ただ海岸を歩くだけ 南海岸地方は温暖な気候を活かし、海をメインとした観光を売りにしている。私の故郷P市は、古くから貿易が盛んな南海岸地方の主要都市だ。現在は貿易の拠点としての役割に加え、レンガ造りのショッピングモールや、サイクリングロードなど、娯楽施設も増えている。私はそんな賑やかな故郷が好きではなかった。
私が越してきた南海岸地方のQ町も、残念ながら観光のメインは海だ。輝く太陽、白い砂浜、青い海──そんな典型的な言葉を体現したような砂浜は、海水浴場として人気がある。しかし、いくら人気のある浜でも、オフシーズンは閑散としている。
「さすがに十月は人も少ないね」
「そうだなあ、夏場はもっと人が多くて屋台もあって、賑やかなんだが」
「いいよ、静かな方が好きだ」
「それなら良かった! これから一緒に住む町だから、気に入ってほしかったんだ」
ヒストーリエの提案でQ浜へ来た私は、そんな話をしながら、夕暮れ時の浜を歩いていた。夏の暑さと人混みが苦手な私と、夏に忙しい彼にとっては、秋の風が涼しくなった今が丁度いいタイミングだ。
「よーし、暗くならないうちに足だけ浸かってくか!」
そう言うとヒストーリエは波打ち際へズンズンと歩いてゆく。
マリンシューズとはいえ、砂は足を取られやすい。注意して歩いていると、先に波打ち際に着いたヒストーリエのはしゃぎ声が聞こえてきた。
「さすがに冷たいでしょう?」
「少しな。まあ、川よりマシだ!」
幸いにも波は穏やかで、大波で全身が濡れることもなさそうだ。私もくるぶし辺りまで海に入った。確かに冷たいが、少し浸るくらいなら丁度いい水温だ。
西の山に、日が沈んでゆく。
この浜の西には漁港があり、その更に西には私の研究所がある──と言っても、研究所は、今はただの買い取ったばかりの古い別荘。改修工事をして研究のための設備を整えた後、私の研究所になる。それまでの期間、行く宛ての無い私はヒストーリエの家に住むことになっているが、住み始めて数日経っても、彼と同じ家に住んでいるという実感はわかないままだ。
「なあ、帰るときにはさすがに足が冷えるだろう? 帰りにそのまま銭湯へ行かないか?」
ヒストーリエの声が聞こえる。
「近くにあるの?」
「すぐ近くの漁師町にあるんだ」
そう彼が指をさす方向には、細い煙突があった。
いつもと違う日常というものは、何をするにも疲れる。ヒストーリエの提案はありがたいが、今日はもう家に帰りたい気分だ。しかし、確かに彼が言う通り、海に浸かった足は冷えている。どうしたものか──
「そうだった、そうだった! すっかり忘れてた」
私が返事に渋っていると、彼はハッと何かを思い出した様子で慌て始めた。
「ごめんな、ドクトーレは引っ越してきたばかりで大変だったよな。ついつい楽しくて、勝手に話を進めてしまう癖が……」
「いや、別に……でも、今日は銭湯へ行く気分ではないかなと思っていた」
「そっかあ、なら今日は帰ろうか? 家でゆっくり風呂に入ることにして、銭湯はまた今度にしよう!」
「ならそれで」
そう答えると、ヒストーリエはリュックからタオルを二枚取り出した。そして濡れた足を軽く拭き、私たちは家へ帰ることにした。
帰り道、浜の駐車場のすぐ横にある、古臭い土産屋兼海鮮焼きの店でヒストーリエが買ってきた真珠貝の串焼きが、やけに美味しかった。