Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    natsu_mdzs

    @natsu_mdzs

    ☆quiet follow Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 1

    natsu_mdzs

    ☆quiet follow

    交換のための新刊サンプルです。
    曦 澄でDom/Subユニバース、現代AUです。ほんのり聶瑶が含まれています。
    現時点でまだ3/4ほどしか書けていません…

    Switchプロローグ美しき支配者初めてのパートナー柔らかな支配近づく心彼の気持ち中略 後半に出てくる聶瑶シーン抜粋プロローグ

    藍曦臣は、幼い頃から人に好かれる子供だった。天使のようだと評される際立って美しい容姿に、素直さと聞き分けの良さが合わされば、周りの大人たちはこぞって藍曦臣を可愛がった。それでも父と母は別邸にこもったまま見向きもしてくれなかったので、もっといい子にならなければと更なる努力を己に課したが、それが実らぬうちに火災事故であっけなく両親は他界してしまう。藍曦臣がまだ八つになったばかりの頃だった。
    思春期を過ぎてダイナミクスがDomだと分かってからは、Subたちから熱い視線を受けるようになって、パートナーになって欲しいという申し出を星の数ほど受けた。誰か一人を選ぶことなどできなかったし、面倒を見てくれていた叔父からは他人に平等に接するようにと教えられていたから、断らずに全員と関係を持つことにした。そのやり方を了承し初めは喜んでいた彼ら彼女らも、藍曦臣が自分だけを特別視してくれることは絶対にないと気づくと悲しみながら離れていった。そのくせ何処か期待するように周りをうろつく者もいたけれど、藍曦臣が彼らを引き止めることはなかった。そのことを知った、パートナーが見つけられなくて困っているSubたちから、プレイ相手になって欲しいと請われるようになり、人助けと思って全て受け入れていると、いつの間にか沢蕪君という通り名がついていて希望者はますます増えていった。
    時折、愛していると言われることがある。そんな時藍曦臣はいつも、私も皆を等しく愛しているよ、とそう答えている。実際その通りなのだから他に言いようもない。藍曦臣の周りには常に大勢の愛を求める人たちがいるが、彼に対して特に強い感情を向けるものはたいてい三月と保たずにいなくなる。それが良いことなのか悪いことなのか、藍曦臣にはよくわからなかった。

    「いい子だね蘇渉。君はとても頑張ったよ。きっと藍氏のやり方とは合わなかったんだね、可哀想に」
    「すみません、すみません沢蕪君」

    謝りながら肩を震わせている男の背を撫でて、藍曦臣は数日前まで部下だった彼を優しく慰めていた。

    跪いてKneel
    「はい」

    『命令』Commandに従いさっと足元に座り込んで見上げてくる彼は、歳が近く入社時期も同じだったため、藍曦臣が何かと面倒を見ていた男だ。そのうちSubである彼に慕われ支配を求められて関係を持ち、部下としても仕事を任せていたけれど周りとうまく馴染めなかったようで、次第に体調を崩していく姿を見かねて藍曦臣が休職を勧めていたのだが、残念ながら彼が選んだのは退職だった。

    「上手にできたね。君はこんなにいい子なのだから、何も悲しむことはないんだよ」
    「はいっ……」
    「何かあったらいつでも私を頼っておいで。できる限り力になると約束しよう」
    「嬉しいです。今まで私が頑張れたのは全てあなたのおかげです。ありがとうございます藍副社長、ありがとうございますっ」

    藍曦臣は微笑みを浮かべながら、涙を流している彼の頭を撫でてやり、脳内では後釜に誰を据えるべきか考えを巡らしながら、憐れな彼が落ち着くまでひたすらご褒美Rewardを与え続けた。



    美しき支配者

    「お疲れさまです、紫電さん!」

    巨大なネオン街の中心地。たくさんのビルが林立する一等地に、その高級クラブは建っている。江澄が従業員用の入り口から勝手知ったる様子で足を踏み入れれば、ボーイの一人が駆け寄ってきて彼の仕事用の名を呼び深々と頭を下げた。

    「おはよう。遅れてすまなかったな」
    「いいえ、このくらい誤差ですよ。早速ですけどお客様がお待ちです」
    「そうか。カルテを読んでくれ」
    「はい。プレイネームはちゃおちゃお様、リピーターの男性で、」
    「鞭が好き、甘やかされるのが好き、コーナータイムが大嫌い、NGは存在否定、だったな。そいつのことは頭に入っている」
    「紫電さんが出る日は絶対来店されますからね」

    更衣室でオーダーメイドのスーツに手早く着替えながら、万が一にもサブドロップ〔Domの命令がSubの許容範囲を超えてしまい、Subがバッドトリップして疲労感、虚無感に飲まれた状態になること〕させないように江澄は客の嗜好を確認する。最後にSubが安心感を抱くフェロモンを含有するダマスクローズの香水のミストをくぐったら、準備は完了だ。靴音を響かせながら、江澄は指名客の待つプレイルームへと細い身体を滑り込ませた。

    「紫電様!」

    江澄を見た途端とろりと目を潤ませる客に一瞥を投げてから、漆黒のフレームに濃紫のクッションの彼専用キングチェアにゆるりと座って足を組む。

    跪けKneel

    自らの膝を指差して一言命じれば、客は獣のように四足歩行で寄ってきて江澄の膝に顎を乗せてぺたんと座った。

    「いい子だな。いつものことだが、確認だ。セーフワード〔Subの限界を超えた時にSubから発せられる合言葉。これを言われたらDomは即座にプレイを中止しなくてはならない〕はRED。無理だと思ったらすぐに使え」
    「はい。ありがとうございます」

    指先でくすぐるように頬を撫でてやると、客は嬉しそうに目を細めて江澄の手に頬擦りしてくる。しばらくそうして甘やかしてやってから、江澄は纏っていた穏やかな空気を脱ぎ捨てた。

    「ちゃおちゃお、服を脱げStrip
    「は、はい……」

    命令された客は後退りして部屋の中央にあるベッドの前に立つと、震える指で自らのシャツのボタンを外し始めた。その表情は羞恥に歪むと同時に恍惚としている。

    俺を見ろLook
    「ひっ、う……」

    彷徨う目線を許さずに叱咤すれば、逆らえずに江澄の美しい紫の瞳を見つめた客は泣きそうな顔で一枚一枚服を落としていった。

    「…………」
    「ひ、すみません、すみません!」

    冷たい目に裸体を舐めるように見られて、足をガクガクと震わせた客は今にも崩れ落ちそうだ。江澄は立ち上がって歩み寄り、中性的な整った顔をキスができそうなほど客へと寄せて覗き込んだ。

    「よく頑張ったな、ちゃおちゃお。褒美をやろう、ベッドに這えCrawl

    吐息が触れ合う距離で毒婦のように蠱惑的に微笑んでやれば、期待でいっぱいの顔になった客がしずしずとベッドに上がり、四つん這いの姿勢をとる。その背中には数日前のプレイで江澄がふるった一本鞭の跡がくっきりと浮かんでいた。今日は背中を叩くのはやめておこうと、江澄は部屋に並べられた道具の中から馬鞭を手に取って、客の顔の前でぴしゃりとベッドに叩きつけた。

    「ひえっ……」
    「さあ、大好きな鞭だぞ。しっかり味わうといい」
    「あ、あ、」

    剥き出しの尻を先端で撫でてやってから、江澄は躊躇なく臀部に馬鞭を振り下ろした。

    「ああああ!」

    叩かれた客から甲高い悲鳴が上がる。しかしそれは苦痛の叫びではなく、歓喜の喘ぎだ。三度、四度。馬鞭を振り下ろすたびに上がっていた悲鳴はだんだん小さくなっていき、七回目を数える頃には客は静かに身体を震わせるだけになっていた。

    「……ん? 何だ、もうサブスペース〔Subが完全にDomのコントロール下に入り、頭の中がふわふわお花畑になった状態〕に入ったのか?」
    「紫電様、紫電様……」

    うわ言のように江澄のプレイネームを呼びながら、客はうっとりと表情を蕩けさせている。自分を信頼しきってコントロールを明け渡してくれたことにDomの本能を満たされて、ぞくりと背筋を走った愉悦に江澄が唇を吊り上げて笑った。

    「いい子だ、お前は本当にいい子だな、可愛いちゃおちゃお」
    「はい、はい紫電様」
    仰向けRoll
    「はい……」

    指示通りに腹を見せてごろんと仰向けに寝転がった姿は、ご主人様に服従の意を示した犬にそっくりだ。健気なその様子がいじらしくて、江澄はプレイ時間いっぱいまでひたすら客を褒めて甘やかしてやった。


    この世界には、男女の性別の他にもう一つ、ダイナミクスという力関係がある。支配者であるDom〔ドム〕と、従う者であるSub〔サブ〕だ。DomはSubを庇護する側で、調教をしたり褒めたりして支配したいという欲求があり、SubはDomに信頼を委ね、躾やお仕置きなどDomの命令を受け入れてご褒美をもらうことを喜びとしている。その中間にはNeutral〔ニュートラル〕と呼ばれるDomSubどちらの欲求も持たない人々がおり、更に、両方の特徴を併せ持ち相手によってDomSubを切り替えることができる、Switch〔スイッチ〕というリバーシブルな人々もいて、ダイナミクスはおおよそこの四つに分類されている。
    そしてもう一つ特筆すべきは、このダイナミクスには厄介な点があることだ。本能からの欲求であるため、満たされないと抑うつ状態や自律神経の乱れなどの体調不良を起こしてしまうのである。欲求を抑える抑制剤という薬も存在するが、抑えるだけで解消するわけではないため、結局のところはパートナーを見つけてプレイをすることが必要となってくる。そのため、江澄が属しているような、金を払って在籍のDomやSubとプレイできる風俗店は大変重宝されていた。

    「お、お疲れさまです! あの、戻られたばかりのところ申し訳ないんですけど……」
    「あ? 悪いが俺はもう帰るぞ」
    「そんな! お願いします紫電さん、もう一件だけ!」
    「そう言いながらこれで三件目なんだが」
    「これで本当の本当に最後ですから!!」

    プレイを終えて控室に入るなりボーイに泣きつかれて、江澄は深々とため息をついた。ちらりと見上げた時計は深夜二時になろうとしている。

    「今日のシフトは十二時までだったと思うが?」
    「そうですよね、本当に申し訳ありません! でも、ウチのナンバーワンDomの紫電さんにお会いしたいというお客様は山のようにおられてですね、これでも十件ほどはお断りしているんです。マジのマジでラストですから、どうかお願いできませんか……?」

    不機嫌になった江澄からは威圧感Glare〔Domが怒った時などに出すオーラのようなもの。Subがこれを浴びると恐怖に呑まれ、何が何でも従いたくなってしまう。Domに対しては威嚇になり、Dom同士の力比べの睨み合いにも用いられる〕がじわりと漏れ出るが、ニュートラルであるボーイは怖がる程度で江澄の意のままに屈服させることはできなかった。分かってはいたが面白くない。この苛立ちは客とのプレイで解消しようと、江澄は途中まで外していたシャツのボタンを留め直した。

    「これで最後だぞ」
    「ありがとうございます紫電さん! ありがとうございます!」

    ご褒美をもらったSubのようなボーイの喜びように失笑しながらカルテを片手に控室を出る。次の客は新規の二十代の女性。プレイ経験はあまりないようだから、基本的な指示のみを使って優しく支配してあげよう。
    猫科の肉食獣のような軽やかな足取りの彼は、しかし生態系の頂点である捕食者の威厳に満ち溢れている。薄く刷いた笑みは酷薄さを増して、今宵この街で一番美しい絶対的な支配者は、楽しげに紫の瞳を輝かせて己のテリトリーを闊歩していた。


    初めてのパートナー

    「ウチはどちらでもいい。好きにしてもらって構わないぞ?」

    不敵に口角を上げる江澄に、対面に座っていた大手企業の重役の男はごくりと喉を鳴らした。それは江澄の社長としての手腕への畏れであったし、決して敵わない上位のDomに対しての恐れでもあった。破談にされてすっかり勢いをなくして去っていく一行を見送って、江澄は長い脚を組み直してソファに沈み込んだ。

    「お疲れ様でした」
    「ああ、ありがとう」

    気を利かせた秘書がコーヒーを運んできてくれて、芳しい香りにほっと一息をつく。表情を崩した江澄を労うように秘書が微笑みかけた。

    「相変わらず我らが支配者は最高です」

    彼からの心酔したような眼差しを受け止めて江澄が流し目を返す。しかしその空気を一瞬で壊して、秘書はやけに迫力のある笑顔で江澄に詰め寄った。

    「ところで、今日は朝から出社の予定でしたが。いらしたのは昼過ぎでしたね?」
    「ん、ああ、別件に少し時間を取られてな」

    さらりと返答したが咄嗟に思いついた嘘だった。実のところ体調が悪くて起きられなかったのである。
    近頃、どうにも調子が良くない。とはいえ熱や痛みがあるわけではないのだが、なぜだか身体が怠くて仕方がなかった。寝起きも辛いし、食欲もなくなっていてどうしたものかとこっそり悩んでいる。

    「この後十六時から会議の予定です。それが終わりましたら提携の病院へ」
    「ああ、わかっ……ちょっと待て」

    さらりと秘書から伝えられたスケジュールに予想外の単語が含まれていて、江澄は思わず己の右腕を二度見した。

    「最近ご体調が優れぬようですので。私が気づいていないとでもお思いですか? パフォーマンスも落ちていますし、異論は認めませんよ」
    「…………」

    完全に押し切られて、江澄はひくりと頬を引き攣らせた。



    「ダイナミクス欲求が満たされないことから来る自律神経の乱れだね」
    「……は?」

    思わず間抜けな顔で聞き返してしまったが許してほしい。そのくらい、今の江澄には予想だにしない内容だったのだ。病院で診察を受け、その結果を医師から伝えてもらっている最中なのだが、その説明に到底納得ができずに江澄は身を乗り出した。

    「そんなはずはない。週に二度は必ずプレイしている。別の原因があるのではないのか?」
    「いいや、間違いないよ。君、Switch性でしょ。見たところDom側でしかプレイしてないんじゃないかな?」

    ぎくりと身を硬くして、江澄は息を飲む。

    「……だから何だ。欲求不満が解消されればどちらだって問題はないはずだろう!」
    「それがそうでもないんだよ。人によっては DomとSub両方の欲求を解消する必要があるんだ。特に今の君はSubの方に重心が傾いてきているみたいでね」
    「……なん……だと……?」

    処刑されるのを待つ囚人のように顔面を蒼白にして、江澄が膝の上で拳を握った。

    「君は、Domの素質を持ちながら幼少期に親にあまり構ってもらえなかったとかで、褒めてほしかったのを我慢して押し殺してしまった人にたまに出るパターンのSwitch性だね。このタイプは深層心理で偉いねよく出来たねって甘やかされることを求めてしまうらしい。君の場合Domとしてもかなり上等だから自覚がなかったんだろうが、心身の安定の為にも極上のDomにパートナーになってもらった方がいい。このままだと遅かれ早かれ倒れるよ」

    とりあえず抑制剤と自律神経を整える薬を出しておくから。医師の言葉をどこか遠くに聞きながら、江澄はショックで呆然としつつも何とか立ち上がって診察室を後にした。



    「冗談だろう……? この俺が、尻叩きや羞恥プレイ、挙げ句の果てには一本鞭にヒイヒイ泣いて喜ぶ羽目になる、だと……!?」

    なんとかたどり着いた自宅で、ベッドに腰掛け頭を抱えて悲痛な声で江澄が嘆く。

    「い、いや! 全てのSubがそうなるわけじゃない! 俺の客たちはアレだが、世の中には甘やかされるのが好きで仕置きが放置プレイという軽い性癖のやつだっているんだ、要はどんなDomをパートナーにするかが大事なわけで……」

    そこまで考えて、江澄は頭が痛くなってきて思い切りため息をついた。かなりの上級である自分よりも上等なのに優しいプレイしかしないDomなんて、そう簡単に見つからないしそもそも存在しているのか、という疑問が湧いたからだ。

    「くそ……それもこれも、全部……」

    漏れそうになった呪いの言葉を、江澄は寸前で飲み込んだ。

    江家の家庭環境は少々複雑である。もともとは、両親の意見の不一致からの衝突が多かったとはいえ、姉の厭離と江澄と、家族四人でそれなりの日々を送っていた。それが一気に悪い方へと舵を切ったのは江澄が八歳の時、両親を亡くして孤児となってしまった魏無羨を、父が独断で養子にして連れ帰ってきた時だ。母は激怒し、それ以来夫婦仲は一気に冷え切った。父は素直で優秀な魏無羨を殊更に可愛がり母似の江澄には見向きもしなくなって、そのことが余計母の怒りに火をつけ、彼女は義兄と比べて出来の悪い息子をことあるごとに叱りつけるようになった。唯一救いだったのは、魏無羨と江澄が本当の兄弟のように仲が良かったことだったが、それでも義兄に敵わないという江澄の劣等感は長年彼を苛み続けた。江澄は誰のことも恨んではいなかったが、仕方がないことだったと割り切ることもまたできなかった。
    大学進学のタイミングで家を出て、卒業と同時に会社を興した江澄は、四苦八苦しながらも順調に業績を伸ばし、やっと自分に自信が持てるようになっていたのに。幼少期にかかってしまった呪いはいつまでも解けることはなく、こうして彼を追いかけてくる。

    「結局、俺はどこまで行っても……」

    心身が弱っているせいでただでさえマイナス気味の思考がどんどん悪い方に加速していく。諦めにも似た哀しみの中何もかもが嫌になってきて、江澄は布団に潜り身体を丸めて静かに涙を流した。



    翌日の目覚めは当然の如く最悪だった。意識は覚醒したものの起き上がることすらできなくて、江澄は仰向けになり額に手の甲を当てながらぼうっと天井を眺めていた。そういえば昨夜は夕飯も摂らずに寝てしまって、せっかく処方された薬も飲んでいない。自己管理すらできない愚か者めと自分に悪態をついた。ひどい吐き気とぐるぐる回る視界は一向に改善せず、仕方なしに今日は仕事を休むと秘書にメールを送って再び目を閉じる。
    普段は一人暮らしの素晴らしさを噛み締めているというのに、こんな時ばかり寂しくなるから嫌になる。幼い頃、義兄と揃って熱を出した夜。客間のセミダブルベッドに一緒に押し込まれた時のお互いの身体の熱さ、姉が笑顔で食べさせてくれたすりりんごの優しい甘味、いつも怒っている母が心配そうに額に乗せてくれた手のひらのひんやりした心地よさ。元気になった日の朝、笑顔の父が珍しく頭を撫でてくれたことが嬉しくて、また風邪をひいたら撫でてもらえるんじゃないかなんて、馬鹿なことを考えたりもした。そういうなんてことのない日常が一番幸せだったのだと、大人になってからやっと気づいた。

    「……恋人でも作っておけばよかったな」

    過去に好意を伝えてくれた何人かの女性の顔が浮かんでは消えていく。学生の頃は両親に認めてほしくて夢中で勉強していたし、会社を立ち上げてからは忙殺される毎日で、実は一度も異性とお付き合いをしたことがない。風俗店でのプレイで男も女も裸なんて見慣れてしまったけれど、愛する女性と慈しみ合うように身体を重ねることへの憧れだけは人一倍強くて、適当な相手と初体験を済ますこともできずに気づいたら二十五回目の誕生日が終わっていた。

    「あー…………起きるか……」

    取り留めのないことをつらつら考えているうちに身体が楽になってきたので、めまいを起こさないよう腕をついて江澄はゆっくりと起き上がる。少しくらっとしたが我慢できないほどではない。ベッドに座って身体を慣らしてからシャワーを浴びて身支度を整え、コーヒーとトーストだけで朝食を簡単に済ませて忘れずに薬を飲んだ。

    「……さて」

    一息ついたところで、目下の最重要課題である例の件について考えなければならない。そう、極上Domのパートナーを見つけることについてだ。
    江澄が今まで出会ったことのあるDomの中で、敵わないと思った相手は数えるほどしかいない。そしてそのほとんどは身内か、既にパートナーがいる人たちだった。そもそも放って置かれるはずがないのだ、極上Domなんていう希少生物が。いつも周りにパートナーの座を狙うSubが付き纏う様子を遠巻きに見て知っていたが、自分もその中に混ざって媚びへつらうなんて冗談じゃないと苛立ち任せに舌打ちをした。
    となると、残された道は極上を取り揃えた超高級風俗店で相手を見繕うことだが、これにも気乗りせず江澄は軽く首を振る。Sub御用達の店に出入りしていることがうっかりバレでもしたら、築いてきたものが全て崩れ去ってしまう可能性があった。

    「ダメだ、埒があかん」

    早々に煮詰まって、とりあえず外の空気を吸って気分転換でもしようと、江澄はジャケットを羽織りボディバッグを引っ掴んでマンションを出た。昼間とは言え初冬の空気はひやりと冷たい。今の江澄にはそれがとても心地よくて、胸いっぱいに芳しい風を吸い込んで目的もなくのんびりと歩いた。

    「……晩吟?」
    「ん?」

    聞き覚えのある声に名を呼ばれた気がして振り返ると、そこにいたのは笑顔を浮かべた金光瑶だった。

    「やはり晩吟でしたか。阿凌のお誕生日会以来ですね」
    「ああ、こんなところで会うなんて偶然だな」

    気さくに話しかけながら歩み寄ってくる金光瑶に言葉を返すと、彼の後ろに大きな人影がぬっと現れる。見上げれば聶明玦が不機嫌そうな顔で金光瑶を見ていた。

    「全くお前は、すぐふらふらいなくなる」
    「申し訳ありません大哥」
    「久しいな江晩吟。元気にしていたか?」
    「…………」
    「……晩吟?」

    問いかけにも答えず聶明玦を見つめたまま固まってしまった江澄に、金光瑶が戸惑ったように声をかけるがやはり反応が返ってこない。その時隣ですん、と空気を嗅ぐ小さな音がして、何かを嗅ぎ取ったらしい聶明玦がぐっと眉を寄せた。

    「江……」
    「晩吟、晩吟!」

    江澄に向けて一歩を踏み出そうとした聶明玦を明後日の方へ押しやって、金光瑶が江澄の肩を掴んで軽く揺する。

    「はっ、あ、え?」
    「晩吟、大丈夫ですか」

    我に返ったような顔で驚いたように金光瑶を見つめる江澄は、自分に何が起こったのかまったく分かっていないようだった。

    「あれ、俺は今、何を……」
    「ちょっと来てください」
    「え? でも明玦さんが、」
    「いいから」

    江澄の肩を押して歩かせながら、金光瑶がちらりと聶明玦に視線を送る。それきり彼をほったらかしにして近くのカフェへと入っていく二人を眺めて、聶明玦は一つため息をついてからくるりと踵を返した。

    「おい光瑶っ、何なんだ急に! 明玦さんはどうするんだ、どこかへ行くところじゃなかったのか?」
    「それどころじゃないでしょう。あなた、先ほど自分がどんな状態だったのか分かっていますか?」
    「え、いや、その……」

    途端に不安そうに視線を泳がせた江澄をテーブル席に座らせて、向かいに腰を下ろすと金光瑶はホットコーヒーを二つ注文する。

    「……晩吟は、Switchだったんですね」
    「な、何でそれを……!」

    ウエイトレスが去った後、小さく潜められた声に言い当てられて、江澄は青ざめながら唇を震わせた。

    「気づきもしますよ。とろけた顔でうっとりと見つめていましたからね……大哥のことを」
    「……!!」

    嘘だろう、そんなはずは。怯えたように呟く江澄が可哀想になってしまうが、ここで憐れむような態度を取ろうものならきっと彼は去ってしまうだろう。聶明玦にSwitchだと気づかれていることも黙っていた方が良さそうだ。金光瑶はとにかく江澄を落ち着かせようと微笑みかけた。

    「私でよければ話してくれませんか。もちろん絶対に誰にも漏らさないと約束しますから」
    「……本当か?」

    プライベートで交流のある友人があまりいない江澄にとって、叔父仲間で親戚でもある金光瑶のこの申し出はとても嬉しいものだった。彼ならば信頼して打ち明けることができる。自分だけでは解決できる気がしないと思っていた矢先でもあるし、渡りに船とばかりに江澄はことの次第を説明した。

    「……というわけで、パートナーを見つけなければならなくなってしまったんだ」
    「なるほど」
    「調教させろだなんだ言い出さずに、基本的なソフトプレイのみ、かつ完璧に秘密を守ってくれる俺より上等なDomが、どこかに落ちていないものか……」
    「それは相当難しい条件ですね。無理なのでは?」
    「やはりか」
    「と言いたいところですが、一人だけ存じておりますよ」
    「何? 誰だそれは!」

    勢いよく食いついた江澄がテーブル越しにぐいと身を寄せてくる。釣られたように金光瑶も江澄へと顔を寄せて、内緒話をするかのように囁いた。

    「沢蕪君こと、曦臣兄様です」
    「……あー……」

    名前を聞いた途端江澄は体勢を戻してソファにもたれかかる。眉間の皺が深くなっているあたり、喜ばしい相手ではないらしい。

    「噂はご存知でしょう。彼ならあなたのその条件にぴったり当てはまります。よしよしプレイ大盤振る舞いですからね」

    藍曦臣。義兄魏無羨の恋人である藍忘機の兄。彼らは近々結婚するというから、いずれ江澄の義理の兄になるであろう男だ。老若男女が見惚れて足を止めるほど美しい容貌に、長身ですらりとしつつしっかり筋肉のついた恵まれた体躯。優雅な物腰と穏やかな微笑みが標準装備なのにダイナミクスは極上のDomという、全人類の夢と理想を詰め込んだような完璧さ。おまけに大企業の御曹司で社長の座が約束されているという、ドラマの主人公でもなかなか見かけないようなステータスなのである。
    そんな彼が沢蕪君という通り名を戴いた理由は、その聖人君子のような振る舞いにあった。彼は困っている全てのSubに分け隔てなく手を差し伸べ、善意百パーセントのプラトニックなプレイで欲求を満たしてくれるのだ。特定のパートナーは持たず乞われれば誰にでも甘く優しい支配を与えてくれるという献身ぶりは、藍曦臣の評判を天にも上らんばかりに押し上げていた。

    「根っからの善人ですから、社長の江澄がSub性も持っているという秘密も守ってくれます。かくいう私も時々お世話になっておりますし」
    「そうなのか?」
    「はい。彼は信用できますよ」
    「……いや、だが……」

    正直に言えば、江澄は藍曦臣があまり得意ではなかった。その崇高な精神は尊敬に値するとは思っているが、どうにも人間味がなくて、それこそ神や仏と相対しているような気にさせられる。付き合いが浅いとはいえ怒ったところや不機嫌になったところを見たことがなかった。噂を聞く限り人前で感情を露わにしたことがほとんどないのだろう。浮世離れした美しすぎる容姿に人間離れした内面性。表情が変わらないという点で弟の藍忘機とそっくりではあるが、始終無表情なのと常に微笑んでいるのとでは前者の方がまだマシだった。得体が知れない。江澄が藍曦臣に抱いている印象を一言で表すならばそれだろう。

    「これ以上の相手は望めません。通りすがりのDomにうっかり跪いてしまう前に何とかしないと」
    「うっ……まあ、それはそう、なんだが……」

    笑顔の金光瑶の圧が怖い。Subなのに。とはいえ聶明玦に意識を捕らわれたところを見られているから、かなり心配させてしまったのだろう。彼の言葉通り不慮の事故が起こるまでにあまり猶予がないかもしれないし、選り好みしてる場合でないのは理解しているが。

    「……いや、やっぱりあの人は」
    「話は通しておきますから。詳しいことはまた後でご連絡しますね」
    「はっ? ちょ、待ってくれ光瑶! まだ決めるなんて言ってな……」

    必死で呼び止めようとしたが颯爽と店を出た金光瑶にガラス越しに手を振られて、江澄は脱力して再度ソファに沈み込む。

    「はーーー……」

    テーブルに肘をつき組んだ手の上に額を乗せ俯いて、江澄は長い長いため息をついた。
    店内でいつまでも落ち込んでいるわけにもいかないので、二人分の会計を済ませて江澄は帰路につく。外出した結果なんとかプレイ相手の当てができたわけだが、どうにも喜べなくて道中ため息ばかりついていた。

    「……藍曦臣……藍曦臣、か……」

    名前の音の響きすら美しい。何度か口の中で転がしてからむずむずする唇をそっと噛んだ。



    金光瑶から連絡が来たのはそれから三日後だった。土曜日の昼過ぎに顔合わせをするから藍曦臣が居を構えるマンションへ来てほしいとのこと。わかった、と一言だけの返事を送って、江澄はスマートフォンをテーブルに置きコーヒーのマグカップを掴んだ。
    金光瑶と藍曦臣は大層仲が良い。彼らと聶明玦を合わせた三人は家同士の繋がりがあり幼少期から顔見知りで、兄弟のように強固な結びつきがあった。江家は金、藍、聶の三家とは仕事上はあまり関わりがなかったが、母の紫鳶が金夫人と親友であったため多少交流があり、姉の江厭離が金子軒に嫁いでからは親戚となった金家を通して他の二家ともよく顔を合わせるようになって、魏無羨が藍忘機と交際を始めて以降は時折四家で集まりイベント事を行うこともあった。しかし江澄はそのほとんどに不参加だったため、三家とは顔見知り程度の付き合いしかない。唯一金光瑶とは甥の金凌のことで度々会う中馬が合い友人といえるような関係を築いていたが、藍曦臣とは二、三度軽く言葉を交わした程度で何を話したかすら覚えていないくらいだ。
    江澄としては苦手意識のある将来の親戚とプレイをするということがまず嫌だったし、更に悪いことに今回はこちらがSub側、藍曦臣に他意はないとはいえ弱みを握られるようでとてつもなく怖かった。

    (大丈夫だ。金光瑶が信頼してプレイ相手に選ぶくらいだし、聖人君子と噂になるほど優しいらしいし)

    江澄は不安で仕方がない心に蓋をしていつも通り仕事をこなし、風俗店でのDomとしてのプレイもしっかり勤めきって、明くる土曜日、食事も喉を通らないほど緊張しながら藍曦臣が住むマンションを訪ねた。

    『……はい』

    インターホンを鳴らすとしばらくして低く耳触りのいい声が応える。何と言ったものか一瞬迷った江澄だったが、藍曦臣は嬉しそうに声を弾ませた。

    『江晩吟、お久しぶりですね。今開けます、どうぞ上がってきてください』

    ガチャッと鍵が外された音がして、入り口のガラス扉が自動で開く。江澄はこくりと息を飲み込んで、戦いに臨むかのような表情でエントランスへと足を踏み入れた。

    「晩吟、こちらですよ」

    エレベーターから降りるなり手を降っている金光瑶を見つけて歩み寄ると、目をパチクリさせた彼はふふっと吹き出して江澄の頰を引っ張った。

    「ひゃにをふる(何をする)」
    「だって、すごい顔をしているんだもの。親の仇でも取りに来たみたいな目つきになっています。大丈夫、緊張することはありませんよ。話し合いには私も同席しますし、プレイも初回なので万が一のために別室に待機するつもりです。まあ相手はあの曦臣兄様ですからそんな心配は要りませんが、あなたの不安の種を少しでも減らせればと思いまして」
    「…………ありがとう」

    ぽつりと素直な言葉が唇から溢れ落ちる。病院で検査結果を告げられてからこちらずっと心細く思っていた江澄に寄り添うような金光瑶の心遣いは、強張っていた彼の表情を幾分か明るくさせた。

    「さあ、どうぞ」
    「……お邪魔します」
    「その紫のスリッパを使ってください。正面がリビングです」

    扉を開けた金光瑶に促されるまま江澄は藍曦臣宅へと上がり込む。言われた通りスリッパに履き替えて廊下を進み、すりガラスから光が漏れる白いドアを開いた。

    「やあ、いらっしゃい、晩吟」

    美しすぎる顔に慈愛の微笑みを浮かべた藍曦臣が、ソファから立ち上がって江澄を歓迎してくれる。彼からふわりと漂うDomのフェロモンはあまりにも魅力的で、隠したSub性が表に出たがるのを江澄は気合いで押さえつけた。そのせいで眉間の皺は一層深くなったが、藍曦臣は気にも留めていないようだった。

    「世話になる」
    「いいえ、そんなにかしこまらないでください。私たちはもうじき家族になるのですから。こちらへ掛けて。飲み物は何がいいですか?」
    「あ、いや、気を遣わなくていい」
    「晩吟はコーヒーですよね」

    藍曦臣の向かいのソファに座ると、金光瑶がミルクたっぷりのカフェラテを出してくれる。あらかじめ用意しておいてくれたらしい。いただきますと断ってマグカップに口をつけると、温もりとほのかな甘さにガチガチだった身体が少しだけほぐれた。

    「それでは、詳しい話を聞かせてもらえますか?」
    「そうだな。まずはこれを見てほしい」

    江澄はレザーブリーフケースからクリアファイルを取り出し、中の書類をテーブルに滑らせた。

    「秘密保持契約書?」
    「あなたを信じていないわけではないが、万が一のことに備えたい。こちらがお願いしている立場なのに申し訳ないが、何かの拍子にうっかり口を滑らされでもしたら俺の人生が終わる。無理なら断ってもらって構わない」
    「……いいですよ。サインしましょう」

    紙を手に取り眺めていた藍曦臣は笑みを崩さないまま頷いた。江澄が差し出したペンを使って迷うことなく署名する。それを受け取って確認した江澄が、代わりにと藍曦臣に控えを渡し、タブレット端末を出して画面に指先を滑らせた。

    「では本題に入らせてくれ。先に聞いておきたいんだが、よしよしプレイと言われるあなたの『命令』 Commandは主にどんなものを使っているんだ?」
    「座って、おいで、待って、見て、教えて……くらいですね。状況によっては止めて、静かに、とかも使うけれど、Subがいい子だったら強い命令は使いません。脱がせたり、屈辱的な命令を出すこともない。ところでよしよしプレイとはどういう意味なのでしょうか」
    「それは本件には関係ない。忘れてくれ」
    「はい」

    何故こんな世間知らずでふわふわした印象の男がDomなのか。これだったら自分の方が何倍も支配者然としているのに。周囲に花を飛ばしているような男よりも劣っている己が腹立たしくて、江澄はギリッと奥歯を噛みしめた。

    「絶対に守ってほしいのは、俺を調教しようとしないってことだ。Subの深度を上げたくない」
    「もちろんです。褒めて甘やかして可愛がることしか、私にはできませんから」
    「性的な行為もNGだ」
    「心得ております」

    まるで職場で会議でもしているかのように条件を確認していく江澄と藍曦臣を、金光瑶は不思議な心持ちで眺めていた。仮にも一時的にパートナーとなってプレイをしようという二人なのに、そんな雰囲気など微塵もない。江澄は自己防衛のためか刺々しい空気を隠そうともしないし、藍曦臣もそんな彼に何かを言うこともなく淡々と応じている。果たして彼らはちゃんとプレイに辿り着けるのだろうかと、マシュマロを浮かべたカフェオレを飲みながら金光瑶はこっそり息を吐いた。

    「セーフワードはどうしますか?」
    「そうか、考えてなかったな。店ではREDを使っているが……」
    「店?」
    「ああ、風俗店にDomとして登録している。これでも一応ナンバーワンだ」
    「おや、それはすごいですね。そこでは何と呼ばれているの?」
    「プレイネームは紫電と、……そうだ、それにしよう。紫電。俺の、Domとしての矜持、Subを守る砦」
    「わかりました。セーフワードは紫電ですね」

    その後もあれやこれやとビジネスライクな打ち合わせは続き、一時間ほどして江澄は満足げに頷くとタブレットの画面をスクロールした。

    「こんなところか」
    「では、そろそろお試しプレイですね?」
    「…………」

    このままでは永遠に始まりそうにないと金光瑶が先回りして声をかければ、何とも不安げに紫の瞳が揺れる。これだけガチガチに契約で縛って何を怖がることがあるのかと、微笑んで彼は江澄の肩を叩いた。それを見ていた藍曦臣が立ち上がる。

    「寝室へ行きましょうか。普段はプレイルームでしているので家には用意がありませんが、そこなら柔らかなラグが敷いてありますから、身体を痛めることもないでしょう」
    「……わか、った……」

    寝室という単語にびくりと肩を震わせた江澄だが、取り決めはしてある、間違いなど起こるはずがないと、腹を括り藍曦臣の後を追って寝室へとついていく。ドアを通る際ひとつ深呼吸をすると、江澄はDomからSubへと意識を切り替えた。その途端、このDomには敵わないという江澄の中での認識も、このDomに支配されたいという欲求に明確にスイッチする。ぞわりと背筋を震わせて、ベッドに腰掛ける藍曦臣に視線を向けられないまま後ろ手に扉を閉めた。

    「怖がらないで。あなたの嫌がることは決してしません。何かあればセーフワードも躊躇わずに使ってください」
    「……ああ」

    目線を落としたまま、スリッパを脱いでふかふかのラグの上を歩き藍曦臣へと寄っていくと、江澄は意を決して顔を上げ、彼を見つめる。浮かんだ笑顔の中優しげな琥珀色の瞳が細められて、薄紅の唇が開かれて、

    「晩吟、座ってkneel

    その言葉を聞いた瞬間、かくんと膝が折れて江澄の身体が崩れ落ちた。

    「……え?」

    膝立ちのまま何が起きたか分からずに戸惑う江澄をよそに、Subの本能が喜んで命令を遂行しようとする。座りたがる身体と抗いたがる矜持に板挟みになって江澄は硬直した。そんな彼の姿を、藍曦臣はただ静かに見ている。

    「……っ、う……」

    嫌だ、嫌だ、こんな自分を受け入れたくない。俺だってDomなのに、支配する側にいたはずなのに、どうして『命令』Commandを下されて悦んでいるんだ……!
    呼吸がだんだん荒くなり、冷や汗が背筋を伝う。苦しげに歪んだ江澄の表情を見て藍曦臣が顔色を変えた。

    待ってStay!」

    新しい『命令』Commandは比較的すんなりと江澄の中に入ってきて、彼の精神は現状維持を受け入れる。言われた通りそのままの体勢で静止した江澄へと駆け寄り、膝をついた藍曦臣は彼に視線を合わせて天使もかくやとばかりに微笑んだ。

    「いい子だね、晩吟。よくできた」
    「あ……」

    褒めてもらった瞬間、脳髄が痺れるような歓喜が江澄の中に湧き上がる。Domの本能が満たされた時とは全然違う、それは暖かくて柔らかなものにそっと包み込まれたような喜びだった。かすかな怯えは残っているが屈辱や絶望などの強い負の感情は消え去って、ゆっくりと江澄の心が解け始める。

    私を見てLook
    「うん」
    「偉いね。頭を撫でてもいいかな?」
    「い、嫌だ……」
    「わかった、しないよ。教えてくれてありがとう。膝は痛くないか。ベッドに座る?」
    「……うん」
    「では行こう。おいでCome

    差し出された手を見た江澄は、ちらりと藍曦臣に上目がちに視線を投げ、うっすらと涙の幕が残る大きな紫色の瞳で探るように彼をじっと見つめた。しばしののち、恐る恐る伸ばされた江澄の手が藍曦臣の手のひらに乗せられ、躊躇いがちにそっと掴む。それは迷子になって泣いていた子供が、知らない大人の救いの手を取った時のような仕草だった。先に立ち上がった藍曦臣に優しく手を引かれ、江澄も導かれるままベッドまで進んで二人一緒に腰掛けた。

    「いい子だね。無理をさせてすまなかった。あなたは何も悪くないからね」
    「うん」
    「そうだ、あなたのことを晩吟と呼んでいるけれど、そのままでいい? 他の呼び方にする?」
    「あ、……別に、それでいい」

    恥ずかしそうにふいと目を逸らした江澄へと、藍曦臣はもう一度私を見てLookと命令した。視線が絡み合うとそわりと首筋を撫で上げられるようなくすぐったさを感じて、まつ毛を震わせた江澄が藍曦臣と繋いだままの手に力を込める。それをしっかりと握り返して藍曦臣は質問を重ねた。

    「本当にそう思っている?」
    「…………」
    教えてSay
    「……あー、ちょん……阿澄って、呼んでほしい……」
    「わかったよ。ちゃんと言えて偉いね、阿澄。あなたは本当にいい子だね」

    低く穏やかな声が父を連想させて、偉い、いい子だと褒められるたびに、幼い頃から抱え続けた心の隙間に温かなものが満ちていく。藍曦臣を受け入れた江澄はにっこりと心から微笑んだ。それは大輪の蓮の花が咲いたかのような、華やかでありつつも清らかで可憐な笑みだった。江澄はひたむきに藍曦臣の命令に従って、彼から与えられる甘いご褒美Rewardを一生懸命吸い上げた。


    コンコンコン、と寝室の扉が控えめにノックされる。気づいた藍曦臣がどうぞと声をかけると、薄く開かれたドアの隙間から金光瑶が顔を出した。ベッドに座った藍曦臣と、彼の膝の方に頭を寄せて丸くなって眠っている江澄の姿を見てとって、金光瑶は安心したように表情を緩めた。

    「よかった。随分と出てこないので何かあったかと心配しました」
    「ふふ、大丈夫だよ。最初は失敗してしまったけれど、何とか持ち直した」
    「失敗ですか?」
    「うん。お座りでサブドロップしかけてしまったんだ」

    藍曦臣は江澄の頭をそっと撫でながら、プレイで一番最初に行われる基本中の基本である『命令』Commandだから、つい深く考えずに命じてしまったと申し訳なさそうに眉を下げた。

    「自分がSubであることを認めたくないこの人にとって、Domに跪くということがこんなにも苦痛だったなんて思いもよらなかった。可哀想なことをしてしまった」
    「でも、その後は上手くいったのでしょう? 安心しきって幼な子のように眠っていますから」

    穏やかな表情の江澄を見て、可愛らしいですねと金光瑶は小さく笑った。

    「私が阿澄の初めてのパートナーになれて本当によかった。とても繊細な人だから大切にしてあげなければね」

    江澄の寝顔を愛おしそうに眺めて、藍曦臣は指の背でするりと彼の頬を撫でる。これは珍しい反応だと金光瑶はつい藍曦臣の顔をまじまじと見てしまった。彼がこんなにはっきりと愛情を示すことなど滅多にない。長い付き合いである自分にさえも、こんな顔を向けることなどほとんどないというのに。

    「彼が気に入りましたか?」

    問いかけてみればきょとんとした顔になった藍曦臣が刹那の後にくすっと笑った。

    「何故だ? おかしなことを訊くね。私は慕ってくれるSubたちを皆等しく大切に思っているよ。晩吟も、阿瑶も、名も知らぬ人たちもね」

    慈愛の微笑みを浮かべる彼は、全てを愛しているつもりでその実何も愛せていないことに気づかない。そうでしたね、と同調しながら、金光瑶は壊れ物のようにそうっと江澄を撫でている藍曦臣の手を眺めていた。




    柔らかな支配

    温かな手が、優しく頭を撫でてくれている。それが心地よくて江澄は頬を緩ませた。その感触は懐かしさと幸福感と、ほんの少しの切なさを彼にもたらした。

    「……姉さん……」

    自分の呟きを聞いて意識を覚醒させた江澄は目を開けて、仄かな明かりに照らされた見慣れない天井に戸惑い視線を巡らせた。その内にここは藍曦臣のマンションの寝室で、先ほどまで彼とプレイをしていたことを思い出す。ベッドでお行儀よく枕に頭を乗せて眠っていたところをみると、藍曦臣が江澄を寝かせてくれたのだろうか。上体を起こしひとつ伸びをする。ここ最近のだるさが嘘のように身体が軽く頭もすっきりしていた。まさかここまで劇的に変わるなんてと喜ぶ反面、やはりSubとして定期的に欲求を満たすことが必要なのかと肩を落とした。

    「晩吟、起きていますか?」
     
    ノックの後にそう声をかけられて、江澄は慌てて起き上がりドアを開ける。その姿を認めて金光瑶は笑みを深めた。

    「すまない、今起きた」
    「よかった。ぐっすり眠っていたから声をかけるのは忍びなかったけれど、そろそろ九時になりそうなので」
    「えっ、九……は?」
    「お腹は空いていませんか。夕食を作ったのでよろしければ一緒に」
    「まっ、待ってくれ! 九時だと!?」

    話し合いを終えた時にちらりと目を落とした腕時計は二時半過ぎを指していた。プレイ中の記憶は早々に途切れているので、早い段階で寝落ちて五時間も眠り続けていたことになる。

    「ずっと眠れていなかったのでしょう、仕方ありません。ほら、リビングへ行きますよ」

    顔を青ざめさせた江澄を寝室から引っ張り出して、金光瑶はさっさと戻っていってしまった。しばらく動けずに突っ立っていたが、漂ってきた美味しそうな匂いにぐうっと腹の虫が鳴る。体調が良くなり食欲も戻ってきたらしい。江澄は重い足取りでリビングのドアを通った。

    「おはよう、晩吟」

    その途端に正面に座っていた藍曦臣に微笑まれて、いたたまれない気持ちで目を逸らす。

    「……すまなかった。まさか寝てしまうなんて……」
    「いいんだよ、むしろ眠ることができてよかった。体調はどう?」
    「おかげですっかり元気になった」
    「今夜は泊まっていく? 客間を用意できるけれど」
    「いっ、いい! そこまで迷惑はかけられない」
    「あなたは私の弟も同然なのだから、遠慮なんていらないのに」
    「晩吟、座ってください」

    食卓にはサラダとパンが既に並んでおり、クリームシチューを出し終えた金光瑶が席につきながら声をかけた。二人から暖かい眼差しを注がれて、まるで両親に見守られる子供のような気分になりながらしかめっ面で江澄も椅子に座る。

    「では、どうぞ召し上がれ」
    「ありがとう阿瑶。美味しそうだ」
    「……では、遠慮なく」

    おずおずと口に運んだシチューは優しい味で、子供の頃は毎日食べられることが当たり前だと思っていた姉の手料理を思い出し、胸の真ん中がつきんと痛んだ。


    食後にデザートでもと誘われたが、甘いものは苦手だと言い訳をして辞退した江澄は逃げるように藍曦臣のマンションを後にした。来る時はそうでもなかったのに、いつの間にか強くなっていた風が夜の冷たさをもって江澄へと吹き付ける。マフラーも持って来ればよかったと寒さに首を引っ込めながら、そもそもこんなに遅くなるつもりはなかったのだと心の中で悪態をついた。
    Subとしての初めてのプレイは、江澄にとってとても恐ろしいものだった。従うことを是とする性であるため、自分の身体が他人によって意のままに操られてしまうという恐怖は並大抵のものではない。拒否も可能であるけれど、命令の通りにしたいと望む本能に打ち勝つことは容易ではないのだ。まさかの一発目でつまずいた江澄がそれでも大事なくプレイを終えられたのは、ひとえに経験豊富な藍曦臣のおかげであっただろう。彼はDomとして極上であるだけでなく、相手に対する思いやりがあり、他人の心の動きに聡い。つまりは悔しいほどに支配者として完璧だった。この人なら大丈夫、安心して身を委ねられる。自然とそう思わせるような何かがあった。とはいえ。

    (くっそ……何だあれ、あんなの、あんなの俺じゃないっ……!)

    子供の時分にも出したことのないような己の甘えた声を思い出してぞっとする。潤んだ瞳で藍曦臣を見つめながら愛称で呼んでほしいとねだり、偉いねって褒められるたびに嬉しくてゾクゾクして、もっと、もっと褒めてと浅ましく次の命令を待っていたあの瞬間、江澄は正しく彼の支配下に置かれていた。食いしばった歯の隙間からぎりりと嫌な音がする。

    「ああああちくしょう!」

    自宅に帰ってきたのをいいことに、リビングのソファに倒れ込みクッションに顔を押しつけて江澄は腹の底から叫び声を上げた。もう二度とごめんだと思うのに、またあの心地よさに包まれたいと願う自分もいる。どうにもならないもやもやを全部吐き出し終わる頃には、彼の喉はひりひりと痛みを訴えていた。


    月曜日。やけに機嫌が悪そうな顔で出勤してきた江澄を、新卒の社員は多少気遣いはしたものの、秘書や専務を中心とする同僚たちは、いつもの顔に戻っただの見慣れた仏頂面だの好き勝手感想を言って笑っては、休みがちだった数日分の仕事を山のように江澄の下へ置いて自分のデスクに戻っていった。それが彼らなりの愛情表現なのだとわかっている江澄は、心配をかけてしまったことを申し訳なく思いつつ業務に取り掛かる。
    そう、ここは江澄の会社。江澄が社長で、彼らは守るべき社員たちである。当然江澄に何かがあれば、いかに彼らが優秀であっても会社は立ち行かなくなってしまう。この身は自分だけのものではないのだと、改めて実感させられた。
    逃げるわけにはいかないのだ。どんなにSubとしてのプレイが屈辱でも、支配されることが恐ろしかろうとも、ダイナミクス性を変えることなどできない以上、新しい自分を認めることしか、この先の人生を健康に過ごす方法はないのだから。




    折り合いがつけられない江澄の心とは裏腹に、週に一度の藍曦臣とのプレイは順調に続いている。毎回彼のマンションで行っているためゲストルームの一つがプレイ部屋になり、毛足の長い絨毯やふかふかのソファ、リラックスさせるためのアロマディフューザーや海洋プロジェクターなど、来るたびに部屋にはどんどん新しい物が増えていた。何度かやめるように言ったけれど、好きでしていることだからと家主に微笑まれてしまうとそれ以上何も言えなくなって、いつしか江澄も気にすることをやめた。

    「いい子だね、阿澄」

    今も二人がけのソファに隣り合って座り、リラックス効果のあるアロマを焚いてもらいながら、子供騙しのような優しいだけのプレイに勤しんでいた。今日はさくっとお手軽に済ませたいと思っていたのに、本能はいつまでも際限なくDomからの命令とご褒美を欲しがる。のめり込まないよう江澄が軽く頭を振って深呼吸をしていると、藍曦臣は居住まいを正して再び阿澄と穏やかな声で彼を呼んだ。

    「あなたに一つだけ話したいことがあるんだ」
    「……何だ?」
    「Switchの……Subである自分を、Domより劣っているとは思わないで欲しい」

    彼の様子に釣られて身構えていた江澄は、心の中を見透かしたような言葉にしばし呼吸を忘れた。

    「性別とは自分の意思ではどうにもならないものだ。生まれつきだったり、環境で後天的に認識が変わったり。男女の性も、男性の方が身体が大きく力が強いけれど、だからと言って女性が劣っているというわけでは決してない。それと同じだよ。DomはSubからの信頼なくして充足感を得ることはできない。Domの私はSubであるあなたに仕えるしもべなんだ。あなたをいかに喜ばせるかということだけをひたすら考えている。あなただってDomとしてプレイする時は同じことを思っているはずだ」

    そうだろう、と問いかけるように優しい色の瞳が揺れている。

    「だからね、立場が変わってもそのことを忘れないで。私たちは対等な関係なのだから」

    子供を諭すかのように穏やかに説いて、藍曦臣が江澄の頭をそっと撫でた。何度か丸い後頭部を撫で下ろしてから、あっと小さく声を上げて彼が手を退ける。

    「す、すまない。撫でられるのは嫌だと言っていたのに」
    「……いや。あなたなら、いい」

    ぽつりと呟いて、江澄はおもむろに立ち上がり藍曦臣の前に立った。

    「阿澄?」
    「なあ藍曦臣。命令、してくれないか。跪けと。今なら、大丈夫な気がするから」

    虚をつかれたような顔をしていた藍曦臣が少し緊張をまとって頷く。ひとつ息をついて、彼は丁寧に唇に音を乗せた。

    「……跪いてKneel

    その『命令』Commandに江澄はもう嫌悪を感じなかった。藍曦臣の目を見つめたままゆっくりと膝を落とし、ぺたんと柔らかな絨毯に尻をつけて座る。達成感が江澄の気分を昂揚させて頬が薔薇色に染まった。藍曦臣の瞳に一瞬本能が揺らいで、彼もまた昂揚を得ていることを江澄に知らせる。その視線にこもった熱で、江澄のうなじがちりちりと粟立った。それは快感にも似た感覚で、彼の細く白い首筋に匂い立つように色が乗る。藍曦臣の視線が更に熱を増して、溶けてしまいそうだと江澄がふるりと身を震わせた。

    「上手だ。よくできたね、阿澄。偉いよ、あなたはとてもいい子だね」

    与えられたご褒美Rewardにより江澄が深い充足を得て、うっとりと表情を蕩けさせ、小さく開いた唇から吐息を漏らした。誘うようにちらりと覗いた赤い舌は無垢であるのに艶かしい。先ほどみたいに撫でてほしくて、江澄は藍曦臣に身を寄せてその足にしなだれかかる。期待通りに藍曦臣の手が持ち上がるが、向かった先は頭ではなかった。熱を持ったままのすべらかな頬に手のひらを添えた藍曦臣の親指が、江澄の唇をつうっとなぞる。

    「んぅっ」

    予想外の快感にぴくんと肩を跳ねさせた江澄から鼻にかかった甘い声がこぼれた。藍曦臣はすぐに手を引っ込め目を丸くしてぱちぱちと瞬きしている。江澄も自分で自分の反応に驚き、あまりの羞恥に顔を赤くして目を伏せた。

    「……すまない、驚かせてしまった」
    「俺の方こそすまない、その、へ、変な声が……」
    「触れられるのは苦手だったね。私の不注意だ。これからは気をつけるから、……どうしたの?」
    「え? いや、俺は何も」

    途中で言葉を切った藍曦臣が突然質問してきて、思うことのあった江澄は内心でひやりとしながらもいつもの調子を崩さずに答える。

    「阿澄?」
    「な、なんだ。何も言ってないぞ俺は」
    「だからだよ。さっきは何を考えていたんだ? 教えてSay
    「っ……」

    藍曦臣に命令されてしまい、江澄は視線を泳がせてから観念して口を開く。

    「……もっと撫でて、触れて、ほしい。言葉で褒められるのも嬉しいが、あなたの温もりはとても心地いいから。さっき触られた時も驚いてしまっただけで、嫌では、なかったんだ」
    「そうか。教えてくれてありがとう。いい子だね、阿澄」
    「ん」

    頭を撫でてもらって無防備に微笑んだ江澄が気持ちよさそうに目を細めた。しかしすぐに不満そうに表情を曇らせてわずかに唇を尖らせる。先とは違ったあからさまな態度に藍曦臣はくすくすと笑い声を上げた。

    「今度は何かな」
    「……ずるいぞ」
    「え?」
    「なんで、気づくんだ。命令されてしまったら、俺はあなたに隠し事ができなくなるのに」

    ほんの些細な表情の変化だったはずだ。もしかすると顔にすら出ていなかったかもしれないほどの小さな心の揺らぎを、藍曦臣は見落とすことなく拾い上げて江澄に問うた。驚くと同時に、この人はちゃんと自分を見てくれているのだとわかってとても嬉しかった。

    「あなたのことは何でも知りたいから」

    とろけるような微笑みを向けられて、江澄の心臓がどきゅんと変な具合に脈打つ。失念していたが藍曦臣は物凄く顔がいいのだ。同性であってもつい見惚れてしまうほどには。
    プレイ相手のことを知りたいと思うのはDomなら当然のことで、何ら特別な言葉ではないのに、あの美しい顔で言われると妙に気恥ずかしくなってしまって、とくとくと早まった鼓動はなかなか落ち着いてくれなかった。江澄は熱を持った顔を隠すように藍曦臣の膝に額を擦りつける。甘えたいのだと思ったのか、大きな手のひらが何度も何度も江澄の頭を優しく撫でてくれた。



    その日から、プレイに対する忌避感や抵抗感がなくなって、警戒を解いた江澄はすっかり藍曦臣に懐いている。
    彼が江澄に聞かせたのは、良識あるほとんどの人が弁えているダイナミクスに関しての基本の基だ。そんなことも無意識に脳裏から消し去ってしまうくらい、劣等感に溺れて何も見えなくなっていた自分が恥ずかしい。けれども今の江澄は、藍曦臣に尊重され大切に扱われて、肯定的に自分のSub性を受け入れられるようになってきていた。

    「マリア様ー! 次、ご新規のお客様です。カルテをどうぞ」
    「……は?」
    「え? ……アッ……!」

    Domとしてプレイしているいつものクラブで、待機室にいる自分の元へとやってきたボーイの発した一言を聞いて、江澄の眉間にぐっと皺が寄った。その瞬間失言に気づいてボーイが両手で口を押さえるが時すでに遅し。額に青筋を立てた江澄は彼の胸ぐらを掴み上げた。

    「すっ、すみませんすみません!!」
    「俺を別の誰かと勘違いしたか? そうだな? そうなんだろう?」
    「いえその、これには深いワケがありまして……」
    「ほう……?」
    「ぐっ……ぐるじぃでず紫電しゃま……!!」
    「……ふん」

    突き放すように解放され床にくず折れて咳き込むボーイからカルテを奪い取り、江澄は切れ長の目をすがめて片頬で笑う。迫力のあるその微笑は魂を売り渡してしまいそうなほど凄艶で悪魔的に美しかった。爛々と輝く紫の瞳は硬質な冷ややかさをもって相対する者を凍りつかせ、彼を絶対強者であると知らしめる。

    「申し開きは戻ってから聞く。逃げられると思うなよ?」
    「はい……」

    足音高く去っていく江澄をうっとりと見つめて、ニュートラルのはずのボーイはゾクゾクと背筋を走る快感に身を震わせた。

    閉店後江澄に詰め寄られた彼がお仕置き待ちのSubみたいな顔で教えてくれたのは、近頃江澄が従業員たちの間でこっそりマリア様と呼ばれているという事実だった。なんでも顧客アンケートでたびたび『まるで聖母のように慈愛に満ち溢れていた』『マリア様の御胸に抱かれているような心地だった』などという褒め言葉が見られたため、いつのまにかその呼び名が定着してしまったようだ。

    「紫電さん、一時期お店お休みされたじゃないですか。その後戻られてから雰囲気が変わったなとは我々も思っていたんですが、顕著に感じ取ったのはお客様方で、以前にも増して人気が鰻登りなんです」
    「……そうか」

    Subの側に立ってみて初めて、理解しているつもりでいたその性質やプレイに対する不安、恐怖を己のものとして感じることができた江澄は、藍曦臣からDomとして手本となる部分も吸収して、もっとSubに寄り添ったプレイをしようとスタイルを改めていた。その結果喜んでくれた人がいるのならとても嬉しい。
    柔らかく目元を緩ませた江澄の表情を正面から見ていたボーイが頬を染めて息を飲んだ。

    「だがマリアはやめろ。今度その呼び名を聞いたら例外なく一本鞭だ。いいな?」
    「はっ、はい! 徹底させます!」
    「よし。ところで何故お前は顔が赤いんだ」
    「いえっ! 何でも、何でもありません!! お疲れさまでした!」
    「ああ、お疲れ……?」

    ぺこぺこと頭を下げ逃げるように奥へ引っ込んでしまったボーイを不思議そうに見送って、江澄は手早く着替えを済ますと店を後にする。明日は土曜日。昼過ぎから、藍曦臣のマンションを訪ねる予定である。


    近づく心

    「いらっしゃい、阿澄」

    チャイムを鳴らす前に開かれた玄関扉から満面の笑みを浮かべた藍曦臣が顔を出した。毎度のことながら何故こうもタイミングよく出てくるのだろうと江澄は内心で首を傾げる。カメラの類はついていないはずなのに。まさかドアスコープから覗いているのだろうか。扉に張り付いて外を眺める藍曦臣をうっかり想像して、笑いそうになった江澄は慌ててその考えを振り払った。

    「邪魔するぞ」

    背後で扉が閉まり、ガチャッとオートロックが掛かる。靴を脱ぎながら江澄がDomからSubへとスイッチすると、藍曦臣のフェロモンにふわりと包み込まれた。応えるように江澄からもSubのフェロモンが濃く立ち上り、それが混ざり合ってとても安心する空間が出来上がる。

    「……入っても、いいか?」
    「あ、すまない、どうぞ」

    嬉しそうに江澄を見つめたまま動こうとしない藍曦臣に問いかければ、はっと我に返ったように返答した彼が慌てて踵を返した。優しい眼差しを心地よく感じていた江澄は、もうしばらくあのままでもよかったなとほんの少し後悔した。

    「身体の調子はどう?」
    「だいぶいい。先日経過観察で病院に行ったが、もう大丈夫だと医者にお墨付きをもらった」
    「それはよかった」

    プレイ部屋にまっすぐ向かい、ドアを開けて江澄を先に通そうと振り返った藍曦臣が、いつの間にか仏頂面になっていた江澄を見てこっそり笑う。

    「ねえ、どうしていつもこの部屋に入る時その顔になってしまうの」
    「…………」

    不思議そうに尋ねられ、無言のまま恨めしげな顔でちらと藍曦臣を上目に見上げたのも束の間、江澄はぎゅっと両目を瞑って顔まで伏せた。

    「い、居た堪れないんだっ。Subとしての俺はどうも子供っぽいというか、振る舞いが幼くなってやたらと甘えてしまうから。自分でもどうにかしようと思ってはいるんだが、プレイが始まると結局……」
    「そんなこと、気にしなくていいのに。私はSubの時のあなたが大好きだよ、とても可愛くて」
    「……えっ」

    驚きに固まってしまった江澄であるが、言われた内容は予想通りだったのだ。できたDomならこう答えるのだろうなという模範解答を滑らかに口にした藍曦臣が、それだけでは終わらず、江澄のこめかみに触れてきてちゅっと音を立てた。それがキスの際のリップ音だと遅れて気づいた江澄が、彼のまさかの行動に俯いたまま目を見開き硬直したのだった。

    「嫌だった、わけではないみたいだね。驚いた?」

    江澄の顔を覗き込んだ藍曦臣がふんわりと笑ってそんなことを言うから、ぼっと頬を赤く染めて江澄は目の前の美しい顔を呆然と見返した。

    「…………驚いた。当然だろう。あなたは普段からこうしてSubたちにキスをするのか?」
    「え、……いや、考えてみれば誰にもしたことはないな。あなたが初めてだ。どうしてしたくなったんだろう……弟のように思っているからかな?」
    「は?」

    弟と聞いて江澄の頭の中に藍忘機の顔が浮かんでくる。無表情の彼に藍曦臣が微笑みながらキスをするところまで想像したら鳥肌が立った。

    「藍忘機とはしているのか」

    ひくひくと唇の端が引き攣りそうになるのを、背後に回した己の手の甲をつねることで何とか耐える。

    「うん。と言っても過去のことだけれど。幼い頃はよく忘機の頬や額にキスをしていたんだ。中等部に上がってからしばらく経って同級生たちとその話題になったのか、子供でもないのに兄弟でキスなんておかしい、恥ずかしいからもうしないでと拒否された日はショックでなかなか寝つけなかったよ」
    「なるほど。俺もあなたに同じ言葉を贈ろう」
    「駄目」

    たおやかでありつつも男らしく筋張った手が伸びてきて、反射的に江澄が後ずさった。一瞬きょとんとした藍曦臣が、にっこりと満面の笑みを浮かべて唇を開く。

    おいでCome
    「なっ……」

    やられた。
    『命令』Commandを出されて苦虫を噛み潰したような顔をした江澄だったが、それでも彼の足は素直に藍曦臣へと歩み寄っていく。求められるままに彼我の距離十数センチまで近づくと、大きく広げられていた藍曦臣の腕が江澄を抱き寄せすっぽりと包み込んだ。

    「いい子だ阿澄。よくできたね」
    「……ん」

    彼の腕の中は暖かくて優しくて、とても居心地がいい。何よりも褒め言葉と同じくご褒美Rewardとして与えられたその温もりは江澄へ満悦と幸福感をもたらした。ただでさえ抱きしめられた経験が少なく、心の底ではずっと他者からの抱擁を希求していた江澄なのだ。心も身体もすっかりとろかされて藍曦臣へと無意識に身を委ねていた。

    私を見てLook

    新たな命令に江澄は顔を上げて濃い飴色の瞳を見つめ返す。藍曦臣が自分を見ていることに嬉しくなって、もっと彼を感じたくて、おずおずと両手を持ち上げ江澄は藍曦臣の背にそっと触れた。

    「うん、偉いよ。あなたは本当に可愛いね」
    「あ……」

    ぎゅうと腕の力が強まってほんの少しの息苦しさの中、額に寄せられた藍曦臣の唇がちう、と音を立てる。鼻先に、頬に、瞼に、柔らかな感触が優しく押しつけられて甘やかな愛の音を鳴らす。江澄は次第に頭がふわふわと気持ち良くなってきて、藍曦臣の背に置いていた手で彼のセーターを掴んで引っ張った。

    「だ、だめ」
    「阿澄?」
    「きもち、いい……」

    戸惑いに震える声を聞き届けたはずの藍曦臣は、いっそう強く江澄を抱きしめてこめかみにキスを落とし、艶っぽく掠れた声で囁いた。

    「もっと気持ち良くなって」
    「や……」

    ぞくっと背筋からうなじへと痺れるような快感が駆け上がる。

    「だ、め……こわいっ……」
    「大丈夫だよ。いい子だから、そのまま身を委ねてごらん」
    「ん、ん……」

    藍曦臣が囁きながら耳朶に唇を押しつけてきて、ぞわぞわした感覚はどんどん大きくなっていき、境界線で留まっていることすら辛くなってきた。押し寄せてくるこの不思議な陶酔から逃れるのか、受け入れるのか。選択を迫られた江澄は、藍曦臣にぎゅうとしがみついて、未知の快感に抗うことをやめた。

    その瞬間、ふわりと、江澄の意識が浮遊した。

    途端に彼の足から力が抜けて、ずるずると藍曦臣の身体を伝いながら床にくずおれていく。ぺたんとフローリングに尻をついてお座りKneelの姿勢になってしまった江澄は、足の間に両手をついてしどけなく己のDomを見上げた。眉を切なげにハの字に寄せて、瞳を涙で潤ませ、性感を得ているかのような艶めかしい表情でじっと藍曦臣に視線を送る。江澄が感じているのは途方もない法悦だった。まるで精神が絶頂を迎えたかのような深い深い本能からの悦楽。
    そして藍曦臣もまた同様の喜悦と充足を味わっているのだろう、その微笑みには見る者を虜にしてしまいそうなほどの壮絶な色香が滲み出ていた。

    「上手にサブスペースに入れたね。偉いよ」

    うまく思考できなくなった頭で、これがサブスペースなのかと江澄がぼんやり頷く。

    「ああ、ごめんね、部屋にも入らずこんな場所で。おいでCome

    冷たい廊下に座らせてしまっていることに気づいた藍曦臣が部屋に入りながら江澄を呼ぶが、彼が四つ這いで進み始めたことに驚いてすぐに戻ってきた。

    立って?Stand up
    「うん」

    差し出された手を掴んで立ち上がり、視線を絡め合ったままままソファに歩いていって並んで座る。

    「いい子だね、阿澄」

    大きな両手で頬を包み込まれて、また顔のあちこちにキスが落とされた。大袈裟なほどの愛情表現は抑圧されていた江澄のSub性には効果覿面だ。嬉しくてたまらなくなった江澄は甘えるように藍曦臣の胸に顔をうずめた。

    「……きもちいい……」
    「私もとっても気持ちが良いよ。信頼してくれてありがとう。阿澄。私の可愛い弟」
    「……曦臣」

    また腕の中にすっぽり包まれ抱きしめられて、多幸感に江澄の身体が弛緩する。そのまま藍曦臣に意識の楔を預けきって、彼はしばらく忘我の境地を彷徨っていた。



    「今日も遅くまですまなかった」
    「いいえ。あなたが喜んでくれると私もとても嬉しいから」

    プレイを終えてリビングに戻った時に見上げた壁の時計は、夕方の五時を指そうとするところだった。予想以上に経過していた時間に藍曦臣に対して少し申し訳なく思ったが、江澄の心身は今これ以上なく満ち足りている。この人もそうであればいいと、少しだけ頬を染めた江澄が恥ずかしそうに笑った。その顔を見た藍曦臣が一瞬真顔になったのち、何か言おうと唇を開いたようだが、言葉よりも先にきゅるると可愛らしく空腹を訴える音が彼の腹から鳴り響く。

    「……腹が減ってるのか」
    「…………ごめんね、聞き苦しいものを」
    「いや、まあ、あなたも人の子なんだな」
    「なんだいその感想は」

    かすかに耳の先を赤く染めて情けない顔をする藍曦臣を見た江澄は、神仏などではなかったなと過去の自分の彼への印象を引き合いに出しながら考え直した。おまけにこんな表情を見られるほど仲良くなったのかと思ったら、嬉しくなってしまってまた一段と笑みを深める。

    「実は、昼食を摂っていないんだ。ご飯は炊いたのに、あると思っていた冷凍のおかずを切らしていて……私は料理はからっきしなものだから……」
    「ふうん。よかったら何か作ってやろうか?」
    「本当に? あ、待って、嬉しいけれど食材もほとんどないのだった」
    「ちょっと冷蔵庫の中見てもいいか?」
    「うん、どうぞ」

    許可をもらった江澄は、玄関からリビングに戻ってキッチンスペースの冷蔵庫を開ける。生卵が六個入りパックの中に二つ残っていたが、他には飲み物しかなかった。冷凍庫には鳥もも肉とベーコンが少々。野菜室にはネギ、キャベツ、玉ねぎ、にんじん。調味料は割としっかり揃っている。金光瑶がここで料理をするからだろう。

    「飯は炊いたって言ってたな。炊飯器の中か?」
    「うん」

    返事を待たずに炊飯器を覗いた江澄がにやりと笑って藍曦臣に流し目を送った。

    「簡単に作れるものがあるぞ。十分ほど待っていてくれ」
    「あっ……うん」

    一瞥したきりすぐに動き出していた江澄は、流し見られた藍曦臣がまた耳をほんのり赤くしていたことには全くもって気づかなかった。

    フライパンをコンロに乗せて火をつけ、電子レンジでベーコンを解凍しながら長ネギの白い部分を刻んでいく。ごま油を多めに引いてからネギを入れるとじゅわっと音がして香ばしい匂いが立ち込め始めた。レンジから出したベーコンを角切りにして加え、黒くならないよう注意しながら焦げ目をつけていく。

    「いい匂いだね」
    「座ってろ」

    藍曦臣の声がすぐそばから聞こえたので目をやれば、興味を持ったのか明るく輝く蜜色がフライパンを覗き込んでいた。

    「ベーコンと……?」
    「ネギ」
    「ああ!」
    「ったく、そこを動くなよ」

    江澄は片手で器用にぽん、ぽんと卵を二つフライパンに割り落として潰しながら炒めると、釜ごと炊飯器から取り出して白米を投入し、ペーストや粉末などの調味料を加えて、さながら料理人のような手捌きでそれらを炒め合わせる。あっという間に完成した炒飯を棚から出した適当な皿にお玉で丸く盛り付け、江澄は藍曦臣を振り返った。

    「できたぞ」
    「ありがとう。すごいな、魔法みたいにあっという間に完成してしまった」
    「慣れれば簡単なんだ、料理なんて」
    「ところであなたの分は? 早く残りも器によそって」
    「え、いや、これはあなたのおかわり用で、俺の分では……」
    「一緒に食べたい、阿澄」
    「……なら、お言葉に甘えて頂こう」

    江澄が皿をもう一枚取り出して盛り付ける間に、藍曦臣はグラスにミネラルウォーターを注いでレンゲを取り出し、先にダイニングテーブルに並べておく。江澄も二人分の炒飯を置いて席についた。

    「どーぞ」
    「嬉しいな。阿澄、ありがとう」
    「ん」

    藍曦臣はほかほかと湯気を立てている炒飯をレンゲで掬って口に入れた。

    「んっ……!」
    「ははっ、うまいか?」

    藍曦臣の様子を眺めていた江澄は、口元を押さえきらきらと目を輝かせて咀嚼している彼に破顔する。その問いに必死に首を縦に振った藍曦臣が、炒飯を飲み込んでほうとため息をついた。

    「美味しい、すごく美味しいよ阿澄!」
    「それはよかった」

    それきり無言でもくもくと食べ始めた藍曦臣を見ながら、江澄もひょいひょいとレンゲを口に運んでいく。五分足らずで食べ終えてしまった彼は、やっと半分平らげたばかりの藍曦臣にゆっくり食えよと声をかけながら、目を細めて嬉しそうに微笑んでいた。


    「このスポンジ使っていいか?」
    「あ、待って、食器はそこに置いておくだけでいいから」

    藍曦臣が食べ終えるのを待って食器をシンクへ運んだ江澄だが、洗い物をしようとしたら彼に止められてしまい怪訝そうに振り返る。

    「いや、だが、タダで食わせてもらったんだ、このくらいは……」
    「作ってくれたのはあなただろう、それでじゅうぶ、んっ?」
    「曦臣!」

    自分の食器を持って足早に歩いてきた藍曦臣が、テーブルの足につま先を引っ掛けてたたらを踏んだ。江澄が慌てて彼に向かって手を伸ばし、腕の中に受け止める。ぶつかった食器たちが二人の間でかちゃんと小さな音を立てた。

    「……ぶ、無事か?」
    「……うん」
    「皿は? コップも、割れてないな?」
    「……うん」

    現状確認ののち、二人で顔を見合わせて安堵のため息をつく。江澄が藍曦臣の手から食器を受け取りシンクに向かうと、彼も申し訳なさそうに隣に並んだ。

    「ごめんね阿澄、庇ってくれてありがとう」
    「心臓が止まるかと思ったぞ。ったく、しっかりしてくれ曦臣兄さん」
    「……もう一回」
    「え? わっ……!」

    食器を置いたばかりの江澄の肩を掴み自分へと向き直らせた藍曦臣が、瞳を輝かせて江澄を見ている。

    「もう一回呼んでおくれ」
    「……し、曦臣、兄さん?」

    若干気圧されながら江澄が同じ言葉を繰り返すと、藍曦臣はぱっと頬を薄紅色に染めて江澄の肩に額を押しつけ、細身の身体をぎゅうぎゅうと抱きしめた。

    「すごくいい。ねえ、この先ずっとそう呼んで」
    「はあ?」
    「お願い」
    「……ふ、二人きりの時だけだぞ」
    「うん」

    何やら感極まっているらしい藍曦臣を見て、この人はもしかするとブラザーコンプレックスを拗らせた可哀想な人なのか、と江澄は思い至る。
    キスの件といい、早いうちから藍忘機に兄離れされてしまい、可愛がり甘やかしたい欲求を持て余したからこそのこのDom傾向なのかもしれない。やたらスキンシップが多いのもそのせいだろう。江澄と同じく家族の温もりに飢えているのだ。
    江澄はわずかに憐憫を含んだ眼差しで藍曦臣に目と落とし、広い背中をそっと抱き返してやった。

    その後彼が温かい飲み物を作ってくれるというので、江澄がリビングのソファにのんびり座って待っていると、ニコニコ顔の藍曦臣がマグカップを二つ持ってやってきた。

    「はい、阿澄」
    「ありがとう」

    ふわふわのフォームドミルクは優しい舌触りで、砂糖を入れていないのか変な甘さがなくて江澄の味覚にちょうど合っている。

    「……うまい」

    ほうと息をついてからマグカップを両手で抱え、のんびりと傾けながら少しずつ口に含んだ。ダイナミクス欲求を満たされ、腹もくちくなり、温かなカプチーノでリラックスするというこれ以上なく幸せな時間にため息がこぼれる。
    だと言うのに。

    「…………」
    「…………」

    非常にうるさいのだ、藍曦臣の視線が。
    何かを期待するようにじっと熱い眼差しを注がれている。礼は言った、味の感想も言った。あとは何だ、淹れ方でも褒めればいいのか? あなたの淹れたカプチーノだからうまいんだな、と?

    「どうかな、阿澄」
    「そうだな、あなたが淹れてくれたからこそとてもうまいんだと思う。ありが」
    「そうではなくて、そのマグカップ」
    「マグ……え?」

    言われて初めて、江澄はマグカップに視線を向けた。黒っぽいのはわかっていたが、よく見れば紫色の首輪をつけた黒猫の姿が描かれている。

    「阿澄に似合うと思って買ってきてしまったんだ。あなた専用マグカップだよ」

    幸せそうに緩みきった藍曦臣の顔を見て、江澄はぐっと眉間に皺を寄せてから右足をローテーブルの上へと持ち上げた。

    「先週はこれだったじゃないか! 何なんだあなたは。俺を懐かない野良猫だとでも言いたいのか!」

    江澄が指し示したのは黒いスリッパだ。前回訪ねた時藍曦臣があなた専用だと用意してくれたそれには猫の顔が描かれていて、ピンと立った猫耳が縁から飛び出すようについていた。江澄のことを弟のように大切に思ってくれているのは重々承知だが、大の男に宛てがうにはスリッパもマグカップもいささか可愛いが過ぎる。

    「懐かない猫……なるほど、言われてみれば初めてここに来た日は確かにそんな雰囲気だったね」
    「なんだと!?」
    「阿澄は猫が好きではなかったかな」
    「大好きに決まっているだろう!」
    「それはよかった。大事にしておくれ」
    「あっ、いや、今のは違うぞ、猫は好きだがこういう小物を猫で揃えようとするのはやめろと……ああもう、何でもないっ。ありがとうなっ」
    「うん」

    何を言っても藍曦臣には効果がないとわかって、江澄は仏頂面になって投げやりに礼を言うと罪なきカプチーノを一息で飲み干した。




    「それでちょっと、口の中がヒリヒリするんだ」
    「何してるんですかあなたは……」

    翌日、久しぶりに金光瑶と食事の予定を入れていた江澄は、アイスコーヒーを飲みながらこれまでのいきさつを簡単に話した。サラダをつつきながら聞いていた金光瑶が最後のくだりに呆れたようなため息をつく。

    「お前のマグカップは何の模様だ? リスか?」
    「いえ、私は頂いていませんよ」
    「え?」

    その返答に江澄は思わず彼をまじまじと見てしまった。金光瑶は普段から藍曦臣を曦臣兄様と呼んで慕っているし、弟としての認識は彼の方が先だと思っていたのだが。

    「そうなのか。じゃあキスは?」
    「キス!?」

    素っ頓狂な声で鸚鵡返しをくらって、江澄も驚いたように瞬きする。

    「き、キスってどこに?」
    「え、そりゃあ頬とか、額とか……」

    それを聞いた金光瑶にあからさまにほっとした顔をされて、今何を心配されていたのだろうかと江澄が首を傾げた。

    「されたことはありません」
    「……そうか」

    確かに、金光瑶は藍曦臣よりも年下とはいえ卒がなくしっかりしていて、甘やかしたいと思うタイプではないのかもしれない。それに引き換えSubの自分ときたら、子供っぽいし甘えん坊だしハグもキスも大好きだ。藍曦臣からは初等部の頃の藍忘機のようにでも見えているのだろう、そりゃあ甘やかされるに決まっている。金凌が可愛くて抱き上げたりついつい頬や額にキスしてしまう江澄の心理と同じだ。あまり名誉なことではないが、欲求不満は解消されるのだからそれで良しとしよう。

    「あの人のプレイ傾向は俺のSub性と物凄く相性がいいんだ。他のDomじゃこうはいかなかったと思う。沢蕪君を紹介してもらえて本当に助かった。光瑶には感謝している」

    素直に礼を言った江澄に少し驚いた顔をしてから、金光瑶はにっこりと笑う。では、このランチは奢っていただきましょう。それでチャラですよ、とウインクをして、運ばれてきた二人分の料理のためにテーブルを空けた。






    定時で仕事を終え自宅に戻ってきた江澄は、ソファに座ってスマートフォンのメール作成画面を開き、三十分ほど文字を打っては消してを繰り返していた。
    毎年この時期になると輪をかけて憂鬱になる。特に今年は遅めの日程であったので、二月のカレンダーをめくった日から徐々に気分が落ち続けていた。いい加減もうこの呪いから解放されたい。深々とため息をついて、江澄はソファの背もたれに寄りかかって目を閉じる。
    今年も江澄が一年で一番大嫌いな時期が、春節が、やってくるのだ。
    江澄の両親は、末子の彼が大学進学のために家を出たタイミングで別居した。物理的な距離ができて冷静になれたのか離婚はしておらず、交流のある他家との催しの際には夫婦で出席することが多いけれど、二人の関係は冷めきっているし、生まれた時から住んでいた思い出の一軒家は引き払ってしまっていてもうない。姉はもちろん春節は金家で過ごしていたし、魏無羨は藍忘機と付き合いだしてからは婚約者として藍家に滞在していた。その後挨拶のために虞家や江家にそれぞれで顔を出しているようだが、江澄は毎年、気まずさからどちらの家にも行けずに自宅で一人過ごしていた。両親に帰れないと告げるメールを打つことが、江澄の心を何よりも竦ませた。
    結局、あまり使用していないメールボックスから履歴を遡り、昨年の送信メールを再編集して二人に送った。母からはすぐに短文のメールが返ってきたけれど、父からは何の音沙汰もなく、読んでくれているかどうかすら、江澄にはわからなかった。




    藍曦臣が気遣わしげにこちらを見ている。プレイに集中しなければと思うのに、どうしても気が散ってしまい彼に心を預けきれない。

    「阿澄、私を見てLook

    江澄は藍曦臣の『命令』Commandに従い目を合わせるが、見つめ続けることができなくてうろうろと視線が彷徨った。

    「阿澄?」
    「っ……」

    再度名を呼ばれて、江澄はびくりと身体を跳ねさせる。何かに怯えたようなその様子に、藍曦臣は彼の頬を両手で包み込んで親指で優しくくすぐった。

    「いい子だね。無理はしなくていいよ、少しのんびりしようか。そうだ、コーヒーを淹れてくるから待っていて」
    「うん、ありがとう」

    ドアの向こうに藍曦臣が去った後、江澄はソファにぱたんと上半身を倒して天井を見上げため息をつく。

    「……こんなんじゃ、だめなのに」

    ぽつりと呟いてから横向きで身体を丸め、口元に手を当てて目を閉じた。
    昨日の夜にどん底まで落ち切ってしまった気分はなかなか回復を見せず、脳裏に両親のことがちらついて離れない。絶対に自分を責めないとわかっている藍曦臣の視線すらも怖がってしまう始末で、切り替えのできない自分がどうしようもなくて本当に嫌になる。寂しさと苦しさと申し訳なさで、江澄の心は激しく乱れていた。

    「おや、どうしたの?」

    ガチャっとドアが開く音がして、藍曦臣の柔らかな声が鼓膜をくすぐった。ローテーブルにトレイを置くような音の後、江澄の頭がある方のソファが沈む。

    「眠いならベッドでお休み。泊まっていっても構わないから」
    「……ううん」

    髪を梳くように撫でられて、厳しかった母の冷たいけれど優しい手を思い出した。小さな頃は何かと姉の真似をしたがって、肩まで伸ばした髪をお揃いに結ってとねだり、ハーフアップで両サイドにお団子を作ってもらっては喜んでいた。あの頃はまだ義兄と比べられることもなく、両親からの愛情を一身に受けていられた。今となっては幻のような、幸せな思い出だ。

    「……曦臣兄さん」
    「ん?」

    目を開けると、慈しみを湛えた瞳が江澄を見下ろしていた。その表情がかつての父の面影と重なる。あの優しい瞳が自分に向けられることがなくなったのはいつの頃だっただろうか。

    「なんだい、阿澄」
    「……ぁ、っ……」

    やめてくれ。今、そんな優しい声でその愛称を呼ばないでくれ。
    つんと鼻の奥が痛くなって、眼球が熱を持つ。懸命にまばたきをする視界はぼんやりと歪んで、ぽろっと一粒がこぼれ落ちた後涙が堰を切ったようにあふれ出した。

    「ご、め、……ごめんなさっ……」
    「いいんだよ、我慢しないで。おいでCome阿澄」
    「んっ……」

    藍曦臣が両手を広げ招いてくれたが、止まらない涙で彼が濡れてしまうからと江澄が首を振る。それなのに伸びてきた腕が力強く江澄を引き上げて、あっという間に藍曦臣の膝の上に横向きで抱えられていた。

    「阿澄、可愛い阿澄。あなたは何も悪くない。何も怖がらなくて良いんだよ。これからは私が、あなたを守ってあげるから」

    何も知らないはずなのに、どうして彼には江澄の欲しい言葉がわかってしまうのだろう。

    「う、ううっ……ぅわああぁーっ」

    胸に頭を押しつけるように抱きしめられて、江澄は子供のように声を上げて泣いた。藍曦臣は彼の心の凍てついた部分をすっかり溶かしてしまって、それは温かな涙となってとめどなく流れ続けていた。


    「……何があったのか、聞いてもいいかな」

    江澄が時折しゃくり上げる程度に落ち着きを取り戻した頃、藍曦臣が囁くようにそっと声をかける。

    「嫌だったら話さなくてもいいからね」

    相変わらず彼の腕の中に包まれていた江澄は、もぞもぞと居心地の良い場所を探して身動いだ。髪に触れてくる感触とちゅっという音がこそばゆい。

    「……両親が別居しているんだ。俺のせいで不仲になったようなものだから、顔を合わせづらくて、家を出てから一度も会いに行っていなくて。春節が来る度に帰れなくてごめんって連絡するのも苦しくて……とんだ親不孝者なんだ、俺は」
    「……そうだったのか」
    「長い休みを、出かける気にもなれなくていつも部屋の中で過ごしているんだが、昔は楽しかったなって、家族みんなで江家に里帰りして、虞家にも顔を出して、お年玉をもらって、あの頃は幸せだったのに、どうしてこうなってしまったんだろうって、毎年落ち込んでしまうんだ」
    「……ねえ阿澄」
    「なんてな! すまん、変なことを言った。忘れてくれ。来週はあなたも帰省するんだろう、次に会うのは再来週か」

    藍曦臣の言葉を遮りぱっと顔を上げた江澄は笑っていた。抱えられていた足を下ろし立ち上がろうとした彼だったが、長い腕にもう一度捕らわれ引き戻される。

    「うわっ」

    江澄を膝の上に後ろ向きに座らせた藍曦臣は、薄い腹に腕を回して彼の肩に顎を乗せた。

    「そうだよ、二週間も会えないんだ。だからもっと、あなたのことを甘やかしたい。私のダイナミクス欲求も満たさせておくれ」
    「……うん」

    こういう言い方をしてくるところは本当にずるいと思う。江澄の他にもたくさん関係を持っているSubたちがいるのに、どうせきっとこの後も誰かとプレイをするのだろうに、こうして江澄が甘えたい気持ちを隠そうとする度に逃げ道を塞いでしまうのだ。敵わないなと思いながら江澄は身体から力を抜いて素直に藍曦臣に身を任せた。どこかまだらだった二人のフェロモンがやっと綺麗に混ざり合う。

    「曦臣兄さん」
    「うん?」
    「何でもない」

    彼の頭にこつんと自分の頭をもたせかけて江澄は再び目を閉じた。だいぶ前から使われなくなって置物と化していたアロマディフューザーが、どこか嬉しそうに二人が寄り添う姿を見ていた。


    彼の気持ち

    週が明けたと思ったらあっという間に数日が終わり、世間は慌ただしくも新年を迎えるための長期休暇に突入した。昨日社員たちを早く帰らせるため、自分は帰省しないからとできる限り彼らの業務を肩代わりした江澄は、がらんとしたビジネス街をのんびり見下ろしながら休日出勤で仕事を片づけていた。社長である江澄の給与額は勤務時間に左右されない。どうせやることもないんだからと少しずつ消化していた業務だが、三日目が終わる頃にはさすがにやることがなくなってしまった。デスク周りを整頓して帰宅した江澄は、その晩に買い込んだ酒を浴びるように飲んで爆睡。四日目の休日のスタートは、痛む頭のせいで深い皺を眉間に刻みながらぼんやりとコーヒーを飲むところから始まった。
    今がちょうど正午を回ったところ。つまりこの連休の真ん中、折り返し地点だ。あと三日と半分を、沈んだ気持ちで過ごさなければならない。初日に姉から届いたメッセージにも、昨夜の魏無羨からの電話にも、応えられないまま放置してしまっていることが更に気分を落ち込ませる。とりあえず腹が減ってきたので大量に作って冷凍しておいた餃子を焼いて食べた。とてもおいしかった。その後ソファで二人に何か返事を打とうとスマートフォンを手に取ったが、うまく文章が打てなくてついついニュースアプリに逃げてしまう。そこに広告で流れてきた動画配信サービスの一か月無料キャンペーンに惹かれてアプリをダウンロードし、動物カテゴリでトップになっていた犬と人間の絆を題材にした洋画を見て号泣、続編まで見切って幸せな気持ちでソファに沈み込んだときには、外はすっかり暗くなっていた。
    夕飯時だが料理をする気になれなくて、野菜炒めを山ほど乗せたインスタントラーメンで簡単に済ませる。ついでにシャワーも済ませて、ソファに戻った江澄はビールを開けながらまた映画を見始めた。見てる間は何も考えなくて済むからとても気が楽だった。結局日付が変わるまでそうやって過ごして、寝る支度を終え布団に潜り込んでから、明日こそは二人に返事をしなければとため息をついて逃げるように目を閉じた。




    ピンポーン。

    「……んん……?」

    唐突に鳴り響いたインターホンに、眠りを妨げられた江澄が呻きながらうっすらと寝ぼけ眼を開いた。枕元の目覚まし時計を見ると時間はまだ六時過ぎ。こんな時間に訪ねてくる馬鹿はいない、ピンポンダッシュとは良い度胸だなと頭の中で悪態をついて二度寝のため布団を被り直す。

    ピンポーン。

    「……はあ?」

    しかし再び鳴らされた音が静かな部屋に響き渡り、彼の眠気を完全に吹き飛ばしてしまった。
    イライラし始めた江澄は外に向かって怒鳴りつけてやろうかと思ったが、既に犯人が走り去った後で、遠くからこちらを見て笑ったりしていたら余計腹が立ちそうで、起き上がったものの立ち上がることは堪えてぐっと掛布を握りしめる。

    ピンポーン。……ピンポーン。

    「…………」

    こうなったら意地でも動かんぞとスマートフォンを手に取って何の通知もない画面を眺めてみたが。

    ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン……

    「うるっさい!!!」

    鳴り続けるベルにとうとう堪忍袋の緒が切れた江澄が一言吐き捨てて、ワンルームの広い部屋を駆け抜けるとドアを勢いよく蹴り開ける。

    「ふざけやがって!! てめえ警察に突き出し」
    「おはよう晩吟」
    「……ら、藍曦臣……?」

    まったく予想外の顔が現れて、江澄はぽかんと口を開けたまま固まった。

    「……え……え? あなたこんなところで何し、っ、へっぷし!」
    「ああごめん、中に戻って」

    冷たい外気にぶるりと身を震わせくしゃみをした江澄を見て、藍曦臣が慌てて彼を押し戻し自分の身体を玄関内に滑り込ませる。そうして体よく江澄の部屋に上がり込むと、自分の着ていたコートを脱いで彼に着せた。

    「突然だけど、あなたを迎えに来たんだ」

    そう満面の笑みで宣って、藍曦臣は困惑している江澄の頬にキスをした。

    「迎え? どこかに行くのか?」
    「うん、少し出かけたいところがあって。一人で行くのも寂しいし、あなたが春節は部屋で過ごしていると言っていたのを思い出して。仕事始めまで出かける予定はないんだよね?」
    「え、ああ、そうだな、出かける予定はないが、それにしてもこんな朝早くから」
    「着替えて阿澄。あと十分で出発するから」
    「は!?」

    質問を遮った藍曦臣が江澄の肩を掴んで部屋の中に押し戻す。

    「ま、待ってくれ! いったいどこへ行くんだ?」
    「話は後だ。早く着替えて。パスポートはどこ?」
    「パスポート!?」
    「どこ?」
    「……引き出し。そこの、小さな黒い棚の一番上」
    「あった。さすが阿澄、しっかりしているね」

    笑顔の圧に負けて言いなりになった江澄が身支度を終えると、では行こうかと藍曦臣に手首を掴まれ引っ張られる。

    「待てっ、荷物は!?」
    「パスポート以外はスマートフォンさえあればいいかな。両方私が持ったから戸締まりして出ようか」
    「待っ、バッグ! バッグと財布くらい持たせてくれっ!」

    ばたばたと慌ただしく連れ出されて、近所に出かける時のような小さなショルダーバッグ一つでリムジンに乗せられた江澄が、質問に答えてくれない藍曦臣を睨みながら用意されていたサンドイッチを食べていると、あれよあれよという間に北京空港に到着し、チャーター便に乗せられ、四時間の空の旅ののち降り立ったのは海を渡った隣国、日本。

    「なんっでだよ!!!」

    羽田空港のロビーで藍曦臣の胸ぐらを掴み上げた江澄が万感を込めた一言を発した。

    「ちょっとそこまで行くみたいな雰囲気だったじゃないか! パスポートとはいえただの身分証明のためだと思っていたのにまさか本当に海外に来るなんて!」
    「間違ってはいないよ、たった一泊の弾丸旅行だ。これをちょっとそこまでと言わずして何と」
    「黙れこの富裕層め!!!」

    毛を逆立てた猫のように本気で食ってかかる江澄と、怒られているのにどこか嬉しそうな藍曦臣は、その美貌も相まって周囲の人々の視線を釘づけにしている。

    「まあまあ、来てしまったものは仕方がないから諦めて楽しんでおくれ。ね?」
    「うっ、ぐ、ううっ……」

    彼の言う通り、飛行機に乗ってしまった時点で江澄の負けなのだ。悔しそうに唸った江澄の頭を撫でようと伸ばされた藍曦臣の手は、届く前に掴まれ振り落とされてしまった。

    「……ふん、仕方ないから付き合ってやる。が、今回だけだからな! あと金は払わんぞ!」
    「ありがとう、阿澄!」

    了承されて輝くような笑顔を浮かべた藍曦臣を、この人は本当に顔がいいなと思って眺めていたのは江澄だけではない。男も女も、老人や子供でさえ藍曦臣の花も恥じらうような美しさに見惚れて、ロビーではほんのひと時全ての会話が停止した。

    「藍曦臣様でいらっしゃいますか」
    「はい、そうです」

    ちょうどその時かたわらからかけられた声に藍曦臣と江澄が振り返ると、穏やかな笑みを浮かべた男が立っていた。歳の頃は江澄と同じか少し若いくらいに見える。彼は深々と頭を下げると流暢な中国語で自己紹介をして、二日間旅のサポートをさせていただきますと告げたのだった。


    結果的に言えば、また来たいと思えるほど楽しい二日間となった。
    羽田空港に着いてすぐ、昼食にと連れて行ってもらった銀座のミシュラン二つ星を獲得した店の天ぷらは、無限に食べられそうなほど衣がサクサクと軽く素材の旨味も生きていて最高に美味だったし、高速道路の穏やかな走りでうたた寝をしている間に山道に突入していて、目を開けた時に一面の銀世界だったのは本当に感動的だった。途中で道の駅に停めてもらって、重なる雪化粧の山々と雲一つない蒼空を映し出す鏡面のように凪いで澄み切った湖が、まるで合わせ鏡のように景色を逆さまに映しているのを夢中で撮影したりした。触れた雪は少しの風で舞い上がるほど細かくふわふわで、藍曦臣へと振りかけては仕返しにかけられて。文化財になっている古い日本家屋が腰ほどもある高さの雪の中に趣深く佇んでいるのを、ガイドの説明を聞きながら熱心に見学した。
    そして一連の旅の中で一番衝撃的だったのは日本の温泉文化である。中国では水着着用で男女混浴であるのがスタンダードなのに。

    「裸? 全裸か? タオルも巻かずに?」
    「そうだよ」

    水着売り場はどこだと尋ねた江澄に、藍曦臣から返ってきたのは衝撃の解答だった。

    「日本では裸の付き合いと言って、共に風呂に入ると親密さが増すそうなんだ」
    「互いの素っ裸を眺めることで増す親密さって何だ!」
    「まあまあ。嫌がると思って部屋に露天風呂がついているところにしてもらったから、ここだけでのんびりしようか」

    風呂に入る時のマナーを二人顔を突き合わせてスマートフォンで確認し、夕食前に一人ずつとろとろのにごり湯を堪能した。美しい雪景色を見ながらぬるめの湯に浸かるという極楽は、瞬く間に江澄を虜にした。

    その後の囲炉裏に起こした炭で串焼きを炙って食べるのがメインの夕食は、一風変わっていて江澄も藍曦臣も年甲斐もなくはしゃいだ。主に焼くのは江澄の担当で、もう食べてもいいのではと藍曦臣が手を伸ばす度にまだだと江澄が叩き落とし、そうして出来上がったヤマメや地鶏、現地和牛に鹿肉の串焼きは、頬が落ちてしまいそうなほどに美味しかった。

    「……最高だ……」

    部屋に戻ると布団が敷かれており、欲望のままにふかふかのそこへとダイブする。幸せそうに一言呟いた江澄の頭を撫でて、藍曦臣も満足そうに笑った。

    「阿澄、私は共用の露天風呂にも入ってみたいから、少ししたら行ってくるね。あなたはここでゆっくりしていて」
    「あ、っ……待ってくれ、曦臣兄さん」
    「うん?」

    引き止められて、立ち上がろうとしていた藍曦臣が膝立ちのまま視線を戻すと、江澄が瞳をきらきらさせて彼を見ていた。

    「俺も、他の風呂に行ってみたい。部屋の風呂もすごくよかったし、せっかく来たから。それにほら、旅の恥はかき捨てって言うんだろう?」
    「そうだね。一緒に入ろうか」
    「うん」

    また優しく撫でてくれる手に擦り寄るように自分から頭を押しつけて、江澄は無邪気に笑った。その時ふわりと彼のフェロモンが変わる。DomからSubへと切り替わったのだ。藍曦臣の手がぴくりと震えて動きが止まる。

    「曦臣兄さん?」
    「……阿澄、スイッチしているよ。いいの?」

    尋ねられた江澄は、じわりと頬を赤くして藍曦臣から離れ、布団にぽすっと顔を埋めた。

    「……ここなら、誰も俺たちのことを知らないから、我慢しなくてもいいかと思った。あなたのそばにいるとSub性が表に出たがって仕方ないんだ。……だめだったか? あなたが嫌ならDomに」
    「嫌なわけない。そのままでいて、可愛い阿澄」
    「……うん」

    とろりと甘くなる藍曦臣の声に、何だかうなじがそわそわする。江澄はぱっと身体を起こすと、早く行きたいと言って早速浴場に向かう準備を始めた。

    そうしてやってきた脱衣所。恥じらいなく浴衣を脱いだ藍曦臣を横目で見ながら、江澄も自分の帯を解き浴衣に手をかける。白い肌を惜しげもなく晒した彼の身体つきは想像以上にセクシーで、江澄ははだけた自分の胸をついつい見下ろしてしまった。

    (くっ……悔しいがまったく敵わん。いったいどれだけ鍛えればこんな素晴らしい身体になるんだ。身長はあまり変わらないのに、鍛え上げられた筋肉、厚みのある肉体……羨ましい……)

    「阿澄、脱がないの?」
    「あっいや、今脱ぐところだっ」

    不思議そうに尋ねられて江澄はばさりと浴衣を脱ぎ捨てた。隣では藍曦臣が下着に手をかけ、ゆっくりと下ろしていく。

    「……で……か……」

    その股間にぶら下がるものを見てしまった江澄の口から思わず感想が漏れていた。ごくりと生唾を飲み込み瞬きすら忘れて見つめる。

    (通常時でこれなら、勃起したらどうなるんだ? ペニスの膨張率はアジア人では三倍以上……つまり、長さ二十センチ超え、太さは)

    「阿澄? あんまり見られると、その……」
    「す、すまんっ!」

    困ったように、恥ずかしげに頬を染める藍曦臣の下半身から江澄は慌てて視線を引き剥がした。
    それなりに見ていたアダルトビデオの男優やプレイ相手のSub男性と比べたりして、そこそこ自分のサイズに自信を持っていた江澄だったが、とんでもない巨根を目の当たりにしてその自信は一気に萎んでいった。

    (まあいい! セックスに大事なのはデカさじゃなくてテクニックだ。それにあんまりデカすぎると痛いって聞くしな。要は相手の女性を気持ちよくしてやれればそれでいいんだから)

    自分を慰めながら自らも下着を脱ぎ手拭いで股間を隠して、待ってくれていた藍曦臣と共に浴場へと入る。ここは館内に三つあるうちの一つ、一番小さな岩露天風呂だ。入ってすぐにシャワーが並んでいて、狭い部屋いっぱいにヒノキの湯船が見えた。一度風呂に入っていた二人はシャワーで軽く身体を流し、湯船に足を入れようとするが。

    「ぅあっつ!!」

    つま先を差し入れた江澄が悲鳴と共に足を引いた。

    「何だこれすごく熱いぞ! 入れたもんじゃない、我慢大会か! 俺は露天風呂の方に行ってくるっ」

    そう言って外へと続く扉から一歩踏み出した江澄だったが。

    「さささ寒っ、寒い寒い寒い!」

    本当に一歩だけですぐ戻ってきた。

    「とんでもなく寒い! 足場が石だからすごく冷たいし、こんなの風呂まで辿り着けないぞ!?」
    「そうなのか?」

    膝下だけあつ湯に浸かっていた藍曦臣がガラス戸を開けて一歩踏み出す。

    「本当だ、寒いね。けど行けないほどじゃないかな」
    「えっ……あ、待っ、置いていくな! 寒くて無理っ、……哥哥っ、哥哥!」

    藍曦臣が石段を降りていくのを呆然と眺めていた江澄が呼び止めようとするが、後ろ姿はあっという間に曲がり角の向こうに消えていく。

    「うう、う…………くそっ!」

    江澄は迷ったのちに、気合を入れて極寒の世界に裸で飛び出した。
    氷のように冷たい石段と刺すような冷気にかちかちと歯が鳴る。手すりに捕まりながら転ばないようそこそこ長い階段を降りていくと、ごつごつした岩に囲まれた露天風呂に辿り着いた。手拭いを取り払い勢いよく身体を沈めると、ぬるいお湯が氷のように冷えた手足をじんわりと温めてくれた。

    「はぁー……」

    肩まで浸かって思わずため息をつくと、くすくすと笑い声が聞こえてくる。奥にいた藍曦臣だった。

    「あなたも来たのか」
    「よくも置いていってくれたな?」
    「寒くて無理だと言っていたから、無理をさせたら良くないと思ったんだよ」
    「ふんっ」

    憎まれ口を利きながらも彼の隣に並んで江澄は岩に寄りかかる。ちょうど他の客はおらず、目の前には照明に照らされた一面の雪景色。湯気が白く照らされてより一層幻想的に見える。心が洗われるような清浄無垢な光景だった。

    「ところでさっき、私のことを哥哥って呼んだかい?」
    「よっ、呼んでない!」
    「甘えたような可愛い声に、お兄ちゃんって呼ばれたような気がしたのだが」
    「気のせいだろう! 俺じゃないぞ!」
    「そうか」

    顔を向けないまま必死で否定する江澄がお湯のせいではなく肌を上気させていく。藍曦臣は小さく微笑むとそれ以上は尋ねずに湯の中でぐっと手足を伸ばした。

    「……ありがとうな」

    一呼吸ほど置いて、ぽつりと、江澄の声が静かに落ちる。

    「俺の気を紛らわせようと、有無を言わさず部屋から連れ出してくれたんだろう?……すごく、嬉しかった。大嫌いな春節に楽しい思い出ができるなんて嘘みたいだ」
    「何のことかな。私はあなたにわがままを言っただけだよ」
    「……そうか」

    それきり彼らは一言も話さずに、かけ流しの源泉が注がれるぱしゃぱしゃという水音に耳を傾けながら、いつの間にか降り始めた粉雪をぼんやり眺めて、初めての日本の雪見風呂を心ゆくまで堪能した。


    ぽかぽかになって部屋に戻ってきた二人は、備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してそれぞれが口をつける。冷たい水は染み渡るようでとても美味しい。一息ついて、藍曦臣は館内パンフレットを眺めた。

    「朝起きて最初に屋上の展望風呂、朝食の後に大浴場の露天風呂に行こうかな。ね、阿澄。……阿澄?」

    返事がなく振り返ってみれば、江澄はどこかぼうっとした顔で布団の上に立っている。

    「曦臣兄さん」

    濃度を増した江澄のフェロモンが誘うように絡みついてきて、引き寄せられるように藍曦臣もソファから立ち上がった。蜜蜂を招く花の香りのような甘やかな誘惑に抗う気など起きるはずもない。

    「……お座りKneel

    江澄へと歩み寄り、藍曦臣が命令する。ぺたんと座り込んだ彼が潤んだ瞳で己のDomを見上げてご褒美Rewardをねだった。

    「いい子だね、阿澄」

    猫にするように指先で顎下をくすぐられて、顔を仰けた江澄はその快感にひくひくと身体を震わせる。藍曦臣も柳眉を寄せてぶるりと身震いした。

    仰向けRoll、できるかな」
    「うん」

    初めての『命令』Commandだが、江澄は躊躇うことなくぱたっと後ろに身体を倒す。短く艶やかな黒髪が白い布団に広がって、そのコントラストがやけに煽情的だ。投げ出された腕の先、浴衣から伸びる手首はやけに白くて目にも眩しい。膝を立てているためはだけた浴衣から膝下が露わになっており、その奥の柔らかそうな内腿まで見えてしまっていて、藍曦臣は慌てて目を逸らした。

    「よくできた。偉いね」

    江澄の隣に腰を下ろして褒めながら頬を撫で下ろす。

    「んっ」

    くすぐったさにぴくんとすくめられた江澄の細い頸に、藍曦臣の視線が留まった。

    「……晒しなさいPresent

    反対の手で自分の首を指差した藍曦臣が新しい指示を出す。江澄は戸惑いに一瞬瞳を揺らしてから縮こめていた首を伸ばして仰き、喉を晒した。薄く柔らかそうな皮膚にじっとりと視線が這わされているのがわかる。急所を差し出させられて少しの恐怖と不思議な昂揚感を感じ、無意識のうちに江澄の手は布団を握りしめていた。あまり突き出ていない喉仏が唾液を飲み込んだために上下する。

    「いい子だね。そのままStay
    「ん……」

    鼻にかかったような甘い声を漏らし、藍曦臣の支配に飲まれつつある頭で、何故首なんかをじっと見ているのだろうと江澄は考えた。触れるでもなく、そのくせ舐めるようにねっとりと藍曦臣の視線がまとわりついてくる。

    「可愛いよ」
    「あッ」

    身を屈めた彼が囁きと共に江澄の耳に唇を押しつけた。ゾクゾクッと快感が走った背筋が反ってびくっと腰が持ち上がる。

    「あ、ご、ごめんね! 勢い余って耳に……本当は頬にキスをするつもりだったんだ。びっくりしたね、ごめんね阿澄」

    慌てて上体を起こした藍曦臣に宥められて、ぷるぷると震えていた江澄が安堵にくしゃりと顔を歪めた。
    先ほどの彼はとても怖かった。今にも食べられてしまいそうで、鋭い牙に喉笛を食い破られてしまうかと思ったのだ。

    「頑張ったね。いい子だね、阿澄」

    江澄は正座をしている藍曦臣の太腿に頭を乗せて、しばし撫でられるに任せていたが、次第にムズムズしてきて欲求に逆らわずに藍曦臣に飛びついた。

    「わ、っ、阿澄?」
    「兄さん、曦臣兄さん」

    布団に横倒しになった彼の腰に腕を巻きつけて腹へと顔を押しつける。

    「ふふっ、くすぐったいよ」

    ぐりぐりと頭を擦りつけると、軽やかに笑った藍曦臣がくしゃくしゃと江澄の指通りのいい細い髪を掻き回した。

    「今日は、本当に楽しかったね」

    少しだけ眠気をまとった穏やかな声が嬉しそうに紡がれる。

    「可愛い阿澄。これからは毎年、こうして春節に出かけようか。色々な場所に行って、素敵な思い出をたくさん作るんだ。あなたの寂しさと哀しさを塗り潰してしまえるくらい」
    「……うん」

    優しい優しい、博愛の人藍曦臣。けれど今だけは、江澄ひとりだけのものだ。江澄を愛してくれる、大好きで大切な新しい兄。

    「ずっとそばにいるよ、阿澄」
    「…………うん」

    じわりと涙が込み上げてきて、江澄はぎゅっと目を瞑った。

    「でもまあ、続いても数年だろうな。俺もあなたもいい歳だから」
    「……どうして?」

    泣くのはさすがに恥ずかしくて、気を紛らわせるように話しかけると藍曦臣の不思議そうな声が返ってくる。

    「だって、結婚したら春節は家族サービスの日になるんだ。兄弟で出かけたりなんて出来なくなる」
    「……結婚……?」

    いまいちピンと来ていなさそうなぼんやりした声に、江澄は顔を上げて藍曦臣に笑顔を向けた。

    「そうだ。俺はともかく、あなたは一族経営の大企業の跡取りだからな、早いうちに結婚して家庭を持ち次の世代へ血を繋ぐことを求められるんじゃないのか? そうしたら最初は藍家で、後半は奥さんの実家で過ごして春節なんて一瞬で終わるぞ?」
    「…………」

    ゆらりと、琥珀色の瞳が揺れている。

    「姉さんも魏無羨も毎年とても忙しそうだからな、こうして二人でのんびり旅行なんてことは早々できなくなる。まあ、あなたが結婚してしまったら、俺も早いところ見合いでもして相手を」
    黙ってShut up

    突然の強い『命令』Commandにびくっと江澄の肩が跳ねた。藍曦臣の急な豹変に、怯えたように見開かれた目の中でおろおろと瞳が移ろう。

    黙りなさいShut up
    「……っ……」

    威圧感Glareを含んだ冷たい視線に射抜かれ再び強く命じられて、江澄は口を閉ざしたまま硬直した。先ほどとは違う緊張感でかたかたと身を震わせ、じわっとまた眼球に薄く涙の膜が張る。藍曦臣の浴衣を縋るようにきゅうと掴むと、彼ははっと我に返ったような顔をしてから江澄の泣きそうな様子を見て表情を崩した。

    「あ……っ、ごめん、ごめんね阿澄っ……」

    身体を丸めた藍曦臣が江澄を抱き寄せて、胸に彼の顔を押しつけるようにして抱きしめる。

    「私が悪かった。あなたは何もしていないのに。ごめんね、許しておくれ。話していいよ。いい子だね、偉かったね阿澄」
    「……う……しーちぇ、にぃ……」
    「うん、ごめんね。ごめんね、許しておくれ」

    ぎゅうぎゅうと力いっぱいに締めつけられて痛いくらいだった。藍曦臣の身体も震えていて、彼が深い後悔の中にあると伺える。江澄も彼を慰めるように丸くなった背を抱き返した。

    「……どう、して、怒ったんだ」
    「怒ったわけじゃないよ。あなたは何も悪くない」
    「でも、聞きたくなかったんだろう、俺の話……」

    不安そうな声で言葉を重ねる江澄に促されるように藍曦臣が口を開く。躊躇うように一度唇を噛んでから、観念したように話し始めた。

    「……あなたの言う通り、親族から結婚しろと圧力がかかっている。山ほど持ち込まれるお見合いのプロフィールに目を通すのもうんざりしていてね、あなたの話を聞いて、つい、それを思い出してしまったんだ。それであなたに八つ当たりをしてしまった。本当に申し訳ない」
    「ううん。俺の方こそデリケートな話題を持ち出してすまなかった」
    「謝らないで。あなたは何にもしていないのだから。阿澄、阿澄、私の可愛い弟。大好きだよ」
    「……うん。俺もあなたが大好きだ、曦臣兄さん」

    アクシデントはあったが、藍曦臣にしっかりとアフターケアをされて安定した江澄はその夜をぐっすりと眠った。翌日も朝露天風呂と美味しい和朝食を満喫して、ランチはミシュラン二つ星の寿司に舌鼓を打ち、中国に戻ってから高級フレンチレストランの夕食までご馳走されて、大満足のうちに弾丸温泉旅行を終えたのだった。

    休暇の最終日、江澄はやっと落ち着いた気持ちで姉と義兄に連絡することができた。すると二人共から日本は楽しかったかと尋ねられて一瞬頭の中が真っ白になる。よくよく話を聞けば藍曦臣が江澄を連れ出したいと二人に相談していたらしい。どうりでパスポートがあることだの、服や下着のサイズだのを知っていたわけだ。着替えを渡された時にぴったりすぎて引いてしまったことを心の中で謝っておく。江澄は種明かしに大声で笑ってから、嬉しくてちょっとだけ泣いた。そのあと金凌とビデオ通話でたくさん話をして十分に気力を充填し、翌日からまた元気にバリバリと仕事をこなすのであった。




    「はははっ! 何だよやめろって!」

    水曜日。江澄は会社で専務の職を任せている同僚と二人、仕事終わりに飲みに来ていた。とある大口の取引を、彼の手助けでうまくまとめることができたのだ。上機嫌でど突き合いながら道を歩いているうちに、背中から覆いかぶさるように引っつかれて江澄が笑い声を上げた。

    「重い重い! くそっわかったよ、奢ってやるからさっさと離れろ!」
    「よっしゃー! ありがとう社長!」
    「ふっ、こいつは高くつくぞ専務?」
    「えっ待って、ご褒美で奢ってもらうんじゃないの? さらに何かやらされんの?」
    「冗談だ、そんなこともわからんのか」
    「あんたの冗談わかりづれぇのよ!」

    陽気であっけらかんとした彼は大学の同級生で、いつも仏頂面でひとりきり、友達も作らず魏無羨としかろくに話さなかった江澄に物怖じせずに近づいてきて、厳しい物言いに隠した不器用な優しさに気づいてくれた人だった。会社を作りたいという江澄に面白そうだからという理由で乗ってきて、創設から今日まで共に仲良くやってきた。これからも長く付き合っていけるだろう数少ない友人だ。
    一方周囲では行き交う人々が、無邪気に笑う江澄の鮮烈な存在感に引き寄せられるかのように、あちこちからちらちらと熱い眼差しを送っていた。藍曦臣とプレイを重ねるたびに心身の充足を得て生き生きと輝いていった彼は、今や自信に満ちあふれ、元々の群を抜いた美貌と気高い精神も相まって抗い難いほどの魅力を発揮している。Domとしての力も強まっていて、首輪をつけているSubですら江澄に秋波を送っているほどだ。当人はこれっぽっちも気づいていなかったが。

    「さーて、じゃあどこに連れてってもらおっかな」
    「辛い物が好きだろう、火鍋でも食いに行くか?」
    「いいねえ! けど無羨先輩のお気に入りの店はやめてくれよ、俺には辛すぎるから」
    「安心しろ、あれは俺にも食えん」
    「阿澄、……阿澄」
    「……はっ?」

    肩を組みながら相談していたら、背後から突然声がかかった。聞き覚えのある声だが耳を疑う呼び名を発していて、理解が追いつかなかった江澄が一拍遅れて振り返る。そこにいた人物を視界に入れると、彼は大きな眼球がこぼれ落ちそうなほど目を見開いた。

    「藍、曦臣」
    「偶然だね、こんなところで会うなんて」
    「あ、ああ……」

    そこではっと我に返った江澄は隣の同僚へと顔を向ける。愛称で呼ばれたのを聞かれてどんな反応をされるか気が気じゃなかったが、彼は突然現れた非現実的すぎるほど美しい男に度肝を抜かれて固まっていて、些細なことには気づいていないようだった。江澄がホッとしたように表情を緩める。

    「し、社長、このとんでもなく美形のお兄さんは一体……?」
    「この人は藍曦臣。近く俺の義理の兄になる人だ。曦臣、こっちは大学の同級生だった朱銘軒。会社の立ち上げから共に働いてくれている大事なメンバーなんだ」
    「はあー、やっぱイケメンの周りにはイケメンが集まってくるもんなんだなあ。初めまして藍曦臣さん。めっちゃ眼福です、ありがとうございます」
    「何拝んでるんだバカ」
    「いてっ、叩くなよ社長ー!」
    「ハハハハッ!」

    おどける同僚と笑い合っていると、藍曦臣が彼に向かってにこりと笑いかけた。その瞬間、気温が一気に数度下がったかのような寒気を感じて身震いする。

    「初めまして。いつも阿澄がお世話になっています」

    差し出されたその手が握られることはなかった。隣にいる江澄でさえ息苦しさを感じるのだ、直接対峙している同僚の恐怖はいかほどであったろう。

    「あ……あ……」

    藍曦臣から、彼を威嚇するように強い威圧感Glareが発せられていた。
    怯えきって震える同僚は動くどころかまともに声も出せなくなっている。彼は低位のDomだ、藍曦臣ほどの極上Domが相手では軽く威圧されただけでも尻尾を巻いて逃げたくなるだろうに、突然強いプレッシャーをかけられて憐れなほどにおののいている。
    見かねた江澄は差し出されたままの藍曦臣の手を掴んでぐいと引っ張った。

    「阿澄?」
    「すぐ戻る」

    同僚の返事を待たずにその場を離れ、ずんずんと細い路地へと入っていき、怒りに任せて手を振り離しながら藍曦臣を睨み上げる。

    「まったくあなたは、何を考えているんだ!」
    「えっ」

    怒鳴られた藍曦臣が驚いたと言わんばかりに頓狂な声を上げて狼狽えた。

    「何の、ことだ?」
    「とぼけるな! とんでもないことしやがって!」
    「本当に、何が何だか……」
    「は?」

    何が起こったかわかっていない様子の彼に、今度は江澄が怪訝そうに眉を寄せる。

    「……まさか、気づいていないのか? あなたはさっきあいつを威圧していたんだぞ?」
    「え? そ、そんな……」

    戸惑うばかりだった藍曦臣の顔が次第に青ざめてきて、ここにきてようやく自分の行動に気づいたかのような反応に、故意ではないと判断した江澄が怒りを引っ込めてため息をついた。

    「無意識に威圧感Glareをぶつけるなんてよほど深刻だな。いったいどうしてそうなった、いつから俺たちに気づいていたんだ?」
    「……あなたの声がすると思って振り向いたら、彼に背中に乗られていて、それがとても気になってしまって。そばに近づいて彼がDomだとわかったら頭に血が上ってしまったみたいで、何故だか彼を……」

    その先は恐ろしくて口にできないとでも言うかのように言葉を止めた藍曦臣の俯く顔を、江澄が腰に手を当てて覗き込んだ。

    「なるほどな。つまりあなたは俺を他のDomから守ろうとしてくれたわけか。ありがたい話だが、普段は俺もDomだってことを忘れないでもらえるともっとありがたい。俺がSub性も持っていることを知っているのはあなただけなのに、Subがいないあの状況で他のDomを威圧するなど。実は江晩吟はSubなのだと言いふらすようなものだぞ」
    「す、すまない……」
    「あなたのおかげで今は体調もいいしDomとして自衛もできるから、例え極上Domがそばにいたとしても日常生活には何の問題もない。それと、外で俺を阿澄と呼ぶな。あれもすごく驚いたんだからな」
    「うう、すまない、本当に……」

    すっかり大きな身体を縮こめて項垂れる藍曦臣に、さすがに居た堪れなくなってきた江澄がぎこちなく微笑みかけた。

    「あー、いや、こちらこそキツい言い方をしてすまなかった。いきなりのことにとにかく俺も驚いて……。その、あまり気にしないでくれ」

    彼を慰めてやりたいのは山々だったが、怯えていた同僚を道端に放置してしまっている。そちらも心配だった江澄は、引き留めて悪かった、俺は先に戻るからと藍曦臣に声をかけて足早にその場を離れた。
    大通りに戻る際にちらりと盗み見た彼は肩を落として立ち尽くしたままで、ずきんと痛んだ心には気づかないふりをして、江澄は藍曦臣のそばに戻りたがる自分をかなぐり捨てた。



    中略 後半に出てくる聶瑶シーン抜粋
    「晩吟」
    「待たせたか」
    「いいえ、私も今来たところです」

    エントランスの待ち合わせエリアに座っていた金光瑶が、江澄を見つけて手を振りながら立ち上がる。歩き出した彼について行くと、そこそこ広いルームに案内された。

    「ここが、マジックミラーになっているのですよ」

    金光瑶の視線の先、部屋の端に一畳ほどの大きさの鏡張りの個室があり、中に入ってみれば背面を除く三辺がマジックミラーで部屋の中が丸見えだ。リクライニングソファが置いてあり、長時間の鑑賞にも耐え得る作りになっていた。

    「こっそり潜んで見ていてください。私と、優しく甘やかして可愛がることが得手の曦臣兄様ではパートナーになり得ないと、震えるほどに理解できると思います。その後でちゃあんと、話を聞いてもらいますからね」

    にっこりと満面の笑みを浮かべた金光瑶の瞳はやけに妖しく煌めいていて、余韻を残すような言い回しといい、狡猾に張り巡らされた罠の中に自ら落ちてしまったかのような言いようのない焦りに襲われる。しかし今更やめたいなどと弱気なことも言えないので、江澄は大人しく頷いてソファに腰を下ろした。

    「どうぞ。もしかすると長引くかもしれないので」
    「ああ、ありがとう……」

    ペットボトルの無糖のカフェオレを江澄に渡した金光瑶は、笑みを崩さないままゆっくりと部屋の扉を閉めた。

    そしてそこから、江澄にとっての地獄の二時間が始まった。
    十分もしないうちにプレイルームに入ってきたのが聶明玦だったことにまず驚き、彼の視線ひとつで跪いた金光瑶が初っ端から頬を張られて倒れたことにまた驚く。江澄でさえ思わず顔をしかめたほどの見事な平手打ちだったが、金光瑶は恍惚と表情をとろけさせていて、それが彼にとってのご褒美Rewardなのだとわかった。命令され裸身を晒した彼の肌は傷だらけで、相当な被虐趣味なのだと読み取れる。目の前で繰り広げられる彼らのプレイは、Domとして鞭などの軽い加虐を扱う江澄でさえ想像もつかないような内容だった。非常に過激で、とても性的で、それでいて突き詰められた美しさもある。しかし一番の感想は「とても痛そう」その一言に尽きた。確かにこれは藍曦臣には絶対にできないだろう。Domの時の江澄でも無理だ。金光瑶が心から満足するには、きっと聶明玦に支配される以外にない。藍曦臣とのプレイは、上品で砂糖たっぷりのデザートをつまみ食いするような感覚で嗜んでいただけなのだと、十二分に理解できた。
    途中から許容範囲を超えたプレイを直視できなくなった江澄は、ソファの上で身体を丸めて耳を塞ぎ目を閉じる。そうして時間が過ぎて行くのを、ただ息を潜めてじっと待っていた。


    以上サンプルです。大丈夫そうでしたらぜひ交換よろしくお願いいたします。
    Tap to full screen .Repost is prohibited

    natsu_mdzs

    MAIKING交換のための新刊サンプルです。
    曦 澄でDom/Subユニバース、現代AUです。ほんのり聶瑶が含まれています。
    現時点でまだ3/4ほどしか書けていません…
    Switchプロローグ

    藍曦臣は、幼い頃から人に好かれる子供だった。天使のようだと評される際立って美しい容姿に、素直さと聞き分けの良さが合わされば、周りの大人たちはこぞって藍曦臣を可愛がった。それでも父と母は別邸にこもったまま見向きもしてくれなかったので、もっといい子にならなければと更なる努力を己に課したが、それが実らぬうちに火災事故であっけなく両親は他界してしまう。藍曦臣がまだ八つになったばかりの頃だった。
    思春期を過ぎてダイナミクスがDomだと分かってからは、Subたちから熱い視線を受けるようになって、パートナーになって欲しいという申し出を星の数ほど受けた。誰か一人を選ぶことなどできなかったし、面倒を見てくれていた叔父からは他人に平等に接するようにと教えられていたから、断らずに全員と関係を持つことにした。そのやり方を了承し初めは喜んでいた彼ら彼女らも、藍曦臣が自分だけを特別視してくれることは絶対にないと気づくと悲しみながら離れていった。そのくせ何処か期待するように周りをうろつく者もいたけれど、藍曦臣が彼らを引き止めることはなかった。そのことを知った、パートナーが見つけられなくて困っているSubたちから、プレイ相手になって欲しいと請われるようになり、人助けと思って全て受け入れていると、いつの間にか沢蕪君という通り名がついていて希望者はますます増えていった。
    49475

    recommended works