才蔵「才蔵!才!!ちょっと来てくれ!」
練習終わりの熱気と、荒い呼吸音の向こうから、練習場に顔を出した上司の呼び声が響いた。
まだ慣れない新人たちに、これからストレッチをさせ、明日のスケジュールに関しての伝達をしないとならないが、上司の様子から急ぎなのだろう。
首にかけたらタオルでいくら拭いても流れてくる汗を再度拭い、飲みかけのボトルを置いて、才蔵は同期の仲間に後を任せた。
「なんですか?何か変更でましたか?」
役者の仕事は水物だ、変更も中止もなんでもござれの世界で、こうやって急いで呼ばれていい話だった試しはない。
若い奴らの殺陣が様になってきたばかりだから、中止だけは勘弁だなとモヤモヤ考えながら練習場の外に出た才蔵だが、上司は「こっち」と打ち合わせ用の部屋に手招く。
ならば悪い話ではないなと、才蔵はホッとして後ろに従った。
だったら先にシャワーくらい浴びたかったが、まあ今更でもあった。
「ちょっと相談なんだけどさ」
「はい」
言いながら開けたドアの向こう、打ち合わせ用の置かれたテーブルには、資料がいくつか乗っている。
つまりは。
「新しい仕事ですね。ステージですか?」
「テレビ、ドラマ。有名なやつだぞ」
ならば予算も良いだろう。
むしろ良い出来事だったなとホッとして、才蔵はいそいそ折りたたみイスに座った。
浅はかであった。
あの時の自分の浅はかさに、才蔵は今でも…撮影が始まった今でも、たまに軽く飛び蹴りをかましたくなる。
最初の話は、モブ忍者たちの仕事だった。
体型やアクションの腕で、必要人数分の人選を要請されたのだ。才蔵はまだ20代半ばで、もっと上の立場の先輩たちが居るのだが、あいにくと大規模なイベントでここしばらく出払っている。高校の頃からこの仕事に首を突っ込み、キャリアだけは長いのでよく後事を頼まれるが、今回は後事にしては責任が重い。同期とあれこれ話し合い決めた。
忍者で外見からは分からないだろうと言うことで、許可を取り、女性にも役を振れたのは有り難い。いい腕の奴らも多いが、仕事内容的に女性はなかなか前に出せない場合も多く(殴られる役で女性はちょっと…と言われる気持ちは分かる)、悩みの種だと女性の上役とはちょくちょく話していたから。
時代劇?アニメ?と不思議がる後輩たちに苦笑しながら、殺陣師に来てもらい、忍者らしい動きの練習をする。
よくよく考えたら、今どきは時代劇もリアル志向で、いわゆる黒ずくめで手裏剣を投げるような忍者の役をやる機会はめったに無いものだ。才蔵も、忍者風のキャラクターとか、そんな程度がうっすら記憶にあるくらいだ。
ならばこれはいいトレーニングの機会であるとも言えた。やった役の分、経験値は確実に貯まる。
「才蔵さんも出るんですか、忍者役?」
後輩に訊かれて、もちろんと応える声にも力が入る。最初はモブ忍の役の打診だけだったが、後からモブ忍のリーダー役を才蔵に頼めるか?と連絡が来た。
この業界のよくある話で、色々難航しているしく詳細は聞けていないが、なんでも信長に仕える忍の佐助のライバル役がそのリーダー忍らしい。
たぶんちょっとだけ会話もあると聴いているが、モブだし、敵方のなら倒されるのだろうと想像するに、そこまで長い台詞はないだろうと踏んでる。
とにかく早くホンと細かいスケジュールがほしいなと、才蔵の最近の悩みはそれだ。
重心を落としたアクションにも慣れてきたし、撮影自体は早くやりたいくらいで。
今日は忍者刀に見立てた短い棒を使い、一対多数の練習をした。自身は『佐助』の代役である。
佐助役はアクションが出来る役者か分からないし、何にせよ、普段顔を大きく出して仕事をする相手に危ない真似はさせられない。
相手が最低限の動作でも、こちらが大袈裟にやられれば相手は強く見えるものだ。マットを使い、倒れ込む訓練は常にしている。佐助役がどんな役者でもそれなりに見せるのも自分たちの仕事だった。
だからそれからしばらくして、『佐助』役が殺陣は未経験だが運動神経はかなり良いと聞いてほっとした。
運動神経が良いなら、こちらもやりやすいというものだ。
出ていた先輩たちが帰ってきて、『佐助』役を頼めるようになり、才蔵自身も後輩に混じり多数側に入っての練習を始められた。その頃、上司が見学者を連れてきて、紹介されたが、そういうのは珍しくない。二、三簡単な質問に応えたことも翌日にはうっすら忘れていた。
それから数日して。
「才蔵!才!!ちょっと来てくれ」
今度は練習前の練習場に、上司の声が響いた。
ストレッチを済ませたあたりで、体もいい感じにほぐれている。首にタオルを掛けたまま「なんですか?」と扉のところから手招く上司に歩み寄ると、そのまま練習場から連れ出された。
また何か仕事の件かと思うが、打ち合わせ用の部屋を通り過ぎ、入り口を出て、そこで移動用の見慣れたバンに乗せられた。
えっ?と狼狽える。首に掛けたタオルと社員証しかないのに連れ出されてしまった上に、バンには顔見知りのメイクさんも乗っていて、有無を言わせず顔を拭かれてあちこちに塗られたり粉をはたかれたりして、詳細を上司に訊く余裕もない。
そのまま少しばかり走って車が止まるなり、上司に押されて裏口から入る。造りとしてはどこかのホールや演劇場のようで、ぐいぐいと舞台袖らしく暗い空間に押しやられる。慣れた空間だが、今日本番の予定は。
「では、皆様登壇をお願いいたします!」
なにか本番中のステージに、他の人たちの後ろから押しやられて、つい出てしまった。
磨かれた板の感触とまばゆいライトも、仕事柄慣れたものだが。
客席にびっしりの観客と、前列を埋め尽くすカメラやマイクは未知の領域だった。
内心で狼狽えながらも、ステージではどんなトラブルにも平然と対応すべく叩き込まれたのが役立った。
どうやら、モブ忍者が必要な例の作品の、制作前お披露目の賑やかで連れてこられたらしい。よく見れば、主役陣の後ろに騎士風や足軽風の者も居るし。
なら自分も後ろに下がるべきではと思ったが、すでにカメラのフラッシュがパシパシたかれてる前で移動はまずい。せめてサイドの忍者らしく怖そうな顔をしておこうと努めていたら、各自キャラクターの名前が呼ばれて、一礼する流れで、今のうちにとそろそろと下がろうとしたら、
「佐助デルタ」
と呼ばれて、一歩前に出て一礼した後ろ姿に、思わず釘付けになる。
あれが話にだけ聞いた「佐助」か。
確かに、足の運びは軽い。体つきもいかにも機敏そうで、もし契約的に許されるならば代役を立てずに本人がいい殺陣を出来るのではないか。そうすればカメラワークも自由が効くし、いい画になる。
早く帰ってうちの後輩や殺陣師に話したいなとウキウキしているうちに後ろに下がるのを忘れていた才蔵は、ふと皆の視線がこちらに向いているのに気づいた。
なんでモブが前に出てるのかと咎める視線かと慌てたが、
「才蔵デルタカイ」
と呼ばれて、頭が白くなった。
ミスというのは極力避けたいところだが、人間はミスをするものだ。
それをいかにリカバリするか、板の上ではそれにかかってくる。見てる側が、そういう演出かと思ってくれればそれで良い、そのために常に気の持ちようも訓練しているみたいなものだ。
だからその時、才蔵が、一瞬の出遅れをクールな尊大さの雰囲気でカバーして一礼したのは、長年やってきた経験値と度胸のおかげである。思い出しても変な汗が出てくるのだが。
とにかく、ステージを降りてすぐに無言で(ステージ袖で大声は出せない)上司に詰め寄ったらそのまままたバンに詰め込まれ、もとの場所に戻された。
練習場に戻ったら後輩が「えっ??」と固まるので、練習場の壁にいくらでもある鏡に顔を映してヒェッとなる。
なんか紫だな!?と思った、悪カラーなのか紫。
「やあやあ急にすまないな、急に決まってなあ」
再び上司が契約書をひらひらしながらやってきて、さすがに皆で詰め寄ったものの、だからといってどうなるものでもないのは判っていた。
こんな商売だが、勤め人なのは変わらない。
「まあ、なんだ、悪い忍者らしくて似合ってるぞ…?」
同期が微妙に視線を外しながら言われて、才蔵は余計に落ち込んだ。