ジージーと耳障りな音を立て、大合唱していた蝉の存在が嘘のように今は静寂に包まれている。ごくまれに昼夜が狂った蝉が目を覚まし、存在を主張することはあるものの、神隠しにでもあったかのように存在感が皆無だ。
停滞している生ぬるい温度も一緒に存在を消してくれればいいものを、多少ましになったと言える程度で未だにじわりと汗をかく。一枚でも身に着けている衣類を減らしたくて、上着は早々に脱ぎ棄てた。指定されている制服とはいえ、任務中ではないのだ。ならば、馬鹿真面目に着用している必要もない。
「おっせぇなー。アイツら何してんだよー」
「急に声かけたのは私たちなんだし、まだ約束の時間まで十分以上もある。ゆっくり待とうじゃないか」
「先輩を待たせないのが常識だ、何だってオマエが言ってなかったけ?」
「物事は何でも時と場合によるものだよ」
だいたい早いのがわかっていて部屋を出たのは悟だろう、とまるで自業自得だと言うように続けられる。
除伐任務は予定の時間を大幅にまいて終わった。帰宅は日付が変わるだろうと言われていたことを思えば、四半日もまいたのは大幅と言って差し支えないはずだ。突如としてできた時間を持て余すことになりそうだったが、思いついてしまえば時間の使い方は音速のごとく決まる。
余程のことがない限りは参加。
その余程が生死にかかわる場合だけを示唆しているため、七海曰く、参加の選択肢しか用意されていないとのことだった。強制参加ですよね、と眉をこれでもかというほど寄せながらも、きちんと参加するのは先輩への敬意なのか、唯一の同級生が喜んで参加するからなのか。前者であって欲しいところだが、七海の場合は後者の意味合いのほうが強い気がする。六眼と無下限呪術を持ち合わせた術師として、敬い、機嫌を損ねないようにと媚びへつらって接することのない呪術師は新鮮で、どこかむず痒いところがあった。
現在の時刻は十八時四十八分。
これ見よがしに携帯の画面を見せてくるのに半眼になった。十分なんて誤差の範囲だ。普通。
確かに夏油に声をかけた時は早いと言われた。それでも行くぞと引っ張り出した記憶がある。あるにはあるが、時間まで大人しく待つなんてことできずに飛び出した。待ちきれるはずがない。去年は三人だった。それが今年は二人も増える。五人でする花火はどれほどのものかと、胸が高鳴り秒針が一周する時間さえ気になって、待ち遠しかった。
その結果、早いと言う夏油を引っ張って人工的に冷やされた風がない場所で時間を潰している。
ジワリと汗が浮かんできた。
さすがに酷暑と言われる気温も夜になり、自然が豊かなことも手伝って街中よりはまだ涼しいが、まだ、や、幾分、といった形容詞が付くだけだ。暑いものは暑い。
呪術高専の生徒であることがわかるようにと、いつもきっちりと制服を着ている夏油もさすがに暑いようで、上着を脱いでいる。それだけでなく、裾をズボンから出し、袖を捲り上げていた。白いシャツが汗でところどころ張り付いている様に、エッチじゃん、と言えば、馬鹿言ってないの、と真顔で返されたか。
ギリギリまで涼しい場所で普通はいるだろう、とぐちぐち小言を言いはするが、結局、付き合ってくれるのだから夏油の小言は右から左にしか流れていかない。付き合いがいい男だ。
「ええー。まだ十分もあるのかよー。絶対、もう七時過ぎてるって! 傑の時計が壊れてるんじゃねぇの?」
「もし悟の時計が合っているのだとしたら、日本の標準時を修正しないとね」
「細かいことはいーじゃん。俺が七時って言ったら、今が七時でいーの!」
「横暴だな」
口をへの字に曲げると呆れたと夏油は眉間を親指で押す。
右だと言えば、全員が右を向いてきたため、こうして訂正されるのは違和感がある。それでも、すべてを是としない人間がいるという面白さは呪術高専に来てから知った。入学当初を思えば随分と夏油が示す『常識』の線引きを見極めることができるようになってきただろう。わかってきたと思っているのは自分だけで、時々、盛大に呆れたと言われることもありはするが、一年経てば人は成長する。
ゆるりとした生暖かい風が頬を撫でていく感覚にぐっと背筋を伸ばして、地面に寝転がった。無数の星が空を彩っている。ここが東京校で、所在地では東京都を名乗ってはいるものの郊外に存在しているために、本当に東京都立の学校か首を傾げそうだ。もっとも京都校も同じようなものだろう。京都のほうがコンクリートジャングルのイメージがないため、自然の中にぽつんと学校が存在していても、納得できるかもしれない。大方、実家と大差ないだろう。
「ここはいつでもよく見えるけど、今日はよく晴れているし、満天の星空って言葉がぴったりだね。星でも見ながら、ゆっくりみんなを待とうか」
隣に腰を下ろしてきた夏油にサングラスを取られた。夜にも関わらず付けているのは見えすぎる目を休めるためにすぎない。視界の良好は関係ない。かといって、勝手に取ったことを激怒するつもりはない。レンズ越しではない夏油の顔を見つめた。
「この程度の星じゃ、珍しくもなんともねぇって。つーか、星を見ようって言うなら、傑の顔が邪魔なんだけど」
「そう? それは予想外だな。悟は綺麗な星より私のほうが見たいかなと思ってね」
「はは! なら、もっと近くで見せてよ」
口角を上げる夏油を挑発するようにシャツの襟元を掴めば、ぐっと顔を近づけてきた。引き寄せて望み通りに薄い唇にかぶりつく。くちゅくちゅと舌が絡まり合い、何度も角度を変えて互いの口を味わう。体勢上、夏油が少しばかり有利だが、負けるつもりはない。むしろ主導権を握られるというのは気にくわない。主導権を奪い合うように舌を動かせば、負けず嫌いな夏油も応戦してくる。
静かな空間に似つかわしくない淫猥な水音が響き、ただでさえ暑いのに体感温度が上昇していく。永遠にも続くと思わされたキスを終わらせたのは、情緒もなく風に乗って聞こえてきた話し声だ。
名残惜しいが、音に反応した夏油に胸を押されれば離すしかない。頭の後ろに手を回して離れられないようにすることもできるが、夏油の機嫌を損ねさせたいわけでもない。倫理観の塊のような男が誰もいないからと野外でキスをしてくれたのだ。ここで目先の欲望に負けてしまえば、また外でキスをさせてくれなくなる可能性が出てくる。今はまだ性欲がじわりと蠢いたばかりで、己の内で消化することだってできて。
口を離すと互いに少し息が切れていた。うっすらと浮いた汗は熱烈なキスによるものなのか、それとも生暖かい外気温によるものなのか判断が付きにくい。遠くで聞こえて来た声がはっきりと聞き取れるようになった頃には、甘ったるい空気は一切なく、夏独特の空気が停滞しているだけになっていた。
「あれ!? 夏油さんたちもう来ていたのですか!?」
「おせぇーよ!」
「お待たせしてしまってすみません!」
「時計を見ろ。時間通りだろ。どうせ待ちきれなくて我先にと飛び出した五条が悪いだけだ」
大きな袋やバケツを持った七海、灰原、家入が姿を現した。当然のように荷物を持っているのは家入以外のメンツではあるが、行けたら行く、と言っていた家入も来ているあたり、やはり夏の風物詩は偉大なようだ。これくらいでしか息抜きがない、というのも理由のひとつかもしれないが。
「普通は七海たちが早く来て準備するもんだろ!!」
「急な実習が入ったので遅れるかもしれないと、連絡を入れたはずですが。いくら蠅頭相手とはいえ、数が多い現場に一年生だけで向かわせるのはさすがにどうかと……」
「蠅頭だろ? んなもの、目をつぶってても楽勝じゃん」
「お疲れ様。高専は人手不足だからね……危なければすぐに逃げること。勇猛と無謀は履き違えないようにね」
夏油が取りなすように間に入り、一年生たちの肩を持つのが面白くない。この男も一年生の夏ごろには時には無茶を押し通して呪霊を祓いまくっていた記憶がある。狩りつくすのだろうかと思わせる勢いで、祓っては取り込んで、祓っては取り込んでいた。
この世界では『できない』は通用しない。ましてや『まだ一年生だから』なんて修飾子は何の免罪符にもならない。できなければ、守ってもらおうなんて考えでは、死に直結する。自分を守れるのは自分自身だけ。呪術師であれば誰もが知っているルール。それでも。
「ま! なんかあったら、硝子が治してくれるから安心だろ!」
「そこは私をあてにするのか。言っとくが、一年ズは無料で診てやるが、クズ共は任務以外での怪我は有料だからな」
煙草をくわえていた家入が口角を上げている。無下限がある限り、怪我とは無縁だ。おかげで家入の世話になることはないと言い切れる。当然、これからも世話になることはないだろう。きっと。
「硝子。それは私ではなく悟に言ってくれないか。すぐに無茶をするからね」
「あ!? 俺が怪我なんかするわけねぇだろ!! 必要なのは傑のほうだろ」
「へぇ。試してみる? どっちが強いか」
「望むところだ」
呪力なしのフィジカルのみで喧嘩を行えば五分五分、もとい六、四くらいの勝率だろうか。全勝と言えないのは悔しい。とはいえもちろん六が五条だ。そこに呪力も含めて勝負をすることになれば、勝率は大きく変わる。完全勝利の圧勝だ。
今回はどっちの勝負だろうと負ける気はしないと鼻を鳴らした。
どちらにしろ勝率がいいのは五条で。負けることがわかっていながら喧嘩を売ってくる夏油には呆れてしまう。
夏油を取り巻く周囲の呪力が増した。アラートが鳴っていないため、登録をしている呪霊なのだろう。そういうところは一応理性があるらしい。何度か未登録の呪霊を呼び出し、始末書を書いた経験から気を付けてはいるようだが、時々、うっかりすることがあると言っていたか。普段、きっちりしているだけに抜けたところ見ると珍しいと思うと同時に可愛いと思ってしまうのは、惚れた弱みというものだろう。夏油は馬鹿な事を言うなと眉を寄せるだろうが。
一色触発。
次に何かきっかけがあれば爆発しそうなタイミングで聞こえてきたのは、互いの呪力がぶつかり合う音ではなく、気の抜けた声だった。
「夏油さんと五条さんはどれからしたいですか!?」
ニコニコと笑みを浮かべた灰原が、自分はロケット花火です! と袋を漁っていた。事の発端となった家入も我関せずと花火を選び、隣で七海がこめかみを押さえている。オマエらも早く選べよ、と家入は言い出す始末は見慣れた光景に夏油と顔を見合わせて、肩をいさめた。互いにばちばちと火花を飛ばすくらいなら、今からする遊びのほうが何十倍も楽しいだろうと。
「灰原! ねずみ花火ないの!?」
「打ち上げ花火はあるんですが、ねずみ花火は売っていませんでした」
「うげぇ。マジかよー。まずはねずみ花火から始めるのが常識じゃねーの!?」
「悟だって去年まで知らなかっただろ」
「うっせ。もう、これでいいや! 火はねぇの?」
袋の中身を物色して手持ち花火を取り出した。何の変哲もない普通の花火だ。去年、初めて手持ち花火をした時は種類の多さに驚いた。その中でも一番面白かったのが、予期せぬ動きをするねずみ花火だったが、どうやら今年はないらしい。去年のようにゲラゲラ笑えるかと思っていたので拍子抜けではあるが、ないなら仕方がない。
「悟。まだ準備途中だろ。まず、バケツに水を汲んできな」
「はぁ!? んなもの、なくても何とかなんだろ」
「ここが私有地だから問題にはなりにくいけど、火気厳禁の場所が多いんだ。夜蛾先生も火の始末をするから許可を出してくれただけで、危ないことは――」
「はいはい! 小言は聞き飽きましたー」
夏油の言葉を無視して花火に火をつける。じりじりと四方に火花が飛び散り、美しい火の球を薄暗い中で作り出した。赤や黄色。同じ火の球のはずなのに、色を変える美しいそれ。去年も同じものを見た記憶があるが、今年は今年でさらに美しく見える。
「七海! 僕たちも早くやろう!」
「急がなくても数は十分買って――……」
「わぁ! 五条さん、二本持ちですか!!」
「当たり前だろ!! 傑! オマエも早くしろよ! 硝子も!!」
声を張り上げて、バケツを用意している親友を呼ぶ。一体、何本買ってきたのかはわからないが、しばらく連続でやり続けても終わりそうにない量だ。まとめて大きな束で火をつけてみてもいいし、使い切ることができなければ来年に回せばいい。来年は来年で購入することを考えればいつか使いきれないくらいになっているかもしれない。
「王様のご要望だ。いくぞ、夏油」
「はは。本当に横暴な王様だな」
離れたところにいた家入が花火の火を渡すように促してきた。夏油も同じようにもらい火をしている。次々と受け継がれて新しい花火が闇を彩り始めた。
「なぁ、傑」
「なんだい?」
「来年もやろうぜ! 新しい一年も呼んでさ!」
にかりと笑った。それに夏油も一瞬呆れたような顔をするが、すぐに同じように笑ってくれる。
来年の約束。どんどん未来の約束が増える。夏油とやりたいことが多すぎて、一生終わりそうにないため、これからも毎日、毎日、約束事は増えていくのだろう。どれだけ膨大な数になろうとも、それらすべてをこれから先、一生をかけて消化していけばいい。まだまだ、自分たちにはたくさんの時間がある。未来は不変的ではあるものの、永劫だ。
「はは。そうだね。来年もみんなでできればいいね」
夜空には無数の星と大きな月がひとつあった。その月に雲がかかり始めていたことに気付くことなく、闇をそれぞれの足元で彩り散っていく。