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    ネロファウ現パロオンリー「現に祝杯」の展示小説

    高校中退フリーターのネロと定時制高校に通うファウストが青春している話


    ※初回展示から大幅に加筆訂正しました

    change into...ひと気の少ない商店街をネロは何かを惜しむように歩いていた。
    昔は賑わっていたであろうその場所は、ほとんどが錆びた灰色のシャッターに身を包んでいる。この店なんか〈こども110番の家〉の張り紙があるものの入り口が不明で、いざというとき駆け込めない。もちろん、何も起こらないことが一番なのだが。
    ここは不良がよくうろついている。落書きがあったりゴミが散乱していたりと荒れているわけではないが、過去に不良同士の抗争があった場所だ。そのことを知る近隣住民は、陽が傾きはじめる頃には商店街を訪れるのを避けたがるのだ。
    そんな静けさの中で古い電気屋がポツリと営業し、ドアの隙間からテレビの音を漏らしている。
    『今日は例年より猛暑となるでしょう。水分をしっかりと補給し、屋外での過度な運動は控えましょう』
    毎年のように聞く天気予報のアナウンサーの言葉。「そういえば先生と初めて喋った日もこんな真夏日だったな」と頭の中で呟き、ネロは1年前のことを思い返した。





    駅前の商店街を抜けて10分ほど離れた場所の、住宅街の路地の奥……のさらに奥。迷い込んだりしない限りたどり着けなさそうなその場所に、寂れた喫茶店が1軒佇んでいた。客は近所に住む常連の年寄り。そして、古い喫茶店が好きな人や、SNS用の写真を撮っていそうな“昔ながらの〇〇”がブームの学生がたまに。
    ネロがここで働きはじめて半年近くになるが、客層は変わらない。最近駅ナカに人気のチェーンのカフェができたから、というわけでもなさそうだ。「なんで潰れないのか不思議だ」と思っても、自分は働かせもらっている身なので絶対に口にはしないし、どちらかといえば少ないけど0じゃない……それくらいの人数の方が性に合っていた。


    8月。
    唯一いた客がお会計を済ませ出ていくのを見送り、そのままぼうっとネロは外を眺める。
    店内で流れるラジオから『猛暑日の今日は、特に熱中症に気を付けて』という声が聞こえ、誰も悪くないのに「はいはい、昨日もそれ言ってましたけどね」と悪態をつきたくなる。そんな暑さだ。
    太陽の熱に浮かされたアスファルトが、ゆらゆらと辺りを揺らめかす。その景色の奥に人の姿を見つけ、これって蜃気楼……いや、陽炎だっけ?とネロが頭を捻っていると、カランコロンと鳴り響くベルの音で一気に現実へ引き戻される。

    「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
    慣れた掛け声は咄嗟にでも出るもんだ。ネロは自分自身に感心しながらも、訪れた客が座る席へメニューを持っていく。この客は珍しくも“新しい常連”だ。癖のあるオリーブブラウンの髪と、伏せがちな瞳を隠す眼鏡の…おそらく学生。歳はネロより若く、16、7といったところか。彼は5月頃から顔を見せるようになり、決まって15時頃に訪れコーヒーと軽食を注文する。
    食事を終えた後はコーヒーのおかわりをして、鞄から取り出した教科書のようなものを広げて勉強したり読書をしたり。そして16時半頃になると出ていく。
    席は決まって一番奥の、外が見える窓から離れた場所。決して店の外の景色が良いわけではないけれど、大半の客は明るい窓際を選ぶので、珍しいなとは思った。しかしネロも大概そうなので、不思議ではなかった。
    不思議といえば彼の服装だ。清潔感のあるシワひとつないシャツを身に纏っているが、長袖なのだ。こんな夏日でも。日焼けを避けるためとか、直射日光より暑さを凌げるとか、そんな理由なのかもしれない。なんにせよ、最近は頬を赤くしてうっすらと額に汗をかいているので、決して暑くないわけではなさそうだ。

    マスターがドリップして淹れたコーヒーを運ぶ。いつもは「どうぞ」と言ってすぐに離れる店員――ネロがまだ何か言いたげにしているので、客である彼は怪訝に思ったのだろう。小さいわりには通った声で「なにか」と発した。
    「暑かったり寒かったりしたら言ってください。冷房、調整するんで」
    ネロはそれだけ伝え、そそくさとカウンターの中へ引っ込んでしまう。急に声掛けるなんて、しくったか?と悶絶するネロを小突くマスターは「やるじゃないか」とニヤニヤしている。若干不貞腐れながらも、残りの注文のサンドウィッチを作りに取り掛かった。食事は片手間にといったかんじなので、一口サイズに切って盛り付ける。
    食事を運んできたネロに「さっきは…お気遣いをどうも。空調はそのままで」と律儀に答えをくれた彼に、安心したのは言うまでもない。





    あれ以来、他の客がいない時はたまに会話をするようになった。名前はファウストというらしい。
    「ファウストはさ、学校終わったあとここ来てるの?ほら、時間的にそうかなって」
    「いや、行く前だよ」
    「へえ……あー、そうなの?」
    「近くの定時制の高校に通ってるんだ。授業が始まるのは17時から」
    なるほど。だから学校が終わるには早い時間の来店も、いつも決まった時間には店を出ていることも頷けた。一方、新たな疑問が生まれた。ファウストは所謂“優等生”のようで、どんな理由があって定時制の学校に通っているのだろう、と。もちろん人には様々な事情がある。優等生かどうかは関係ない。ファウストがこの話題について回答した時点で、ネロに追及されてもいいと思ったのかもしれない。それか、ネロが深入りしないのをわかっていて、嘘をつくこともなく素直に伝えたのかもしてない。どちらにせよ、心を許してくれている証拠だ。それでもネロは「そっか。じゃあ腹が減んねえようにしないとな」と言うだけだった。


    そんなネロが次の日、「俺さ、去年いろいろあって高校中退してんだけどさ……ファウストの学校って俺でも入れんのかな」と言い出したときには、ファウストが少々面を食らってしまったのも無理もない。昨日はまるで『なんとも思ってません』みたいな顔をしていたから。
    「入口は広いと思うけど……入って何かやりたいことでも?」
    「んー、まあ。中卒より高卒の方が選べる仕事増えるし、日中働いてても通えるかなって」
    「……そうだな。でも、ネロの場合は高卒認定試験がいいんじゃないか」
    「高卒認定……?」
    「そう。夜に学校へ通うより、ネロにはそっちの方が合っていると思って」
    事実、ネロは喫茶店が閉まったあと、深夜から早朝にかけてコンビニや交通警備のバイトをして生活費を稼いでいる。本人曰く、喫茶店が空く前の時間を使うより深夜に働いた方が、時給が高くて良いらしい。そのことを案じての提案だった。
    「もちろん、僕と同じ学校に通いたいなら別だけど」とファウストが少し笑いながら冗談を言えば、ネロは少し照れた様子で「からかうなって」と顔をスマートフォンに向けるのだった。
    「あー……次の試験は11月の頭だって」
    「あと2か月と少しだな。いけそう?」
    「……あはは」
    ネロは学生時代、成績が特に良かったわけではない。それにどちらかというと、やんちゃをしていたので勉強に励んだ経験もない。今から短期間で試験に合格するほどの頭脳を持ち合わせていないことくらい、ネロ自身が一番よくわかっていた。乾いた笑いで誤魔化そうとするネロを、ファウストは馬鹿にすることもなく「なら、来年の8月を目指してみたら」とフォローするだけだった。
    そんな青少年たちの会議を横目で見ていた喫茶店のマスターが「いいねえ」とどこか浮かれた声を漏らす。
    「ネロ、お客さんがいない間ここで勉強していいぞ」
    「えっ、まじっすか」
    願ってもみないことだった。ひとりで勉強に集中できる性格とは自分でも思ってはいない。それに仕事中だ。プライベート事を持ち出しても良いと雇い主から許可が出るなんて、滅多なことはないということはネロにも理解できた。
    ネロは公私の分別がつく人間ではあるが、喫茶店で働いている時だけは他の場所より気を張らずにいられる。気さくなマスターの人柄がそうさせているのだろう。その為、素直にラッキーといった具合で喜んでいるようだった。
    「で、よかったらおまえさんはネロに勉強教えてやってくれないか」
    「…………は?僕!?」
    「そしたら毎回コーヒーをタダにしよう!どうだ!?」
    どうだと言われても……と悩まし気に、垂れた眉を一層八の字にしてネロを見る。ネロはバツが悪そうにしつつも、期待の目を向けていた。
    ネロが甘えるのが上手かったのか、ファウストが押しに弱かったのか。どちらにせよ、普段より喫茶店で勉強をしているファウストは、拒否する理由もそこまでなかった。わざとらしくはあ…とため息を吐いたファウストは、「コーヒー代を浮かせたいわけじゃないが……」と渋々申し出を承諾するのだった。

    「優しく頼むよ、ファウスト先生」
    「先生って……僕が見るからには甘くないぞ、ネロくん」
    こうしてネロと先生、もといファウストの勉強会が開始されることとなった。





    「今日は数学にしよう。まずは復習から」
    「復習ね……」
    「ちなみにこれは先週やったよ」
    「うーん……本当にやった?」
    「本当に」
    「……えっとぉ」
    「……よし、わかった。もう一度見直してみようか」
    こんなやり取りを何回もしている。
    ファウストはネロの覚えが悪くても叱ることない。根気強くネロが覚えるまで付き合おうとしてくれる。「僕は甘くないぞ」と宣言しておきながら、ネロに寄り添った考えのもと、態度は基本的に優しいままだった。そんなファウストのスタンスに、ネロもまた応えたいと思った。成果は今のところイマイチだが……。


    11月。
    真夏では違和感のあったファウストの服装が、周囲に馴染む季節に移り替わっていた。
    ファウストは時折吹く木枯らしに鼻先をほんのり赤くして喫茶店にやってくる。冷たい風で乱れた髪を手櫛で軽く整え、いつもの一番奥の席――は、今日は先客がいるようだ。ぴたりと歩みを止めてしまった。別に自由席なのだから、空いていて当然なわけでもないのに。今まで一度もその場所が、他の客に座られることがなかったのかなんて考えたこともなかった。
    いつもの席がないことと、そこが特等席のように感じてしまっていたことに困惑していると、ケーキを持ったネロがキッチンから出てきた。チラリと一度だけ目線をファウストに寄越したが、何も言わずに例の席の先客のもとへ運んでいく。
    指先は青白く冷え、心がキュッと締め付けられるような感覚に襲われそうになる。
    外が寒かったから。
    いつもの席が他人に座られていたから。
    ネロに声も掛けられなかったから。
    どれが本当の原因かはわからない。特別扱いをしてほしいわけでもないのに……矛盾している、とファウストが自嘲していると、接客を終えたネロが近付いてきた。
    「ごめん、今日珍しく混んでてさ」
    その「ごめん」には、様々な意味の籠った謝罪のように感じられた。ネロは実際、他人の様子や感情を読み取るのが上手い。だから、先ほどまでファウストが感じていた思いを汲んだに違いなかった。ただ、気を遣っていると悟られない、あくまでもいつも通りの態度で言葉を選ぶ。そんなネロだからこそ、ファウストも勉強を頑張ろうとするネロに付き合っているのだった。
    「今、カウンターしか空いてねえんだけど……どうする?」
    カウンターが嫌というわけではなかった。しかし、寂しさの感情を抱いていたことへの気恥ずかしさと、いつもより人の多い店内に、居たたまれないというのが正直なところだ。
    今日は遠慮しておこう。踵を返そうとするファウストの足を止めたのは、ネロではなく喫茶店のマスターの一言だった。

    「今日はカウンターが特等席だから、1杯コーヒー飲んでいきな」
    「……え?」
    「なんてったって、ネロのサイフォンデビュー日だからよ」
    そう言ってマスターはネロの肩をぽんと叩く。
    以前、ネロは「マスターは『コーヒー担当は譲らん!』とか言ってさ、サイフォンに触らせてくれないんだよ」と吐露していたことがあった。いつの間にそんな展開になっていたんだ、とファウストは驚いたが、ネロもまた「そうなの?」と目を見開いていた。どうやら本人も初耳だったらしい。
    「今日初めて触るのに……いきなりは無理だって」と断りながら、その目線はサイフォンに向けられている。そわそわとしはじめたネロ。その反面、先ほどまでざわざわとしていたファウストの心は、次第に落ち着きを取り戻してきた。
    「こういうのって、ほら、もっと練習とか必要だろうし……」
    「…………ふふっ」
    「な、なんだよ…先生」
    「いや、だって……早く触ってみたくて仕方ないくせに、ごねてるきみが面白くって」
    頬をほんのり赤くし、「別にごねてないし」と小さな声でぼそりと呟くネロは、からかわれて拗ねた子供のようだった。そんな年上の子供を少しだけかわいいと思ったことは黙っていよう。気遣い屋のきみに免じて。とファウストは心の中で唱え、「じゃあ、ネロのコーヒーをいただこうかな」とカウンターの椅子を引いた。

    マスターに見守られながらコーヒーを淹れたネロは、カウンター越しからでも手が届く距離なのに、わざわざファウストの隣までやって来た。まるで初めての接客をする店員のように、緊張感が伝わってくる。そして照れの入った小さな声で「どうぞ」と言いながら、カップをいつもより拳ひとつ分ファウストから遠くへ置いた。
    淹れたては当然熱い。すぐには飲めないファウストは、適温になるまでの間、じっくりと堪能するつもりだった。カップを持ち上げゆらりと揺らめく水面。そこにはどこか楽し気なファウストが映っている。そっと瞼を閉じ、すうっと香ばしい香りをゆっくりと肺まで届ける。
    その仕草に「それ、わざとやってる?」と茶々を入れてくるネロに、邪魔しないでと言わんばかりの目線を送る。唇をそっとカップへ寄せ、ふうっと息を吹きかければ、湯気が適温に近くなっていること告げる。ファウストの掛ける眼鏡が白く曇っては、すぐに消える。そしていよいよコーヒーが、上品な音と共にファウストの口内へ広がっていく。その様子をトレーの隙間から食い入るようにネロは見ていた。
    「うん、おいしい」
    「……ほんと?」
    「さっぱりとしていながら、まろやかなコクと柔らかい味わいで……」
    まるでネロみたいだと思った。人付き合いは浅い方が気が楽と言いながら、人一倍他人のことを気遣っていて、決して押しつけがましくない。肌触りの良い、滑らかなブランケットで包んでくれるような。そんな風に、ネロらしいコーヒーだった。
    しかし、これはさすがに初回から褒めすぎかもしれない。不自然に言葉を切ってしまったファウストは、続きの言葉を見つけるより先にネロを見上げた。そこには耳まで赤くしたネロが、「めちゃくちゃ感想言ってくれるじゃん」と照れていたので、言わなくても伝わってしまったのかもしれない。

    マスター曰く、常連の客には出せる味ではないらしい。手厳しいが、それも優しさか。練習しなきゃなと言われてるネロに、「僕で良ければまた飲ませて」とファウストは申し出た。
    「いやいや。あんたはマスターの旨いやつ飲んでよ」
    「きみのがいい」
    「な……なんで……」
    「僕はきみの先生だからだ」
    ファウストは青紫の瞳でまっすぐネロを見据える。その視線に耐え切れなくなったネロは、首の後ろに手を置いてうーんと項垂れていく。勉強を教えて貰っている身で、そのお礼を自分で返すのが道理なのはわかる。ただ、きちんと美味しいと自信をもって言えるものがいい。練習台にするなんて、お礼にならないんじゃないか。
    しかし、ファウストが意外と頑固な性格をしていることも、この数ヶ月の間でわかっていた。結局のところ、ネロが折れるしかなかった。「俺の先生はおっかないねぇ」と言えば、「今日は忙しくて勉強会ができなくても、宿題は増やせるんだぞ」とすかさず返す。
    いつもの席が他人に奪われ冷えた感覚は、ファウストにはもう残っていなかった。

    「カウンターもたまにはいいかもな」





    赤、緑、白、金などの色で装飾されたパッケージや広告。ラジオやテレビ、スーパーで流れる音楽からは鈴の音が聴こえる。街を歩けば、庭の木やベランダを華々しくイルミネーションで夜道を照らす住宅。ホッホッホという笑い声の似合う白髭をたくわえた老人が、いいこにしていた子供にプレゼントを配るイベントがあったのは、つい先日のことだった。
    クリスマス付近はどこもかしこも人で賑わう。人混みを極力避けたいファウストは、喫茶店に10日ほど訪れていなかった。
    女々しいかな、と悩んで打ち込んだメッセージ。「先生、今日来たりする?」と送ってから5分後、学校ってもう冬休みなんじゃ……と慌ててスマートフォンをポケットから取り出すも、時すでに遅し。「今から行く」とファウストから返事がきていた。

    「ひさしぶり」
    「……いらっしゃい」
    学校のない日のファウストと会うのは初めてだった。鞄がいつもより小さめで、勉強道具は特に持ってなさそうだ。服装もいつもよりラフに見える。それら全てが、あの連絡でわざわざ来てくれたと物語っていた。嬉しいような、申し訳ないような。とにかく複雑な気持ちだった。

    そんなネロをよそに、ファウストは慣れた足取りでカウンター席へ腰をおろした。
    あれ以来、よくこの席へ来るようになった。訊いてもいない理由を、まるで誰かに言い訳をするように、「ここなら他の客がいても勉強の話がしやすいから」と言っていた。今日のように他の客がいない時でも、こうして距離を縮めてくる。ネロはそれがくすぐったかった。
    そして、特に注文も受けていなくても、ネロがサイフォンを使ってコーヒーを淹れる。これが最近のお決まりとなっていた。
    「お待たせ」
    「ありがとう」
    「あとこれ。昨日作ったやつで申し訳ないけど」
    「……ケーキ?」
    「クリスマスケーキ、店でも出しててさ。ファウストもどうかなって」
    呼び出しておきながら、余りものを押し付けて金を出せ、はあんまりなので「俺のおごり」と付け加えるのも忘れない。
    「駄目だ。ちゃんと払わせてくれ」
    「食べてくれるだけでいいって」
    こんな押し問答をしていると、店の奥からマスターが「貰ってやってよ。こいつ、この数日『先生来ないな』って寂しがってたから。それも取り分けておいたやつなんだ」と大声で叫んできた。
    とんでもない暴露話に、ファウストの眉は見開いた目で軽く持ち上げられ、大きな瞬きを繰り返す。一方、否定も肯定もしないネロは、みるみるうちに耳まで朱に染まっていた。これはもうイエスと言っているようなものだ。前に「照れたり恥ずかしがってる時は、すぐ顔に出てわかりやすいな」と言われたことを思い出したのか、腕で顔を覆い「暖房暑くね?」と誤魔化そうとする。その姿に満足したのか、ファウストはくすりと笑った後、皿の上のフォークを手に取った。
    「や、やっぱり新しく作り直してもいい……?」
    「この期に及んで何を言ってるんだ」
    「うっ……」
    「それに1日経ったケーキってスポンジがしっとりとしていて、僕は好きだよ」
    そう言って、ケーキを一口サイズに切っては運ぶファウストに、ネロはもう何も言えなくなってしまった。
    ファウストは食べ方が綺麗だ。所作もさることながら、小さな口の周りにはクリームも付かない。最後の一口を食べ終え、皿に残ったクリームまでも丁寧に掬い上げる。すべてが上品であり、つい見惚れてしまう。
    コーヒーを一口含み、「ひさしぶりにショートケーキを食べたけどおいしかった」と満足気にするファウストの声で、はっと意識を戻した。
    「あっ……誕生日とかに食わねえの?」
    「妹が牛乳アレルギーだからな。なんとなく僕も食べなくって」
    「そっか」
    ケーキを口にすることが叶わない妹が、羨ましがったり不幸だと思ったりしないよう、幼いファウストが遠慮する姿は容易に想像できた。そんな兄をきっと家族は誇りに思っているに違いない。家族愛ってこういうことなのだろうか。いや、単純にファウストが愛情とやらを与えるのに長けているのだ。それでいて、自らは多くを望まないし、求めないタイプだ。
    欲望や願望があるのに最初から諦めて、底の見えない穴に押し込んで無欲のふりに慣れた自分とはまるで違う。それでも、そんなファウストの純真な優しさに触れ、愛情を与えられている自覚を持ってしまえば、薄暗かった場所にも光が射して動ける気がした。
    勉強を教えてくれたり、ちょっとした冗談を気安く言い合えたり、連絡をしたら会いに来てくれたり。それらにとっておきで返したい。ファウストを甘やかしてやりたい。そんな気持ちが芽生えた。ただ、意識をするとおかしなことになってしまいそうで、今のネロには口実が必要だった。
    「誕生日…………」
    「うん?」
    「あ、いや。そういえば誕生日知らないなって」
    「……そうだな」
    「いつなんだ?せっかくだし教えてよ」
    口実にちょうど良い。そう思って訊いてみたものの、ファウストは軽く眉間に皺を寄せて「来月」とだけ答えた。日にちの詳細を言わないあたり、おそらく祝われたり、そのことで気を遣われたりしたくないのだろう。
    ただ、ふうんと流すわけにはいかない。特に来月だなんて知っておきながら、何もしない方があり得なかった。
    「俺に教えんのが嫌なら答えなくてもいいけどさ」
    そう言って拗ねてみせれば、ほんの僅かに狼狽えたファウストが吐露する。
    「そういうわけじゃ……1月13日で、その、もうすぐだから……何かをねだるみたいじゃないか」
    ちょろい、というよりこれも優しいの部類かもしれない。ネロは自分で仕掛けておきながら、ファウストのことが心配になった。
    1月13日。あと2週間程度で何を用意できるだろうか。派手で盛大にしなくていい。できればささやかに祝いたい。お互い気を遣いすぎない程度に。そういうことを考えて、心が躍る感覚は久し振りだった。

    「先生、1月の12日って空いてる?」
    「その日は特に何も予定はないけど」
    「じゃあさ、誕生日の前祝いをさせてよ。日頃の感謝も込めてさ」
    そうくると思ったと言わんばかりに、ファウストは顔をしかめる。冗談じゃないと、すぐに断られるかと思ったが、何かいいことを思いついたのか口角が上がっていく。
    ファウストは交換条件を持ち掛けてきた。まずは当然のようにネロの誕生日。これにはさすがのネロも9月8日と素直に答える。すると「へえ、ちょうどいいな」とファウストはひとりでに納得しはじめた。思わず身構えるネロをよそに、こう告げるのだった。
    「来年の高卒認定試験の結果が8月末日だったな。ネロの誕生日と合格祝いを一緒にしよう」
    ネロも大概ひとに祝われたりするのが得意ではなかった。それに加え“合格”という言葉に尻込みしたが、ファウストは一歩も譲らない姿勢だ。ネロは両手を掲げ、降参のポーズを取って「ハイ、ガンバリマス」とカタコトで返事をした。



    1月12日。
    年末に約束した通り、今日はファウストの誕生日を祝うこととなっている。場所はネロの家。すでに用意したスープを温めていると、カンカンと錆びた鉄板の階段を上がる音が聞こえてくる。うるさくない足音に、これはファウストだとすぐにわかった。時計は17時59分、集合の1分前。時間ピッタリに来るところがいかにも彼らしい。
    ネロはサッと冷水で手を洗い、インターホンが鳴るより先に玄関の扉を開ける。目の前には驚いた顔をしたファウストが立っていた。いたずらが成功した子供みたいに笑うネロは「寒かったろ。スープでも飲んで温まってよ」と部屋招き入れる。

    狭い玄関に自分のもの以外の靴が綺麗に並べられる。ネロはむずむずとくすぐったい感覚に襲われる。やばい、なんか顔がにやけそう。一人暮らしを始めて初の来客が、最近友人になったファウストになるとは……ましてや誰かを招くことになるなど、過去のネロでは考えられないことだった。

    「悪いね、ボロくて狭い部屋で」
    「いいや。なんだか落ち着くよ」
    「でも隣の奴が夜中に女の人連れ込んでくると、壁薄いし最悪だぜ?」
    「なぜ」
    「なんでって……え、わかんない?」
    「は?なにが」
    「……うわ、まじか」
    緊張を紛らわすために振った話題だったが、空回りしたらしい。年頃の男なら「壁が薄い」「ボロアパート」「男女」「夜」というワードだけで想像できるだろうに、ファウストは相当な初心のようだ。誰に叱られるわけでもないが、この手の冗談は控えようとネロは密かに誓った。


    今晩用意したのはミモザサラダとコーンスープ。そしてメインはラクレット。バイト先のマスターから借りたホットプレートを使って、スライスしたラクレットチーズを弱火で温める。チーズがとろりと蕩けたら、一緒にプレートで焼いていたお好みの具材にかけて頬張る。
    ファウストは熱々のチーズを口に入れる前に、必ずふーっと息を吹きかけていた。いつもなら手元にコーヒーがあるその光景が、特別に用意した料理で見ることになるとは。浮かれ気分になったネロは、ファウストにストップを掛けられるまで、延々と具材をのせていった。

    満腹が近くなり、食べるより言葉を交わす数が増えてきた。ネロは不要になった食器を手際良くまとめ、シンクで桶に溜めた水に漬け始める。手伝おうとするファウストに「主役は座っててよ」と制し、お腹に余裕がまだ残されているか伺った。
    「もう十分すぎるくらいもてなしてもらったけど……なんだろうな。期待でいくらでもいける気がしてきたよ」
    「あー、でも期待されるとなんか出しづらくなるな……」
    「一体何なんだ、きみは」
    そんな冗談を言い合いながら、ネロは冷蔵庫から何かを取り出した。ファウストがホットプレートをどかし、空いた小さなテーブル。その前で立ったままもじもじとするネロは「俺んち、オーブンないからこういうのしか作れないけど」と前置きをしてから、手にしていた皿がコトリと静かに置かれる。
    白くて大きな皿の上では、真っ赤に熟した苺が粉糖で化粧をし、甘酸っぱい香りで可憐に誘う。ミントの飾りが上品に引き立てている。まわりにはチョコレートソースが取り巻くように、アーモンドスライスと一緒に散りばめられていた。

    「明日だけど……誕生日おめでとう、ファウスト」
    「……ありがとう。これは……ガレットか」
    「そ。生地に牛乳使わないし、ちょっと特別感もあるだろ?」
    「…………」
    「……ファ、ファウスト?」
    ファウストの妹が牛乳アレルギーだと知ってから、華やかで美味しいデザートを作ってみたかった。そして、それをファウストにも味わってもらいたかった。こんな演出は少しキザすぎたかもしれない。そう思っていた。しかし、ファウストは無言のままだった。恥ずかし気に逸らしていた瞳は、ゆっくりと下へ落ちていく。
    そんなネロの不安を打ち消したのは、嬉々としたファウストの声だった。
    「ああ、すまない。驚きで声が出ないことって本当にあるんだな。実は僕、ガレットが大好物なんだ。だからすごく嬉しいよ。ありがとう、ネロ」
    「…………ま、まじで?」
    「“まじ”だ。あ、もしネロが良ければ食べる前に写真を撮っても構わないか?あと作り方も教えてほしい」
    「それは、うん、全然、どーぞ」

    箸が落ちても笑ったことなんてない。お化け屋敷に入っても、肩をぴくりとも揺らさない。そのくらい常に落ち着いたイメージのファウストが、興奮気味で弁舌になっている様子がネロには新鮮だった。
    喜んでくれて嬉しい。好きなものを知れて嬉しい。
    今までそれなりに会話はしていたつもりでも、知らないことはたくさんある。話していないこともたくさんある。
    全てを曝け出す必要はないけれど、お互いを共有してみたい。もっと笑顔にしてやりたい。
    こんな考えをきちんと自覚したのは、ネロにとって初めてだった。
    違う世界に足を踏み入れるのはいつだって怖いけど、ファウストがそこにいるなら挑戦してみるのも悪くない。きっと失敗しても馬鹿にしないし、次はどうしたらいいか真剣に考えてくれる。自分自身がわからなくなっても、ファウストが教えてくれるものが本当の自分になれる気がする。じわり、じわりとネロを侵食していくものが、悪いものでないよう願うのだった。

    「……なに?」
    「ん?」
    「そんなに見られてると食べにくいよ」
    「はは!わるい、わるい。いやぁ……うちに人がいるのって変なかんじだなって改めて思ってさ」
    「へぇ……変なかんじって?」
    「俺、施設で育ったんだけどさ。人の多い場所で暮らしてたのに、そこ出たあとは一人だったから」
    「……うん」
    「だから、昨日と同じ部屋なのに、まるで違う場所みたいだなって。結構浮かれてんのかも」
    「ああ。だから玄関でにやけてたのか」
    熱が頬に集中してくるのを感じる。指摘されるくらい表情に出ていたのなら、今も相当なのだろう。あああと言葉にならない声を漏らし、ネロは顔面を両手で覆った。帯びている熱を手のひらで感じていると、今まで聞いたことのないくらい弾んだ笑い声が部屋に広がる。おまけに「かわいい奴だな」と言われたネロは、ついに床にごろりと転がってしまった。
    くつくつとした笑い声が心地よく耳を撫でる。閉じている瞼は暗がりではなく、暖かな色を映していた。

    「ごちそうさま」とフォークがお皿に置かれる音でようやく身体を起こせば、ファウストは真っすぐにネロを見ていた。
    「ネロは施設で優しい人たちに囲まれて育ったんだな」
    「……え?どうした急に」
    「前に高校を中退したと言っていただろう。その原因が家族じゃなさそうで安心した」
    「あー……ろくでなしの俺にはもったいないくらいの人たちだったよ」
    ネロが自ら望んだことはないけれど、喧嘩で優劣を決めるような学生生活を送っていた。世間からは不良と呼ばれていた。喧嘩も絶えず、そんな日々にも耐え切れず学校を辞めた。
    具体的なことは曖昧にして言えば、「喧嘩が原因で中退か……今のネロからは想像できないな」と軽い感想だけ零した。最も喧嘩の類を嫌いそうなファウストが、その程度の反応で終わるとは意外だった。
    ネロは自分の過去を少し明かしたついでに、さりげなく今までずっと気になっていた話題に触れてみることにした。無理に答える必要はない、と前置きを忘れずに。
    「なんで定時制に通ってんのか訊いてもいい?」
    「僕はいいけど……きみを不快にさせるかもしれない」
    「そしたらそれ以上に楽しいことをすればチャラんなる。そん時は先生も協力してよ」
    ネロの妙な理屈のこじつけに、ファウストは気負わずに淡々と過去をかいつまんで話し始めた。

    前は名門の中高一貫校に通っていて、中学の頃にかつての親友と生徒会に入った。次期生徒会長に、親友と自分が候補の名前が挙がった。ファウストは生徒会長の座に就くつもりはなかったので辞退を申し出たが、「生徒自ら選んだ方が、良い学校生活を導く希望になれると思わないか」と親友は聞き入れなかった。
    その後、他の生徒たちから対立関係にあると噂されるようになった。次第にその波紋は止まらなくなり、根も葉もない情報が交錯する。熱狂的な支援者たちが沸き上がり、嫌がらせ行為をするようになれば、親友の掲げていた「良い学校生活」は遠のくばかりだ。そのことを指摘し、冷静になるようにと声を上げた次の日、ファウストは学校で悪の存在になっていた。
    基本的には無視をされるだけだったのでやり過ごしていると、下駄箱に「オレはお前の味方だ、見ているよ」とメモが入っていた。どこからか視線を感じる。それが敵意か好意かわからない。目に見えないものに恐怖を感じ、不登校がちになった。
    暫くして、学校以外には外出をしてみようと寄った商店街で、あの時と同じ執拗な視線を感じた。不良が溜まり場としていると噂もあったので、早く離れようとすれば、同じ速度で足音が付き纏う。
    「で、後ろで凄い音がして振り向いたら、倒れた人と、たぶん殴った人がいたんだ」
    「殴った……?」
    その男の顔はよく見えなかったが、『あんたの知り合い?』と尋ねてきたので、大きく首を振った。それを確認した男は、倒れていた人を連れて商店街の暗闇に消えていった。

    「……そのあとファウストは?」
    「情けないが逃げたよ……まあ…………そんなかんじで1学年分遅れて転校をして、今に至るのが僕だ」
    ファウストは平然として語っていたが、ネロはどう反応したらいいか戸惑った。想像以上に心が痛くなるような過去を経験していたことと、後半に語られた出来事と似た経験をしていること。そのふたつの事実が言葉を詰まらせた。ネロの俯いた頭の上に、ぽんと優しく手が置かれる。
    「もう大丈夫だから話したんだ」
    「あ……」
    「それに、おかげでネロと友人になれた」
    「先生…………わかった…わかったから!その手止めてくんねえ!?」
    「妹が落ち込んでる時と同じ顔をしてたから、つい」
    妹と一緒にされたことに腹は立たない。雰囲気が悪くならないようにと気遣ってくれたファウストの機転だとわかっていたから。
    ネロが「話してくれてありがとな」と伝えれば、微笑んで「どういたしまして」と返ってくる。明日はファウストの誕生日。ファウストにとって昨日より今日、今日より明日がいい日になることを密かに願った。





    4月。
    見頃を終えた桜が花吹雪を巻き起こす。真夜中の暗闇から、月明かりに照らされて落ちてくる花弁を「星が落ちてくるみたいだ」とネロは囁いた。
    今日の交通整備のバイトは暇らしい。時間帯も場所も人通りがないので油断していると、ぬるりと現れたバイト仲間から「ポエム考えるくらいなら休憩行ってこい。そろそろ雨も落ちてきそうだしな」と笑われる。聞かれていたことが恥ずかしくて、現場から少し離れた自動販売機まで歩く。

    たしかこの辺りはファウストが住んでいたはずだ。正確な場所までは知らないけれど、「近くの公園で子猫が産まれたんだ」と報告されたことを思い出した。すぐに休憩場所に戻るのも気まずかったので、眠気覚ましに缶コーヒーでも飲みながら散歩しようとスマートフォンを取り出す。地図アプリを起動させれば、近くに公園が表示されていた。ここはファウストの言っていた公園だろうか。子猫に会えなくても、話題くらいにはなるかもしれない。そう思い、目的地を設定した。
    スマートフォンと睨めっこをしながら通りを曲がると、ふたつの影と大きな足音とぶつかりそうになる。先を行く人物が振り返った瞬間、ネロはおもむろに走り出した。
    もし間違いだったとしても構わない。バイト先には迷惑を掛けるけど、悲しませる家族はいない。今日限りでいいから、あの頃のように力を振るうことを躊躇わない。
    すぐに追い付いたネロは、首あたりの衣服を掴んで引き寄せ、渾身の頭突きを食らわす。よろめく人とは別の方へ向かってネロは叫んだ。
    「ファウスト……っ!」
    「ネ、ロ……!?」
    逃げるように先を走っていたのはファウストだった。ネロは掴んでいた人を放りファウストへ駆け寄る。怪我は見当たらないが相当息が上がっている。まだ走れることと「こいつ、知ってる奴?」と状況を確認する。ファウストは首を横に振り「知らない」と答えれば、ネロに頭突きをお見舞いされた人物が『オレは知ってるよ……お前をみてた…!探してたよ』とボソボソと不気味に這っている。
    「うるせえ。殴られたくなかったら失せろ」
    脅しただけで本当に殴らなかった自分を褒めてやりたいくらいだ。そう思いながら、ファウストの手を引きその場を離れる。怪しい人物も追ってこないので、そのままバイトの現場まで戻ることにした。

    仕事仲間に事情を説明し、家族が迎えに来るまで休憩場所を使わせてもらう。「ダチの傍にいてやんな」と気をまわしてくれたはいいものの、ネロはファウストに近くに寄れなかった。助けに入った時のファウストの表情が、目にこびり付いて離れない。血の気なく震える青白い手と、大きく見開かれた青紫の瞳。ネロには身に覚えがあったからだ。
    自分の醜い部分を晒し、ファウストを怯えさせてしまった。ファウストの心を傷つけてしまった。
    考えれば考えるほど、喉に異物が詰まっていく。

    そんな長い沈黙を破ったのはファウストだった。
    「前に話しただろう、前にも同じようなことがあったと……ネロも記憶にあるんじゃないか?…………もしかして、きみが――」
    話の途中で遮ったのは迎えに来たファウストの家族だった。
    母親らしき人に抱き寄せられたファウストが、まだ何か言いたげにしてる。それに気付かないフリをして、「怖かったろ、ごめんな」と見送った。

    雨がぽつり、ぽつりと降り始める。
    走った拍子で溢れたコーヒーの染みが、雨に触れてじわりと広がっていった。





    後日、ファウストを追いかけていた怪しい人物は無事警察へ連行された。
    前の学校の一件の際、ファウストに対して異様な感情を抱き、下駄箱へ「見ている」とメモを残したり、その後もストーカーのようにつけ回していた人だった。ファウストが転校したあとは、自分の登下校の時間に駅で探しても見つからないので諦めていたが、あの日たまたま見掛けて……ということらしい。
    犯人も学生だったので、警察という場所に連れていかれただけでも、事の重大さを痛感したらしい。知り合いの弁護士が「俺からも少し脅しておいたから、安心していいよ」と言っていた。この男の“少し”は普段は信用ならないが、今回ばかりはほっと胸を撫で下ろせた。

    7月下旬。
    あれからファウストはネロと会っていない。
    たまにメッセージで連絡をしてみても「また連絡するよ」とネロが会話を切ってしまうので、続け方がわからなくなってしまった。喫茶店を訪れても、他のバイトが忙しいとかでほとんど来ていないらしい。
    もうすぐネロは試験が近い。もちろんそれだけが心配なわけではないが、明らかに避けられているのはファウストにもわかった。だからといって、ネロの家を突然訪問することもできず、ただ喫茶店で時間を潰す日々が続いた。
    ネロに拒絶される原因は、あの日に言いかけたことだと確信していた。だからこそ、直接伝えたい。謝りたい。それだけだった。


    今日も喫茶店にはマスターひとり。マスターはネロのことをどのくらい知っているのだろう。でも、たとえ知っていても本人不在で詮索はしたくない。そう思って今日までずるずると引きずっているのだ。
    マスターにコーヒーと、ネロの出勤を尋ねるのが日課になってしまった。いつも不在の返事だけ返ってくるが、今日は「あいつは辞めたよ。辞表がポストに入ってた」と告げられた。
    「何故、こんなタイミングで……僕はあの日のことも、昔のことも謝れてないのに」と嘆けば、マスターは「昔のネロを知ってるのかい?」と訊いてくる。ファウストは少し躊躇ったあと、あの日伝えたかった自分のことを話し始めた。
    「昔、執拗に追いかけ回されることがあった時、僕は誰かに助けられて……でも、あとから喧嘩沙汰になり複数名の学生が退学処分になったと知った…………あれはきっとネロだったんだ。4月の出来事も状況が一緒だったし、ネロの態度を見て確信した。ネロが中退してしまった原因は僕に違いない」
    このことを打ち明けて謝りたかった。
    ネロのことを気に入っているマスターもショックを受けたに違いない。今さらで申し訳ないと謝罪をする。どんな罵倒も浴びる覚悟でマスターを見れば、呆気に取られたあと慌てて「違う、違うぞ」と何故か否定していた。そしてこう続けるのだった。
    「あの事件はネロの当時の仲間が起こした別のやつだ。ただ、育ててもらった施設の人たちに迷惑をかけたくないからって、ネロ自ら退学したんだと…あいつらしいよな。あとな、春あたりに『ファウストが転校する原因になったのは俺だった。暴力で解決するしかなかったあの頃、襲われそうな人…ファウストを助けたつもりが、暴力っていうトラウマを植え付けただけだった』って…………なあ、お前さんたち、勘違いしてないか?」


    ファウストはネロの家まで駆けだした。事前に連絡はしてない。インターホンを押しても壊れているのか、カチカチとボタンが押し込まれるだけだった。
    構わずドアをドンドンと叩いていると、鬱陶しそうに隣から人が出てきた。煩くしたことを謝ると、ファウストを一瞥してから「さっき出てったよ。引っ越すって」と言って部屋へ戻っていった。
    まだ近くにいるかもしれない。電車に乗るにしても、ネロなら立ち去る前にどこかに寄るはずだ。喫茶店からここまでの道中はいなかった。きっとファウストがいるから避けたと考えられる。だとすれば、ファウスが近寄りたくないと思っているだろう場所になら居る可能性は高い。そう推理したファウストは再び走りだした。


    ひと気のない商店街。昔は賑わっていたであろうその場所は、ほとんどが錆びた灰色のシャッターに身を包んでいる。そんな静けさを保つ金属の板が、走る足音を反響させる。ポツリと営業している古い電気屋から、テレビの音が流れているが、何を言っているかは気にならない。自分の乱れた呼吸と暑さで遠のきそうになる意識の中で、目的の気配を探すのに集中する。
    追われていたところを助けられ、助けてくれた人を追いかける。こんなデタラメは今日限りだ。次に探す場所が最後。ネロとファウストが本当に初めて会った場所。
    意を決して角を曲がれば、男がひとり立っていた。
    「ネロ!」
    「先生…………」
    「すまない、もっと早く会いに来ればよかった」
    「はは、なんで先生が謝んの」
    ネロの表情は、深く被ったキャップで上手く読み取れない。
    「僕は…!」
    「俺は…会いたくなかったよ、また辛い思いさせるから。見ただろ?俺は変われないんだよ、昔も今も」
    そう言って、ネロは離れていこうとする。
    引き留める方法はわからないけれど、伝えなくてはいけない。そのために来たのだから。ファウストはなりふり構わず叫んだ。
    「そんなことはない!僕たちは勘違いをしている!そもそも僕が転校したのは本当の理由は、きみに救われて環境を変える勇気を貰えたからだ!」
    「…………え?」
    「ネロが怖かったんじゃない……だから、ずっとお礼が言いたかった。本当にありがとう」
    「いや…………そんな……俺は…………」
    「昔も、この前も、救われてばかりでこんなこと言う資格はないけど……これからも一緒にいたい!」

    ここはひと気の少ない商店街。
    一世一代の大告白のようなシーンを笑う人は誰もいない。炎天下に響くのは、蝉の大合唱より大きく響くファウストの声。ゆっくりと顔を上げたネロの頬には、汗とは違う水滴がきらりと伝って落ちる。
    キャップを外した手の甲でぐいと頬を拭い、掠れた声のまま困ったように眉を下げて笑った。
    「それ…………プロポーズ?」
    照れを冗談で誤魔化そうとするその仕草は、もう大丈夫だと物語っていた。
    「こんな外で叫んだりしないよ。もっと落ち着いたところがいい」
    「それは同感」
    ふたりは見合って、やれやれといった具合に力なく口元を綻ばせた。

    帰り道、ネロが「あ」と声を漏らす。
    「……半袖じゃん」
    「夏だからな……まあ、これもきみのおかげだよ」
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