一体感にはまだ遠い『け、ーーーしゃん、お支はりゃ…』
『では…次の機会の時はーーーーが払ってください』
『それは払うちもりがないひとがぁいうんでふ!ずるぅいんでふよ〜!』
『仕方ありませんね…十一月に入ったら直ぐに行きましょう…』
『ふふ…いいれすね!絶対ですよぉ?』
『ええ…しかし今日は随分酔いが回ってますね。しっかりしてください』
『すみましぇん…楽しくて!』
『私も楽しいですよーーー…』
家の電話が鳴っている。うたた寝をしていた伊地知は慌てて受話器をとる。
「はぃ…もしもし伊地知です」
「げとうさんのお宅では無かったでしょうか?」
珍しい苗字だなと思ったのがコンマ三秒、違い電話だと理解したのがコンマ五秒。
「いえ、違います」
「申し訳ありません…すみませんが確認のために電話番号の確認をさせて頂いても?」
「…えっと…そちらが言ってくださるなら」
「私がかけたのは○○-○○○○-○○○○にですね」
「下一桁が違いますね」
「そうでしたか…大変失礼しました」
「いいえ」
相手が「では」と言うと受話器を置いた音がした。それを確認してから伊地知も受話器を置いたのだった。名前を名乗ってしまったがまぁ良いか…多分だが関わることの無い人なのだろう…そう思って直ぐに記憶の隅へ仕舞われてた。そして電話に出る前に見た夢の記憶も忘れていたのだった…
伊地知が入社以来色々なことを教えてくれていた先輩が転職することになり伊地知が引き継ぐことになった。今日は最後の挨拶回りで朝からあちらこちらに先輩と一緒に挨拶回りに来ている。中小もしくは零細と言われる企業があったがどれも先輩の人柄に引き寄せられるように笑顔が溢れる素敵な会社ばかりだった。そして最後に訪れたのは挨拶回りをした中で一番大きな企業。ここと取引するのか…会社同士との繋がりだが自分で途切れる訳にはいかない。気を引き締めると先輩と社屋へ入った。
受付が終わると入社許可証を貰いぶら下げ、エレベーターに入ると上に着くまでの数分間に先輩から窓口に立つのは「げとう」という人物と「ななみ」という人物。二人とも第一印象に惑わされないようにと釘をさされる。一体どんな人なのだろうか…不安と戸惑いの中エレベーターの扉は開いた。
「次回からですが私の後を引き継ぎます。伊地知といいます」
先輩に紹介されてキッチリとしたお辞儀をする。
「伊地知と申します。どうぞよろしくお願い致します」
顔をあげると大柄な男性が二人。一人は黒髪でもう一人は金髪。黒髪の方が夏油、金髪の方が七海という。二人の表情が僅かに変わったような気がしたが自分が緊張しているから勘違いなのかもしれないと営業スマイルでやり過ごし先輩の後ろでやり取りを見ていた。
四人で話をしながら粗方の引き継ぎやこれから進めていくプロジェクトの詳細などを再度確認する形で話が進んでいき、キリのいいところで今日はもうこれで…といっておひらきに。先輩と伊地知は会社を後にしたのだった。
色々なところに挨拶回りに出るという事で二人とも直帰にしていたので順調に顔合わせが終わって一息つこうと賑わっている居酒屋に入る。2人並んで席につき出されたおしぼりで手を拭いて、ようやく緊張から開放されたような気がする。適当なおつまみとビールで乾杯した。
「伊地知のことだから!俺よりいい成績取るんじゃないかと期待しているぞ!」
あれから一時間後、アルコールがまわったのか赤い顔をさせて伊地知の背中をバンバン叩いてくる。あれからビール、焼酎と先輩は飲み進めて既に出来上がっている。…もうそろそろおひらきにした方がいいかとジョッキに残っているビールを流し込む。先輩のスマホから着信音が…画面を見た先輩が「すまん、席を外す」と言うとふらりと席を立った。先輩を待っている間に残っていた冷めてしまったツマミを食べていた。今日直帰をしてしまったので明日の仕事のスケジューリングを立て直しをしていると「失礼」と後ろから声をかけられる。振り向くと数時間前に会った七海が立っていた。思わず立ち上がって挨拶をしようとすると手をかざされそのままでと行動を制された。
「おひとりですか?」
周りがうるさいからか少しだけ伊地知に顔を近づけて話しかけてくる。伊地知もそれに答えようと七海の耳元に話しかけた。
「いえ、連れはいるんですが席を外してまして…」
「…そうですか…帰ってくるまで座っても?」
「えっと…どうぞ」
「ありがとう」
先輩がいた席に座られると体つきが違うのか圧迫感が凄い。でもどうして自分に声をかけて横に座っているのか理解できなかった。
「何か頼まれますか?」
「あぁ…すみません。では…ハイボールを…」
店員を呼び止め「ハイボールを二つ。あと…」と何品か注文する。それを横目に自分のスマホが鳴っていたのでそっと開くと先輩からメッセージが
(すまん!家に帰る。支払いは明日するから払っておいてくれ)
(お疲れ様です。分かりました。)
そっと返すと七海がこちらを見ていた。
「何かありましたか?」
「い、いえ…ツレがそのまま帰ったようで…」
「そうでしたか…このままここにいても?」
少し戸惑ったが、今後の付き合いもあるだろうという社会的考慮が頭をよぎり「どうぞ」と微笑んで返事をする。すると少しだけ柔らかくなった表情で「良かった。ありがとう」と返されるものだから伊地知はなんだか胸の辺りが締め付けられるような感覚になった。「ハイボールになりまーす!」と目の前に置かれた酒と食べ物。グラスを傾けられカチンと音をさせた。
「「乾杯」」
一口流し込むとアルコールがゆっくりと広がっていく。これから仕事の話でもするのかと思いきや当たり障りの無い話題から始まり、気がつくと自分の事を話すようになっていた。始めは1杯だけのつもりだったが何杯飲んでも顔色が変わらない七海につられて酔いが深くなっていく。伊地知の酔いを見た七海が「そろそろ店を出ましょうか」と促され二人で店を出た。
「な、七海さん…?あの…お会計…」
支払っていない事に気がついて慌てて財布を出そうとしたがやんわりと断られる。
「いえ、私が無理に相席してもらいましたから」
「無理だなんて…そんなことありません…!」
「どうしてもと仰るなら今度食事にでも行った時、私に奢ってください」
「それは…払う気がない人の言うセリフなんですよ…狡くないですか…?」
酔いがまわっていたとはいえ、随分と失礼な言い回しをしてしまった!一緒に肩を並べて歩いていたのに七海の足が止まる。言葉の選択肢を間違えたのだけはわかった伊地知だがゆっくりと七海の方を見上げた。
「『仕方ありませんね…来月になったら行きましょう』」
聞いたことのあるような言葉。そして今日初めて会ったはずなのになぜこの人はこんな愛しそうな目で自分を見つめているのだろう…何より驚いたのは自分自身が言った次の言葉。
「『いいですね…絶対にですよ』…っえ?はっ?あの!なんで!?あ、すみません!その!」
「伊地知君、落ち着いてください」
「いやでも、七海さんになんて言い方を…」
「大丈夫です。何も問題はありませんよ…伊地知君?どうかしましたか?!伊ち…」
七海の言葉が耳に入ってこない…フラッシュバックなのか伊地知の目の前でベージュのスーツを着ている七海がいる。先程まで飲んでいた七海は紺色のスーツなのに…
「伊地知君、終わりました」
どこか山の中から出てきた七海。
「伊地知君、ご飯でも一緒にいかがですか」
木造の室内で見下ろしている七海。
「伊地知君、お話したい事があります」
自分の手を捕まえて真剣な顔で見つめる七海。
「伊地知君、君の事が好きです」
真剣な表情で気持ちを伝えてくる七海…
「伊地知君ー」「伊地知君…」「伊地知君!」
色んな七海の表情が頭に浮かんでは消えていく。これはとても大事なことなのでは無いだろうか…こんなにも自分の胸を締め付けて早くスッキリさせろと頭の中で自分にガンガンと訴えてくるもの…待って欲しい…急に言われても…誰に…?私は何に言い訳をしている?分からない…でも苦しい…
「伊地知君!」
気がつけば道を逸れてビルとビルの間の路地裏へ連れてこられていた伊地知。両肩に手を置かれ必死になって自分に呼びかけている七海。…あぁ…そうだ…私は思い出す?これは誰のなんの記憶だ?私の記憶…?言いたいこと、聞きたいことは沢山あったが言葉が纏まらない…伊地知は両肩に置かれている七海の手を握り返しながら
「な…なみさん…なんで…どうして…」
「伊地知君…」
「あの時…私は…どうしてあんな…約束を貴方に…呪いを…」
「大丈夫です…あれは呪いになっていません」
「呪いに…なっていない…?え…七海さん?」
「はい」
「え?なんで…?これは私の記憶…では?」
「そうですね…それと私の記憶でもあります」
「え?あっ…七海さん…?」
七海さんの記憶でもある?あのベージュのスーツの七海さんは目の前の七海さん…
堰き止めていた水溜りに隙間ができてそこからチョロチョロと流れ出し、やがて大量に流出する様に伊地知の記憶が溢れ出してくる。
「伊地知君、気分の方は大丈夫ですか?」
「…まだ…混乱しています…」
「分かります。私もそうでした…」
「そうですか…あの…すみません」
「はい」
「自分で握っておいて言うのもなんですが…手を…」
伊地知の手はもう七海手を握ってはいないが七海の手は相変わらず伊地知の肩にある。記憶が、前世と言っていいのだろうかその記憶が思い出されたからと言って今はまだ何も関係性のない…今日「はじめまして」と挨拶をした間柄だ。距離が近すぎないか…落ち着きがなくなり逃げ出したくなる。
「嫌です。今この手を離すと君は逃げます」
「……逃げません…」
「分かりました…ではゆっくり落ち着いて話が出来る場所へ移動しましょう」
伊地知の答えを聞かないまま手を掴まれて大きめの道路にでていく。通りかかったタクシーを捕まえると押し込められた。連れてこられたのはマンションここが何処か察してはいたが聞かずにはいられない。
「七海さん…ここは…?」
「私の家です」
やはり…だがホテルよりはマシだろうか…いやホテルって何を考えているんだ自分は…七海は伊地知の手を離さないまま建物の中へ入っていく。
「…伊地知君。少し前に間違い電話がかかってきませんでしたか?」
歩きながら問いかけてきた七海の言葉に戸惑いながら答える。
「え…っと…はい…ありましたね」
「確認しますがどんな間違い電話でしたか?」
うたた寝をしていて慌てて起きたので記憶が曖昧な事を伝えて「げとうという人の電話に掛けたこと」「相手が番号の確認をしてきたが自分の家の番号は伝えなかったこと」を話した。それを聞いた七海は「やはり」と言いながら自分の家の玄関の扉を開けて入るように促してきた。
「…お邪魔します…」
「伊地知君。いらっしゃい」
少し躊躇はしたが入る以外の選択肢は伊地知には残されていない。自分がこうと決めた事は通してくる。そんな所は前と変わらないのかと懐かしくも思った。ほんの少し警戒をしながら玄関に入りリビングへ通される。テーブルの椅子を引きながら座るように促された。
「会社で話をした時一緒にいた上司…夏油と言いますが、私はあの人の自宅に電話をしたんです。すると間違い電話をしてしまいました。どうやら相手は寝ぼけていたみたいで自分の苗字を名乗ってました」
「…それって…」
「私はその方の名前に覚えがあったので…いや産まれる前から探し求めていたお名前でしたから、電話を切ってから自分が使えるものは全て使って特定させてもらいました」
変な方向に話が持っていかれているような気がする…
「あの…七海さん!」
「はい」
「言っておきたいことがあります!」
「なんでしょう?」
「…えっと…その…」
「はい…」
「前世に囚われすぎていませんか?」
「と言うと?」
先程までの雰囲気はなくなり七海の周りが冷たく重く感じながら俯いてしまったが思い切って言葉に出す。
「その…前世が恋人だったとしても…今は今日初めて会ったんです。あの頃の私じゃありません…」
「…それは…君が今進行形でどなたかとお付き合いしていると?」
「違いますよ!!学生の頃から知り合ってお付き合い出来たのはほんのわずかな時間でしたけど…七海さんが…亡くなることで…1度幕を閉じたはずです」
「…はい」
「私は…同じ名前ですが、伊地知潔高は別の人間です。記憶が戻ったとしても…呪力の無い世の中で生きている普通の…ただの人間なんです。なので…今日初めてお会いした人とこうやって自宅に上がるのもおかしい話なんですが…その…」
「要するに今は君が私と付き合ってくれと言われても断るという事で合っていますか?」
「そう…いう…ことになり…ます」
言い切った言葉は元に戻らない。これで七海さんの心象が悪くなったとしても仕方がない…覚悟を決めよう…と顔をあげると七海は読み取れない表情でこちらを見てきた。
「なるほど…では君をその気にさせれば良い訳ですね…?」
「…はい?!」
「先程から聞いていると君の言い分は前世の伊地知潔高ではなく今の伊地知潔高を見てくれないとお付き合い出来ませんと受け止めましたが違ってますか?」
「…いいえ…」
「では簡単です。私が君をもう一度惚れさせれば良いだけです」
自信満々に七海が言うものだから呆れて伊地知の呟きが口から出てしまった。
「何言ってんだ…?」
「ふふふっ…それが今の君の素の顔ですか?」
「んっ!うるさいです!」
クスクスと笑った後でテーブル越しに顔を近づけながら七海が提案してきた。
「一つ…伊地知君にお願いがあります」
「…なんでしょう?」
「早めに食事に行きましょう…もちろん君の奢りで」
パズルのピースが埋まるように一つ互いの心が満たされる不思議な感覚に触れた。緩みそうな顔を引き締めながら七海の顔を元に戻そうとする。
「…約束を守って頂けるようで何よりです…七海さん…」