処遇が落ち着くまで誰かが面倒を見ることになったのである。普段なら面倒ごとは御免と自分に回ってこないようにしている日下部。だが今回は適任は俺だろと引き受けていた。その時の周りの反応は驚きが多数と微笑む冥冥がいてなんともムズムズしていたものであった。
「日車、そういや言ってなかったが、先住人がこの部屋にはいる」
「それは…俺が居てもいいのか」
「構わねぇよ。こっちだ」
日車が玄関のドアを閉めたのを確認すると短い廊下を歩いて居間へ続くドアを開いた。その隙間からスルりと抜け出し、日下部を通り抜けると日車に擦り寄って一言鳴いた。
「にぁ」
「……猫」
「お前とコイツ期間限定だが同居してもらう」
「にゃぁ」
よろしくとばかりにもうひと鳴きすると猫は自らリビングへ戻っていったのである。
「この家はペット可なのか?」
「さあな?飼おうと思った事がねえから知らん」
じゃあ何故いる?と疑問の目線を投げかけると頭をガリガリ掻きながら事の顛末を話していく。
「…で、俺が尋ねた時、大家が慌てたらしくって転けちまったらしい。大家にも家族は居るがペットを飼える状況じゃねーのと、何より猫が何故か俺に付いてきちまった。安静してれば1ヶ月ほどで帰って来れるからそれまでこっちで預かるって約束になった…」
「…続けて?」
「尋問みてえだな。まぁ……預かるのもあと半分程度ってところだろうよ」
猫に与える餌は大家の家族から渡されていて、その時に状況を教えて貰っていると話した日下部。彼が話をしている横で、座布団の上に丸くなって寝る姿はどう見てもこの家の猫にしか見えない。ちゃぶ台のような低めのテーブルに向かいあわせで腰掛けて二人と一匹の同居生活を開始しようとしていたのであった。
日車の朝は早い。これは前職の頃から変わらない習慣である。スマホのアラームがなる前に起きてそっと止めていた。日下部の家は台所の水周りの他は、居間と寝室しかないので、寝室は家主である日下部が、居間は日車が布団を敷いて寝ている。日車の動きを察知した猫が朝ごはんを催促しに来たようだ。共同生活をし始めて一週間が経つ頃には、猫は日車の事を「朝ごはんをくれる人間」と認識したようであった。本来なら日下部が餌やりをしていが、呪術師として多忙を極めている今、時間もバラバラで朝起きてこない事も多い。なので日下部の部屋のドアをカリカリと爪を立ててアピールをしていたとは聞いている。
「待ってくれ。今用意しよう」
「にゃぁ」
布団を畳みながら猫に話しかけ、返事を背中に受けながら洗われた猫の食器皿に適量のカリカリを入れるとそっと床に置いた。日車の行動を座って見ていた猫は床に置かれた自分の食事を一度見ると匂いを嗅いで一口食べ始めたのである。水飲み場から容器を持ち上げると、これもまた一度洗って綺麗にした後、ペット用の水を注いで元の位置に戻す。しっかり食べきった後、水飲み場へ移動して水分補給をするのが猫のルーティンである。一息ついた頃に寝室の扉がゆっくりと開いたのであった。
「ふぁ……おはよう日車。助かる」
「おはよう。いや、構わないが。この状況でよく猫を預かろうと思ったな」
「大家の家に通う事を考えたらまだこっちの方がマシなだけだ」
「それなら大家の家族が来れば良いのでは?」
「家族の家からは距離があるらしいぞ」
「そうか……猫が大変だな」
「まぁな」
それから出勤の準備をし始めて動き始めると、猫はふらりと部屋の隅へ移動して丸まりながらそっと二人を眺めているのだった。
そんなある日のこと、日下部は校内で人集りの中心に日車が居るのを発見していた。一瞥するだけでその時は何も思うことは無かったが、任務の為に目的地へ向かう間に少し気持ちが引っかかっているように思う。
……あれは一体なんのための人集りだったんだ…?あの男にしては人との距離が近くなかったか?…
よくよく思い出すと男だろうが女だろうが、分け隔てない態度で一歩引いているはずの日車に、まるで群がるように人がいたように見えていた。当の本人は困った顔でも満更な顔をしている訳でも無いように思えた。連絡を取ろうとスマホを取り出した所で日車からメッセージが来ている事に気がついたのである。
「悪いが今日は急用が入った。帰宅が遅くなる」
「わかった」
猫の世話の為にどちらかが先に帰る、もしくは遅くなるとなった時に連絡を取り合う様になっていた。任務を終えた頃は猫へ意識が向けられてそれ以上に思う事はなかったのである。
無意識に気持ちを焦らせながら、家の扉を開けるとお座りの姿勢で猫が出迎えてくれる。靴を脱いでタタキに上がると「にゃーにゃぁ」と話しながら日下部の歩きを少しだけ邪魔してくる。
「毎回言ってるけどよ…危ねぇぞ」
「にゃあ」
「ご飯すぐやるから、待ってろって」
「にゃー」
ここで座っているから早めに。と餌を置くいつもの場所にスフィンクス座りをして待っている猫。必要な量を計ると愛用の皿に置いて猫の前へと差し出した。引っ込めようとした日下部の手に擦り寄って「にゃーん」と一声鳴く。仕方がねぇなぁと少し撫でれば満足したのか、またいつも様に餌の匂いを嗅いで一口、一口と食べ始めていた。水も入れ替えて猫の夕食が終わると、今度は自分の夕食に取り掛かる事にしたのである。
自分の晩酌を軽めに済ませてのんびりと過ごして入れば自分の夕食を食べ終わった猫が相手をして欲しいのか日下部の体に擦り寄ってアピールをしてきた。あまり構いすぎると何故か怒ってくるので、たまに構うぐらいの頻度にしている。
「にゃうにゃう」
「いてて……なんだぁ?今日はやけに絡んでくるな……」
喉をゴロゴロ鳴らしているから、ご機嫌なのかストレスなのか、はたまた欲求なのか。どれだ?どれだ?と思いながらも耳の後ろやしっぽの付け根を刺激するように優しく撫でた。もう満足かと手を離そうとするとまだだと顔を擦り寄せてくる。一匹と二人で同居する様になって思うことがある。この猫と日車の妙に気の合う。その距離感は絶妙で日下部が置いてけぼりを感じる程である。そんな猫が擦り寄ってくるのだから悪い気はしない。
「お前さんは人を翻弄するのが上手いなぁ」
「にゃぁ」
「マジか」
人の言葉が分かっているかのような返事が返ってきて思わず声を出して笑ってしまう。可愛いヤツめと猫のお気に入りの場所を優しく刺激していく。たまたまなのかもしれないが、猫が持っている雰囲気も相まってほんの少しだけ心の温度が上がっていた。
「で、お前さんはいつまでそこにたってるんた?」
「わかっていたのか」
「……まぁな」
背を向けたまま後ろにいるもう一人の同居人に声を掛けると、日下部が思ったよりも低めの声で返事が返ってきた。日下部に自分の体を擦り付けながら日車の前に行った猫は、今度は君の番ね。と日車の足元に自分の体を擦り付け始めている。猫の動きを見ながら振り返った日下部は擦り寄られてる日車を見て楽しそうに見ていた。
「……それじゃあ、動けねぇな」
「……そうだな。だがもう少ししたら動くぞ」
「にゃん」
猫に話すと返事は返ってきたが動くのを止めなかった。猫一匹だがモテてると思った瞬間に昼間の光景を思い出してきた。
「日車、今日随分モテていたじゃねーか」
「いや?モテた事は無いが?」
「昼間、待機場所でスーツに囲まれてたろ」
「……あぁ、あの事か。あれは補助監督達がどこまでが法に掛からないかを細かく聞いてきた。なので僅かではあるが説明のために今日はこの時間になったんだ」
「弁護士先生も大変ですね」
「……元をつけてくれ」
「律儀なやつだ」
「元、弁護士だからな。おいそろそろお終いだぞ」
足元で遊ばせていた猫を人撫ですると、猫も離れてまた日下部の方へ構えと擦り寄ってくる。猫の名前を呼ぼうとして、呼び名をまだ教えてもらってない事に気付かされた日車。
「そう言えば猫の名前を教えて貰ってないな」
「知ってどうするんだ」
「名前を呼ぶ時に不便だろう?」
「あと少しで大家の所に戻るのにか?」
「名前を知るのは構わないだろう」
知りたいと思うと欲求が収まらないのか、猫の名前を知ろうとする日車に諦めてため息をついた。
「ひろみ」
「っ……何だ急に」
「違ぇよ」
「にぁ」
「この猫の名前はひろみって言うんだよ」
呼ばれたので一声「にゃー」と鳴いた猫のひろみは顔の毛繕いを始めていた。表情が固く何を考えているのか分からないと言われがちな日車だが、この時ばかりは動揺を隠せない。それからもう一声とばかりに日下部が畳み掛けて来た。
「……」
「大家からはひろちゃんって呼ばれてる」
「……そうか」
「にゃん」
ひろちゃんと呼ばれたと思いもう一度猫が返事をして、呼ばれたのでと日下部に擦り寄ると彼も応えて猫が喜びそうな所を撫でていく。その光景を眺めている日車はどこか羨ましい気持ちでいた。
「おい、ひろみ。日車の名前も寛見だぞ。仲間だな」
「急に開き直るな」
「もう隠す必要も無いだろ」
「そもそもなんで隠してたんだ」
「困るでしょーが。「ひろみ」って呼んだらコイツも日車も反応するだろ」
「……っ」
猫の相手をしながら日下部が言い放った言葉は思いの外に突き刺さってきた。
……俺が…?日下部に名前で呼ばれる?実際には猫を呼んで居るのだろうが、猫を呼ぶ度に先程のように刺さるのか……
日車の脳内の中で「ひろみ」と呼ばれた先程の声を再生してしまった。
「日車?」
「っいや、なんでもない」
「ふぅん…寛見?」
「にゃあ」
「うるさい」と叫びたくなる気持ちがあったが、猫を見て口をグッと抑えてつつ「名前で呼ぶな…」と声を絞り出した。嬉しそうに笑う目の前の男が少々…いやかなり厄介である。猫が驚かないように静かに立ち上がると、洗面所の方へ移動し始めた。
「おい、寛見?どこへ行くんだ?」
「人で遊ぶのもいい加減にしてくれ。止めないなら今からお前の事「篤也」って呼ぶぞ」
声色に楽しそうな音が混じって聞こえてくる。苦し紛れに返した言葉に「へぇ…」と先程とは真逆の雰囲気が流れてきた。洗面所まで追いかけてきた日下部は洗面台の鏡越しに見つめてきている。日車の視線を集めるようにゆっくりと耳元まで近づいて猫にも聞こえない、息を吐くように名を読んだ。
「寛見」
「…っ篤也」
負けてなるものかと奥歯をかみ締めながら日車も名前を呼ぶ。鏡越しに合う目を逸らしたら、何故か分からないが負けな気がする。そんな発想になりながら言い続けると、今度は直接目を見て名前を呼んできた。そのまま顔が近づいて…
「にゃーーーー」
猫の仲介にハッとした二人は慌てて距離をとり、背中を向けあった。洗面所の入口に猫がやってくると、「そろそろ時間です。寝ますよ」と布団へのお誘いにやって来たようである。
「……そろそろ寝る」
「あぁ、俺も風呂に入ったら寝る」
「……あぁ…じゃ」
「あぁ……では」
ぎこちない二人を他所に二人におやすみと挨拶をする猫一匹。
「にゃん」