進捗「おにいちゃん、だいじょうぶ?」
ほろり、と溶けていきそうな声が落ちた。
何を考える暇もなく、バッ!と顔を上げれば“幼い”としか形容出来ない少年がそこにいた。声かけたのはそちらからだと言うのに、キョトリと素っ頓狂な顔をしている。
刈り上げた側頭部と天辺だけ伸ばした黒の鶏冠。まぁるいふくふくのほっぺ。肌はどこかしこも、翳った首さえも、白く健康的に張っているのがわかる。中でも、つるり光る白の眼は清廉で。そこに浮かぶ、紫、の小さな瞳がやけに健かだった。
黒い狩衣を纏った少年は、この世の者ではないとさえ。且つ、怨霊悪鬼の類ではなく、神格に属する使いとさえ錯覚した。
実弥は、しばしハ…、とした。その姿の美しさだけではない。どう見ても異様な空気であった自分に、まさか声がかかると思っていなかったのだ。しかも自分より遥かに幼く、親もつれぬ子供から。
声をかけておいて、振り返られることを想定していなかったらしい少年と、シッカリ目線を合わせること優30秒。先に動じたのは少年であった。
「俺のこと、見える?」
唐突な問い。意味はわかるが納得は出来ず、実弥はよくよく、考えた。みえる。みえる、というのが、「見える」で。その意味が、自分とこの少年で齟齬がないのであれば、きっと頷いて大丈夫。齟齬がないことを信じて。
ウン。と、実弥は頷いた。
「声もきこえる?なにいってるかわかる?」
跳ねるような早口で繋げられた質問は、ともすれば怒りを煽るような内容だったが、少年の様子でそのつもりは無いとわかる。それはもう。目をキラキラさせて、身体を前のめりにして、白かったほっぺをほんのり赤くして言うのだから。
声も聞こえるし、何言っているかもわかるし、とりあえず少年を信じた実弥は、やっぱりコクリ、と頷いた。
パ。少年の表情が明るくなる。眩いばかりの笑顔が本当にあどけなく、つい守ってしまいたくなるやわさがあった。
今まで、そんな当たり前のことでさえしてもらえなかったのだろうか。
連想出来る不遇に対して、少年のみてくれは随分と整っている。のに。どこか…その身体の小ささが所以なのか…どこか、物悲しい。寂しく心細い。そんな印象を抱かせてくれる。
実弥は、不審な質問を投げかけてきたにも関わらず、見知らぬ少年をスッカリ受け入れて、警戒心も解いていた。同族への親しみに似た情なんかも、あったのやもしれない。
「えっと…と…あ、おにいちゃんは、あそばないの?」
「…あそぶ?」
「あれとかで」
黒い袖…からやっとはみ出た、ちいこくまるい指先は、ジャングルジムを示す。実弥の歳では遊ばないし、よしんば乗ったとしても手足が余るほど児童向けの。
とんでもない、バカか、などとは言わず。実弥は小さく首を振って少年に向き直った。威圧せぬように笑顔を意識したが、鈍く頬肉が傷んだので上手くできた気はしなかった。
「俺は、足がいてぇから…遊べねぇな」
「足?」
「うん」
「ケガしてるの?」
「、うん」
少年は眉を下げて、地面に下ろしたそこを覗き込む。黒のスラックスで肌は隠れているので、目に悪い痣は見えない。見えなくて良かった、と思う。なんだか、自分の境遇を知られたくはなかった。
「えと、えと…」と少年はしきりに話題の糸口を探している。実弥はジ、と見つめるばかりで、動くところといえば瞬きする瞼くらいなものなのに、何をそんなに構ってくれようとするのか。
特に面白い返しが出来るわけでも、子供が喜ぶ気の利いたことを言えるでもないのに。
弟や妹が、いたなら、できたかもしれないけれど。
「おまえ、親は」
「え、」
「父ちゃんと母ちゃん。一緒に来てねぇの」
「うん」
「不用心だな」
「ぶようじん」
「…家はあるンだろ?」
「うん」
「なら、もう暗いから、早く帰ンな」
これが精一杯の、気の利いたことであった。少年は幼く、美しかったので、暗がりから良からぬ手が伸びてくる危険がありそうだった。なれば年長者がすべきは帰宅を促すこと。非常識な日常の中で学んだ、数少ない常識。
少年は視線を地面に落として、指先をくしゅくしゅと混ぜ込んだ。明らかに渋っている様子。
帰りたくない理由でも、あるのか。
そう邪推すると、どうにもこの幼子を見放せなくなってしまって。実弥は背もたれに預けていた上半身を浮かした。