神の力砂漠の処刑場屋上、鏡の間。
広間の中央に鎮座した巨大な黒い岩石のような壁に純白の頑丈な鎖と手枷が取り付けられた処刑台。そこに両手をそれぞれ左右に縛りつけられ、胸を開いた姿勢ではりつけられた我が身。
眼前には6人の賢者と、うるわしい装飾が施された、白く輝きを放つ細身の大剣。
鎧を着たまま拘束されていることに、それを物ともしないのであろう摩訶不思議な剣の殺傷能力を察し身震いする。
これからこの剣が、この胸に。きわめて鮮明な意識の中、抵抗する手段の一切を奪われたまま死に至る苦痛を一方的に加えられることに、どうして恐怖を抱かずにいられるだろうか。賢者たちに怨嗟の眼差しを向けながら、あまりに的確に想像される惨事への畏れを悟られぬよう噛み殺す。
残酷な美しさを湛えた剣が賢者の力により妖しく浮き上がり、その切先を我の胸にひたりと向ける。ああ、いよいよか。はやる鼓動と呼吸、身体の震えを押し殺し、心を無に帰すべく努める。
次の瞬間。
突如として胸に捩じ込まれる重苦しい衝撃。
息の詰まる感覚、霞む視界。
短い呻き声が喉から絞り出されると共にたちまち、足元から順に全身の力が抜けていく。
程なくして脚が体重を支えられなくなる。姿勢が保てなくなる。身体が崩れ落ちようとするも、両腕の鎖がそれを許さない。鈍い耳鳴りの中、鎖の軋む音を遠くで聞く。
頭の奥深くが急速に冷たくなってゆく。
痛みを感じるよりも先に、意識が途切れる。
右手の甲の暖かさが、我を深い眠りから醒ます。
右手の指先が微かに動かせることに気づく。
その温もりが徐々に熱へと変わり、やがて右手から全身に伝播していく感覚を微睡の中で記憶する。
次第に右手が力を取り戻す。拳をぐっと握りしめてみる。
頭を満たしていた靄が払われてゆくにつれ、意識が鮮明になる。ついに瞼を上げる。
刹那。
右手から与えられた力が、剣に貫かれたままの心の臓を突き動かす。
意識が完全に覚醒する。
我を死に至らしめるはずだった、人間が生きて味わうはずのない、言語を絶する痛みをはっきりと認識してしまう。
たまらず全身を激しく引き攣らせ絶叫する。
肉体が本能的に拘束からの解放を求める。喉から迸る叫びに任せ、渾身の力で両の腕の鎖を引きちぎらんとする。
右手の熱がさらなる力を与え、右手を拘束していた手枷がついに耐えきれず破壊される。
朦朧とする意識の中、激しい憤怒の視線を眼前の怯える者どもに絶えず送りつけながら、自由になった右手をちらと見やると、その甲に三角形の紋章が金色に輝いていることに気づく。これはハイラル王国に伝わる秘宝トライフォース、そのうちの「力」を司る一片。
そんなものが、なぜ我が身に。
右手から溢れる力はとどまることを知らない。この身を燃やさんばかりに無限に湧き出す強大なる熱。絶叫に喉が灼けるのも構わず、続いて左手の拘束も振り解く。その勢いのまま前に進み出て賢者の1人を葬る。胸に剣を刺したまま。
処刑されたはずの罪人が息を吹き返すなどという常軌を逸した顛末にただ狼狽えることしかできない哀れな賢者ども。そんな奴らをよそに、胸を貫く忌々しい白い剣を、自らの手で、ずるずると引き抜いていく。それは再び肉を無惨に引き裂きながら。少し引き抜くたびに、思わず顔が激しく引き攣る。
本来なら、ましてや我でなければ死せずして済む刑だったかもしれないところを。邪悪なる魔力の制御だと?そんな不当で利己的でふざけた理由で処刑されてたまるものか。皆殺しにしてやる。
引き抜いた剣を我が物とし、眼前の者どもに猛然と襲い掛からんとする。
しかし。奴らは奥の手を隠していた。
処刑場に安置されていた大きく円い鏡。その薄暗い、黄昏を湛えたような仄暗い鏡に奴らが手を翳し力を与える。鏡が光を放ち、我の背後の壁に不可思議な紋様を描く。
それは異界への入り口だった。
しばし抗うも、最後にはこの身は影となり、剣と共にそこへ堕ちていった。
我が次に目覚めたのは元いた場所とは異なる、黄昏時のような、仄暗い、美しい、穏やかな世界。
ここは、死後の世界だろうか。
この世界と右手の紋章が共鳴し、我の姿を獣のそれに変えた。5本の指をそなえたたくましい腕がありながらも2本の太く長い牙と豊かな毛並みの巨躯を有し四つ脚で歩く、まるで猪とも形容できる姿。
驚くべきことにここには住人がいるらしい。人の形をしているが手足が細く、影のように黒い身体の所々に水色の模様を持った、初めて目にする種族。
接触を試みる。しかしこの汚らわしい姿のために奴らは我を近づけようとせず、しまいには追い返すべく武器を向けようとした。我が胸を貫いていたあの白い剣はそばにあったが、この姿では扱えない。対抗する術がなかった。
我はこの世界の隅でひっそりと暮らすことを余儀なくされた。
ここで生活を続け、住人を観察しその話を盗み聞くうちに様々な事実を解明した。
ここの住人は、先祖がかつて聖地への侵入を試みた罰で無条件に、永劫にここに幽閉されることになった種族、「影の一族」というようだ。奴らの話によれば、我が元いた場所は「光の世界」。それに対しここは「影の世界」と呼ばれている。れっきとした現世でありながら、光の世界の者どもからは無責任にもあの世と呼ばれ盲目的に忌避されているようだった。
ここが現世なら、我が命はまだ尽きていない。元の世界に戻ることも可能かもしれない。そんな仮説がたてられた。
光の世界から理不尽に追放され敬遠された境遇という共通点。影の一族と手を組めないかと勿論考えた。しかし人間と獣の姿が不随意に入れ替わるこの状況で、再び武器を向けられることが明確な状況でどう人前に出るというのだ。そもそも光の世界に出る方法もわからぬまま手を組んで意味があるのだろうか。
何度考えようと、議論は振り出しに戻るばかりだった。
この胸の傷が閉じることはないらしい。
自分のものの色ではない、真っ白に輝く不気味な色の血液が、とめどなくその傷から溢れ、地面を濡らす。
激痛という言葉でも到底足りない痛みにひたすら唸り、身を捩り、眠ることもままならない。
仮に運良く眠りにつけてもほどなくして「あの時」の光景が、痛みが、恐怖が必ず夢に現れ、冷や汗にぐっしょり濡れ叫びながら目を覚ましてしまう。
前回まともに眠ったのはいつだろうか。
果てにはこの生々しい胸の傷を作ったあの剣が視界に入るだけで記憶がきわめて克明に呼び起こされ、耐え難い嫌悪感に嘔吐し続ける。食物もまともに摂れず吐くものなどなにもないにもかかわらず容赦なく襲いくる嘔気に体内のものが限界を超えて絞り出され、その度に鋭い酸い味が喉と舌を焼く。
ああ。もう、いっその事。
生きた人間の記憶に元来存在するはずのない、して良いはずのない、処刑という最大級の暴力の痛みが。恐怖が。
肉体を、精神を、確実に磨耗させていった。
終わらせてくれ。
楽に、してくれ。
そう幾度願ったことか。それが叶えばどれほど良かったことか。
致命傷を負っているはずにもかかわらず。なおも惨たらしくも我を生かし続ける右手の紋章の力。
誰かに縋ることもできない。
紋章の加護により理性を手放すこともできない。
人には到底抱えきれぬであろうこのあまりに残酷な苦痛と共に、永劫の時を、孤独に生き続けるしかなかった。
神はなぜ我を選んだ。
紋章を与えた神を呪った。
永遠とも感じられるほどの時間が経った。
いつしか人間と獣はもちろんのこと、思念体の姿までも任意に行き来する術を習得していた。
これほどの時を経てもやはり胸の傷は塞がらず、気味の悪い色の血も垂れ流され続けている。相変わらず痛みもあるがもう慣れたものだ。否、慣れるほかなかった。
諦念により感情は極限まで削ぎ落とされ、残ったのは憎悪と怨念のみ。それを長い歳月で純度を増しながら募らせるばかりだった。
傲慢な理由で我を処刑し、影の世界に送り込み、我に多大なる苦痛を味わわせた光の世界の人間ども。我がそちらへ戻ることが叶えば。
叶えばよかったのだが。
我のように元来光の世界に住まう者がふたつの世界を行き来する方法として、影の一族の力を借りればそれが可能であること、かつ処刑場の鏡を用いる以外ではそれが唯一の方法であることをついに突き止めていた。人間の姿を保てる今なら彼らに助力を申し出ることも可能だった。しかし、この世界の者どもはかつて自らの一族を迫害した光の世界への憎悪を募らせつつも刃向かうことを忘れ、心地よい黄昏に絆されたようにここで安穏を貪りながら生きることを選択したようだった。
腑抜けどもが、なんと嘆かわしい。こちらから光の世界に戻る手立てはもはや存在しないと長らく思われており、荒み切った心で時が流れるのをぼんやりと待ち続ける無味な日々を延々と繰り返していた。
しかし。
運命とも言える時はついに訪れた。
「くそ…くそぉ…」
啜り泣くような声が聞こえた。そちらを見やると、手が隠れるほど袖の長い黒いローブを着た、祭司とも見える男の姿。へたり込み、地面に頭をひたすら打ちつけ、相当参っているようだ。そいつの独白に聞き耳を立てる。
名はザント。影の一族の1人であり、光の世界への報復を目論むも、保守的な王族に嫌気がさして自ら王の座を狙った。しかし王としては認められず、力を渇望した、という具合のようだ。
利害は一致した。
影の世界の住人にもまだ骨のある奴がいたとは。気に入った。
こやつに力を与え、共に光の世界へと踊り出よう。
我ながらの名案に、思わず口角が上がる。絶望に凍りついていた心の端が、その希望にじわりと温かくなる。このような感情が湧いたのは、いつぶりだろうか。
今ではすっかり我が得物となった白い剣を右手に、歩みを始めた。
我は神に選ばれた。
紋章を宿したこと、生き続けることが神の思し召しであるならば。
神がそう認めるならば。
この力、我が物とし利用させていただこう。
光と影を、一つの闇に。
完