濡れ髪の君と甘い私 夜の帳が降りて、賑やかな本丸が次第に静かになっていく頃
お風呂を終えて、漸く審神者の責務から解放される自由時間。
寝室も兼ねた自室で昔読んでいた雑誌を手に取って、なんとなくページを捲っていた。特にやることもないけれどなんとなく眠るには惜しく感じて、穏やかなひとり時間を満喫していた。雑誌には最近万屋近くにできた喫茶店の情報が出ている。明日は休みだから誰か誘っていくのもありかなーなんて考えが浮かぶ。
そんなとき、遠くから段々近づいてくる軽快な足音が聞こえてくる。それが聞き馴染んだ足音だと気づいて雑誌から顔を上げたとほぼ同時に、目の前の障子が勢いよく開いた。
「主、起きてっか!」
開いた障子の間には、主の部屋であるということや夜間であることへの遠慮を一切無視したことを何とも思っていないであろう豊前江が笑顔で立っていた。首にタオルをかけて、Tシャツにスエットというラフさから恐らく湯上り直後、そのままこちらへやってきたらしいことは見て取れた。部屋の灯りはついていることは気づいていただろうから寝てるとは思っていなかったにしても、もし就寝前だったらどうするつもりだったのだろうと僅かに眉を顰めてしまう。
「豊前、せめてノックくらいしようね」
「え?…あぁ忘れてた!わりぃな!」
「いやもういいんだけど」
悪びれる様子もなく笑う豊前江を見ていると気にしても仕方ないような気がして、ふうと息を吐いた。彼のこの無遠慮さは今に始まったことではない。
「何か用?」
「用がねぇと来ちゃだめなんか?」
「ダメじゃないけど」
「だよな!」
そう勝手に納得すると部屋の中へと入ってきた。後ろ手で障子を閉めて、まるでそこが自分の定位置であるかのように私の隣へ腰を下ろした。一応就寝前の女性の部屋なので配慮は…となんてことを言ったところでこの刀剣男士には通じない。そもそも拒否されるとも思っていないのだろう。その遠慮の無さに慣れてしまったせいで、時折「距離感がおかしい」と言われる始末。
現に今も隣に座った豊前江は肩が触れ合うような距離にこちらを見つめながら笑みを浮かべている。
「何読んでんだ?」
「雑誌だけど」
「お、これうまそうだな。今度食いに行くか?」
「え、あぁこれ?」
「他には…と、こっちの店も良さそうちゃね。主こういう小物好きだろ?」
そう雑誌を覗き込みながら豊前江が勝手にページを捲っていく。肩に触れあいそうな距離は完全に触れ合う距離へとなり、耳元に近い場所で響く豊前江の声にドギマギしてしまう。なんとなく恥ずかしくなって少し身体をずらそうとするけど、それを察していたのか、いつの間にか腰に手が添えられていて動けなくなっていた。気づくといつも先回りされて逃げられなくされている。そしてそれをこの刀は無意識でやっているから手に負えない。一応豊前江とは恋仲ではあるけれど、特に触れ合うことに遠慮がなくなってからはこの調子なのでいつも私ばかりが振り回されていた。
現に豊前江の体温にドキドキしている私に気づくこともなく、豊前江は私の持っている雑誌を勝手にペラペラ捲っている。気にしてはいけない、いつものことと冷静を装うとするけれど、不意に腰に触れた手に力を込められてあっけなく敗れてしまう。
意識が浮ついて、豊前江の捲る雑誌の情報が一切頭に入ってこない中、ふと頬に冷たいものが触れた。不思議に思って豊前江の方を見ると、髪がまだしっとりと濡れている。
「豊前、もしかして髪乾かしてないの?」
こちらの言葉をページを捲る豊前江の手が止まる。そして彼にしては珍しく、こちらの問いかけにわずかに言葉を言い淀んでいる。
「え、あぁ、まぁ…一応拭いたぜ?」
「全然乾いてないよ。風邪ひくよ?」
「そんな柔じゃねぇし」
「そういう問題じゃないんだけど…ドライヤー貸すから乾かしなよ。えぇと」
雑誌を傍らに置いて、豊前江からわずかに身体を離し、身支度用の道具が入っている引き出しに手を伸ばす。中から一人用の小さなドライヤーを取り出して、豊前江の方へ向けた。けれどどういうわけか豊前江はそれを受け取ろうとしない。そんな彼に首を傾げる。
「こんなん、ほっときゃ乾くって」
「私が気になっちゃうの。はい」
「…それ、あんま好きじゃねぇんだ」
「ドライヤー苦手なの?」
「なんか変な音すんだろ?」
「暖かい風が出るだけだよ?」
「それが合わねぇんだよな」
「えぇ…」
確かに豊前江は髪が短いから無理に乾かさずに済むのかもしれないけど、なんでもうまくこなしそうな彼にも苦手なものがあることが少し意外だった。
「…じゃあやってあげようか?」
「え?」
「髪、乾かしてあげようか?音が嫌なら耳塞いでてもいいから」
このままにしておくと本当に乾くまで放置しそうなので、代わりに乾かしてあげることにした。家電に弱い刀剣男士は少なくないので、こういったことには慣れている。ドライヤーのコンセントを差し、豊前江の正面に座る。本当は後ろからの方がやりやすいのだが、線の長さ的に回れなさそうなので諦めた。それから膝立ちの状態になって、豊前江の髪に手を伸ばした。思った以上に濡れていて、ただ拭き取っただけでこちらへやってきたことがよくわかる。
「はい、いくよ」
「ホントにやんのか?」
「うん」
「じゃ、代わりに主を抱きしめていいか?」
「そんなに嫌なの?まぁいいけど」
短刀でもそんなに嫌がる子はいなかったように思うけど、目の前の豊前江は本当に嫌そうな顔をしているので仕方なく触れ合うことを了承した。その返答に気をよくしたようで、嬉しそうに豊前江が抱き着いてくる。丁度胸の位置に豊前江の顔が来るから、恥ずかしくはあるんだけど乾かす間だけは耐えようと自分に言い聞かせることにした。でも少し擽ったい。
ドライヤーのスイッチを入れる音に一瞬ビクッと豊前江の身体が強張る。安心させるように髪を撫でながら、熱くならないように遠くから温風を当てて髪を乾かし始めた。サラサラと短い黒髪は指に絡むことなく解けていく。刀剣男士は付喪神だからなのか髪も肌も綺麗で少し羨ましくなる。
「熱くない?」
「んー」
「ちょっ、そんな抱き着いたらやりにくいから」
「んー」
「すぐ終わるから待ってて」
やたらと抱き着いてくるから動きにくさはあったが、どうにか髪を乾かし終えた。最後に軽く冷風を当ててドライヤーの電源を切った。多少乱れてしまった髪にさっと手櫛をかけて元に戻す。
「はい、おわり。そろそろ離し」
「やだ」
「え?」
「もうちょいこのまま」
「えぇ…」
胸元に顔を埋めたまま、すり寄って甘えてくる豊前江が擽ったくて戸惑ってしまう。豊前江はいつもは甘やかそうとしてくる方だけど、こう急に甘えてこられると調子が狂う。とはいえやたら嬉しそうにしているから引き離すのもなんとなく忍びなくて、仕方ないと髪を撫でてあげることにした。普段頼りがいのある人が急に甘えてくるのって、そのギャップについ心が揺らいでしまいがちだ。豊前江に対しては甘すぎ!と初期刀の声が聞こえてくるようだ。
「主に撫でられんのって、心地いいんだな」
「そう?」
「もっと撫でて」
「いいけど…今日すごい甘えてくるね?」
「たまにはいいだろ?」
「まぁ、かわいいし」
「可愛い俺もいいんだろ」
「自分でいう…なんかくすぐったいけどまぁ」
「…ほうと甘いけね」
「へ?」
「なぁ主」
ふっとこちらを見上げた豊前江の瞳が、無邪気に甘えてきたときのものと変わってギラついたものが見えて一瞬身が竦む。背中に回された手もただ抱きしめるものから、意図して肌に触れる手付きに変わっていることに気づいたときはすでに遅かった。ゾクリと背中が震える感覚に身体の力が抜けていく、撫でる手付きに身体の力が抜けたのを見計らったかのように更に身体を引き寄せられ、首筋に噛みつくように口づけられた。触れる濡れた柔かな感触に上ずった吐息のような声が漏れる。
「いい声」
「豊前、あの」
「もっと聞きてぇな」
「うわっ、ちょっ…っ!」
身体が浮き上がるような感覚がして驚いていると、急に世界が反転する。衝撃に驚いて瞑った瞳を開いた先には甘く蕩けた笑みでこちらを見下ろす豊前江がいて急激に心拍数が上がっていく。布団の上に押し倒されたのだと気づいた頃には手にはしっかり豊前江の指が絡んで布団に縫い留められていて、戸惑いを口にする自由さえ豊前江に奪われていた。あぁまた彼に負けてしまう、そんな思いが脳裏を過る。
「最初の話に戻すんだけど」
「っ…やっ、ちょっ…」
「本当に用がないと思ったんか?俺はいつだってこうやって触れてぇと思ってんのに」
「っ…ぶぜっ…」
「明日は休みだし、起きれたらさっきの店行くか?…でも主は起きねぇかもな」
浴衣越しに触れられているだけなのに、触れた部分からゆっくりと熱を帯びていくようで息が弾んでいく。そんなこちらの様子を豊前江は楽しんでいるようで、わざとらしく音を立てて肌に口づけた。穏やかな夜が遠ざかり、彼の言う通り眠れない夜が訪れようとしている。先ほどまで無邪気に戯れていたような気がしたのにいつからこうなったんだろうと疑問符が浮かぶが、吐息さえ奪うように唇を奪われてすべて吹き飛んでいった。
「豊前……」
「ん?」
「せめて、明かりは…消して」
「…しょうがねぇな」
蕩けかけた理性を必死にかき集めてそれだけ伝えると、豊前江はふっと笑ってテーブルに置かれたリモコンへ手を伸ばした。やがて部屋がゆっくりと暗くなり、視界に見えるのは微かな間接照明に浮かぶ豊前江だけになった。まるで世界にふたりきりになってしまったような錯覚からぼんやりと豊前江を見上げていたら、嬉しそうに微笑まれて優しく口づけられた。
「たくさん愛してやるから、俺の事だけを考えていてくれ」
その言葉に込み上げる愛おしさから彼の名を呼ぼうとしたけれど、にもすぐ唇が奪われてしまって叶わなかった。代わりに降伏を伝えるように背中に手を回し、すべての警戒を解いて豊前江という存在を受け入れた。周りからも彼自身からも甘いと言われるけれど、どうしようもなく込み上げる愛おしさには抗えない。これが惚れた弱みというものかもしれないと諦めて、それ以上考えるのを放棄した。
翌日は当然ながら寝坊してしまい食事をしにいくことは叶わず、貴重な休みを半分寝て過ごすハメなり落ち込む私に「んじゃ次の休みはでえとしような」と隣で屈託なく笑う豊前江に、誰のせいだと怒りをぶつけるように思い切り枕で叩いてやった。そんな怒りすら笑って受け止められてしまうから、本当に勝てないなともう何度目となる諦めのため息をついた。