[へし燭]せわやき その頃、本丸には短刀と打刀しかおらず、部隊編成どころか生活を回すのにも事欠く有り様だった。
したがって、出陣や内番を終えたあとも、出陣の報告をまとめたり今後の予定などを組むために、へし切長谷部の自室には夜更けまで明かりが点っていた。
とはいえ、長谷部も人の身で顕現しているからには、体力に限界もある。連日の夜更かしに、気づけば頭が傾いでいることもしばしばだ。
その夜もびくりと体が動いて居眠りから覚めた長谷部は、背中が暖かいことに気が付いた。手をやると、肩から羽織がかけられている。はて、誰かが気をきかせてくれたのかと思ったが、こんな深夜にこの本丸で起きているのは長谷部くらいだった。
そんなことが二度三度と続いた。
ある夜は、散らかり放題だった報告書の束が綺麗に整頓されていた。
またある夜は、熱々のほうじ茶が茶菓子と共に現れた。
さすがに怪しんで、他の者たちに確認をしたが、誰もその時間に長谷部の部屋を訪れたものはいないという。
一体何者が、何のために長谷部の世話を焼いているのか。
──そう、世話を焼いているのである。
何かの見返りを求められた覚えもなく、ただ遅くまで仕事をしている長谷部に、丁度必要な何かを差し出してくる。
主のため、本丸のために進んで仕事をしている長谷部ではあるが、これだけ忙しくしていれば、体も心も疲れていく。不満はないのだが、猫の手も借りたいくらいだ。そこへ、こうして気遣われるような真似をされれば、何者だかわからないにしても気になるものである。
なんとか姿を見てやろうと思うのだが、ほんの少し目を離した隙に、資料が並べ直され、文机が綺麗に拭かれ、夜食が供されてしまう。つくもとはいえ、神の目を盗むとは天晴れとしか言いようがない。
もはや正体は知れぬものと諦めはじめたある夜、報告書をしたためる長谷部の背後で、微かに衣擦れの音がした。
こいつだ、と長谷部は思った。
きっと振り返れば、『何か』は消えてしまうのだろう。
「──毎度ご苦労なことだな」
長谷部は振り返らず、文字を綴る手元に視線を落としたまま、背後に向けて語りかけた。もちろん応えはない。
しばらくすると長谷部の手は止まり、背後からの衣擦れの音も止まっていた。今宵はもう消えてしまったか、と振り向くと、そこには『手』があった。
正確には両手、それのみである。
出しっぱなしだった洗濯物をつまむ『手』は肘のあたりで透けて消えているが、しっかりと鍛えられた男のものであることは見てとれた。まだらに黒く、皮膚が引き連れたようなところもあった。そして、よく見ればところどころチカチカと金色に光っている。
──どんなやつかと思ったが、まさか手だけ、とは!
思わぬ姿に少々たじろいだ。しかし、長谷部に気付かれたことを察しただろうに、黙々と──口はないので当然である──洗濯物を畳むその手が、何らかの害意を持っているようには思えなかった。
「どんな思惑があるのかは知らんが……まぁ、助かった、のは確かだ」
なんとなく姿勢をただし、シャツを畳み終えた『手』に向かってそう言葉をかけると、『手』は音もさせずに──浮いているので当然である──寄ってきて、身構えるよりも早く、正座をした長谷部の膝を軽く二度ほど叩き、すうっ……と消えた。
そして、その日を境に、姿を見せずに世話を焼く『手』は現れなくなった。
「──俺が姿を見てしまったからかと、思ったんだがなぁ」
珍しく酔っぱらって、首筋まで赤くした長谷部くんはそう言った。
縁側で二人だけの酒盛りをしながら、本丸立ち上げの頃にあった不思議な出来事を語ってくれたのである。
「鶴女房みたいに?」
「鶴──というのは何やらどこぞの白いのみたいでいただけないが、まぁそうだな」
立てた片ひざに頭を預け、並んで座る僕をじっと見ている。
話の流れから、『手』が消えたことを残念がっているのだと思ったのだが、長谷部くんの目は……楽しそうに見えた。
宵闇にぼうっと浮かんだ長谷部くんの顔は、やっぱり柔らかく微笑んでいる。
「ちょうどな、次の日の鍛刀で、我が本丸初の太刀が顕現した」
初の太刀──それは僕のことである。花びら舞う中、主と近侍の長谷部くんに迎えられた日のことはよく覚えている。
「ふぅん。もう少し早かったら、君と一緒に正体を探ってあげられたのにね」
僕がとっくりを揺らしながらそう言うと、長谷部くんは何故か目を見開いて、それから声をあげて笑った。珍しいことに。
「……いや、お前だけにはどうあっても……見つけることは出来んだろうよ」
間に発作のような笑いを挟みながら断言されて、少しカチンときたけれど、あんまり楽しげだったので気をそがれてしまう。
そして長谷部くんは、僕の手からとっくりを奪って脇へ置くと、するりと手袋に指を滑り込ませ、脱がせ始めた。
普段は黒い手袋のしたにひそんでいる炎の痕跡があらわれると、彼は笑みを深くした。
僕の手には融けたはばきの金色が、チカチカ光っている。そこを撫でてから、寄せた唇で彼はこう言った。
「いいんだ──少し気の早い世話焼きは、無事にやってきたからな」