つい先頃までまるで夏日のような陽光だったのに、急に朝晩涼気が寄ってくるようになった。今日など朝からしとしとと雨が降り続いて日中でも肌寒い。
とは言え、これがこの季節の本来の気温なのだから頭も体も猛暑に慣らされてしまっていると感じる。
シャツだけではなく背広を着てきて正解だったな、と悲鳴嶼は独りごちた。考えたらもう十月だ。すぐにコートやマフラーが必要な季節になるだろう。
「おはようございます」
後ろから掛けられた声に振り向くと、ビニール傘を片手にした不死川が立っていた。
「おはようございます、不死川先生」
歩く足を緩めると不死川は悲鳴嶼のすぐ隣にやってきた。そして二人で並んで歩き出す。
ちらりと横に視線を投げると、こんなに寒いと言うのに彼の胸元はいつも通り大きくはだけている。見ているこちらの方が寒くなりそうだ。
「その……、寒く、ないのか?」
つい、思ったことを口に出してしまうと、不死川は一瞬きょとんとした顔をしてその後小さく笑った。
「そりゃァ今朝は少し気温が下がりましたかねェ。でも、この季節ってこんなもんじゃないですか」
「私なんか、暑さに慣れきってしまっていたせいか一気に季節が進んだ気がするんだが」
「あー、悲鳴嶼先生は夏生まれですもんねェ。暑い方が耐性あるんですかね」
彼が自分の誕生日を知っていてくれたことに驚く。
「私の誕生日、知っているのか?」
「あ、いや、あの……、ほら、玄弥が……」
「……ああ」
玄弥の名前が出て悲鳴嶼は納得した。
玄弥は不死川のすぐ下の弟で、悲鳴嶼が教鞭を取る学園の学生でもある。玄弥は悲鳴嶼の受け持ちクラスの生徒ではないが、彼の所属する部の顧問を悲鳴嶼は務めている。
そのためか玄弥は悲鳴嶼の誕生日にバースデーカードと手作りのお菓子をプレゼントしてくれたのだ。
基本的に悲鳴嶼は生徒から物を貰うことは避けている。ただこれはカードと調理実習で作ったものだと押し切られて受け取った。なんでも兄である不死川からアドバイスを貰ったらしい。何をあげたらいいか、と悩む玄弥に不死川はまず生徒なら成績を上げるのが一番だと言ったのだそうだ。なんとも不死川らしい話ではある。
物に頼るな、と。祝いたい気持ちがあるならどう伝えればいいか考えたらいい、と。それでも最後にそう付け足したのは兄としての気持ちからだろう。不死川も悲鳴嶼と同じく教師だ。だから立場と言うものをわかっているのだと思う
玄弥からの可愛らしい猫の絵柄のカードには手描きで子猫の絵と感謝とお祝いの言葉が綴られていた。
不死川が悲鳴嶼の誕生日を知っているのはちゃんと理由があるのだ。
だから納得もしたが、落胆もした。
心のどこかで自分のことに少しでも興味を持ってもらえているのかなと期待してしまったからだ。
「不死川先生は11月生まれだったな」
悲鳴嶼だって不死川の誕生日は知っている。こちらは不死川と違って純粋に不純な動機からだが。
その時、ぴたりと不死川の足が止まった。
「不死川先生?」
こちらも合わせて歩を止めた。傘を差して下を向いている彼の表情は見えない。
「……んで」
「ん?」
「なんで俺の誕生日、知ってるんですか?」
「あ、それは、ほら、その……、玄弥が……」
しどろもどろになりながら、なんとかその場を誤魔化すために玄弥の名前を出した。心の中ですまんと謝りながら。
「……あ、あー、そうですね、そうですよね。あいつ人の情報売りやがって」
「玄弥を叱らないでやってくれ。私が軽率に聞いたりしたから」
もう一度、悲鳴嶼は心の中で深く玄弥に謝った。もし玄弥がこの件で兄に叱られでもしたら悲鳴嶼としては立つ瀬がない。
「悲鳴嶼先生」
「ん、なんだ?」
「今日ってちょうど真ん中なの知ってます?」
「なんのだ?」
いきなり変わった話題に少々戸惑う。
「俺と悲鳴嶼先生の誕生日のちょうど真ん中です」
「そうなのか」
さすがは数学教師だなと悲鳴嶼は呑気に思った。計算が早い。
「生徒たちの間じゃ仲良い二人の誕生日の間を真ん中バースデーって言って祝うそうですよォ」
「若い子はなんでもすぐ記念日になるな」
悲鳴嶼も曲がりなりにも教師と言うものをやっているのだから中高生の流行はそれなりに知っている。が、これはまったく知らなかった。
「悲鳴嶼先生」
もう一度、名前を呼ばれた。返事をする間もなく不死川は先を紡ぐ。
「だから、俺たちも、その、偶然とは言え、その、今日、なんで」
不死川は少し黙って、そして、それからブンと音でも鳴る勢いで傘を持ち上げて顔を上げる。
「仕事終わったら飯でも食いに行きませんか」
そこまで一気に言うとまた不死川は下を向いてしまった。そして傘の中から、平日ですし仕事忙しいですから、無理ならいいんでェ、と小さな声が聞こえてくる。
「え、あ、是非!」
不死川の声が聞こえなくなる前に、悲鳴嶼は自分でも引く勢いで答えを返してしまった。思わぬところで謙虚さを見せる彼が止めましょうと言うのを阻止するために。
「良かったァ」
悲鳴嶼の目の前で、不死川が小さく笑う。それは初めて見る表情だった。悲鳴嶼が動けなくなってしまうほどの。
固まった悲鳴嶼を余所に不死川はそのまま小走りぎみに先に校舎の中へと消えてしまった。
不死川が二人の真ん中バースデーを即答できたその理由を悲鳴嶼が知るのは数ヵ月先のことである。