[ヴォルバロ]小夜曲死神の長き不在「貴公は十分に使命を果たしてきた」
青白い顔で俯く彼の肩を抱き、耳元で囁く。
「少しばかり休んだとて、いったい誰に咎められよう」
肩から二の腕を撫でれば、荒れた唇から小さな息が漏れた。ひたすらに磨耗し法廷を去った彼は、あと一押しで壊れてしまいそうな風情だった。
――本当にまだ死神の御業は必要か?
――既に役目は果たされたのでは?
――もはや彼は。
「いつでも戻ってきたまえ……待っている」
脳裏に聞こえる声を黙殺し、死神の帰還を希った。
しかし鳥は羽ばたく この中庭には、一羽の小鳥がいる。
最初の歌こそ覚束なかったが、今やロンドンで最も美しい声で囀る私の小夜啼鳥。彼の兄が歌うのをやめてしまった歌を、よく覚えて歌っている。
上手に囀る限り、私は小鳥を愛するだろう。
手の中で、注意深く――その震えを感じながら。
私が整え、支配する法廷にて。
盤外のこと 《死神》の影を追う間、その気配をあちこちで感じることはあった。手ずから集めた証拠にも、人を使って得た情報にも。広げた報告書に、何者かの姿が描き出されているような、そんな気がすることさえ。
先を読み、思考を凝らすのは、遠い誰かとゲームをするようだと思ったこともあったが、相手に気付かれた時点でこちら側の全てが終わるこれは、決して遊戯ではなかった。
ただひたすら慎重に。一度の失敗も許されない。
そればかり考えて、盤面で相対するプレイヤーが本当は誰なのか……今となっては自分自身で蓋をしてきたような気がするのです、閣下。
劇場にて 劇場には華やかな装いの淑女たちが色とりどりの花を咲かせていたが、今宵の主役はオーケストラ……いいや、彼らが奏でる音楽だ。
開演を待ちわびる人々のざわめきが全身にまとわりつくような気がして、深く息を吐く。
「気が乗らないかね」
わかっているだろうに、チケットを用意してここまで自分を連れてきた男は上機嫌にそう言った。
「……いいえ。人に酔っただけです。久しぶりにあなぐらから這い出てきたようなものですから」
嘘ではなかった。今や劇場でオペラやらを鑑賞するのは気が滅入るにしても、音楽を聴くこと自体が嫌いなわけではない。
その答えが気に入ったのか、ヴォルテックス卿の機嫌はさらに上向いたようだ。
「人混みが嫌ならば、次は私が貴公のためだけにピアノでも弾ききかせようか」
「ヴォルテックス卿が……ですか?」
隣に顔を向けると、こちらを見ている視線は思いのほか楽しげだった。
「ああ。メトロノームのようでつまらない、と言われた腕だがね」
この人がこうして、時折気まぐれに与えるものが、私の心を慰める。そこに願うような情がなかったとしても、きっとピアノは私の傷を一時撫でるだろう。
始まろうとしているオーケストラの演奏よりも、すでに次の約束に思いは飛んでいた。
誰が亡霊? 真夜中に覗きこむと、亡霊が見える――そんな曰くのある鏡を手に入れた、などという誘いにのったのは、相手がヴォルテックス卿だったからに他ならない。そうでなければ、聞く耳すら持たない与太話だ。
とある貴族に懇願されて買い取ったという大きな鏡は、成る程、不思議な力でもありそうな様子でヴォルテックス卿の寝室に鎮座していた。
木製の枠に彫られた装飾を眺めていると、鏡の中に背後から近づいてくるヴォルテックス卿の姿が見えた。
振り返るといつものように口付けられ、愛撫が始まる。きっとこうなると、わかっていてやってきたのだけれど。
うつ伏せで腰を高くあげた体勢で貫かれながら、ひたすらに快楽を追う。ひりつく粘膜がたてる音が、羞恥をかきたて熱を生む。
「バンジークス」
背後のヴォルテックス卿がぐ、と体を倒し、思わずひきつった声が漏れた。顎を掴まれ、伏せていた顔が上げさせられる。そこには、あの鏡があった。
「亡霊は見えるかね」
「……いいえ、何も」
亡霊を映すというその鏡の中には、だらしなく開けた口から涎をたらして快楽に喘ぐ己の姿と、それを眺めて唇を歪める男の姿だけが映っている。
私の答えは男を満足させたのか、律動は激しさを増し、鏡の中に探した《亡霊》が誰だったのか、すぐに私にもわからなくなってしまった。
鐘の音は遠雷ではなく バロック・バンジークスが最も取り乱したのは兄の遺体を前にしたときだったが、最も自失したのは――あの男の処刑が行われたと報告を受けた、今このときではないだろうか。
私の執務室であることもすっかり忘れたように、ソファに深く体を預け、身じろぎもしない。目は開いているが、きっと目の前のものも映してはいなかろう。
揺らぐ暖炉の炎が、彼の顔に影をちらちらと落とす。
「バンジークス」
呼びかけに応えはなく、ため息をついて隣に腰を下ろすと再び呼びかけた。
「――バロック」
びくりと体を震わせ、ゆっくりとこちらを向いたその瞳は、おびえたような、今にも泣き出しそうな色をしていた。
最愛の兄を喪っても彼が壊れずにいたのは、忌々しいことだがあの日本人がそばにいたせいだろう。はたで見ていても、献身的に支え、叱咤し、まるで親鳥が翼の下に雛を庇うかのようだった。
それを、その男を、兄の仇として自らの手で極刑に導いたのだ。
兄・クリムトにこの上なく愛され、あの男に慈しまれ、優しいままに育ったこの青年には、さぞ衝撃的な日々だったに違いない。
「君は正しいことを為した。きっと兄上も誇らしく思っているだろう」
囁いて肩を抱き寄せると、弱々しくあげられた両手が、胸元に縋ってくる。閉じられたまぶたの上に口付けをおとし、こぼれた涙を追って頬、そして唇へとうつっていく。
哀願のような嗚咽のような声を聞きながら、その日、私は初めて彼の体を暴いた。
もはや彼を守るものは誰もいなかった。
本当は彼の兄は、血にまみれた手をしていた。
本当はあの墓場で、あの男は刑とは無関係に死んだ。
だが、バロック・バンジークスがそれを知る必要はない。
私の手の中で、理想の体現者としてあるために。