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【十二月一日 PM】
最大九車線ある大通りは、絶え間なく車が行きかっていた。国をあげて車線の数や車道の幅を減らすなど道路空間再編事業を実施しているようだが、街の様子を見ていると人々の生活から自動車を取り除くにはまだ時間がかかりそうだ。車社会が根付き、速度制限が設けられているにも関わらず、本当に法定速度が存在しているのか首を傾げる勢いで通り過ぎていく車のスピードからも、それは見て取れて。
「この国も寒いな……」
アメリカよりはマシだが、とそっと心の中で付け足す。
緯度の高さのわりに西岸海洋性気候の影響から比較的温暖な母国とは比較できないが、広大な土地を所有する自国の気候は寒暖の差が激しかったため寒さには慣れている。北部に行けば断然、この国――韓国より寒くなるのだが、韓国特有のこの地形にはすでに嫌気がさしていた。もしも、今が夏で日本のような気温や湿度があれば最悪だっただろう。入り組んだ坂道が多く、歩いて移動すると無駄に体力が削られていく。雪を心配するような真冬だというのに、すでにじわじわと汗が吹き出してくるくらいなのだから。
時計に視線を向けると約束の時間を過ぎていた。約束とはいっても一方的な約束のため、守ってやる義理はないと思っているが。とはいえ、これからしばらく行動を共にしなければならない相手との待ち合わせだ。待たされたからと激昂するような相手ではないことを願うしかない。
潜入している組織の活動拠点が日本だからか、比較的、時間には正確な人間が多いからといって、今回の相手も電波時計のように約束の時間ぴったりに待ち合わせ場所にいる保証はない。作戦行動時は一分一秒の狂いが任務失敗に繋がることもあるが、通常時においては時間に目くじらを立てる必要はないだろう。あくまで行動の目安とするくらいがちょうどいい。
(面倒な相手でないといいんだが……)
任務の度にバディが変わるというのは面倒だ。理想は単独任務に就くことだが、組織にとってはコードネームを得たばかりの下っ端。信用も信頼もないに等しい。監視を兼ねて、二から三人で任務を遂行するように手配することも納得できる。ボスを初め、幹部陣の構成も噂の域を出ることなく。組織の全容が未だに漠然としている注意深い犯罪組織において、信用なんてものは永遠に存在しないのだろうが。
FBIへの定期連絡を考えると、自由な行動を黙認する相手が理想だ。たとえば、よくもそこまで口が回るなと感心するベビーフェイスの男や人のよさそうな笑顔を浮かべるお節介な髭面の男のような。
(はは。ここであいつらが思い浮かぶのはまずいな……慣れ合うつもりはないんだが……)
腐ったこの組織の中で、さらにはコードネームを持つまで頭角を現している人間の中ではマシな男たちだ。よくチームを組むことがあり、彼らと行動することが多いため、他のコードネーム持ちより人間性を知っているからだろう。正しくは知っているではなく、見せられているになるのだろうが、男たちのパーソナリティには残忍さは限りなく低い。むしろ悪行を嫌悪している。とはいえ。
あの男たちは敵。
多少マシというだけでクソ野郎に変わりはない。認めざるを得ない優秀さはもったいなく思うが、慣れ合うつもりも、入れ込むつもりも当然ない。ただ日本以外での任務を早々に終わらせることだけを考えれば、彼らであるほうが都合いいと思っただけで。
ここで予測を立てたとしても、現地に行くまでは誰がいるかわからない。ギャンブルのようなものだ。出た目が使えるか、使えないかは現地についてようやくわかる。気は重いものの、行かなければ進む話も進まない。
「さて、俺の相棒は……」
そっと息を吐き出し、地図アプリを立ち上げた。どうやら待ち合わせ場所まであと十分もかからない目と鼻の先にあるらしい。
目的地はメインカラーが白のカフェだった。路面沿いにあるテラス席には体の芯から冷えそうな気温にも関わらず、座っている人が多い。ダウンやコートを着用したままテラス席に人がいる光景は、自国ではよく見かけていたもののしばらく日本で生活していたせいで、久しぶりに見た気がする。日本は路面沿いのテラス席というのが少ないからだろう。
さっとテラス席に視線を走らせた。バディが顔を知っている人間だとは限らないため、馬鹿でなければテラス席にいるはず。もしも店内にいるような相手であれば先が思いやられるが、その時はその時だ。
待ち合わせ相手の人相もわからない状況では、合流さえ長期戦になるのだろうなと思った矢先、視線の先で太陽の光を受けた金糸が輝いた。周囲にいる人間は吸い寄せられるように視線を向けているにも関わらず、一心に人々の視線を集めている男はどこ吹く風。人の視線に慣れているらしい。
視線の先の男も同じく人を探していたようだ。重かった足も、視線が絡んだことがきっかけとなり男へと近づく。
「今回のパートナーはあなたですか」
左右対称に持ち上げられた口角は明らかに作られたものだ。好感度の高い綺麗な表情。この笑顔だけを見れば、好青年だと評価する人間は多いだろう。内心はまた同じ任務に就くことに辟易としているのだろうが、そのことを微塵にも感じさせないのだからさすがだ。決して少なくない関わりから、取り繕った男の反応に騙されることはないが。
胡散臭い笑顔を張り付けた金髪の男――バーボンに眉を寄せる。腐った林檎のお気に入りのキティが素直に待ち合わせ場所にいるということは、あの女はお気に入りにもバディの情報を流していないのだろう。つまり今回の任務の内容についても、一切知らないと考えるべきで。だからこそ、バーボンは待ち合わせ場所にいるしかなかったわけだ。待ち合わせ相手を知っていればカフェにいることもなかったし、任務の内容を知っていればすでに一人で動いていたはず。効率優先の男は一人で十分だと判断すれば、単独行動も辞さない男だから。
さて、相方は確認した。偶然。たまたま。別の任務にも関わらず、同じ場所で出会う確率を考えれば、残念ながら同じ任務だと考えるしかない。つまり、ここで最低限すべきことは終わったわけだ。相方が使えない人間ではなくバーボンだとわかった以上、任務の内容確認はこの男に任せても問題ないだろう。いつ連絡があるかもわからないカフェでバーボンと仲良くお茶をする必要はないわけで。
足を来た道に戻そうとすると、不機嫌そうな声が耳に飛び込んできた。
「ライ、なんで帰ろうとしているんですか。最悪だと思っているのは、僕だって同じですよ」
さすがと言うか、抜け目がないと言うか。足を引いたことに目敏く気づくのだから、相変わらず細かい男だ。いや、細かい男だからこそ遅刻に対する小言が今の所なかったことは意外に思う。それとも、これから重箱の隅をつつくように文句を言われるのだろうか。時間はたっぷりあるとバーボンも考えているのかもしれない。そう思うと余計に憂鬱ではあるが、逃げ出すことは許さないといった笑みに仕方なくバーボンの前の椅子に座った。
降り注いでくる光を遮るためにサングラスをかければ、瞬く間に周囲の彩度が落ちるにも関わらず、目の前の男の金色だけは嫌でも目に飛び込んでくるところが癪だ。眩しすぎて、苛立つくらいに。
何を考えているのかはわからないが、可愛い顔がしかめっ面になっている。個人の感覚としてはティーンと変わらないように思うが、東洋人は実年齢より若く見えるらしく、実際は自分とさほど変わらない年齢らしい。バーボンと同じくらい一緒に行動することが多いスコッチは年相応に見えるため、東洋人が幼く見えるというのは迷信だろうか。そもそも東洋人といっても、バーボンの見た目は純粋な日本人ではない。愛らしさを印象付ける大きな瞳の色も、手入れの行き届いた艶のある髪の色も、太陽に愛された肌の色も、純粋な日本人にはない色だ。
――ミステリアスなほうが人は興味を持つでしょう? 太古の昔から人間は無知を嫌う。探求心や好奇心はどんな人間だって隠し切れないものですから
妖艶な笑みを口元に浮かべて、自分の話を始めたのは気まぐれだろう。結局はバーボン自身についての詳しい話はなかったが、癖のある思考を持っていることだけはわかった。それを面白いと思ってベルモットは可愛がっているのだろう。個人的には、何を考えているのかわからない面倒な男という印象が深まっただけだが。
人間は生きていくうえで他人と関わらないということはまずない。どれだけ気を付けていても、どこかに痕跡は必ずある。それにも関わらず組織に入る前の『安室透』という男の存在は髪の毛一本ほども存在していなかった。何らかの力が関わっていると考えるべきであるほど、完璧に消されている痕跡は個人で消すことができるレベルではない。
(単純に考えれば日本警察になるんだろうが……これだけ派手な見た目の男を頭の固い日本警察が使うか……?)
少なくとも安室の名前が偽名だと考えるべきだろうが、現状では名前以外に調べる手段がない。組織に対抗する別の犯罪組織に属しているにしろ、日本警察ひいては警察関係者にしろ、巧妙に自身の存在を隠す男は未だに不明瞭なまま。秘密主義の男の能力が確かなことだけが浮き彫りになっただけだ。
テーブルの上に乗っていたカップに手を伸ばした。
「あ、ちょっと!」
チョコレート色の液体からして甘いドリンクだろうと想像はしていたが、予想以上の甘さだった。ブラックコーヒー以外を飲んでいる姿も見たことはあるが、まさかこれほど甘いものを飲んでいるとは思ってもいなかった。カフェラテだとしても甘すぎる。砂糖の分量を間違えたんじゃないかと、思わず聞きたくなってしまうくらいには。
ドリンクと一緒に机に置いてあるサンドウィッチもそうだ。外では食べ物を口に入れようとせず、あったとしても草食動物のように草ばかりが皿の上に乗っていることが多かっただけに、本当に食べるのか不思議に思ってしまう。分厚いタマゴやベーコン、カスタードにチーズまでが挟まっているボリューム満点のサンドウィッチをバーボンが食べる姿が想像つかない。たしかこの手のサンドウィッチをボリュームサンドと言うのだと明美が言っていたか。その時、彼女が食べていたのはたっぷりの生クリームとフルーツが挟まれた物だったので、見ているこっちが胃もたれしそうだと眉を寄せた記憶が新しい。
「甘いな」
「当たり前じゃないですか」
一口も飲んで無かったのに最悪だと続けられる文句には、勝手に飲んだことに対する文句だけではなく、同じ任務に就くことに対しても含まれていそうだった。不服だと思っているのはお互い様だと知っていながら。
「またお前と一緒だとはな……足を引っ張るなよ」
「誰に言っているんですか。誰に。その言葉そっくりそのまま返しますよ。だいたいあなたは自分が遅刻したってことわかっています?」
「お前の時計が壊れていたんじゃないのか?」
肩をいさめると、これ見よがしに大きなため息が吐かれた。期待はしていないとばかりの態度に腹が立つ。結局、遅れたのは十分程度。十分なんて誤差のようなものだろう。相手がバーボンだと知っていれば、そもそもこの場にも来なかったというのに。
(顔は可愛いが、この態度がな……)
外面の良さは折り紙付きだ。猫のような男はいつの間にかに懐に入り、喉を鳴らしながら媚を売っていることが多いのに、ごく少数の相手、その中でも特に自分に対しては突っかかってくる。ジンを相手に突っかかるのはわからなくはない。上から目線の態度は誰だっていけ好かなく思うだろう。だが、それが自分にも向けられるというのは正直気に入らない。
初対面でティーンと間違えたのが原因だとしても、根に持ちすぎではないだろうか。悪化こそしていないが、改善することもなく平行線状態。マイナスからスタートしているため、下がることもないわけだが。
「好き勝手なこと言わないでください。それよりあなたはどうしてここに呼ばれたのか知っていますか?」
「さぁな」
本当に使えないと思ったのだろう。表情が読み取りやすい。あえてわかりやすい反応を取ったのだろうが、本当に人を不愉快にさせる天才だ。
取り出した煙草に火をつければ、バーボンの眉が一瞬寄った。匂いがつくと言いたいのか、それとも灰皿もない場所で吸うなと言いたいのか。時々、優等生すぎるくらい真面目な男だ。規則や倫理というものに対して潔癖な反応をみせるのに、この薄暗い世界で生きているのだから、アンバランスにも程がある。正義を気取るわけでもなく、腐敗した悪人になるわけでもない。ひどく中途半端な男にも思えてしまう。
(はっ。ここでコードネームをもらうやつに正義もなにもないか。クソ野郎であることには変わりない)
たとえ同じようにNOCとして組織に潜入しているのだろうと、確証がない限りはただのクソ野郎だと認識するべきで。
煙を吹きかけようとした時、男に声をかけられた。白いワイシャツに黒いエプロンを付けている男と同じ格好の人間を店内で何人か見かけた。カフェの店員らしい。いや、正確には店員のつもりらしい。気配を悟らせず近づいてくるカフェ店員がいるかどうかはおいておくとして、要は周囲から店員とのやり取りに見えていればいいということなのだろう。男は穏やかな笑顔を浮かべてアルミ灰皿を差し出してきた。
「お客様、よければこちらをお使いください」
バーボンも店員もどきの意図に気付いたようで、にこやかに礼を音にしている。灰皿とその下には小さな紙。この内容を確認すれば、ここでの仕事は終わりということだろう。手際のいいことだ。
ジンの任務にしては、バディとの集合も任務内容の連絡手段も手が込んでいて回りくどい。別の幹部からの命令の可能性が十分あり、日本以外での任務という点からしても、今回はジンとは切り離すべきだろうか。
「随分手の込んだ渡し方ですね」
「お前に気でもあるんだろ」
「百歩譲ったとしても考えられないですから、何しろそれは灰皿についてきたオマケじゃないですか」
「色気のないオマケだな」
ハッと笑い、内容を確認した用紙をバーボンのほうに指で弾いた。今まで組織から命じられてきた任務にろくなものはなかったが、やはり今回もろくなものではないらしい。わざわざこんなことをさせるために、日本から移動させられたのかと思うと余計に腹が立つ。
『裏切り者テネシーを抹殺しろ』
世界を股にかけている犯罪組織だ。構成員の後始末なんて、先ほどの男のように韓国を拠点にしている組織の人間にさせればいいだろうに、わざわざ呼び寄せたのだから理由があるのだろう。その理由は不明だが自分やバーボンが関わっていると考えられている可能性もあるが、疑われていればテネシーと同じく抹殺対象になる。追われる側にならなかったということは、組織内部の誰かに試されていると考えるのがベストのようだ。
「テネシーって…………アメリカの州ですかね?」
きっと。冗談のつもりだったのだろう。ただ、バーボンがこのタイミングで口にする冗談にしては意外だっただけで。さっきは押し止まった紫煙をバーボンへと吐き出していた。一瞬にして険悪な空気が流れる。
「で、こいつのことを知っていたりします?」
「さぁな」
「特徴も知りませんか?」
「ああ。はじめて聞いた名前だ。…………バーボン、同じお仲間だ。お前のほうが知ってるんじゃねぇのか?」
「は? どういう意味です? 僕のことを信じろとは言いませんけど、その発言は不愉快です」
苛立たしげに返ってきた回答に呆気にとられてしまった。何に対して苛立っているのだろうか。よくある言葉遊びだと言うのに。
(今更、どうした? 俺が信じていないことなんて、初めから知っているだろうに……何に苛立っているんだ……?)
互いを監視して成り立っている関係。それ以上でも、それ以下でもない。ましてや信じる信じないなんて、おままごとのような関係を築いているとはバーボン自身も思っていないはずだ。
黒の組織において、幹部となった人間にはコードネームが与えられる。割り振られるコードネームのルールは今の所わからないものの、すべてが酒の名前であることだけはわかっていた。
テネシー。ウィスキーの一種であり、その中でも製法の要件からしてバーボンウィスキーの一種とも分類されている。生産された州の違いや、蒸留後のろ過方法によって必ずしもバーボンウィスキーがテネシーウィスキーになるとは限らないが、テネシーウィスキーはバーボンウィスキーの条件をすべて満たしているため、必ずバーボンウィスキーの一種になっていた。テネシーとバーボンはニアリイコールな関係になっているのだ。
だから、からかっただけ。同種のウィスキー同士、お前も組織を裏切るんじゃないのかとからかっただけのつもりだったが、過剰な反応に何か隠し事でもあるのかと勘繰ってしまう。もっとも内心を簡単に悟らせる男ではないため、この反応もブラフである可能性は高いが。
「なんですか、その顔」
「何でもない。お子様にはまだ早かっただけの話だ」
「喧嘩ならいつでも買いますよ」
「意味がわかるようになってから売ってやるさ」
とりあえずは、この場はここまでにするのが賢明だろう。これ以上、会話を続けたところで身に繋がることはない。時間を無駄に浪費するだけだ。
マッチを擦って、新たな火を起こす。紙を奪い取り火にかざせば、任務に関する指令は瞬く間に燃え上がっていき。
(このまま任務も無くなればいいんだけどな……)
無意味な思考が一瞬頭をかすめるくらいには胸糞悪い任務だ。テネシーが何をしでかして組織に追われることになったのかはわからないが、拒否ができない立場のため命令に従うしかない。
どんな手段を使おうと。どんな落とし前の付け方を付けようと。組織の上層部は興味を示すことないだろう。求められているのは結果のみ。『テネシーの死』をもってして、この組織の中で自分の存在をアピールすることが潜入捜査官として取るべき行動だ。一人、犠牲者が増えるくらいなんともない。ましてや犯罪組織に身を置いた人間の抹殺なのだから、良心なんてものはちくりとも痛みはしないだろう。
ただ、なんとなく。煙草の消費量が増えそうだと思いながら、席を立った。
【十二月五日 PM】
まっすぐに煙が高く昇っていく代わりに細やかな白い粒が空から降り注いでいた。どうりで寒いわけだ。東京での気候に慣れてしまった体ではこの骨身に染みる寒さは堪える。今なら狙撃のために何十時間とコンクリートのビルの上で待機はできないかもしれないな、と平和ボケしてしまっている体に思う。
ひとまずこの任務が終われば、心身ともに鍛えなおす必要がありそうだ。とはいえ惰性のように行われている組織の任務も今が踏ん張りどころ。与えられたコードネームと役割はこなしておけば、次の一手は楽になるはずなのだ。信用と信頼を天秤にかけるような組織ならばたかが知れていただろうが、そうとも言えないからこそ、裏社会で根強く残る最悪の犯罪組織として名をはせているのだろうが。
ぶるりとひとつ体を震わせ視界にちらつくものの存在を横目に、暖かな明りに吸い込まれるようにホテルへと足を向けた。
四日前に伝えられた任務は漠然としており、任務としては最悪だと言っていい。何しろ抹殺しろとだけの命令は相手の容姿どころか名前さえ初めて聞いたものだ。
冗談めかしてバーボンに同じお仲間だと酒の括りでの話をしただけだったが、予想以上に反応を見せられたのには正直驚いていた。とはいえ、バーボンの周りを調べたが過去に関わったとされる任務にもテネシーの名前は存在しておらず、言葉通り知らないと踏んでいる。本当に虫の居所が悪かったに過ぎないのだろう。それか癇に障ることをしたかの二択だが。
(俺のことを気に食わないのはいつものことだろ)
これがもしスコッチも交えてのスリーマンセルならば、もう少しあの男は大人しかっただろうか。いない男に助けを求めるような思考に思わず眉を寄せた。らしくない。本当に。
おそらく、バーボンもライと同様に世の中がすっかりライトアップされたころに片道だけのチケットをもらったと踏んでいいだろう。有無を言わせぬ任務の相手がこれまた気に食わない相手となれば腹立たしいことくらい理解できる。
考えていると頭が痛くなってきた。組織内では隙を見せるつもりはないが、バーボンとの任務は特に気が抜けないと感じている。そこにスコッチが入ってこられれば余計に面倒になるのに何を考えているのやら。
綺麗なホテルのロビーを通過して、最上階行きのエレベーターに乗り込む。ドアボーやにフロントの受付にしろ洗練された動きで客をもてなそうとしているだけにさすが高級ホテルだと従業員の教育の良さを実感した。
指定された場所は待ち合わせ相手としては珍しいところを選んだなと思わずにはいられない。地元の人で込み合う大衆居酒屋のような場所など、もっとおあつらえ向きな場所は他にあったはずだ。それではなく、こんなところを選ぶなんて。
上質な装いをしている男女が親密な関係を思わせるように身を寄せ合っている最上階に位置するラウンジ。そこが今回の待ち合わせ場所だ。
ラウンジの大きな窓からは当たり前だが雪が見えた。白に包まれる無機質な道路たちは長い車の列で埋め尽くされている。苛立った車が一台、また一台とクラクションを鳴らしたようだ。遠吠えする犬のように次々と発せられているのはオーケストラなんて言えないくらい雑音になっているだろう。
ホテルに入る前は降り始めといった様子だった雪が音もなく本格的に降り続出しており、星明りもないせいでキャンドルだけの明りのラウンジは適度に暗い。揺らめくキャンドルの炎が輪郭をぼやけさせているのはロマンティックと言っていいのだろうか。
ウェイターに待ち人が先にいることを告げて足を進めた。
窓際に陣取り夜景を一望するなんて野暮なことはしない。いるのならば、バーカウンターの一番端もしくは入り口から最も遠くかつ適度に全体を見渡せる位置だろうと、素早く周囲を見渡せば、予想通りの所に後ろ姿は存在していた。
見慣れた後ろ姿を横目にスツールを引く。
これが誰もが振り返るような美人の女の横ならば言うことがないが、むさ苦しいだけの男というのは酒の味に影響しそうだ。
バーテンダーにバーボンのロックを頼み、多めのチップをついでに出せば機嫌よくグラスが目の前に出された。様々なボトルが並ぶバックバー。ウィスキーやリキュールのボトルがキャンドルの漏れる光を受けて輝いているようにも見える。相手がこの男でなければ気分のひとつやふたつ乗ったかもしれないと若気の至りを思い出して自分もまだ若いなと苦笑を漏らした。
「なんだよ、笑って。気持ちわりぃな。それより、お前相変わらず遅刻かよ」
「お前が早かっただけだろ」
俺は定刻通りだと念のために口にしたが聞き入れるつもりはないようだ。どうやら男の中で待ち合わせ時間は自分本位になるらしい。こういう適当なところは嫌いではないが、時と場合には面倒にも思う。
ポケットから煙草を取り出しくわえれば、ぼっとオイルライターを着火して差し出してくる。まるで高級クラブだ。
視線だけを動かし、視界に映る炎を鼻で笑うとマッチを擦って火をつけた。
「人がせっかく火つけてやったのに」
「ライターは嫌いなんでな」
肩をすくめてマッチで擦った炎を着火させた煙草をくわえる。肺を満たすニコチンが細胞のひとつひとつに染み渡るような感覚がした。相手が相手だけに気負いなくいられるのは肩の力が抜ける。とはいえ、ここは誰がいるかわからない世界だ。この国に到着した際に接触したカフェの定員の話だってある。気負いなくいるのも最小限。
ん、と滑るように差し出されたスマートフォンの中身をざっと読んだ。相変わらず適当な文体だ。報告書としては一応なっているとはいえ癖がありすぎて、慣れていないと読み飛ばしてしまう。文章としては難があるが、最低限の調べは行ってくれたようだ。
深く吸い込んだ紫煙を吐き出す。視界に薄い煙の膜が立ちこめ、奥の窓からは街の光が様々なメッセージを滲ませていた。スマートフォンをポケットにしまった男はグラスに手を滑らせる。丸い氷が琥珀色の液体の中でその冷たさに揺れ動いたように見えた。
「なるほど、助かった」
「おい。それだけかよ」
「もちろん、ここの支払いは俺もちだ」
そんなのは当たり前だろ! と口にすると男は目の前にあったグラスを一口で飲み干し、追加で注文を行う。上等な酒だというのに勿体無い。
代わりにライのグラスの中では氷が冷たい色に透けてゆっくりと溶けていく。じわりと染み出るような様子にじいっとそれを見つめていれば、グラスは結露を増していた。
「それにしても、ベルモットか。面倒な女が出て来たな」
「なんだ? イイ女ってことか?」
「まさか。その逆だ。腐った林檎さ」
二つ瞬いた男は口元を緩めると噴き出すようにして笑い出した。いい話を聞いたとでも言うような表情に何が面白いのかさっぱりわからない。しかも音量を絞った声で密やかに話すばかりの中ではよく響く。少しは押さえろと男の無防備な脇腹を小突いたが、ガタイだけがいい男には軽く小突かれた程度にしかならないらしい。
テネシーはベルモットと接点がある。
顔見知り程度だったら問題ないかと思っていたが、パトロンを用立てたとのことだった。ベルモットが自ら動く相手となればあの女に対してそれなりに利益がある対象となる。下手に手を出せばこちらがどうなるかわかったものではない。
二年前とベルモットが参加しただろうパーティーは絞ってはいたが、あの女の行動は型に当てはまっているようで当てはまっていない。ライには理解できない美学をもとに動いているので予想外なことばかりされるのだ。
「で、マーク。その他は?」
大柄の熊のような容姿をした男は赤茶色の髪をガシガシとかいて息を吐き出した。ひたりと送ってくる視線は打って変わって真剣さを帯びている。自然と背筋が伸びるのを誤魔化すように、グラスの縁をなぞり、アルコールを口にした。胸を焼くようにアルコールの束が殴りかかってくるわけでもなく、程よい口当たりだ。本当に上質なアルコールに仕事ではなくプライベートで訪れたて飲んでいたら最高だっただろう。
「テネシーだが日本警察と繋がっているという噂のせいで組織を追われたみたいだな」
「ホー」
「ただ、その噂が結構な速度で出回っててよ。不自然なんだよ」
「わざと流された噂、か」
「お前も気をつけろよ」
恨みを買ったか、ヘマをしたのか。
情報の出回り方としては前者だと口にするマークは苦いものを噛み締めている。
多くは語らなかった。数年と連絡を取っていなかった同僚がいきなりコンタクトを取ったのだ。なにか思うところがあっても不思議ではない。もしかしたら風の噂で聞いたことがあるのかもしれない。様々な状況からおそらく察してくれたようだ。
マークが肩を叩いて席を立った。後ろ手で手を振り去っていくマークはテーブルにオイルライターを置いていったままだった。マッチでしか煙草は吸わないと言ったそばからこの態度だ。餞別という意味合いであることくらい察しが付く。
「無事に終わるように、なんて馬鹿げたフラグをたてていきやがる」
面倒な男だな、とオイルライターはポケットへとしまう。
とりあえず、バーボンに責め立てられることはない程度には情報は手に入れられた。ベルモットのこと以外にもパトロンの情報も手に入れることはできた。都合よく韓国国内にいるパトロンがいるのでチャンスかもしれない。テネシーに繋がる人間には出会うことができるのは一歩リードできそうだが、今のテネシーの居場所が探せるかはまた別の話だ。
やはり情報ではバーボンを出し抜くことはできない。
(まぁ、そもそも。情報を取り扱うという点ではあの男に敵う者はないか)
組織内でも探り屋の異名を持つ男だ。ならばライは数少ない情報を元に考えられる可能性をすべて考慮し、潰していけばいい。ここでバーボンを出し抜くために今のライにできることはそれくらいだ。それにしても。
「日本警察のNOC……なくはないだろうが、対面ばかりを気にするあの国がそんなことをするか? いや、しかし公安ならば可能性はあるのか」
何事にも書類や命令が、と形式ばかりを尊重する彼らがとは思うが、近隣国の外交問題を考えれば不思議でないはず。
(ひとまずはその噂も加味して動くか)
「NOC、か」
裏切り者の末路は知っている。だが、それは裏社会同士の人間のやり取りでしか見たことがなかった。正義の名をかざした正真正銘のヒーローに対して、自分は引き金を引くことになるかもしれない。それはなんだか寝覚めが悪いなと胸が軋んだ気がした。
舐める程度でしか口にしていなかったつもりだったが、酔ったのだろうか。たとえ酔ったとしても馬鹿げた感傷だと一刀両断して。明日からマークに伝えられたテネシーの目撃情報をひとつずつ潰していくことになる。ならば、今は。絞られた照明に、靴音のように遠くから規則正しく寄せてくるレコードの音に集中して、今はただアルコールに身を任せることにした。