社会に溶け込む牛鬼くん不死川実弥。職業は教師。家族は両親と3人。現在、東京でひとり暮らし。
そして不幸体質。
実弥を紹介するとしたらこんなところだった。
ひとくちに不幸体質といっても規模に大小があって、例えば小さいものなら傘のない日に雨が降るとか、ボールが飛んでくるとか。大きいものなら車が目と鼻の先に突っ込んでくるとか。
実害があるものからないものまで様々あった。
もっと詳しく紹介するなら、実弥は孤児であった。
優しい先生のいる養護施設で、実弥自身は特にコレといった問題もなく、たくさんの子供たちと共に幼少期を過ごしていたが、ある日、今の両親に引き取られた。
その両親も、良好な夫婦である。
男というには優しすぎる父親に、厳しさもあるが抱擁力のある母親。
幼少期より顔から身体へと夥しい数の傷痕が走っていた実弥を気味悪がることもなく、大切に育ててくれた。不幸体質にも真摯に向き合い、傷の手当てからメンタルケアまで手を尽くしてくれた。
良き両親である。
成長し、社会人となった実弥は、今この時までをしっかりと愛していた。
いくら日常で大なり小なり身の危険があろうとも、死んでたまるかと気概も肉体も反抗心たっぷりに生を謳歌していた。
おかげで、目つきも態度もガタイも、まるで反社会的なソレになってしまったが。
実弥はこの生活を愛していた。
実弥の出勤方法は車である。
不幸体質であるなら危険では、という声も上がったが、生身で不幸を受け止めるよりも車という防御壁があった方が却って安全である、というのが本人の見解だ。
自分が誰かを事故に巻き込んでしまうやも、という心配は常にあるので、運転年数とその見た目に反して、常に規制速度、安全運転。遅刻しそうになったらちょびっと速度を出してしまうのは、まぁ愛嬌だ。その時は常よりも安全確認を意識する。
しかし時たま、車で出勤しない日もあった。
それは事情があったり、気分だったりで変わるが、そういう日もあった。
実弥の出勤場所へは歩きで30分ほど。歩道もしっかり整備されている。季節が良ければ、朝早くの眠気覚ましとウォーキングに、もってこいの距離である。
平日。目覚まし通りにスッキリと身を起こした実弥は、ベッド脇のカーテンを開けて思う。
今日は歩きで行くか。
雲ひとつない青い空。柔らかい日差し。思い馳せる子供たちの顔。よし、と人知れず意気込んでベッドを出た実弥は。
そのちょっとした決意が、不幸体質のエンジンをかけたことを、知る由もなかった。
玄関を出て大通りに出るまでは、かねがね順調だった。
特に何の異常もない。歩道も端をほどほどの速度で歩く。実弥はイヤホンを付ける等の若者行動をしないため、車や自転車の音もよく聞こえていた。
しかし、大通りに出てから「ん?」と思った。
まずは落ち葉が顔に当たる。まぁいい。そういうこともあるだろう。木の下を通ってはないし、風はないはずだが。
次に脇道から自転車が飛び出してくる。危ねえなとは思う。舌打ちは耐えた。安全確認したはずだったが、脇道の更に脇道から出てきたようだ。
次に横断歩道で車が勢いよく曲がってくる。歩行者信号は青。実弥は間違っていない。あとコンマ秒、前に行っていたら足が持ってかれていた。
次に通りがかろうとした花屋の鉢が倒れてくる。怪我の心配はないが、倒したのではと背筋が冷えたし、スーツが花と土まみれになるところだった。
次に、次に、次に。
何だ今日は。
流石にヤバいと感じた実弥。
もしかして、朝の占いで最下位でも引いたか、なんてちょびっとアホなことを考えてみたりする。普段は神も占いも悪魔も信じないが、現実逃避には都合よく使う。
だっておかしいだろう。1日にこんなに怒涛だったのはマジで初である。
今日命日?まさか。何の変哲もないはずだった平日。こんな天気のいい日に?まさか。命日に天気は関係ないが。
あまりに色々と起こりすぎて、生まれつき己のことになると粗雑になる節がある実弥は、つい思考に意識を割きすぎてしまった。
集中力を欠いた時、丁度出勤途中にある工事現場を横切ろうとした。
その日は、風が無かったはずである。
しかし、実弥は不幸を惹き寄せた。
突風がクレーンに釣り上げられていた鉄骨を煽り、ぶつりと固定を破壊した。
マジかよ。
覆い被さる凶器の影に、教師あるまじき若者言葉がまろび出た。
避けろ。
思考はちゃんと指令を出していたが、脳みそまでの回路は既に鉄骨の固定具のようにぶった切られていたようで、身体はほけっと立ち尽くしたままだった。
でもあら不思議。
お決まりのように流れるはずの走馬灯がいつまで経っても来なかった。
視界はしっかりスローモーション。その中で。
小さな影が、鉄骨を凄まじい力で吹っ飛ばした。
ドガシャァァァァン。
鼓膜がえげつない振動に揺らされ、視界の端で煙が舞う。遅れて聞こえてきた悲鳴。しかしその中に、人が、怪我人が、という声は混じらなかった。
代わりに、すとん、という軽い音が、実弥の比較的近い場所から聞こえた。
血色のいい肌を真っ白にして、白眼を血走らせて、油の足りない機械のようにして、実弥は音の出所を見た。
果たしてそこには、男児がいた。
小さな黒目の浮かぶ大きな眼球に、左から右頬まで走る傷痕。牛のような角と耳がついたフードを目深に被り、サイズが大きいのか袖で手が隠されている。
実弥からは視認できないが、ズボンから出てるのかはたまた実際に生えているのか、尻からは細く、先になると毛が長い尻尾を垂らした、男児。
そう、男児であった。
ぱっと見、5〜6歳ほどにしか見えない、男児である。
実弥はついに混乱に身を任せた。
どう考えても、この目の前にいる摩訶不思議な格好をした子供が、人間を容易に叩き潰せるほどの質量となった鉄骨を、いとも簡単に吹っ飛ばしたのだ。
混乱しねえわけがなかった。
実弥と男児は目がばっちり合っている。
かたや瞬きがバカンスへ、かたや瞼をぱちぱちと働かせて。
周囲は未だ喧騒のさなかであったが、2人は2人だけの世界を形成したかのように、互いしか認識していなかった。
それが幸か不幸かは別として。
そして砂埃と悲鳴と好奇心の中、先に動いたのは男児である。
への字だった小さな口を開いて、あどけない声でこう言った。
「はじめまして、兄ちゃん」
かっくり、前に腰を折った男児の後頭部(フード)を眺めながら実弥は反芻した。
兄ちゃん?
それは、愛していた日常に罅を入れる言葉だった。