【隠し味は ひみつ】 最近アオイが変だ、と伊之助は思う。
「何やってんだ、お前」
台所で朝食を準備中のアオイを訪ねれば、手製の浅漬けの下拵え中で、しかしアオイはその頬に、胡瓜の尻尾の切れ端を乗せている。
「やだ、朝早いから誰もこないと思ったのに」
「いや、だから何してんだ」
アオイは少し照れたように言い淀む。胡瓜を頬に乗せたまま。
「ええとね、お肌が、綺麗になるらしいのよ」
「ふぅん」
「す、捨てるところだもの! 勿体無いから!」
「そ、そうか」
また別の日。
「何やってんだ、お前」
伊之助は、夕刻に塩と砂糖と睨めっこするアオイに声をかける。
「お風呂でね、塩で身体をこするとツルツルになるんですって」
「へえ」
「でも砂糖の方が効果がよく出るって言う人もいて、ただねえ、高いのよねえ、砂糖……」
「で、どこに使うんだ?」
「どこって……」
そこでようやく、誰と話しているのかに気が付いたアオイは、ぶわっと赤くなって怒鳴った。
「ないしょ!」
また別の日。
伊之助は生の卵の白身を頬に塗るアオイを見つけてしまう。
「何やってんだ、お前」
「伊之助さん! なんで居るの!」
「いや、卵、自分に塗ってどうすんだよ、もったいねえな!」
「おっ、お肌が、ぷるぷるになるらしいって……」
「カピカピになるだろ?」
「少し置いてから、ちゃんと洗い流すんです!」
いーっと歯を剥くアオイに、伊之助は慌てて逃げ出した。
今日は一緒に買い物に出る約束をしていた。
アオイはまだ支度中だと告げるため、玄関口で出迎えたカナヲから、いつもと違う雰囲気を感じ伊之助は尋ねる。
「何だ、この匂い」
「……椿油かな?」
「あいつと同じ匂いがする」
「そうそう、アオイも同じの使ってるよ」
髪がツヤツヤになるんだよ、とカナヲが言うのを伊之助は聞くともなしに聞いていた。
アオイの部屋のすぐ前で、おおいと伊之助が声をかければ、中から、はぁいと声がする。
現れたアオイは、顔に白粉をはたき、鮮やかな衣を纏っていた。色付きの蜜蝋が塗られたツヤツヤした唇から、お待たせしてごめんなさいと、鈴のなるような声が転がり出る。
「……どうしたの?」
小首を傾げて尋ねるアオイに、伊之助は言った。
「……卵だの粉だのオマエ、天ぷらにでもなるつもりかよ」
ぽかんと伊之助を見たアオイの眼に、じわりと涙が浮かぶ。やべぇ、と思う間も無く伊之助に、櫛やら手鏡やら、椿油の小瓶やらが飛んできた。
「うわっ! ちょ! まっ! ……っぶね!」
「何よ! どうせ似合いませんよ! 柄でも無いって笑ってるんでしょ!」
「待て待て落ち着け!」
「いっそ、天ぷらにでもなりたいわよ! そしたら伊之助さん、私のことでも食べてくれるでしょ!」
伊之助がぽかんとする。
「あ」
アオイはぴたりと動きを止めた。
その、あの、ええと、これは、とアオイが言い澱むうちに、じりじりと後退りした伊之助は、くるりと踵を返して遁走した。
ああ、やってしまったと、アオイはぺたりと膝をついて、ゆるゆると襖を閉めた。ずうっと、まるで姉のような態度で接してきたのだ。伊之助にとっては晴天の霹靂だったに違いない。喰われると恐れ慄いて、逃げ出したのも無理はない。ぽろりぽろりと流れる涙を拭ったハンカチで、アオイは乱暴に白粉と紅も拭い落とす。
そうして暫く、アオイはぼおっと座っていたのだが、ああ、買い物には行かなければと、ゆるゆると動き出そうとした、その時だ。何やら往来が騒がしい。何かが塀を越えて飛び込んできた音がした。野生の獣が砂利玉を蹴散らして走るような音もする。襖と反対側の障子が、ばぁんと開かれて、猪のように伊之助が飛び込んできた。肩で息をしながら、ぐいと紫のびろうどの塊をアオイに押しつけてくる。黒文字のような細さの何かが内側にあるのに気がついて、アオイが恐る恐る布を開けば、螺鈿の蝶々の細工がなされた繊細な簪が、掌にころりと転がり落ちる。
「お前! いっつも、いっつも、順序がどうのってうるせーくせに! そういう事先に言うなよな!」
こうして無事に仲直りをした二人だが、その後伊之助が、
「なんもしてなくても食えるし、なんなら衣もなしで生でもいい」
などと言ったため、見事な紅葉をその頬に咲かせて、理不尽だ、と炭治郎と善逸に管を巻いた。