[弟子バロ]コーヒーの用意もなくはない午前七時四五分 自転車の鍵をポケットにねじ込んでカフェの扉を開けると、コーヒーの芳ばしいかおりがした。
近年は紅茶の国にも、美味いコーヒーを出す店が増えてきたという。亜双義自身は、特にコーヒーにも紅茶にもこだわりはない。検事局の向かいにも有名チェーンのカフェがあるため、少し離れたところにあるこの店では職場の人間にあまり遭遇しない……というのが、亜双義にとって利点のひとつだった。
しかし、このカフェには《常連》とも言うべき検事が他にもいるのである。
検事局の大多数の人間が、出勤前の朝食時に顔を合わせたくはないであろう男。亜双義にとっては、越えるべき相手と見定めている検事。
少し古めかしいデザインのスーツを着こなしたバロック・バンジークスは、今日も奥から二番目、壁際の席を陣取っていた。
カウンターで注文しながらちらりと眺めると、彼はコーヒーではなく紅茶を片手に、近くのスタンドで買ったと思しき――彼にはいささか不似合いな――ゴシップ紙に目を落としていた。テーブルには、他にも読み終わったと思しき新聞が無造作にいくつか並んでいる。これもいつもの事だ。
「おはようございます」
「──おはよう」
一瞥に対し、つとめて礼儀正しく挨拶を済ませると、亜双義はハムとレタスが挟んであるサンドイッチとコーヒーを手に、隣のテーブルについた。
さて、とカップに口をつけたところで、隣から呼ぶ声がかかる。
「アソーギ」
含んだ液体をすぐに飲み込めず、無言のまま何だという顔で隣を向くと、バンジークスは手にしていたゴシップ紙をこちらに掲げてみせた。
「昨夜、そなたが得心がいかないと言っていた件だが」
昨夜……というと、夕食をよそに喧々諤々していた、今担当している殺人事件についてだろう。被告人の主張しているアリバイに不自然な点があると発見したものの、明確な証拠となるものを掴めずにいたのだ。
「どうやら手がかりが頭を出したようだ」
身を乗り出して紙面をのぞき込むと、事件とは一見関係のない小さな事故についての記事。しかし――アリバイの不自然さと組み合わせると――。
「成る程、確かにこれは頭というか、尻尾を掴めそうだ」
すぐに記者に連絡を取ってみます、亜双義がそう言うと、バンジークスは満足げに頷いた。
微かに唇をほころばせたその顔をじっと見つめていると、むずむずとした心地になり、亜双義は唇を軽く噛んだ。脳裏に浮かんだのは、二人で過ごした《昨夜》の記憶で――己の口許がどうなっているか自信がなかった。
振り切るようにサンドイッチにかぶりつく。ここの食事は美味いがサイズはあまり大きくないため、若い亜双義の腹を満たすにはやや物足りないが、それでもある条件が揃った日にはここへやってきてサンドイッチを朝食にする。
亜双義は、再び新聞に視線を落とすバンジークスを横目に、順に時間を遡って思い出していた。午前六時三〇分「ただいま」
一人暮らしの部屋の扉を開けるとき、日本語でそう言ってしまうのは実家に暮らしていた頃の名残だ。祖父が帰化した日本人だったのと、幼い頃一時期日本で暮らしたことがあるからだが、未だに続いている習慣だった。
閉めっぱなしだったカーテンの隙間から、のぼりつつある太陽の光が差し込んでいた。
朝、早く起きて鍛錬に時間をあてるのも、武道を教えていた祖父や父から受け継いだ習慣だ。この部屋では素振りをする広さがないから、普段は周辺をランニングをしてストレッチをするぐらいだった。
けれど、時々その習慣には変化が訪れる。たとえば、今日のように。
出勤の前にシャワーをあびようと、薄手のパーカーを脱いでハンガーにかけたとき、黒い生地のところどころに、短い灰色の毛が付着しているのが見えた。猫の毛だ。
しばらくそれを見つめたあと、最近常備するようになった衣類用の粘着テープを取ると、ころころとパーカーの上を転がす。
猫は飼っていない。だが、最近は猫との時間というのもなかなか良いものだ、と思うようになってきた。猫ばかりをかまうと、その飼い主が少し不満げにするのも良かった。かまわれなくて不服だなんて、まるで猫みたいだと笑ってしまった。
灰色の毛の猫を飼っているのは――……。
「……後にするか」
聞くものもいないが呟いて、粘着テープを放り出してシャワールームへ向かった。
自宅近くにある公園をぐるりと周回する普段のルートではなく、《ある場所》からこの部屋までのルートを走る日がある。普段よりも少し短くて、それでも亜双義は頑なに《鍛錬》と位置づけていた。
――一般的にはそれを《朝帰り》、ということはわかっていたが。午前五時 夜明け前。高級感溢れる分厚いカーテンの向こうから、小鳥の鳴く声が聞こえていた。
日に日に春めいてきて、空調を効かせずとも肌を刺すような寒さは感じなかったが、ふたり分の体温で温もったベッドから身を起こすのは名残惜しさを感じるものだ。
隣で寝ている人は、神経質そうな見た目と裏腹に少々のことでは目を覚まさない。それは重ねた夜と同じだけの経験から導き出される事実である。
昨夜着ていたのと同じ服をその身に纏いなおし、体裁を整えていく。
バロック・バンジークスとこういった関係になってから、二人の時間を過ごすのはほとんどが彼の自宅だった。古い貴族の家系に生まれ、未だにそれなりの資産を抱えた彼にはいかにも相応しい、亜双義ではとても家賃が払えなさそうな(そもそも賃貸ではあるまい)部屋で、美味い酒と肴を楽しみ、議論をかわし、そしてベッドになだれ込むのが常だった。
身支度を整えてからベッドを覗きこむと、少し疲れたような寝顔が見えた。眉間のヒビを伸ばしてやりたかったが、さすがに起きてしまうだろうな、と伸ばしかけた手を引っ込める。
まどろみの中にある男を起こさないまま、亜双義がこの部屋を出るのも、もう何度目のことか。
バンジークスの自宅は職場である検事局からさほど離れていないが、亜双義の自宅まではそこそこ距離がある。その距離を、ランニングがてら走って帰宅するのだ。一般的に徒歩が推奨される距離ではないことは亜双義とてわかっているが、鍛錬で走っている距離より短く、さほどのこともなかった。
初めてこの部屋で夜を過ごした日、どうしても亜双義はここから職場へ出勤する気になれなかった。浅い眠りから覚め、隣で眠る男の、ほの白く暗闇に浮かぶ顔を眺めているうち、いてもたってもいられなくなってしまったのだ。
散らばっていた服を手早く身につけると――そのまま走って自宅まで帰った。職業柄、ロンドンの街の地図は頭に入っていたが、正直あの日の自分がよく真っ直ぐ帰れたものだと思う。冷えた空気に肌を切られるようにしながら、気を抜けば脳裏に蘇る姿や声を振り切り走った。
ようよう帰り着き、普段は自宅ですませる朝食をそのカフェでと思い立ったのは、あの男がたまに寄ると聞いたことがあったからだ。
自分からあの部屋を飛び出したというのに、わざわざ思い起こさせるような場所を訪れたのは、隙間なく触れ合った前夜の名残を惜しんだからに違いなかった。まるで相反する行動が、当時の自分の混乱ぶりを表しているようだった。
通勤に使っているマウンテンバイクを表の鉄柵にチェーンで繋いで飛び込んだカフェには、気配どころかバロック・バンジークス本人が鎮座しており、不意打ちに見た顔にさらに激しく動揺することになったのだが。
ここで見ないふりをしても仕方あるまいと腹をくくって、注文したサンドイッチとコーヒーを載せたトレイを手に、その朝も挨拶をした。
そんな経緯で、二人が夜を共に過ごした翌朝だけ、件のカフェでの朝食が亜双義一真の習慣の一つに加わったのである。午前八時「お先に失礼する」
物思いから浮上した亜双義が顔を上げると、バンジークスが席を立つところだった。ここから徒歩で職場へ向かって、始業に余裕をもって間に合うタイミングだ。
「のちほど、また」
亜双義は自転車なので、もう少しだけ余裕がある。サンドイッチをたいらげ、ゆっくりコーヒーを飲み干してからでも問題ない。
カウンターの店員に律儀に声をかける背中は真っ直ぐで、秘め事の気配など感じさせはしなかった。亜双義も、きっとそうできているはず、だった。
もとより、ただの上司と部下、先輩後輩あるいは師と弟子と言うには、複雑な感情を抱いている。
年齢に差がある、経験が足りないのは仕方がないことと理解していながらも、上を行かれると歯噛みするほど悔しいと思う。いつか肩を並べたいと願うのは、バロック・バンジークスを、誰より優れた検事と認めるからこそ。だから同じ検事として背を預けるに値すると認められていると感じる瞬間、この上なく高揚する。他の誰より、この男の考えていることを共有できているのだと、誇らしい気さえする。
だというのに、亜双義はいつの間にかそれだけでは足りなくなってしまったのだ。《それ以外の場所》も、自分に明け渡して欲しいと望むようになり――そして、それは思いがけず手の内に転がり落ちてきた。
あの部屋で夜明けを迎えないのも、最初はただ照れくささが占めていたような気がする。
けれど今は、あれもこれもと際限なく求めそうになる自分に、自ら線を引いているのだ。あの年上の男は厳しげな物言いとは裏腹に懐の広いところがあるから、自分ばかりがどこまでも許されてしまうような気がして。
こうしてこのカフェで顔を合わせる朝を積み重ねていくうちにも、腹の底に抱く望みはどんどん大きくなって、ふとした瞬間に零れ落ちてしまいそうになる。
カフェを出る男の背からいつまでも目が離せないままでいると、閉まっていくガラスの扉の向こう側で、バンジークスがこちらを振り返った。
常にないことに、何かあったかと亜双義は目を瞬いた。
視線の先、開きかけたバンジークスの唇は何かを言おうとしたのかもしれない。けれど、おそらく何も言葉を発しないまま再び閉じられた。そしてきびすを返すと、今度こそ歩き去っていった。
そのほんの数秒。亜双義を映した碧い瞳が柔く細められて、同じように共にある時間を名残り惜しんでいたのは――何も言われずとも伝わってきた。
――そうか、貴方も。
望んでいるのは俺だけではないのか。
今度こそはっきりと口許が緩んで笑みの形になっていることは自覚していたが、唇を噛んで戒めることはしなかった。熱を持っている頬を両手で擦る。
亜双義とバンジークス、互いにすでに一歩ずつ踏み込んでいるのならば、線を引いたところで手を伸ばせば届いてしまうのではないか。
次にあの部屋へ行ったならば、あの背を抱いたまま、朝を迎えてみようか。
残りのサンドイッチをふた口で腹におさめ、ぬるくなってきたコーヒーを飲み干した。パンくずを払って立ち上がると、店員にご馳走様、と心持ち大きな声で言って店を出た。
いつもよりは少し早かったが、店の前に止めたマウンテンバイクにまたがると、力いっぱいこぎ出した。途中できっと追い越すだろう。執務室で迎えてやったら、どんな顔をするだろうか。???? 亜双義一真とはじめて夜を共にした翌朝、目を覚ました私を待っていたのはもぬけの殻のベッドの半分だ。夢うつつの重いまぶたの向こう側で、身支度を整えて部屋を出て行く亜双義の気配を感じた……ような気はする。ぬくもりの失せたシーツの半分を掌で探り、亜双義が去ったのはずいぶん前だと検討をつけている自分が、まるで夜逃げした容疑者の足取りを探るようだなと苦笑いした。
過去に因縁があるゆえに少々私に対するあたりが強いものの、優秀な検事だ。思うところはあるだろうに私に教えを乞い、検事としてより一層の高みを目指して日々研鑽している姿を間近で見てきた。共に裁判を戦い、時には現場に出て事件を追った。
――険のある視線が、別種の熱を帯びるようになったのはいつからだろうか。
やがて自宅に招くようになり、何故か口付けをするようになり、なし崩しにベッドを共にした。とはいえ、そこに私の同意が存在しなかったことは一度もない。明確な言葉がなかっただけ、と私自身は考えていた。戸惑いはほんの僅かな間で、やがてその熱を心地よく感じるようになり……気がつけば同じ熱に満たされていたのだから。
正直、身体を許してもよいと思った相手と朝の挨拶さえ交わせなかったことに、思うところは少々あった。
後悔しているのか、とか。思ったのと違ったか、とか。
飼い猫に朝食を準備してやる間も。キッチンに置いてあったはずの食器が片付けてあるのを横目に、身支度を整え部屋を出るまでも。ロンドンの街を早足で歩きながらも。カフェでいつものメニューを半分自動的に注文する時も。考えることをやめられなかった。
このあと職場で顔を合わせるというのに、どうしたものか……と暗澹たる気持ちで紅茶をすすっていると、思いを巡らせていた当の本人が店に飛び込んできた。
こちらを見てぎょっとしたようではあったが、トレイを手にした亜双義は私の座る席までやってくると、大きく息を吸い込んでから朝の挨拶を口にしたのである。
「おはようございます、検事」
数時間ぶりに見たその男の頬には妙な力がこもっており、唇は強ばっていたが――その瞳に浮かんでいるのは、たしかに前夜、私の腕を掴んだときと同じく色濃い執心を孕んだ熱だった。どうやら懸念はまったくの見当違いで、目を覚ましてからの己のうろたえようが恥ずかしくなった。
常日頃のあの男は即断即決、なにもかも一刀両断するような躊躇のない仕事ぶりは、誰もが認めるところだ。
それが、関係を断つでも距離を詰めるでもなく、揺れ動いたまましばらく経った。
照れているのだろうかとも思ったが、最初のうちはともかく、今のあの男はむしろ恐れているのかもしれない、と思うようになった。奇妙なバランスで成り立っている関係が、踏み込むことで崩れていくのではないかと躊躇している。
それまでの関係性とは異なる顔で「おはよう」などと言う踏ん切りがつかないのではないか。あのカフェまで来て、ようやくそれが口にできる。
だが、隣にあったはずの熱源が失せているのを確認しながら目覚める朝の物寂しさは、冬が去ったとはいえなかなか堪えるものなのだ。今朝は思わず、カフェを出たところで振り返ってしまった。
扉の向こう、こちらをじっと見ている亜双義の目は、微かな光を反射している。そこに篭っているのは、こちらの心情を鏡写しにしたようなやわらかい熱だ。己が笑みを浮かべていることに、あの男は気付いているのだろうか。
喉元まで言葉が上がってきかけたが、飲み込んだ。
そろそろ腹をくくってもよいのではないか、などと。それは全くもってお互い様というものだろう。
だから、次に我が家へ招いた折には、カフェより旨いパンとハムとレタスを用意してあると伝えてみようかと思っている。
朝食に、二人でサンドイッチはどうだろうか、と。
雲の垂れ込めたロンドンの空は晴れやかとは言い難いが、足は自然と軽くなる。その背を、自転車が追い越していった。