鵲カチリ、カチリ、と、何かが当たる音がした。
ソファに腰掛け、本を読んでいた武市は、その微かな音の出処である窓の外へと視線を上げると、ベランダの手摺に一羽の鳥が止まっていた。
カラスかと思ったが、一回りほど小ぶりで、何よりその体は黒一色では無く、頭から背、尾にかけては黒色で、腹側は白色という二色のコントラストが際立つ色合いをしていた。流線形の細身の体に対して尾が随分と長い。
「どうかなさいましたか?先生……」
窓の外を凝視している己を不審に思った同居人の新兵衛の呼びかけに、反射的に「静かに」の意をこめて人差し指を唇の前に立てて声を制する。
俄に新兵衛は気配を消し、音も無く武市の傍へ侍る。───私が妙な事をしたせいで警戒させてしまったらしい。
何気ない日常の中でも彼は時折剣呑な空気を纏わせる。大柄な体躯の割に動きは何時も丁寧で隙がない。変わらない姿を、彼らしいと好ましく思う一方少しだけ胸が軋む。
我々はもう、生命を取るか取られるかの時代の人間では無いというのに。
「……田中君、ベランダに珍しい鳥が来ている」
声を落とし、彼を安心させるよう内緒話でもするようにそっと告げる。
「鳥、ですか……?」
新兵衛は拍子抜けした様子で、武市の視線を辿った先を見た。鳥をみつけると、ああ、と得心した声を発した。
「鵲(カササギ)ですね。」
「カササギ?」
「実家の近くでは見かけましたが……こちらへ来てからは初めて見ました。」
ご覧になられたことは?と訊かれて首を捻る。
「鵲(カササギ)か……そういった名の鳥がいる事は知っていたが、実際に目にするのは初めてかもしれん。」
そもそも、野の鳥に対してそこまで意識を向けることがあっただろうか。
最近は仕事にばかりにかまけて、花鳥風月を愛でる心が疎かになっていたことに気付く。
これはいけない、と自省する。
「私は今まで見かけた覚えはないが、この辺りでは珍しい鳥なのだろうか」
「生息域は限られているようですね」
いつの間にかスマートフォンを手にし生態を調べていた新兵衛が答える。こんな時にも仕事が早い。
「迷い鳥というやつか……」
「おそらくそうでしょう」
武市が興味深げに窓の外を見つめるので、新兵衛もそれに習って静かにその動向を伺う。
偶然やって来たこの珍しいお客を早々に追い返しては勿体無い気がした。
息を詰めて観られているのを知ってか知らずか、鵲は食べ物でも探しているのかベランダの手摺を器用に脚で往復している。鋭い鉤爪が金属製の手摺に擦れてカチリカチリと音を立てていた。
生憎とベランダには彼(または彼女か)のお眼鏡にかなう様な物は何ひとつ置いていない。
ややあって、鵲は此方に視線を向け様子を伺う様な仕草をした後、くるりと背を向けて飛び去っていった。
飛び立つ瞬間、翻った風切り羽の白と黒が鮮やかだった。漆黒に見えた羽毛は光を受けて青く輝き、天鵞絨のように艶めいていた。
「行ってしまったな……シケた家だと思われただろうな」
迷い込んで辿り着いたのだ。腹を空かせていただろうに。
「餌でもやればよかったか……。しかし何を食べさせたらいいかわからんな」
「あまり食べ物を与えるのは……居着いてしまいます」
「わかっているさ。しかし、ああして寄ってこられるとつい世話を焼きたくなるだろう?」
野生に素人が安易に介入してはあまり良くないと理解はしている。ただ、小さい生き物になにかしてやりたい気持ちは自然と湧くものだ。
「私の記憶では、よく庭の柿を勝手に啄んでましたが……」
「なるほど、柿泥棒か。空を飛べるならば上手くやりそうだ。」
思わず笑いと共にそんな事を零した武市に対し、
新兵衛は、なんとも言えない表情をしていた。
鵲は、梅雨の走りで鈍色にくすんだ空の中をまっすぐに飛んでいき、やがて見えなくなった。
◆◇◆
───『泥棒カササギ』という話を知っているか?
ふいに、武市はそんな事を訊いてきた。
新兵衛は珈琲フィルターに湯を注ぐ手を止め、いいえ、と応えて声の主へ視線を向けた。
彼はゆったりとソファに腰掛けながら、さっきまで鵲が止まっていたベランダ越しの曇天を眺めていた。
空は今にも落ちてきそうな重苦しい雲を湛えている。
「君からあの鳥の名を聞いて、ふと思い出した。」
───『泥棒カササギ』は、イタリアの歌劇(オペラ)で、貧しいヒロインが奉仕先の主人の家の銀食器を盗んだと冤罪をかけられ処刑されそうになるが、事の真相は光る物を集める習性を持つカササギの仕業だったと判明し、すんでのところで処刑を免れた───
という話らしい。
「欧州ではあまり良くないイメージの鳥らしい。私もそこまで詳しい訳では無いが……実際に目にして、名を聞いて、そんな話があった事を思い出した」
新兵衛は黙ったまま武市を見つめた。
「涼しい顔して悪事を働く。小綺麗な外見だが中身は案外醜悪なのかもしれないな」
独り言のようにそう言うと、自嘲気味に笑った。
雨がぽつぽつと降り出し、ベランダの手摺を濡らしていった。
◆◇◆
「先生、今日はバードウォッチングに行きましょう」
「ばーどうぉっちんぐ」
思わず復唱した。およそ新兵衛の口から発せられるとは思えない単語だったからだ。
曇りがちな空模様で迎えた大型連休だったが、後半になるとうって変わってカラッと晴れた初夏らしい青空が拡がっていた。
この陽気が余程嬉しいのだろうか。
いつも真っ直ぐに此方を射貫くように見つめる三白眼が、キラキラと輝いていた。
ついでに彼の背後には期待にぶんぶん振れる尻尾も見えた気がした。そんなに外で遊びたかったのか。
元より連休も終わりがけの今日こそ、彼と共にゆっくり過ごそうと仕事を早々に片付け、予定を空けておいたのだ。
常に武市の意見ばかり尊重する慎み深い彼から珍しく発せられた要望に、心躍らない筈がない。
二つ返事で了承すると彼は嬉しそうに武市の支度を手伝い始めた。
しかしバードウォッチングなぞ生まれてこの方行ったことがないのでどうすればいいのかわからない。
「近場ですのでいつものお召し物で大丈夫です。ただ靴だけは歩きやすいものにしましょう。」
言われるがままクローゼットの中から比較的動き易そうな服に着替え、ランニングで使用しているスニーカーを履く。
既に準備万端の新兵衛と共に玄関の扉を開けた。
新緑の匂いを纏った空気が美味い。
◆◇◆
心地好い薫風が頬を撫でる。
散策には絶好と言って良いだろう。
薄手のジャケットを羽織ってきたが既に暑いくらいだ。しかし、脱ぐことはせずそのまま歩き続ける。
────先生は、黒色がよくお似合いです。
以前、彼がそう言ってくれたことがある。
折角のデートなのだから、自分よりも年若い恋人に少しでも格好良く見られたい……という初心さに我ながら呆れる。彼に褒められた服を着て、ポーカーフェイスを気取りつつ期待で浮き足立っている足を誤魔化しながら歩いていた。
武市は隣を歩く新兵衛を見遣る。半袖のTシャツにデニムというラフな格好だったが、彼はその鍛え上げられた肉体こそが美しいのでそれで十分だと思う。むしろ今のシンプルな格好こそ、彼の素晴らしい筋肉が惜しみなく晒され最適解と言える。
「もう少しで着きます……先生?」
新兵衛に声をかけられ現実に引き戻される。
別に下心があった訳では無いが、無意識に見蕩れていた事に気付いた途端、気恥ずかしくなる。
なんでもない、とだけ返して火照った頬を誤魔化そうと顔を背けた。
着いた先は神社だった。綺麗に塗り直された鳥居と整然と並んだ石畳の参道を見る限り、おそらく最近になって建て替えられたのだろう。
参拝していくのかと思いきや新兵衛は鳥居をくぐらず脇に逸れて歩き出した。舗装された道を外れ、砂利の敷かれた地面をザクザク踏み鳴らしながらどんどん奥へと進んでいく。暫く歩いた先、社を囲むように植えられている木々の中で一際高い楠(クスノキ)の前で立ち止まった。
「先生、あそこに鳥の巣があるのが見えますか?」
新兵衛は少し屈んで武市の顔に己の顔を寄せると、楠の梢の先を指で指し示した。
武市は新兵衛の目線に合わせようとその身を彼に寄せ、指先を辿って彼方を見る。
巣は案外すんなり見つけることが出来た。
意外なほど大きかったからだ。
小枝が何本も組合わさり球体を形作っている。
「鵲の巣です。うちのベランダに来たヤツでしょう」
思わず新兵衛へ顔を向ける。それと同時に彼も此方へ顔を向けた。至近距離で目線がかち合う。
「驚いたな。いつの間に……どうやって見つけた?」
「あの日の翌日、朝外に出るとうちの前の電柱に止まってるのを見かけたので、跡をつけました。」
「……空を飛ぶ鳥をか?」
「追い回すのは得意です。」
事も無げにそう言ってのける。
なんとも空恐ろしい話だが、彼ならば為せる筈だ。
「野鳥の行動パターンは決まっております。ねぐらを突き止めるまで流石に丸三日はかかりましたが」
新兵衛は休日になると走り込みに行くのが日課だった。武市も同行する時もあったが、連休中は仕事が立て込んでいた為、ほとんど見送る立場だった。まさかジョギング中にそんな事をしていたなど思いもしなかった。
「先生、あれを……」
新兵衛に促され、再び鵲の巣へと視線を向ける。
球体の巣の入口は上の方にあるらしく、地上からは中は見えないが、時折ひょっこり黒い嘴を持った頭が見え隠れしていた。
すると巣の近くの枝が大きく揺れ、
鵲がもう一羽、現れた。
番(つがい)がいたのか。よく考えれば営巣するとはそういう事である。
「鵲は番を一生変えないそうです。愛妻家です」
「……そうか。」
「それと、光る物を集める習性は実際には無いそうです。俗説でしょう」
「ふむ……こちらの方も冤罪だったか」
「……確かに欧州では忌まれる事もあるそうですが、日本や中国では逆です。『カチガラス(勝烏)』とも呼ばれています。武運をもたらす縁起の良い鳥です」
「田中君」
呼びかけると、彼は口を噤んだ。
「君はどう思う?」
武市は再び、新兵衛の目を見て問うた。
「君自身は……どう感じている?」
「私は、」
新兵衛は迷いなく答えた。
「美しい、と思っております。初めて見た時から今でも。世間からどう思われようと、私にとっては美しいのです。それはずっと変わりません。」
真っ直ぐこちらを見つめる新兵衛の瞳はいつだって曇りない。疑心に塗れる己の弱い心を光の如く射貫く。
「そうか。君にそう評されるなら、確かにそうなのだろうな。」
武市は憑き物が落ちたように笑った。
どうか君の中では、美しい存在であり続けて欲しい。
新兵衛は武市の顔を見つめた。
青々とした葉が風に揺れ、サラサラと音を奏でた。
彼の色白の肌に木漏れ日が差し込み照らす。
やはり美しい、と新兵衛は思った。
◆◇◆
暫くその姿を眺めている間に、ふと気になった事がある。
「そういえば鳴き声をまだ聞いていないな。野鳥の囀りといえば、観測対象のひとつだろう?」
聞いたことあるのか訊ねてみると、
「……はい、それですが」
新兵衛が続きを言う前に、辺りにけたたましい声が響き渡った。
似つかわしくない音の出処に目を遣ると、鵲はこちらを見ながら、もう一度高らかに鳴いた。
単調で耳にキンキン障るような声。
「………………。」
「……歌が下手なところも、私は愛らしく思います!」
「ほーん、言うやないか」
武市は新兵衛の顔を両手で挟んでわしわしと雑に撫で回した。
新兵衛は擽ったそうに捩りながら悪戯が成功した子供の様に笑った。
鵲の夫婦は、地上の事などお構いなしに、巣の中にいる愛しい雛鳥たちの世話に勤しんでいる。