生贄の村「ねぇ、ミスラ。久しぶりに遊ぼうか」
とある眠れない夜、オーエンはいっとう楽しそうにそう言った。
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私の村には神様がいる。そして私は神様に捧げられる生贄だ。
神様は五十年に一度、村からの生贄を受け取る。生まれた時、手の甲に生贄の証が浮かんだ人が生贄の年に神様に捧げられる。私は生まれた瞬間に両親から引き離され、良い生贄になるように育てられた。村のための生贄となることはとても素晴らしいのだと教えられた。私も心の底からそう思っている。
神様は村はずれにある神殿を住まいにしている。物心ついたころには、巫女に連れられて神様の神殿を訪れていたけれど、神様のお顔を見ることができたのは、十年ほど前のことだ。
巫女は生贄がいない期間、神様の身の回りのお世話をする女性のことだ。私が生まれ、ひとりで神様のお世話をできるようになると、巫女は役目を終える。そして生贄の年を境にまた誰かが任命される。
巫女が役目を終え、初めてひとりで神殿を訪れた日、神様は私の前に姿を現してくださった。
神様はこの世のものとは思えない美しさを持っていた。神様なのだから当然なのだと当時の私は思った。私がその姿に見惚れていると神様は微笑んで、私にその御髪に触れる許可を与えてくださった。神様の銀色の髪は長く美しく、絹糸のような手触りだった。人の姿はしているけれど、神様はどこまでも私たちとは違う生き物なのだと痛感した。それ以来、私は神殿を訪れては神様の御髪をとかさせていただいていた。
今年、いよいよ生贄の年だった。神様にそのことを告げると、神様はまるで忘れていたかのような反応をした。それから私を見て、私の頬に触れた。
「恐い?」
「いいえ、恐くはありません。村のためですもの」
神様が生贄を必要とするのは村を護るためだ。北の国にぽつんと存在する私の村は、神様の庇護なしでは生きられない。そして、神様が村を護るには相応の力が必要となる。生贄は神様の力の源。だから私は村の礎。
「そう……つまらない子」
神様の手がゆるりと離れていく。私はハッとしてその手を掴んだ。衝動的な行動に自身を恥じる。慌てて手を離そうとしたけれど、神様が握り返してきてできなかった。
「君は何が恐い?」
「私は……私に恐いことなんて、何も……」
「嘘。人は死が恐ろしい。どんな大義名分があったとしても、自身の命の終わりには敏感になるものだ。いいんだよ。もっと恐怖を感じても。もっと怯えて、泣いて、絶望してごらん」
歌うように神様は言う。いっとう甘い笑みを浮かべて、いっとう残酷なことを言う。
「君の恐怖が僕の力となって村を護る。君の涙が村を潤す。それが君の喜び。君の願い。でも本当に? 君は君の絶望を養分に生きる村人たちを妬ましいとは思わない? 手の甲の証が浮かんだのが別の誰かなら良かったと思ったことはない?」
がたがたと耳障りな音がすると思ったら、私が震える音だった。神様の言葉はまるで私の醜い本音を白日の下に晒すかのようだった。気付けば私はぼろぼろと涙を流していた。ごめんなさいと繰り返しながら。
「赦してあげる」
神様がふわりと私の身体を抱きしめてくださった。神様の身体は雪のように冷たかった。生きている人とは全然違う。けれど私は他人の暖かさを本当の意味では知らない。
「君のすべてを赦してあげる。だから、約束の日にはちゃんとここに来るんだよ」
「はい。神様。私たちの神様。心優しいあなたにすべてを捧げます」
私が生贄になる日は、その三日後だった。
次に神様にお会いするのは明日だ。明後日は泉で身体を清め、翌日神殿に赴いた際、私は生贄としての務めを全うする。そのため、自由に動けるのは今日が最後だった。
私は村の家をひとつひとつ訪ねて、十数年間のお礼を言った。皆、私が生贄になることを喜んでくれた。そして、村の平穏が保たれることに感謝してくれた。
「気持ち悪い村ですね」
最後に村長の家に挨拶に行こうとした時、道端にその人はいた。
まるで悪魔のような人だった。
その人は燃えるような神に悪魔のような緑の瞳をしていた。神様の美しさは静かなものだけれど、その人の美しさは荒々しいものだった。不覚にも私は、悪魔のようなその人に惹きつけられた。村の中では見たこともない、その上、神様とは対極にあるようなその人の存在から目を逸らすことなんてできなかった。
「人間を礎に成り立っているのに、それに忌避感もない。さすが、あの人が好む村ですよ」
「あの……」
放っておけばよかったのに、私は思わずその人に声をかけていた。
「……嗚呼、あなたが今回のイケニエですか?」
神様と村人しか知らないことを、その人はあっさり看破した。私は警戒してその人をにらみつける。
「な、何なんですか、あなた。神様の偉業を侮辱し、私のことまで見破るなんて……まさか本当に悪魔……?」
「悪魔? あはは。イイですね、悪魔」
侮辱してやったというのに、悪魔は楽しそうにけらけらと笑った。笑うと余計に色気が増した気がして、私はくらりとした。
「どうも、悪魔です。あなたを神様から救いにきました」
「何を言っているの。私は自ら望んで神様の生贄になるのです。救われる必要なんてありません」
「嘘ですね。人間が命への執着を忘れられるわけがない。村のためを思うなら、生贄の日なんてものを待たずに神様にその身を差し出せばよかったじゃないですか」
私は咄嗟に言い返せなかった。私は神様に生贄として差し出される日を待っていた。その日まで私は生きていられるなどと愚かなことを考えていたわけではない。その日が昔から決められた日だから。その日だけが神様に生贄を捧げる日だから。それ故に私は待っていた。心待ちにしていた。本当に。
「今も揺れている。良い子の振りなんてやめたらどうです。人間なんて放っておいてもすぐに死ぬのだから、自分本位に生きればいい。村を出てしまえば、あなたという犠牲を失った村の惨状を見ずに済む。何なら安全な場所まで俺が連れて行ってやりましょうか?」
「なにを……言って……」
「嗚呼、これは『悪魔の囁き』ぽいですね」
言いたいことだけ言って、悪魔は去って行った。取り残された私はわなわなと震えて、やがてぺたんとその場に尻もちをついた。
「何だったの……」
恐ろしいものを見た。恐ろしい誘惑を受けた。嘘のような存在。許しがたい悪魔。それが今目の前にいた。私の心を揺さぶった。
だけどもう大丈夫だと私は私に言い聞かせた。あれは夢だ。私の心の奥底にある汚いものが見せた幻だ。三日後、立派に生贄の務めを果たしたらな、神様に赦され浄化される。だから、私は生贄として立ち上がればいい。
「言い忘れていました。三日後、迎えに来ます」
耳元で悪魔の声がした。私は驚いて振り返ったが、そこには誰の姿もなかった。神様も、悪魔も、そこにはいなかった。
私は迷いを断ち切るように村長の村へ急いだ。
村長は私の犠牲を尊いものと捉えてくれた。夫人も涙を流して褒めてくれる。そうだ。これは誇らしいことなのだ。私が生贄になるのは正しいことなのだ。私は自分にそう言い聞かせた。
翌日、私は神様の元を訪れた。いつも通り神殿の掃除をして、神様のお食事の用意をした。いつもは神様を称える歌を歌いながらしているのに、その日は頭の中に悪魔の姿が浮かんで、気が散っていた。悪魔の声が耳から離れない。私は早く生贄の日が来ることを願った。
生贄の日に神殿に来たらすべてが終わる。私の汚らわしい心も浄化され、神様に赦される。早く、早く、と私は願い続けた。
神殿を出る前に神様にご挨拶をしようと居室へ赴くと、来客があった。いつの間に現れたのだろうか。慌てて部屋を出ようとしたが、私はつい神様の前に立つ人の姿を目にしてしまった。
「悪魔……!」
忘れられるはずがない。私の心を陰らせた存在が、どういうわけか神様に親し気に話しかけていた。私はぞっとした。身体が震えた。心が揺れた。嘘つきと意味の分からない言葉を叫びそうになった。
「あれ? 帰らせたって言ってませんでした?」
「■■。いいよ。下がって」
神様が追い払うように手を振る。まるで私は邪魔者のようだった。この神聖な神殿にいるべきではないのは、悪魔の方のはずなのに。
「神様……それは悪魔です。どうしてそんなやつが、神様のお傍にいることを許されるのですか!?」
「悪魔?」
神様は目を丸くして悪魔の姿を見ると、けらけらと笑った。まるで人間のような感情のある笑い方だった。
何を思ったのか、神様は悪魔に手を差し伸べた。悪魔は不思議そうな顔をしていたけれど、神様の手を取ると甲に口付けを落とした。私は鳥肌が立った。悪魔が神様に触れた。神様が穢されてしまう。村を護ってくださる神様が、悪魔の手に落ちてしまう。思わず叫びだしてしまいそうだった。
「おまえ、悪魔だったの?」
「はい。昨日から」
「何それ。ふふ。魔王になれないから悪魔で妥協したの?」
神様は楽しそうだった。反対に悪魔はつまらなさそうだった。
「うるさいな」
悪魔はそう言うと神様の唇に噛みついた。神様は拒むどころかそれを受け入れて、悪魔の背に腕を回した。二人はまるで恋人同士のように触れ合う。誰にも邪魔できないような何かがそこにはあった。
私は悲鳴を上げてその場から逃げ出した。私たちの村の在り方を否定し、私を唆そうとした悪魔を、神様は受け入れていた。信じられない。神様は悪魔に穢されてしまったのか。それとも、神様は最初から悪魔と通じていたのだろうか。本当は生贄なんて必要なくて、神様と悪魔が食べてしまっていたのではないか。考えれば考えるほど分からなくなっていく。
いったい何が正しくて、何が間違っているのだろう。
私は家に戻っていた。家に両親はいない。ひとりで生活できるようになってからは、私は村の片隅にある生贄用の家でひとりで生活していた。部屋中の壁に神様を称える言葉や絵画がかけられている。穢れを避けるために、食べるものも飲むものも制限されているから、私の家には水と果物くらいしかない。
気が狂ったような家だ。
生贄というのは犠牲だ。この村の人々はその犠牲を生贄に押し付けているだけだ。神様を崇めるように洗脳して、ろくな食事も与えずに。
私は愕然とした。どうして今までこんなにも簡単なことに気付かなかったのだろう。
逃げればいいのだ。私を犠牲とする村など捨てて、どこへなりとも逃げてしまえばいいのだ。誰が本当の親なのか知らないのだ。親や隣人への愛情なんてない。
逃げよう。私は決めた。何を企んでいるのかは分からないが、悪魔は私を神様から逃がしてくれると言っていた。迎えに来てくれるとも。神様は悪魔と通じているのだ。その神様の生贄である私が悪魔の手を取ることを、いったい誰に咎めることができるのだろう。
私は村を裏切る決意をした。
翌日は泉で身を清めた。私の計画は誰にも知られてはいけない。村人たちに知られたら、拘束されて無理やり神殿に連れて行かれるかもしれない。そうなっては逃げられない。
今まで生贄は皆、自らの足で神様の神殿へ赴いている。誰一人として逃げるという考えは持たなかったのだろう。洗脳だ。けれど私は悪魔によってその洗脳が解かれてしまった。
「ふふ。ざまぁみろ」
清めの泉で、私は生まれて初めて村人たちを呪う言葉を吐いた。
生贄の日。村人たちに見送られ、私は神殿へと赴いた。しかし神殿には入らず、裏手に回る。村人たちの監視の目はない。誰も生贄が逃げることなど想像してもいない。
神殿の裏手には悪魔の姿があった。私を逃がしてくれる唯一の存在。
「私を外の世界へ連れて行ってください」
悪魔に手を差し出す。顔が熱くて胸がどきどきした。さながらそれは恋のようだった。
「いいですよ」
悪魔はふわりと笑って私の手を取った。
私たちは村から離れた。殆ど休みなく一日が過ぎた。生贄の日は終わった。その頃、私たちは山の中腹辺りにいた。振り返れば、遠くに村の姿が見えるかもしれない。
「あ、見えてきましたよ」
悪魔は立ち止まり、背後を振り返った。私もつられて振り返る。捨て去った故郷が見えるのだろうかと期待した。
けれど私の目に飛び込んで来たのは、赤い光だった。
「あれは何?」
私が首を傾げると、悪魔は不思議な呪文を唱えた。手元に鏡のようなものが現れる、悪魔に言われてそれごしに光の方を見てみると、炎上する村が見えた。どこもかしこも燃え盛り、逃げようとする村人たちは透明な壁に阻まれて村から出ることはできなかった。
「なに……何なのこれ……!」
私は思わず鏡を落とした。幸いにも鏡は雪に埋もれて割れることはなかったけれど、その所為で燃える村の光景がいつまでも鏡に貼りついたままだった。
「あなたという生贄を失った村の末路です」
「うそ……うそよ、こんな!!」
私の所為で村が燃えている。私が逃げ出したから。
村のことなんてどうでもいいと思っていた。私を犠牲にしようとした村なんてどうにでもなってしまえと思っていた。けれどもしも、この鏡に映っていることが本当なのだとしたら、私は村人たちを見殺しにしたということになるのだろうか。私の背には大勢の命が重く圧し掛かっているということなのだろうか。
「とても人間らしい反応をしますね。オーエンなら笑いましたよ」
悪魔は知らない人の名を呼んで、どこかがっかりした様子だった。そから私の腰に腕を回して抱き寄せてくれたかと思うと、反対の手で私の胸を貫いた。
「え……?」
何が起きたのか理解できない。胸が熱い。悪魔に恋を感じた時よりももっと熱くて苦しくて痛い。
身体から力が抜けていくけれど、私の身体は地面に倒れるのではなくパキパキと音を立てて何か硬質な物へと変化していった。
「あの人の秘蔵っ子だからどんなものかと思いましたが、大したものではありませんね」
「なに……これ……」
「さようなら、幼き魔女」
悪魔の言葉を何一つ理解できないまま、私は石になった。
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「この辺りに住んでいたことがあって、その時に僕に護ってもらえると勘違いした人間たちが近くに村を作ったんだ。それから定期的に供物だとか言って食べ物や人間を捧げてきた」
目の前で炎上する村を眺めながら、オーエンはつまらなさそうに回想した。
「甘いお菓子は美味しかったけれど、麦や子供をもらったところで何も嬉しくない。それにわざわざ守護の魔法をかけてやるのも面倒だったから、ひとつ取り決めをした。五十年に一度生贄を差し出すこと。そうしたら村を護ってやる」
できたてのマナ石を光に掲げたかと思えば、ミスラに投げて寄越す。先程評価した通り、大した力にもならないマナ石だった。
「生贄には村に生まれた魔法使いを選んだ。五十年もあれば一人くらいは魔法使いが生まれるみたいだったから。僕は村を覆う魔方陣を描いて五十年に一度魔方陣にマナ石をくべた。僕が不在の時は使い魔に神様役をやらしていて、もしもマナ石の供給が止まれば今みたいに炎上するように仕込んでおいたんだけど、村人たちは律義に生贄を送ってくるものだから、魔方陣による守護は数百年続いたみたい」
それを壊すのが今回の遊びだった。
オーエンは言った。久しぶりに遊ぼうか、と。眠れないミスラはオーエンと遊んでいたら疲れて眠気がやって来るかもしれないと思い、オーエンの遊びに乗った。
オーエンは今まで通り、神様として振る舞い、生贄に務めを全うさせる。そしてミスラは生贄に選ばれた魔法使いを誑かし、村から逃がす。
そういう遊び、そういう勝負だった。勝てばミスラは生贄のマナ石を手にできる。けれど今にして思えば、オーエンは自分が負けることもこの遊びに織り込み済みだったのかもしれない。戦利品であるマナ石も食べる気にはならないほどのものだった。
「この前、この村のことを思い出したんだ。もう要らないから捨ててしまおうと思ったから、遊びに使った。あの生贄の子も他の村人たちも、たくさん僕に力をくれた」
オーエンは恐怖などの負の感情によって力を得る魔法使いだ。炎上する村というものはたくさんの力を彼に与えたのだろう。その証拠に、オーエンの色違いの瞳は爛々と輝いている。
「ねぇ、ミスラ。殺し合おうよ」
オーエンの手に魔道具のトランクが現れる。ミスラもまた水晶の髑髏を召還した。殺気立つオーエンの姿を見ているとむらむらしてきた。相手もやる気であるなら丁度いい。
「いいですよ。どうせ俺が勝ちますけど」
「言ってろよ!」
咆哮を上げてケルベロスが飛びかかってくる。すぐさまミスラは応戦した。
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穏やかな昼下がりの魔法舎に、賢者の悲鳴のような声が響いた。慌ててかけつけた双子を前に、賢者は身振り手振りで事のあらましを説明する。
「暫く姿を見ないと思っていたら、ミスラちゃんがオーエンちゃんの死体を担いで帰ってきた?」
「ミスラに訊いても『ちょっと遊んできました』とか言って本当のことを教えてくれない?」
顔面蒼白な賢者を前にして、双子の魔法使いは顔を見合わせた。
「うーん。我ら何となく知っておるが、二人で遊んでおっただけじゃから特に言うことなくてのう」
「あ、遊んでたんですか!? いったい、何の遊びを……」
スノウもホワイトも本当のところを知っている。
オーエンが自身が庇護していた村を破壊したが、自分のものをどう扱おうがそれに関与するつもりはない。たとえそれが非人道的なことであったとしても。北の魔法使いに倫理を説くことなど無意味だ。体裁上それをすることはあるけれど、名もない村がひとつ滅んだところで大きな影響はない。放っておくというのが今回の双子の判断だった。
「よくあることじゃよ。気にせんでよい」
「それに、若い子には少し刺激が強いからのう」
ほほほ、と笑ってみせれば賢者はひどく困惑した様子だったが、それ以上踏み込んではいけないと判断したのか渋々引き下がった。