俺のクラスには、空席が一つある。窓側の一番後ろの席で、そこはいつも空いていた。転入生が来ても、席替えをしても、その席が埋まることはない。担任曰く、ある事情で来られない生徒の席らしいが、入学して半年が経とうとしている今現在、その姿を見た者は誰もいない。最初こそクラスメイトたちはその人物を探し当てることに夢中だったが、時間が経つにつれてその熱は冷めていった。それは俺も例に漏れることはなく、いつの間にか存在すら記憶になかったのだ。
ただ、それが呼び起こされたのもつい数分前。体育で怪我をした俺は保健室に足を運んだ。幸い、大した怪我ではなかったが、「安静にしとくように」という保健医の先生の言葉に頷き、一足早く教室へ戻ろうとしていた。
自教室の前、少し空いたドアから人が見えた。クラスメイトが戻ってきたのかとも思ったが、まだ授業の半分にしか時間が至ってないことからそれは違う。それ以前に、その人物はクラスメイトの誰にも似ておらず、その上、例の空席の側に立っていたのだ。
赤の混じった髪がさらりと揺れ、覗いた耳からピアスがちらりと見える。顔はよく見えなかったが、アンニュイな雰囲気が不思議と惹きつけられた。
ふと彼がこちらを振り返る。気付かれたのだろうか、彼はじっとこちらを見ていて、その瞳はよく見ると赤かった。白い肌がさらにその色を強調していて、まるで兎のようだ。吸い込まれるような錯覚に襲われた。
「あ…」
声が漏れる。上手く言葉が出ない。目の前にいる彼は人間のはずなのに、その雰囲気はどこか浮世離れしていた。彼は口元に弧を描く。怖い、怖いのに魅了されてしまう。俺は動けなかった。ひたすらに彼を見ていることしかできなかった。しかし、
「あれ、高杉さん」
その声で、目が覚まされたようだった。隣を見れば、同じクラスの坂本が立っていた。その顔は驚いたようだったが、特別、不思議がるわけでもなく、教室のドアを戸惑うこともなく開けた。
「久しぶり、坂本くん」
彼、高杉はそう言うと、片手を上げてにっこりと笑った。その笑みはどこか胡散臭い。
「やっと学校に来れたんだね。心配してたんだよ」
坂本は高杉に駆け寄りながら、そう溢した。大袈裟だな、と高杉は口を尖らせながらも、その表情はどこか嬉しそうだ。先ほどの不思議な雰囲気はもうなく、よく見れば至って普通の学生のようだった。
そして2人はそのまま談笑を始めた。こちらに目を向けることもなく、世間話をしているようだった。
ちらりと、高杉の赤い瞳がこちらを向く。思わずドキリとした。まるで恋のようだった。だが次の瞬間、それはあっけなく打ち砕かれるのだった。
「お主」
女の声。ただ、その声はいやに重く、背筋がゾッとするようだった。身体が鉛のように重くなり、まるで圧をかけられているかのように動かない。振り向くことさえも許されず、目だけが後ろを向こうと必死だった。
肩に手が乗せられ、ゆっくりと背後から髪の長い女が顔を覗かせる。端正な顔立ちではあったが、それ以上に恐ろしさが勝っていた。
足掻こうにも足掻けない。ふっと意識が軽くなり、宙に浮くような感覚が身体全体を覆った。まるでそこで意識が途絶えるような、そんな感覚。そのまま、視界も意識も黒に飲み込まれていく。
「とっとと逝ね」
女はそう言って、薄らと笑みを浮かべた。
*
「高杉さんどうかした?」
「何が?」
きょとんとして尋ねる坂本に、高杉は首を傾げた。坂本は一度言葉を濁すと、そのまま続ける。
「さっきからドアの方を見てるから。何かいたのかと思って…」
違うかい、と首をひねる坂本に、高杉は一瞬の間を置いたが、すぐに首を横に振った。
「いや別に。なんにも」
その回答に納得しているのかしていないのか、坂本はそう、とだけ頷くと、すぐさま切り替えて話を続けた。その表情は楽しそうで、高杉は適当に相槌を打つ。
視線を向けたその先、赤い髪の女が立っている。やけに背が高く、赤々と燃えるような風貌の女。その女は舌で唇を舐めると、高杉を見てにぃっと笑った。
『 』
女はそう言うと、まるで幽霊のように、その場から姿を消した。