甘藷月餅子供の頃から一緒だった兄弟子としばらく疎遠になったのは、自分が成人ぎりぎりの年齢である。
ラクヨウを離れ、ひとり、使われなくなったショク北部にも近い研究所に引きこもった故の疎遠だった。
昔、兄弟子と張角先生がたまに晩酌をするときに一人お茶を飲んでいたのを羨ましく眺めていた。成人すればあの中に酒盃を手に参加出来ると、稚心に数年後を心待ちにしていたものだが、結局、みずからでその未来をふいにしてたようなものである。
あの時ひとり研究所を離れたのは、結果的には賢明な判断であると言えたわけだが、心情としては今でも後悔を覚えない筈もない。共に居たからと言って制止できたとは限らないが、それでも、何かしらできたのではないか……すべて妄想と承知しても思わずにはいられないものだ。
ようやくたどり着いた、廃墟となった研究所を出てから、諸葛亮はずっとそんなふうに折々に思いを巡らせてきた。悪夢に寝付きが悪く、しばらく深夜まで仕事を続けた夜もある。月を愛でる意味で見上げる余裕もなく。
それくらい人生には色々ある。
今、再建した研究所奥の居住スペースで。
かつてと同じ、手入れの良い庭が見える部屋で。
窓際に寄せた卓に着いて、諸葛亮はふと思った。
人生色々と言えどあまりにダイナミック上下移動が過ぎるが、とにかく色々なのだ。
そうとでも思わないと。
「諸葛亮、どうしかしたのか?」
月夜にふさわしい静かな足取りで現れた、酒器をささげた兄弟子の美しさに見惚れる自分を、赦せなくなるだろう。
「いえ……月が綺麗に見えて良かったなと」
「確かに良い月だ」
秋も深まりを見せる季節、庭木にはない金木犀の香りが遠くから流れてくる。その香風は天上にも流れているのだろう、もうかつての満月にはならないが、それでも白く光る月に、薄い雲がかすめては流れていく。
風情ある月夜だ。
卓の向かい側に掛けた人が、酒器を持ち上げる。
差し出すと満たされた杯の中の酒からは薄く湯気が立ち、杯を掴む手を、次に体を温めてくれた。
良い酒だ。
卓には、司馬懿さんの杯の他に、もうひとつ杯が置かれている。
一番月が見やすい特等席、誰の酒杯か互いに口に出すことはないが、司馬懿さんはいつもその杯に等しく酒を注ぐ。
もう居ないが、二人の胸の内の面影は、褪せることなど無い人だ。
「酒の肴にはどうかと思ったが、せっかくの月夜だからな」
そう、司馬懿さんは、卓の中央に皿を置いた。
今の月より真ん丸な、大きな月餅。
差し出された小刀で切り分けるのは家長の諸葛亮の仕事だ。
「あ、いいですね」
月見なら栗入り、塩漬け卵入りを想定したが、切った断面はすべてが透き通るような金色である。
最近馴染みの店で売り出された秋を感じる月餅のうち、諸葛亮がことのほか気に入ったのは、ムシャワールド輸入の蜜がにじむほど甘い甘藷を使った甘藷月餅であった。
人気でなかなか買えないのに…と思うと、わざわざ注文をしてくれたのだろう。
「諸葛亮」
差し出された小皿に、まず切り分けた月餅を乗せる。
それを特等席の酒杯のかたわらに置いた彼は、静かな横顔だ。
昔から風情ある人だった。
たった数才、十才も離れていないのに、いつも静かな美しさを漂わせていた人は、歳を重ねて、深まる秋のように、愁いを帯びた美しさをも重ねた。
自分が幾歳になったとて変わらぬ憧れの人である。彼の罪はそこになんの影も落とさない。悩んだ時期は思ったより短かった。大怪我をした彼が発見され、周囲の反対を押し切ってつきっきりで看病した日々に、彼を失うくらいなら、彼のすべてを受け入れて愛する方が余程苦がないと分かってしまたからだ。
月の光ではない眩しさに目を細めて、諸葛亮は、切り分けた月餅を勧めた。
「司馬懿さん」
司馬懿さんは素直に口に運ぶ。
よく食んで、飲み込む姿を見守った。
「…美味しいですか?」
「ああ」
頷く彼に続いて、自分も…と口に運ぶ。
しっとりとして優しい、甘藷の甘みが沁みるようだ。切り口も、月のようであり、金木犀のようであり、季節にぴったりで。
「いい月見になりましたね」
「そうだな」
言いながらも、彼は月よりも、特等席を見つめている時間が長い。
諸葛亮は、杯に残っていた酒を干した。
杯から唇を離すと、酒の香りと同じくらいに、金木犀の香り。
開けた窓から漂い来る、秋だけの芳しい香り。
金木犀の別名は、九里香。
そんな遠くからでも届く香りのように、いつか自分の気持ちは司馬懿さんに届くだろうかと、諸葛亮は思った。
張角先生を思う司馬懿さんの心に割り込むよいな真似をするつもりは微塵もない、先生は自分にとっても大事な人だなら。
だから本当に、香るほどでよい。
「司馬懿さん、もう少し切りましょうか」
「頼む」
「僕ももう少し食べますね、これ、本当に美味しいから」
こうして何気ないやりとりの間に、司馬懿さんはこちらを真っ直ぐ見上げてくれるから。
九里もない、この僅かな距離を越えてこの想いが届けばよいと、諸葛亮は、また、家族と分け合うための大きな月餅を切り分けた。