ドクトーレと初めてのファストフード6月に入り、雨の日が増えてきた。ドクトーレの東屋の周りにはアジサイが鮮やかに咲き始め、温室への小道を彩っている。雨の日でもドクトーレは東屋に現れたが、東屋はお世辞にも過ごしやすい場所とは言えなくなってきていた。
湿気と日照不足、そして蚊。ヒストーリエは東屋に蚊取り線香やランタンを準備して、過ごしやすい環境作りをしていたが、風の強い日は雨が吹き込んでくるので、そういった日には嫌がるドクトーレを連れて、ドクトーレの第二の東屋(東屋に代わる室内の居場所)探しのために建物内を歩き回っていた。
そんなある日のこと。
「サンドイッチ忘れた」
ヒストーリエのお昼ご飯を買いに学内のコンビニへ向かっている最中、ドクトーレがボソッと呟いた。
「どうする?コンビニにもサンドイッチは売ってると思うけど」
「うん……」
腕を組んで唸るドクトーレ。見るからに乗り気ではなさそうだ。
その様子を見て、ヒストーリエはふと別のアイデアが思い浮かんだ。
「コンビニが嫌なら、せっかくだしハンバーガー食べに行かないか?全く違うものを食べた方が吹っ切れるかもしれないだろ?」
「ハンバーガー、食べたことないです」
「ええええええー!!」
「そんなに驚くことですか」
「すまん、でも……えっ?本当に食べたことないのか?」
「食べようと思った事が無いので」
「苦手なものが入ってる?」
「そうではありません。ただ、食べようと思った事が無いだけです。食への興味が薄くて」
食べる事が大好きなヒストーリエは驚愕した。食事に興味がない、という人間がいることを、初めてリアルに突きつけられたのだ。
「俺、心配しすぎかもしれないけど……。ドクトーレには、もっといろんな経験をしてほしいって思ってるんだ!」
ヒストーリエは、思わず言葉に熱がこもった。
「ハンバーガーの味も知ってほしい!カラオケとかゲーセンとか、今まで行ったことない場所にも行ってさ、『良かった』とか『微妙だった』とか、何でもいいから、そういう“感想”を持ってほしいんだよ!」
ドクトーレは、そんなヒストーリエの熱弁をじっと見つめていた。そして少し考えたあと、ぽつりと答えた。
「……キミみたいに心配する人は初めてです。興味は無いですが、食べてみます。ハンバーガー」
言葉こそ淡々としているが、ドクトーレの口元には、ほんの少しだけ微笑みが浮かんでいた。
「良かったー!!ありがとう!」
「なぜキミが礼を言うんです」
「だって、これってドクトーレにとってめちゃくちゃ大きい一歩だろ?今この瞬間に踏み出せたのが、すごーーく嬉しいんだ!」
「そんなにも……?」
ドクトーレは困ったように眉をひそめたが、喜ぶヒストーリエを見ると悪い気はしなかった。
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その後、2人は学校の最寄りのハンバーガー店へ向かった。赤と黄色の原色で彩られた外観は、雨の日でも目を引く。傘を畳んで店内へ入ると、揚げたてのポテトと油の香りがふわりと鼻をかすめた。
ドクトーレはキョロキョロと辺りを見回す。
店内もやはり、赤と黄色を基調とした内装で、壁、テーブル、椅子、メニュー看板……そのどれもがにぎやかで落ち着かない。レジ前は学生でごった返し、レジは長蛇の列。紙を持った人々がモニター前に点々と不規則に立ち、通路にはトレーを持った客が行き交っていた。
「……混沌としていますね」
「確かにそうだなあ」
ドクトーレの呟きに、ヒストーリエは笑いを堪えながら頷いた。
「席は……?ウェイトレスは……?」
「ああ、今からの流れを説明すると……先にレジで商品を注文して、レジ横で商品トレーを受け取って席に自分で運ぶんだ。席は自分たちで決める。あとは……あれがセットと期間限定メニューだから、並んでるうちに見ておくといいぞ!」
そう言ってヒストーリエはレジ上のデジタルサイネージを指差す。
だが、表示されたメニューは、画像と文字情報、さらには広告まで詰め込まれていて、どこを見ればいいのかさっぱり分からない。
ドクトーレは一歩前に出たまま、固まった。
メニューの中を視線だけが泳ぐ。
「注文は俺と一緒に払って良いよな?」
「……」
「おーい、ドクトーレ?」
「……“M”とは」
「え?」
「“ドリンクM”とは……どの程度の容量なのでしょう」
「む、難しいな。普通の量…?いや、コーヒーだとコーヒーカップ1杯より多いな。マグカップ1杯分ってところか」
「そうですか」
ドクトーレはしばし考え込むように視線を落とした後、ポツリと答えた。
「……そもそも、“セット”とは何を指すのですか」
「ああ、バーガーと、ポテトとかナゲットとかのサイドメニューと、ドリンクの3つをまとめたやつ。組み合わせは自分で選べるんだ」
「選択肢が膨大すぎませんか」
「慣れてて気づかなかったけど、確かに多いなあ。何か気になるメニューある?なければオレのオススメを注文するよ」
「飲み物はアイスコーヒー。それ以外は任せます」
「了解!」
しばらく列に並び、順番が来た。
「お次のかたとうぞー」
店員に呼ばれ、レジ前に向かう。
レジにはレジ上の表示よりも詳細でカラフルなメニューが貼られている。ハンバーガー、ポテト、ナゲット、ドリンク、アイスやアップルパイ……。色鮮やかな配色で情報がギチギチに詰め込まれているメニュー表は、視線が定まらない。ドクトーレはやはり立ち尽くすだけだったが、ヒストーリエは手慣れた様子でスラスラと注文していく。
「テリヤキバーガーのセット、ドリンクはコーラ。ベーコンレタスバーガーのセット、ドリンクはアイスコーヒー。あと、ナゲットとアップルパイをひとつずつ」
店員に案内され、「モニター前でお待ちください」と言われると、ヒストーリエは「こっちこっち」と手を振った。
ドクトーレは何もわからないまま、彼の後ろをおとなしくついていった。
「これが注文番号で、あのモニターに表示されたら受け取りに行くんだ」
「わかった」
レジの奥には厨房があり、店員たちが忙しなく調理している様子が見えた。厨房からはビービーという何かの警告音やティロリティロリという不思議な音が聞こえる。ドクトーレは厨房の中を珍しげに見つめた。
「どうかした?」
「厨房の様子が見られるとは斬新ですね。パフォーマンスでしょうか」
「えっ、いや、ただ動線の問題じゃないかな。注文した商品をすぐに渡せるようにって」
「なるほど……合理的です」
やがて注文番号が呼ばれ、2人はカウンターでトレーを受け取った。
トレーにはガラスや陶器の食器は無く、紙に包まれたハンバーガーや紙の箱、紙コップ入りのドリンクが乗っている。紙ばかりを使っているのも効率化のための工夫だろうか。ドクトーレはトレーをジッと見た。
「さて、いい席が空いてるといいな」
混雑した店内は、どのテーブルも学生で賑わっている。ヒストーリエは店内を見回し、うーんと小さく唸った。
「……2階なら空いてるかも」
そう言って急な階段をトレー片手に登っていく。ドクトーレもその後をついていった。
時折通路ですれ違う学生と互いに譲り合いながら奥へ進んでいくと、運よくテーブル席を見つけることができた。
席に着き、トレーをテーブルに置く。2人掛けの小さなテーブルはトレーを2枚置くだけでいっぱいになってしまった。
「トレーの上で食べるのですね」
周囲の様子を見ていたドクトーレは、机の小ささに納得した様子で呟いた。
「そうそう。あっ、ポテトはこうやって、この広告をお皿代わりにして食べるんだ」
ヒストーリエはポテトをトレーに敷いてある広告用紙の上に、ザザッと半分ほど出した。食品をただの紙の上に出す様子を見てドクトーレは驚いたが、自分のトレーに乗っているポテトも同じように広告用紙に出した。
「あと、これはオレからの奢り!ナゲットは半分こしよう」
そう言ってヒストーリエが渡したのは長方形の形をした紙の箱だった。箱にはアップルパイと書かれている。ドクトーレの知っているアップルパイとは見た目がまるで違っていた。
「アップルパイは食べたことある?」
「兄から分けてもらったことがありました。ただ……甘いものは好みではないです」
「あちゃ〜ごめん、ちゃんと聞いてから買えばよかったな」
「いえ……あとで、一口だけ、いただいても?」
「……!もちろん!」
思いもよらない返事に、ヒストーリエは嬉しそうに目を細めた。
「さあさあ、食べてみて!」
「では……」
ドクトーレは「ベーコンレタスバーガー」と書かれた包み紙を慎重に開けた。出来立てのバーガーはまだ暖かく、バンズはふわふわしている。一口食べてみると、シャキシャキしたレタスと濃いめの味付けがされたパティに、からしマヨネーズがアクセントになっていて、見た目よりもずっと食べやすい。
「どう……?食べれそうか?」
ドクトーレは口をもぐもぐ動かしながらも、しっかりと頷いた。
「よかった!ナゲットも遠慮なく食べてくれ」
そう言ってヒストーリエは、自分のトレーに乗っている四角い箱を開けて、机の中央のあたりに置いた。中には一口サイズのフライが入っている。付属の小さなパックにはマスタード色のソースがたっぷり入っていた。
「このソースがすっごく美味しいんだ!今日はハニーマスタードにしてみたけど、バーベキューもおすすめだから、今度来たときはそっちにしような」
ヒストーリエはナゲットを摘むと、マスタードソースをたっぷりつけて、ザクッと豪快な音をたてながら一口で食べてしまった。
その様子を見たドクトーレも、ひとつ摘んでマスタードソースを付けて食べてみる。カリッと音を立てて齧ると、しっかりとした鶏肉の旨みとソースの甘酸っぱさが口の中に広がった。断面を見てみると、ひき肉のようにも見えるが肉の繊維が残っている、不思議な加工肉だということが分かった。
「このフライドチキン、不思議で美味しいです」
ドクトーレはここ一番の笑顔を見せた。
「だろ!やっぱここのナゲット美味いよな〜!たくさん食べたくて似たようなのをスーパーで探しても、全然売ってないんだよ」
そう言いながら、ポテトやテリヤキバーガーを豪快に食べ進めるヒストーリエ。その様子を見てドクトーレもポテトを摘んだ。
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──それからしばらくして、2人のトレーはすっかり空になっていた。
ドクトーレは揚げたような見た目の不思議なアップルパイに驚いていたが、やはり甘さは好みに合わなかったようで、一口だけ食べて残りはヒストーリエが引き受けた。しかし、それでも初めてのファストフード店は ドクトーレにとって良い経験だったようで、いつもよりも楽しげな表情をしているように見えた。
「今日、ここに来てみて良かったです。たまにはサンドイッチ以外の食事もいいですね」
「そうか……!オレも ドクトーレと一緒に来れて良かったよ!じゃあ次はどこにしようか、ファミレスとかどうだ?」
「ファミレス……?」
こうしてドクトーレは、ヒストーリエと一緒に様々なことにチャレンジするようになった。ヒストーリエは、今日のファストフード店での出来事を、何年経っても楽しげに語ることになる──それはまた、別のお話。