鳥の名前 3ショカツリョウ先生と呼びながら家に駆け込むと、居間に彼の姿はなく、老医師に何事かと笑われた。
老医師が変わらずなのだから何も変わらない朝と理解しつつも、必死に裏庭に走る。
彼の背中が見えた。
鳥かごから出したあの鳥の診察をしているのか、その姿はいつもの誰にも別け隔てなく優しい彼で、危険でも、ましてやずる賢くもない。
きっと間違いなのだと確信した。
彼が他所から来た人なのはその外見で判る。だから他所の町の誰かが、このあたりで異国人暮らしているらしいと話し、彼を見かけたことがある人が風貌を伝えたのだろう。兵たちはきっと誤解しているのだ。
きっとそうだ。
だから、きちんと申し開きをすれば何も恐れる必要はない…ないのだけれど、胸がバクバクと脈打っている。
今のこの人は、思慮深く献身的で悪意の影もない。まるで聖人のようだ。こんな素晴らしい人はそう居ない、ずっとここに居て貰いたいと思っている者は少なくない。
こんな人はそうは居ない。
かけがえのない人だ、けれど。
「ショカツリョウ先生…こっちに」
この人、は記憶がないのだ。
少しずつ貯めていた金と、水筒と、食料の包みと地図。一緒に移住してきた近所のおばさんがくれた新しい外套を彼に纏わせ、荷物を入れた肩掛けカバンを持たせる。夜まで待つのは、町の出入りを怪しまれるので昼間に行く事にした。先程の兵士たちは、渡し船の時刻から見て、すでに渡河を済ませたはずだ。
ただならぬ様子に、老医師も察したのか「持っていけ」と財布と身分を証明する手形をくれた。
もしや、こんな日が来ると予感があったのかと、今日の今日まで何も考えずのんびりしていた我が身を情けなく思うも、自省している暇も惜しい。
大事なものを取りに行くと家に戻った彼がすぐに戻るのを待って、ショカツリョウ先生、行きましょう…そう手を掴んだ。
彼は何も言わずについてきてくれ、それがこの5年で培った信頼のようで嬉しかった。
あの中州で彼を見つけたのが、つい最近のようにも思えるけれど、あの頃よりは背が伸びて力も強くなった。元兵士だったお爺さんに、護身の心得も、商隊宿の商人から旅の心得も学んだ。彼を守るためにすべて学んだ。
いつもの足取りで門へ向かう。すれ違う人たちと変わらぬ挨拶をする。外套着てくれたんだね、と市場からの帰りのおばさんに声をかけられ、対岸の図書館に行くと話した。
若先生も一緒にいくのは珍しいね、ちゃんと守るんだよと言われたら、もちろんの声にも力が籠もる。
この人は自分が守る。
絶対に守る。
彼の手を掴んだ指に力が籠もる。
見咎められず町から出て、白い小石と逆方向に向かう。船着き場はもしもの場合がある。大回りになるが、陸路で都まで行こうと思う。
都に行けば兄が居るから、匿って貰おうと算段があった。長く真面目に働いた兄は今や出世して、去年、小さいが一軒家を構えるまでになったようだ。忙しいのか最近は手紙のやり取りも減っていたが、一時期はよく都に遊びに来い、世話になってる二人もと、誘ってくれた兄だ。事情を話せば助けてくれるはずで、機を見て、外国に出る船か、商人を紹介して貰おうと思っている。
多分彼はキングダムワールド方面の人だろうと風貌からあたりをつけているから、そちらに行ければ、運が良ければ彼を知る人に保護して貰えるかも…。
キングダムワールドまでどれほど遠いか、地図では体感できないけれど、やり遂げる決心をした。旅中節約をして、なんならどこかの村で仕事をしてもいい。時間をかけてでも、彼を安全に、疑いを持たれない場所に。
もしかしたら、懐かしさで記憶が戻るかもしれない場所に。
「ショカツリョウ先生、こっちです」
駆け出したいのを堪えて、旅人がまばらに行き交う砂漠の街道に出る。
船を使うルートに比べて人気はないが、それでも人通りが絶えることはない。紛れてしまえば一安心と、少し歩調を弛めた。
何事が起きているのかと、彼は訊かないでくれた。フードを目深にしている姿は、もしや察しているのもしれないと心が痛む。
きっと誤解なのに。
この人が悪者のはずはない。
途中、井戸の近くで休憩を取っている商隊に混じって、昼食を摂った。
彼が請われるまま怪我人と病人の診察をして、こちらもラクダの蹄の手入れや水くみをすると、タダで食事を分けてくれたのだ。彼をいたく気に入ったようで、旅に同行しないかと誘ってくれたが、彼らはこのまま船着き場を目指すらしい。
残念ながらと断っても、商人は磊落に笑っただけだった。
キングダムワールドから来たのだと言う彼の荷には、赤い虎の印があった。
彼を木陰で一休みさせている間に、手持ちの地図よりもっと広域の地図を見せて貰う。レジーナの王都からキングダムワールドに入国するにはいくつかルートがあってと、運が良すぎる出会いに感謝しかない。
休憩を終えて立ち去る商隊を見送り、彼と先を急いだ。
ふと思い立ち、もしものときには彼だけを逃がそうと、金はすべて彼に持たせる。
後はひたすら街道を歩くだけで、商人が教えてくれたオアシスと珪化木の森には夕暮れには着くだろう。
何かが変だと気がついたのは、化石となった森の姿が見え始めた頃だった。日は傾き始め、予定より遅くなったが日が落ちるまでにはオアシスに着くだろう…そう考えながら顔を上げ、見回して、気がついたのだ。
誰も居ない。
陸路は水路を活用するルートに比べて人気がないとはいえ、船で運べぬ割れ物や家畜をたくさん連れた商隊、急がぬ単機の旅人でそれなりに賑わっているはずだ。
それが今は誰も居ない。オアシスが近いというのに、誰も。
先を急ぐべきか、どうすればと見回すと、後方、自分たちがやってきた方向に小さく砂塵が見える。商隊ではない、商隊はあんなふうにラクダを急がせることはない。
あれは。
「ショカツリョウ先生、行きましょう!」
あれはきっと軍隊だ。追いかけて来たのか別の理由かは判別できないけれど、すぐに追いつくのはわかる。
ただちに身を隠す必要がある。砂漠の真ん中ではあまりに無防備だ。
彼の手を引き、一日歩きどおしでくたびれ果てた脚に鞭打って、珪化木の森を目指す。
大昔も大昔、この地がまだ森に覆われていた頃に、火山の噴火で火山灰に森ごと呑まれたこの森は、そのまま長い時をかけて立木のまま石のようになった。
宵が迫る青紫の空の下で立ち並ぶ木の姿は不気味だったが、今はここしか身を隠す場所がない。息を荒げて、森の中に続く道に駆け込むと、木立の影のせいか闇が急に濃くなった。木立を渡る風が、妙な音がする。近く、オアシスからの水の匂いもする。
振り返れば、砂塵はまだ遠い。
今のうちにどこか。
「止まれ!!」
大音声がどこから来たのか、最初分からなかった。
ただ、足元が真昼のように発光し、砂が舞い上がる。先程から聞こえていた妙な風の音が強まって、彼の外套が大きく、鳥のように翻る。
眩しさに薄目のまま顔をあげると、空飛ぶ船が頭上にあった。
赤い虎が画かれて、ライトのまばゆい光に浮かび上がる。
「ショカツリョウ先生、後ろに!」
どうしようと、焦る頭で考える。自分が囮になって彼を逃がす事も考えたが、この砂漠のなかで、どこに逃げると言うのか。
焦るままに考えは纏まらず、キッと船を睨みつける。
ゆっくりと降りてきた船の胴体部分が、着陸しないままパカリと開き、桟橋のように砂と船を繋いだ。
彼を捕まえるための兵士が山のように駆け出してくるのか、ジリジリと、砂の上を彼を庇いながら後ずさる。
けれど、現れた人影はひとつだった。
静かな足取り。
優雅なシルエットに目を見張る。
降りてくる人の姿は、まるで羽を広げた鳥の王のようで、とても悪人には見えない。
彼は、外国の言葉で短く声を発した。
それはあまりに静かな、哀切の響きを持っていた。
悪人はこんな声を出しはしまい。
誤解でこんな眼差しをすることはない。
ならば。
慌てて振り返ると、彼は荷物も外套も地面に脱ぎ捨てていた。
ショカツリョウ先生、そう声を掛けようとしたが声は出ず。
彼もこちらを見ることもなく。
彼はただ、その男を真っ直ぐと見詰めて、それから。
これまでで一番美しい声を。
別人のようなあのひとは発したのだった。
「諸葛亮」
私の鳥は、もういない。