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    ssm_ssmssm

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    My Favorite Thing Day1

     朝は眠い。そんなのは大多数の人間がそうで、願わくば何者にも邪魔されずに睡眠を貪っていたいものである。だからこそ、その願いが叶った時の充足感、あるいは優越感、もしくは――その直後に襲いくる背徳感といったらない。
    「あー…」
     やってもうた。薄いカーテンから差し込む光は随分と短く、即ちそれは日が高くなっている証拠だ。いつもなら近所の小学生が登校するざわめきが聞こえるはずなのに、外はしんとしていた。
     寝坊。これは紛うことなく寝坊。
     昨日夜更かしして電話したのが良くなかったか。いや確認したいことがあったから仕方ないけども――未だ覚醒しきらぬ頭を上げ、時計を見上げる。が、そこには日焼けの跡しかない。ああそうか、外したんだった。納得した侑は枕元をまさぐってスマホを探し当て、ようやく時間を確認することができた。練習開始15分前。顔だけ洗って家を飛び出せば間に合う。なにせここは選手寮。体育館まで車で5分だ。
     寝巻きはジャージなのでくたくたになったTシャツだけ着替えればいい。どうせロッカールームに着いたらウェアに着替える。
     そのウェアを雑にリュックに詰め込んで、水をかぶるだけの洗顔とオールインワン化粧水で最低限のスキンケア。寝癖隠しのキャップをかぶり、ハムを乗せただけの食パンを咥えたら準備は完了だ。
     靴の爪先を三和土で弾ませながらキーケースを手に取る。心なしか重い。昨日新たに加わった鍵の存在を思い出し、少しだけ口元を緩ませた侑は、玄関に積んである大量の段ボールの中から特に大きい一箱を抱えあげ、鼻歌混じりに家を後にした。

     オフシーズンは基礎体力の向上とコンディショニングを重点的に行う。それは半年後に始まるシーズンを万全の体制で駆け抜ける為の地道でしんどいトレーニングだ。
    「あれ?ツムツム帰んの?」
    「おん。やることあんねん」
     いつもならそれを終えた後に自主練習を行うのだが、今日は早々に退散する。あまり深くは突っ込んでこない木兎にほななと手をそよがせると、筋疲労で軋む身体を引きずって帰路に着く。
     侑の愛車は一路自宅へ――と思われたが、向かったのは全くの逆方向。10分ほど車を走らせて見えてきたマンションの駐車場、そこが目的地だった。
     車を降り、朝積んだ段ボールを抱えてマンションを見上げる。階段のような斜度のあるその建物は、最寄り駅から徒歩5分。都心部からは少し離れるが一本で行けるし、本数もそこそこ。体育館だってそう遠くない。今日のように15分前起床だと流石に厳しいけども、まぁ、寝坊の原因は分かっているので今後は大丈夫だろう。
     よいしょと段ボールを持ち直し、エントランスを潜る。大小様々なサイズが揃えられた宅配ボックスの前を通り過ぎ、エレベーターへ。最上階の一つ手前、四階へと降り立つと、侑は迷わず突き当たりのドアへと進んだ。そしてドアノブに鍵を差し込む――のではなく、センサーにキーを翳すとロックが外れる音がした。
     部屋の中は真っ暗だった。
     そりゃそうだ。日が落ちたのは随分前だし、何もないがらんどうの空間は闇をいっそう濃く見せる。カーテンも何もない、開放感のある大きな窓の外から街の明かりが光の粒となって見えるだけ。
     手探りでスイッチを探し当てると、唯一備え付けられているダウンライトが灯った。それを頼りに段ボールを開けていく。
     出てきたのは様々な照明器具。今日はこれを取り付けに来たのだ。一緒に入れておいた脚立を使い、リビングのダクトレールにペンダントライトを付けていく。この辺りはリビングスペース、こっちはダイニングと、明日以降に続々と届く予定となっている家具の配置をイメージしながら。

    「うん、ええやん」
     最初は苦戦したものの、要領を掴んでからは早かった。スイッチを入れるとパッと部屋中が明るくなり、その全貌が明らかになる。
     高い天井に走る黒いダクトレール。オーク材の床と白い壁。窓枠の黒とコンクリ打ちっぱなしの柱がいいアクセントになっている。壁際には作り付けの収納棚兼階段があり、それを上がると広めのロフトへと繋がるのだ。
     所謂デザイナーズマンションというやつで、予算を多少オーバーしたものの、立地、間取り、内装ともに満足いく部屋を借りられたと思う。
    「はー疲れた」
     上を向く姿勢には慣れているけれど、脚立の上でバランスをとったり、こまめに昇降するのはまた別の疲労感がある。独りごちた侑はまだ何もない、まっさらな空間を堪能するように部屋の真ん中で寝転がった。
     大きく息を吸って、吐く。新築のなんとも言えない香りだ。
     そこでふと目に入ってきたのは、ダイニング予定地に設置した照明。大きくてまん丸で、サイズは正しくバレーボールぐらいの電球が二つぶら下がっている。インテリアショップで吸い寄せられるように手に取ったのだから、もはや職業病なのかもしれない。
     こうしていると昔、仰向けでひたすら垂直トスをしていた頃を思い出す。あぁ、でもこの天井の高さならできるかもしれない。
    「…ええなぁ」
     来る未来に思いを馳せて、もう一度、噛み締めるようにその言葉を繰り返す。
     今日が始まりの日。
     この未発達な34帖の小さな世界を、好きなものだけで埋め尽くすのだ。


     Day2

     不動産の仲介業者からのラインを左手でスクロールしながら、水道の元栓を捻る。
     明暗に紹介してもらった担当者は気さくで話しやすく、侑の「なんかちゃう」という具体性のない却下にめげずにとことん物件探しに付き合ってくれ、とうとうこの部屋を見つけてくれたのだ。そんな仕事のできる男は事細かなフォローも抜群で、実家と寮にしか住んだ事のない侑の為に入居時の注意点ややっておいた方がいい事をまとめて送ってくれた。
    「えーと?水は2.30分出しっぱなしにしておくこと、か」
     それを読み上げながら蛇口のセンサーに手を翳すと、それだけで水が流れ出てくる。おぉ、と思わず感嘆の声。文明の発達を目の当たりにした心地だ。三十年以上レバーを上げ下げしてきた身からすると、慣れるまで時間がかかりそうではあるが、それを差し引いてもこのスタイリッシュな見た目はかっこいい。
    「んで、洗面所と風呂もか」
     残り2つの水回りも同様に排水をしていく。ざぁざぁと水の流れる音を聴きながら、侑は持ち込んだ段ボールから掃除用具を取り出した。
     今日はエアコンの取り付け工事の立ち会いの為、仕事を休んで新居に来ている。まだ時間に余裕があるので、やった方がいいことリストの潰し込みをしている最中だ。まだエアコンを稼働しなくても涼しい時期だが、こうして部屋中に隈なくワイパーをしていると徐々に汗が滲んでくる。タオルを持ってきておいてよかった。
     廊下からトイレ、風呂、寝室、リビングと来てロフトに上がると、フロア部分は一通り掃除した事になる。リビングと比べるとむわっとしていて、蒸し暑い。日当たりがいい分、熱が籠るのだ。
     侑は首にかけたタオルで汗を拭いながら、掃き出し窓を開けた。そこに広がるのは20帖ほどの広いループバルコニー。これがこの部屋の決め手となった。
     各階の南の角部屋だけがこの造りとなっており、その分家賃もそれなりになるが、これだけ広ければちょっとボールを触るぐらい問題ないだろうし、テーブルや椅子を置いてくつろぐのにもいい。
     外から入り込んでくる涼しい風を浴びながらぼんやりと構想を練っていると、インターフォンが鳴った。きっと工事業者だ。
     バルコニーの使い方はまた追々。
     はぁいと声を張った侑は踵を返し、窓を開けたまま階段を降りた。
     

     Day3

    「昼は肉な。そこの食い放題んとこ。あ、あっちのハンバーグでもええわ。ほんで夜は寿司。回転してんので勘弁したるわ」
    「飯の事ばっか考えとらんとしゃかりき働けや!」
    「は?休日返上して手伝いに来てやってんのはこっちやぞ」
    「は?充分対価払ってますけど?」
    「ええから二人とも手ぇ動かせや!」
     新居に初めての客が来た。いやこれは客と言うべきか。双子の片割れと元チームメイトの銀島だ。昼食と夕飯を奢る代わりに引っ越しの手伝いをしてくれている。
     寮で使っていた家具はそこそこ年季が入っていた事もあり、殆ど廃棄してしまった。金のない時に買った物だからさして思い入れもない。そのついでに服や小物も大幅に断捨離した為、新居に持ち込む物は段ボール10箱が精々だ。まぁ多少、断捨離ハイになって捨て過ぎた感も否めないが。
     午前中に侑が家具や家電の受け取り設置をしている間、治と銀島が着々とキャビネットやラックなどの組み立て家具を作り上げていた。侑が絡まなければ治は穏やかで協力的なので、銀島と組ませて正解だったと言える。
     リビングにソファーが運び込まれ、作業がひと段落した所で治リクエストの食い放題に行った。90分丸々食い続ける片割れに店員のギョッとした視線が突き刺さったが、あれは同じ顔でも自分ではないので警戒しないで欲しいと切に願うばかりだ。
     そうして腹拵えした所で今度は荷解きや細々とした作業に入る。調理器具は全て一新したのでキッチン関係はまとめて治に丸投げし、銀島にはリビングでテレビの設定や配線を、そして侑は一人寝室に篭っていた。
    「よし、やるか」
     窓際に運搬資材用の木製パレットを並べ、その上にセミダブルのマットレスを二つ置く。去年寝具メーカーに貰ったものと、先日買い足したものだ。そこに白いシーツと揃いの布団カバー、ベージュのブランケットをかける。いくつもある枕は同系色のリネンや淡い柄のカバーで変化を。ヘッドボード用に立てて置いたパレットにクリップライトを取り付ければ、広々としたベッドの完成だ。
     パレットは丈夫で耐荷重は500キロだという。以前、寮のベッドをとある事情で壊した侑にはこれくらいタフなものが望ましい。通気性も良く、ラフな印象も気に入っている。
     ベットが完了したら、次は寮から持ち込んだ私物の収納だ。服は片っ端からクローゼットにかけ、パンツや小物類はチェストへ。途中でパンツ用のハンガーが足りないのと、チェスト内を小分けする仕切りを買わないととスマホにメモをした。
     そして飾り棚にこれまで貰ったトロフィーやメダル、気に入った回の月バレ、雑誌などをバランス良く並べていく。最後に額縁に入れたユニフォームを壁に飾り、全体を見渡して侑はよしと頷いた。
     そのタイミングでインターフォンが鳴り響く。もう届くものは無かったはずと不思議に思いながらインターフォンのモニターを覗き込む。と。
    『お届けものでーす』
     そこに映っていたのはわさわさと茂る枝葉。わざとカメラに近付けていると断言できるのは、その声に覚えがあるからだ。

    「今日来れないんとちゃうかったん?角名」
     寿司を口に放り込みながらの治の問い掛けに、角名は予定が繰り上がったなどと涼しい顔で茶碗蒸しを口に運んでいた。が、多分無理矢理都合を付けたのだろう。馴れ合いは好まない癖にこういった集まりには意地でも参加する奴なのだ。
     角名が合流し、同級生四人が揃った所で段ボールや緩衝材などのゴミをまとめ、今日の作業は終了となった。そしてこれまた治の要望通り回転寿司に来ている。銀島に選択肢は無いらしい。
    「いいとこじゃん」
    「家賃やばそ」
    「こいつ最近車も買い替えてん」
    「マジ?」
    「稼いどるなぁ」
    「その癖うちの店にたかりに来んねん」
    「たかりちゃうわ!!」
     まるで高校の頃に戻ったかのような言葉の応酬。この面子が揃うといつもこうだ。気の置けない間柄同士の会話は心地よい。当人達には絶対に言ってやらないが。
     アルコールも無しに盛り上がる席と壁のように積み重なっていく皿。またしても店員の目線が痛い。財布も痛い。
     そもそも殆ど手伝いもせずにちゃっかり奢られようとしている角名はなんなのか。治ほどは食べていないが単価の高い皿が多いように見えるのは気の所為ではない。あ、ついにデザートにまで手を出し始めた。
     嫌味のひとつでも言ってやろうとしたが、リビングの窓際に居場所を決めた引っ越し祝いの観葉植物の姿を思い出し、まぁええかと溜息をつく。ついたのも束の間、侑が注文した大トロに手を伸ばそうとする治にこのブタ!と怒鳴り散らすのであった。


     Day4

     眩しい。
     初めて新居で迎えた朝の感想はそれだった。次点で暑い。
     カーテンの隙間から差し込む朝日は瞼では完全に遮ることができず、寝返りを打って逃れようにも部屋全体が明るい為、嫌でも頭が覚醒していく。暫く粘った後、侑は渋々身体を起こした。
     ラフな実感のリネンカーテン。グレーがかった白い生地は光を程よく通し、部屋に朝を届ける。
     寮の時は丁度街灯が部屋に差し込む位置にあったのが煩わしく、遮光カーテンを引いていた。けれど四階ともなればそんな必要はなく、外からの視線を気にする必要も無い為、インテリア雑誌で気に入ったそれを採用したのだが――この部屋の日当たりの良さを舐めていたようだ。
     貼りついた寝巻きのTシャツの裾をぱたぱたとそよがせて風を送る。日当たりが良いに越したことはないと思っていたが、良過ぎるのも難点だとは思いもしなかった。
     寝室を出てリビングに向かうと、こちらは寝室以上に暑い。開放的過ぎる窓から燦々と差し込む日差しが床や壁に反射し、寝起き眼に刺さるようだった。昨日の晩、夜だからと油断してブラインドを閉めるのを忘れていた所為だ。
    「5時て…」
     寮の壁から引っ越してきた時計を目を瞬かせながら見上げる。早朝の移動や仕事でない限り絶対に起きない時間だ。小学生の声はおろか、活動している人の方が少ないだろう。まぁ、あの早寝早起きを信条としている健康優良児には丁度いい時間だろうけど。
     とりあえず換気だと掃き出し窓を開ける。続いて三つ並んだ縦すべり出し窓と、階段側にある引き違い窓も。そうするとひんやりとした空気が流れ込んできて、火照った身体を鎮めてくれた。
     真新しい真っ白な冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに一杯。それを飲みながらコーヒーメーカーをセットする。手に取ったのはいつかの陶器市で買った濡羽色のマグカップ。同時期に買った狐色のものは棚の中に鎮座している。引っ越しを機に、間に合わせで買った百均の器や誰の結婚式のものか分からない引き出物のペアカップなど、統一性のない食器類も大幅に処分した。代わりに厳選した揃いの器や皿がきっちり並んでいるのは見ていて気持ちがいい。
     全自動式のコーヒーメーカーが働いてくれている間に洗顔を済ませる。綺麗に髭を剃り、しっかり化粧水で保湿して、乳液で蓋をして。そうこうしていると腹が鳴った。冷蔵庫にはまだロクなものが入っていないが、ハムエッグくらいなら作れそうだ。
     キッチンに戻るとコーヒーの香ばしい匂いが漂ってきた。それに豆乳を少しだけ入れて、スマートスピーカーにチルソングを流すように指示する。小さい音ならこの時間でもうるさくはならないだろう。
     カップを持って開けっぱなしの掃き出し窓からベランダに出てみた。ループバルコニーとは別にあるベランダは隣の部屋と続いていて、そちらはまだ人気がない。
     まだ人通りも車通りも少ない街を見下ろして、雨上がりに似た湿った空気を吸い込む。そういえば明け方ににわか雨が降ると天気予報が言っていたような。朝日に照らされて煌めく街並みは、なんだか不思議と綺麗に見えた。
     柵を背にして部屋を見渡してみると、ロフトの上に丁度日が差し込んでいた。まだ使い道は考えていないその場所だったが、それを見た瞬間、研ぎ澄まされた空気を纏う横顔が思い出された。あれはいつだったか、侑が偶然早朝に起きた時、日課である瞑想をする恋人をベッドの中から見た時の光景だ。
     ロフトにはストレッチマットを敷こう。今決めた。
     そこで日の光を浴びながら瞑想をする恋人の姿はとてもしっくりくる。あぁ、それを見るためだったら早起きも悪くない。
     そんな事を思った、朝5時21分。

     Day5

     この日はまた早朝に起床した。今度はカーテンも閉めていたし、網戸にしていたから不快な目覚めではない。自分の意思で起きたのだ。
     そわそわと落ちつなかい気持ちはまるで大会当日の朝のよう。浮き足だった気持ちはどう足掻いても落ち着いてくれず、侑はスポーツウェアに袖を通した。こういう時は走るに限る。

     は、は、と規則的に息を吐いて、右、左とテンポよくエメラルドグリーンのシューズを前に出す。イヤホンから流れてくるロックバンドのBMPに合わせてスピードを上げた。
     マンションを出て5分も走れば川に突き当たり、そこから下流へと歩を進めていく。背中が熱くなってきて、ちらりとスマートウォッチに目をやれば心拍数は140。いいペースだ。
     人通りは殆どなく、けれど時々窓を開ける音や炊き立ての米の匂いが漂ってきて、人々が活動しだした気配を感じる。朝のこうしたこういった空気も悪くない――という言い方をすると、『素直に好きって言えばいいのに』と斜め下から声が聞こえるようで、侑は薄く笑みを浮かべた。うん、好きやな。好き。
     暫くすると大きい橋が見えてきて、そこを渡って道なりに進むと、徐々に漂ってくるいい香り。ペースダウンしながらその方向へと進んでいく。
     そうして到着したのは、見るからに昔ながらのパン屋。車で通りがかった時に目を付けていたのだ。ネットで調べた所、近くに高校がある為、早朝から開店しているらしい。ボリュームたっぷりのサンドイッチが名物だとか。
     味のある曇りガラスの引き戸を開けて店内に入る。途端に小麦の香りが濃くなり、それだけで涎が出そうだった。
     そう広くない店内を見渡すと、ベーシックなあんぱんやカレーパンなどが10種類ほどと、食パン数種類、ショーケースには件のサンドイッチが並んでいる。噂に違わず、パンの厚みより具材の方が遥かに厚みがあった。種類は卵とハムレタス、BLT、チキンカツか。
     どれにしようか悩んだ末、ここはやはり人気の卵サンドとチキンカツサンドだろうとトレイに乗せる。ついでにクリームパンも。
     レジには腰の曲がったおばあちゃんがいて、侑を見上げるとまぁ大きい子だわぁとしわしわの顔で笑った。子、と呼ばれる歳でもないが、このおばあちゃんにとっては10代も30代も大差ないのだろう。
     聞けばもう40年はこのカウンターに立っているというおばあちゃんは、ピアノでも弾くような手付きでレジを叩くと、侑が財布を取り出している隙にきびきびと薄手のビニール袋にパンを詰めていく。そこであ、と声をあげた侑は、レジの横に立てられたバゲットを一本追加した。明日の朝食にいいかもしれない。もう一つおまけにコーヒー牛乳もカウンターに並べた。

     パン屋を出て、来た道を戻って土手へと降りる。ぽつぽつと等間隔に置かれたベンチに腰掛けて、今さっき詰めてもらったビニール袋を漁った。今日は外で朝食にするつもりだ。
     まず手に取ったのは卵サンド。フィルムを開けて、中身が溢れないように急いで口に運ぶ。
    「うっま…!」
     具材はシンプルにゆで卵とマヨネーズだと思ったのに、細かく刻んだ玉ねぎが入っていて、しゃりしゃりとした食感が気持ちいい。ふんわり柔らかくて優しい甘さの食パンとの相性も良く、耳がついたままなので食べ応えがある。
     続いてチキンカツ。サクサクに揚がった衣にスパイシーなソースが絡まり、ガッツリ系だけど新鮮なキャベツが脂っこさを中和してくれる。クリームパンも濃厚なカスタードが絶品だった。
     どれをとってもクオリティの高いパンに満足し、最後にコーヒー牛乳で飲み下す。満足だ。最高の朝食だった。
     いつの間にか随分と陽が高く登っており、ベンチから見える橋を高校生が幾人も渡っていく。エナメルバッグやラケットバッグを背負った子が多かったから、朝練だろうか。
     パンの匂いに釣られたのか、散歩中の犬が鼻をクンクンと動かしながら侑の前を横切った。ふわふわのポメラニアン。揺れる明るい茶色の毛が少しだけあの子に似ている。
     あの子なら何を選ぶだろうか。きっと卵サンドはマスト、甘党だからメロンパンやジャムパンも選びそうだ。きっといい顔をして齧り付くのだろう。
     今度は二人で。そう心の中で呟いて、侑は腰を上げた。

     Day6

     先週染めたばかりの髪をいつもより丁寧にセットする。ラインで揃えた基礎化粧品のおかげで肌の調子も良く、連日のハードな練習のおかげで睡眠もバッチリだ。
     最後に全身鏡を見て最終チェック。服装は行きつけの服屋で買った下ろしたてのTシャツに、シンプルな黒デニム。ありきたりな組み合わせだが、侑はそれが自身の体格の良さを引き立てるのを知っているし、そしてそれ故に着丈や身幅などがドンピシャなものがなかなか見つからないのが悩みの種だった。それを理解してくれる店員の存在はありがたい。
     よっしゃ今日も男前、と自画自賛し、最後にキャップをかぶって仕上げに香水をひと吹きする。準備は万端。キーケースを拾い上げて、どこもかしこも綺麗に掃除した部屋を後にした。
     いつもの数倍気合いの入った侑が乗り込んだのは、数週間前に納車されたピカピカの新車。以前のものよりも一回り大きいSUVだ。広々とした空間は大柄な侑にちょうどいいし、スーツケースなどの大荷物を乗せても余裕がある。
     滑るように走り出した車は一路、湾岸線を南下していく。その名の通り大阪湾の岸に沿って走る高速道路は、遮るものが殆どなく、まるで空と繋がっているかのような景色の中をひた走る。
     目的地に近付くにつれ、空に浮かぶ機体が大きくなってきた。滑らかな曲線を描く白い腹の中には沢山の人が乗っていて、その誰もが誰かにとって大切な人なのだろう。侑の待ち人がそうであるように。
     スピーカーから流れるのは有名なロックバンドのアルバム。侑が待ち人に貸した、最初の一枚だ。意外にも気に入ってくれたようで、家事の合間によく口ずさんでいた。ネイティブの発音なのに時々音を外すのがアンバランスで面白くて、茶々を入れたい気持ちを堪えて耳を澄ませたのが懐かしい。
     その歌が聴けるまで、あともう少し。

     そう、全ては今日の日の為にあった。
     お気に入りのマンションと、お気に入りのインテリア。好きなものだけを詰め込んだ侑の城に、一番のお気に入りを迎える日。

     大阪湾に浮かぶ空港の到着ロビーで、30時間前にもらったメッセージを繰り返し見る。早く会いたい。そんなシンプルな愛の言葉は昨日からずっと侑の胸を高鳴らせ続ける。
     飛行機に遅れは出ておらず、定刻通り着陸する見込みらしい。
     あと30分。そうは言っても飛行機を降りてから手続きがあるから直ぐには出てこられないのは知っている。けれど待ちたかった。だって数時間くらい、これまで会えなかった月日を思えばあっという間だ。
     スマホをタップしてカメラロールを開く。そこには二人で撮った写真や送られてきた写真、更には隠し撮りした秘密の写真が詰め込まれている。それを一枚一枚見ていると、スマホの向こうで誰かが足を止めた。
     反射的に顔を上げる――それよりも早く、「侑さん」と呼びかけられる。
     その呼び方は。その声は。
     目で見るよりも先に身体が理解していた。
     体温が急上昇する。汗が噴き出る。心臓が激しく跳ねる。
    「内緒で一本早いのにしちゃった」
     へへ、とはにかむように笑うその人を、気付けば抱き寄せていた。力加減なんて知らない。かわいいのが悪い。
     苦しいです、と腕の中でもぞもぞと身じろぎしたその人は、体の間に挟まれた腕を抜くとそのまま侑の背中に回してきた。そして仕返しとばかりに全力で抱き締め返してくる。小刻みに震えているのは、多分笑っているのだろう。負けず嫌いは健在だ。
     そのまま暫く我慢比べをして。ふっ、と息を吐いたのはどちらが先だっただろうか。それをきっかけに腰を擦り付け合うような緩やかなハグになり、額同士をこつんとくっ付けた。
    「おかえり、翔陽くん」
    「ただいま、侑さん」
     そのままキスしようと思ったが、寸での所で思い止まった。流石に人が多すぎる。代わりに瞼に唇を落とした。愛しい琥珀色の宝石に。
     くすぐったそうに細められた瞳が侑を捉える。その輝きは出会った10代の頃から色褪せず、今この瞬間さえも侑の心を掴んで離さない。多分、きっと、死ぬまで虜なのだろう。
    「――うちに帰ろか」
     その言葉に日向がパァッと顔を明るくした。さりげなくスーツケースを奪い取って、もう片方の手で日焼けした手を握る。
     スーツケースはずしりと重く、日向が背負っているリュックもパンパンだった。身軽な日向にしては大荷物である。
     新しい家はまだまだスカスカだから、いつもより多い荷物なんか問題なく置けるし、時間差で届く国際便のダンボールだって余裕だ。インテリアには多少統一感が無くなるが、好きな人の好きな物で囲まれるなら悪くない――いや、最高だ。
    「早く家の中見てみたいです!」
    「遠足前の小学生のテンションやん」
     跳ねるように歩くたび、ふわふわと揺れるオレンジの髪に目を細める。これから毎日目にするであろうその色は、侑にとって幸せの象徴だ。
    「楽しみだなぁ!侑さんの事だからなんかサプライズ仕込んでそう!」
    「ないない。忙しくてほんまにそんな時間なかってん」
     その言葉を信じた日向が侑の新車に驚くまで、あと15分。

     

     Day7

     リネンのカーテンから透ける優しい日の光に目を覚ます。
     白い天井。ルームフレグランスのアンバーの香り。自分のものではない吐息。
     腕枕のなりそこないのような、伸ばした腕と身体の間にすっぽりと収まるような形で日向が眠っている。剥き出しの肩や背中には赤い印が散っていた。侑のものだという証だ。付けて欲しいと言ったのは日向だし、付けたいとも言っていたから、侑の身体にもきっと日向の証が残されているのだろう。
     満ち足りた朝だった。ラックに並んだトロフィーも、額縁に入れたブラックジャッカル21番のユニフォームも、日向の肩に落ちる日の光も、全てが煌めいている。
     侑の創り出した34帖の世界はこれで完成だ。
    「ん…あつむさん?」
     おきた?と目を閉じたまま日向が侑の胸に擦り寄る。くすぐったいけれど、子猫みたいなその仕草が可愛いので我慢だ。まだ時差ボケが残っていて(その上昨晩は遅くまで行為に耽ってしまった)、眠そうな日向の髪を優しく梳いていく。
    「…きょう、どうしましょっか」
     買い物とか、色々しないと。
     いつもより舌足らずな声は眠気と戦っている証拠だ。
     確かにやる事は沢山ある。日向の言う通り足りない日用品を買いに行かなければならないし、荷解きもまだ終わっていない。洗濯だってある。でも。
     んー、と寝返りを打って日向の頭の下に腕を滑り込ませる。そのままぎゅうっと抱き寄せて、同じ香りがする髪に鼻を埋めた。
    「今日は休息日」
     何か足りなくても1日くらいなんとかなる。だから今日は好きなだけ寝て、ごろごろして、目一杯休もう。
     と言ってもどうせ俺達のことだから半日もすれば休み飽きて、身体を動かしたくなるはずだ。そうしたらあの広いバルコニーでちょっとだけボールを触ろうか。
     そんな事を考えながら、侑は再び瞼を閉じた。
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