どこにいたって迎えに行くよ ショッピングモール 迷子センター
「うっ……う、うう……」
「今ね『ゆうじくんが待ってますよ〜』ってみんなにお知らせしたからね。おうちの人が来てくれるまで、もう少し待ってようね?」
「う゛う〜〜……に、にいちゃ、おにいちゃん……! ぅえっ」
ソファに座って泣きじゃくる男の子がいた。『ゆうじ』と呼ばれたその子どもの耳には、穏やかな口調で宥める職員の声も届いていない様子だ。
その日、その男の子──虎杖悠仁は三人の兄と共に郊外にある巨大なショッピングモールに来ていた。
結論から言えば、はしゃぎすぎた悠仁は──一人はぐれた。幸い、彼はすぐに迷子センターで保護された。
しかし、幼い子どもにとってこの世界は広すぎた。独りの時間は永遠とも思えた。兄たちのいない世界など想像したこともなかった。もう二度と会えないかもしれないとまで考える小さな心は押し潰され、その目からは涙が止まらなかった。
館内放送を流してから、五分と経たない頃だった。室外にある受付から従業員の声が聞こえてきた。
「はい。迷子センターはこちらで合っています。迷子のお子さんをお迎えにいらしたということで、あっ弟さんですか。では弟さんのお名前と、お迎えの方のお名前を教えてくだ──あ! ちょっと⁉ 待ちなさい! 君!」
「悠仁‼‼」
受付の手続きをすっ飛ばし、従業員の制止を振り切って、兄・脹相がセンター内に飛び込んできた。息が上がり、髪も乱れている様子から、ここまで全速力で駆けてきたであろうことがうかがえる。
悠仁は兄の姿を見た瞬間、駆け寄ろうとした。だが、なぜ自分がここにいるのかを思い出した。勝手にうろうろして迷子になってしまったのだった。離れないようにと言われていたのに。
さらに、血相を変えた兄の険しい表情を見て、『叱られる』──そう思ってしまった悠仁の足は動かなかった。
「あ……あ……にいちゃ……」
悠仁はシャツの裾を強く握り締め、うつむき、その小さな体を震わせていた。
「悠仁!」
もう一度名前を呼ばれた。『やっぱり怒られる』──これから落ちてくるであろう雷に怯えながら悠仁は恐る恐る顔を上げた。
しかし、脹相の顔に怒りなどは微塵もなかった。
先刻までつり上がっていた眉毛はすっかり下がり、瞳には薄っすらと水分の膜が張っている。
脹相はその場にしゃがみ膝をつくと、両手を大きく広げ、再度、名前を呼んだ。
「悠仁」
「に……にいちゃん‼」
今度はためらうことなく駆け出し、兄の腕の中に飛び込んだ。
◇◇◇
××年後 PM8時 ××××ビル 7F 居酒屋
男は気まずさと手持ち無沙汰を誤魔化すために、酒を飲むペースが自然と早くなっていた。
──脹相先輩、喋んねえーーー。オフィスに居るとき以上に喋んねえな……。
脹相先輩と呼ばれる──隣に座っている──男は眠たげな目をしながら、乾杯の際に頼んだであろう、とっくにぬるくなったビールをちびちびと飲んでいる。
「えっと、ビールそろそろなくなりそうっすよね! なんか頼みます?」
「いや、いい」
沈黙に耐えかね、次のアルコールを勧めたが素気なく断られてしまった。言葉を一言だけ発した脹相は、今度はエイヒレを手に取り、もぐもぐと咀嚼し始めた。
──終わったー。はい! 会話終了!
活躍の場を失ったメニューを握り締めた。周りのガヤガヤとした喧騒が遠い世界のように感じる。
隣で後輩が気を揉んでいることなどつゆ知らず、当の脹相は気まずさを感じている様子はない。脹相は忘年会が始まってすぐは料理に専念し、場が温まってくると上司に挨拶をして回っていたが、それらを済ませると自分の席に戻っていたのだった。
十五分ほど前。
「脹相くんにも挨拶してきなよ。いい機会だからお話しもしてさ!」
隣に座る事務の女性社員が屈託のない笑顔で先輩後輩間のコミュニケーションを促した。
「あ……そ、そっすね! じゃあ行ってきます!」
笑顔を作って返事をしたが、正直気が進まなかった。
新卒で入社した会社が、いわゆるブラック企業だった。給料こそ良かったが、職場のピリピリとした淀んだ空気、上司からの圧、終わりのない業務に手当も付かぬ残業。
『このままでは死ぬ』と命からがら逃げ出し、楽ではない転職活動を経て、なんとかこの会社に拾われた。
前社に比べればとても小さな会社で、給料も高いとは言えない。しかし、職場の空気は和やかで、高圧的な上司もおらず、たまに残業が発生したときも手当の申請をしないと逆にお叱りを受ける始末だ。前職時の憔悴しきった自分を知る妹からは『ゾンビが人間に戻ってきた』とからかわれている。
ホワイトな職場環境に歓喜の涙を流さんばかりの新入社員にとって、唯一の懸念と言える存在があった。自分の教育係を任じられた先輩──脹相だ。
初めてちゃんと顔を合わせたときも、脹相は最低限の挨拶を済ませると、淡々と業務の説明を始めた。
一通りの説明を終えると最後に『分からないことがあったり、仕事の進め方に迷ったら……同じことでも、何度でも聞いていい。何度でも教える』そう新人に告げた脹相だが、優しい言葉とは裏腹に、その表情と声色には、にこやかさの欠片もなかった。
──たしかに脹相先輩にはいちばんお世話になっている。でも仕事中はニコリともしないし、仕事の後もすぐ帰るしで……どんな人かよくわかんないんだよなあ。
“何を考えているか分からなくて、ちょっと怖い人”として、脹相に若干の苦手意識を持っていた。
隠し切れていない新人の戸惑いを察した営業の男性社員がすかさずフォローを入れる。
「まあまあ! あいつも悪い奴じゃないんだよ! 無愛想だし、付き合いは悪くて飲み会にいるのもレアだけど! でもお前のことなんか『覚えが早いし仕事も丁寧だ』って褒めてたよ!」
──悪い人じゃないのは俺も知っている。
──あの人はニコリともしない代わりに、嫌な顔だってしない。俺がミスしても動じないし、何回質問をしても、何度だって答えてくれる。
フォローの言葉に後押しされると共に、自分が悪からぬ評価をされていることにも気が良くなり、気持ちが前向きになった。
「じゃあちょっと行ってきます!」
右手で敬礼のポーズをしながら勢いよく立ち上がった。
「行け行け! あいつがヤバいのは、用事があんのに終業間際の飛び入り仕事が入ってきたときぐらいだよ! そういうときは、人殺しそうな目ぇして小っさく舌打ちしてる!」
聞きたくなかった追加情報にその身が強張った。
発言の主は『せっかく新人がやる気になったのに怯えさせてどうする』と両隣の社員から肘で小突かれていた。
──困った……。
追加でオーダーしたハイボールを無言であおる。
いっそ隣のグループと混ざれないかと考えるも、ちょうど脹相を境界線として分断されており、それは難しそうだった。
盛り上がる社員たちをよそに脹相は黙々と料理や酒をつまんでいるが、除け者にされているわけではなく、周囲が“そういうもの”として必要以上に彼に絡んだりしないようだった。むしろ、飲みの席には滅多に姿を現さない“レアキャラ”に構いたそうにしているぐらいに見える。
「脹相くん家の、えそうくんとけちずくん? 就職して家出てるんだよね⁉ 寂しいよなあ! 分かるよ〜! うちの娘も一人暮らし始めてさあ! お父さん寂しい!」
上座の席にいる部長が、すっかり出来上がった様子で脹相に話を振った。
「はい。寂しくないと言ったら嘘になりますね。でも、家には悠仁がいますし、壊相と血塗もマメに帰ってきてくれています」
脹相はテンションの高い酔っぱらいを鬱陶しがることもなく、淡々と応えている。
──ゆうじくんに、えそうくんと、えっと、けちずくん……? ご家族かな?
──俺も気楽にそっち側にいたかったなぁ……。
隣のグループの盛り上がりを羨む気持ちを抑えつつ、遠い目をした。
この空気がなんとかならないかと、正面に座る二人のこともちらりと見たが、今季は豊作だ、あのOPの演出が最高で、といった何やらマニアックな話題で盛り上がっているようで会話に入る隙はない。
もう席を替えようかと思案し始めたそのときだった。
テーブルの上に置かれていた脹相のスマートフォンが短く鳴動すると、メッセージアプリの通知のポップアップと共に、ロック画面が表示された。
そこには三人の男が楽しげにテーブルを囲む様子が写っており、それぞれ、ケーキ、チキン、ピザなどの料理を頬張っている。
年齢は十代から二十代前半ほどだろうか。ただ、三人ともカメラ目線ではなく自然体で、第三者が日常の風景を切り取ったような写真だ。
「それ、良い写真ですね! えっと、ご友人……ですか?」
率直な感想と疑問が口から出た。
「俺の弟たちだ。壊相。血塗。悠仁」
脹相はさっとスマートフォンの画面を向け、空いた方の手でひとりひとりを指差しながら名前を教えた。
──あー。さっき言ってたの、この子たちか。
「脹相さんはねえ、高校出てすぐウチに入社して、ずっと弟くんたちの面倒見てんの。エライよねえ」
二人の様子を察した女性社員がしみじみとした口調で説明を加えた。
「俺はおに──兄として当然のことをしているまでです。働くにあたって色々と融通を効かせてくださり、俺も弟たちも、皆さんには感謝しています」
脹相は社交辞令などではなく心からの謝辞を述べた。その表情は心なしか普段より穏やかに見え、周囲にも『イイ話だ』という和やかな空気が流れる。
──いつもすぐ帰るのも、飲み会に来ないのも、家で弟くんが待ってるからか。
普段の脹相の行動に納得を得ると同時に、自分との思わぬ共通点を見つけ、これ幸いと話題を振った。
「あ! 実は俺も妹いるんですけど、年頃なのかめっちゃ当たりがキツくて! 仲良いどころじゃないっすよ!」
「妹か。仲が、悪いのか……?」
軽い調子で振られた話題に対し、兄妹の関係を心配する脹相は神妙な面持ちで尋ねた。
「あー……仲が悪い、とまでは言わないかもです。でも髪型とか服とかすっげーディスられます。『もっとちゃんとしろ』っつって。日曜なんかイオン行きたいから車出せとか言われて、朝早く叩き起こされるんですよ! そのまま映画まで奢らされるんすよ⁉ 二人分ともなると安くないのに! 当然のようにポップコーン付きで! そもそもこちとら貴重な休みだっつーのに付き合わすな〜! って話ですよ!」
本日初めての貴重な反応にようやく会話の糸口を見出し、大袈裟に身振り手振りを交えながら妹の暴君ぶりを説明する。妹の横暴さに初めて感謝をした。
その間脹相は口を挟むことなく、後輩の顔をじっと見ながら話を聞いていた。
「あっ! スミマセン! つい! ヒートアップしてベラベラ喋っちゃって……」
先輩を聞き役にさせてしまっていたことに気付き、慌てて頭を下げ謝罪をした。
──やってしまった。
機嫌を損ねた先輩が人殺しの目をしていないことを願いながら、顔を上げた。
しかし、脹相に気分を害した様子はない。むしろ、穏やかな表情を浮かべ──
「お互い……お兄ちゃんは大変だな」
ふわりと。そう形容できるような笑顔で、脹相は目を細めた。
それはほんの一瞬で、すぐに消えてしまったが、決して見間違いではなかった。
時間が止まったかのように呆けている後輩をよそに、脹相は「少し悪い」と断りを入れると視線を自身のスマートフォンに移し、先程通知が来ていたメッセージアプリを立ち上げ、文字を打ち始めた。
──笑った?
いつもは仏頂面の先輩の意外な一面を目の当たりにし、そわそわと落ち着かない気持ちになった。
「そっ、そうなんですよ!! ホントね! お兄ちゃんは大変なんだぞってね‼」
両手があわあわと無意味な動きをしている。顔が熱い気がするのは酒が回っているせいだと思うことにした。
──もっと話したいな。
「あの──」
言いかけたところで、スマートフォンを片手にその場に立ち上がった脹相が、通る声で言った。
「すみません。俺、お先に失礼します」
「えーもう帰っちゃうの」「カノジョか〜?」といった、退席を惜しむ声やからかいの声が沸く中、それらを意に介さない脹相が再び口を開く。
「末の弟がちょうどこのあたりで友達と遊んでたみたいで、これから帰るそうなんです。時間も遅いので合流して一緒に帰ります。すみません」
それならしょうがない、早く行ってやれ、という雰囲気になり、脹相も帰り支度を始めた。
「すまない。さっき何か言いかけていなかったか?」
脹相は財布の中身を確認する手を一旦止め、隣で自分をじっと見ている後輩に尋ねた。
「い、いえ! なんでもないです! たいしたことじゃないです!」
実際、何を言おうとしていたのか頭から飛んでしまっていたこともあり、ぶんぶんと手を横に振りながら、問題ないということを示した。
「そうか」
後輩の返事を受け、脹相もそれ以上追及することなく帰り支度を続けた。
コートを羽織り、マフラーを巻いた脹相は幹事に飲み代を手渡し、店内にいる上司・同僚たちにお辞儀をして居酒屋を出た。そうして脹相がエレベーターのボタンを押そうとした瞬間、別の手が勢いよく下行きのボタンを押した。
「し、下まで送ります」
──思わず追ってきちゃったけど会話……会話……。
雑居ビル特有の狭いエレベーター内を沈黙が支配している。
エレベーターはあっという間に一階に到着した。扉が開いた途端、冷たい外の空気が流れ込んできた。
──結局全然話せなかったなぁ……。飲み会では俺が一方的に喋っただけだし……。
小さく漏らしたため息は白く変わった。
エレベーターから出て、目の前の通りに出るまでのほんの数メートルを歩く。後輩の落胆を知ってか知らずか、脹相の方が口を開いた。
「映画」
「え?」
「妹と映画館に行くと言ってただろ。悠仁が……弟が映画好きで俺もよく一緒に観る。面白い映画があったら今度教えてくれ」
脹相からしたら共通の話題を見つけた後輩との、ちょっとした世間話だったのだろうが、自分の話を覚えていてくれたことに思わず舞い上がってしまう。
「ハ、ハイ! 面白いの、あったらすぐ教えます! い、妹にも! 聞いてみます‼」
自然と顔がほころび、足取りが弾んだ。通りに出ると脹相の正面に向き直り、話を続けた。
「面白いのって言っても、先輩は何系が好きですか!? アクション? サスペンス? 今は配信も便利なんですけど、やっぱ観るなら映画館ですよね! あ、あの、も、もし良かったら今度二人で──」
ぞわり。
テンションが上がりきったところで、突然刺すような視線を感じ、背筋に怖気が走る。体温が一気に氷点下にまで下がったような錯覚を覚えた。
反射的に視線を感じた方向を見ると、脹相の後方数メートルほどの距離にいる知らない男がこちらを凝視していた。
──え。なに? 怖……。でも、どっかで見たような?
その男は目が合うと、ずんずんと歩み寄ってきた。
──こっち来る⁉ ヤバいヤバい逃げ……って先輩気付いてない!
迫りくる危険を知らせようと手を伸ばすより早く──その男が脹相に後ろから抱き着いた。
「兄ちゃん‼」
──兄ちゃん?
「悠仁? 寒いからマックで待ってろと言っただろう」
脹相は後ろからの不意の衝撃に一瞬だけ驚いた顔をしたが、その声が弟のものだと分かるとすぐに平常に戻った。
「近くだし来ちゃった」
悠仁と呼ばれた男は悪びれることもなく人懐っこい笑顔で答えた。
──あービビった……。弟くんか。ヤバい人に絡まれたかと思った。
──見覚えがあったのはさっき見せてもらった写真のせいか。
トラブルを回避したと内心でほっと胸をなでおろしたのも束の間──
「で、この人……誰? オトモダチ?」
悠仁は脹相に後ろから抱き着いたままの体勢で、肩口越しに獣のような視線を向けながら尋ねた。
──アアー‼ 俺のピンチ終わってなかった‼ めちゃくちゃ威嚇されてる‼ 瞳孔が開ききってるよこの子‼
文字通り蛇に睨まれた蛙のように固まってしまい、目で脹相に助けを求めた。 弟と後輩の間にある緊張状態に気付いていない脹相は淡々と説明する。
「会社の後輩だ。忘年会、ここでやっていた」
脹相はそう言って今しがた出てきた雑居ビル上方の居酒屋の看板を指差した。
「あ〜〜……なるほど……。なーんだ! どうも! 弟の悠仁です。兄ちゃんがいつもお世話にナッテマス!」
悠仁は脹相の腰に回していた手を解き、隣に踏み出すとハキハキと自己紹介と挨拶をした。先程までまとっていた剣呑な空気はすっかり消え去っている。
「あ、ああ……よろしく……です……。こちらこそ、いつも先輩にはお世話になっております……」
すっかり気圧されてしまい、自分より年下の男に敬語を使い、深々とお辞儀までしてしまった。
「すまない、話の途中だったな。映画なんだが──」
「いえいえいえ! なんでもないです‼ 二人……! い、妹と! 妹と二人で観る映画は最高ですって話で‼ あー俺も早く家に帰って妹の顔が見たいなー‼」
目の前にいる獰猛な虎の尾を踏みたくない一心で、自分が無害な存在であることを必死にアピールした。
「……? そうか? じゃあ俺たちは帰るから、お前もほどほどにしろよ」
脹相は後輩の様子がおかしいことは感じつつも原因が自分の弟にあるとはつゆ知らず、それを酔っているものと捉え、その場を切り上げた。
「ハイ‼ ほどほどにします! お疲れさまでした‼ 帰り、お気をつけて!」
本日二度目の綺麗なお辞儀で兄弟を見送った。
その晩、“職場の面白そうな先輩と親交を深めようとしたら弟さんにガンを飛ばされ、ビビり散らして退散した話”を妹にして、ゲラゲラと笑われた。
◇◇◇
二人分の足音が静かに響いている。
等間隔に配置された小さな街灯がスポットライトのように、閑静な住宅街の小道をところどころ照らしている。だが今そこに映し出される人影は二つ。その影は間を空けることなくぴったりと寄り添い、ゆっくりと動いている。
「フリータイムめいっぱい使っちゃった」
「伏黒くんと釘崎さんとか」
「そ」
「遅いのに釘崎さんひとりで大丈夫か」
「伏黒が送ってったから大丈夫だよ。方向、一緒だし」
「そうか」
会話はそこで終わった。歩くたびに白い吐息だけが吐き出されている。
脹相が言葉少ななのはいつものことだが、今はどうにも悠仁の方がぎこちない様子だった。
駅を出て、あとは家まで道沿いに進むだけだった。いつもなら悠仁がお喋りをしている間にあっという間に着く道のりが、今夜はやけに長く感じられた。
短い沈黙を破ったのは悠仁だった。そしてポツリポツリと言葉をこぼし始める。
「ねえ。さっきの人。……仲良いの?」
「いや……最近入ってきた奴で、仕事以外でちゃんと話したのは初めてかもしれないな」
「そっか。でも……楽しそうだった」
「そうか?」
「あのさ」
「ん?」
「映画。誘われてた」
「ああ、あいつは妹に付き合って映画館に行くことがあるとかで、俺も悠仁と映画をよく観るという話をしたからな」
ポイントはそこじゃない、という風に悠仁の語気がほんの少し強まる。
「『二人で』って言ってた。……行くの?」
それは責めるような言い方にならないよう気遣われた声色であったが、街灯と街灯の間の暗がりでは、悠仁の表情をうかがうことはできなかった。悠仁は脹相の返答を待った。
「それなら、俺も誘われたのかと思ったんだが、どうやらそもそも妹との話だったみたいだ。オマエも聞いてただろ」
脹相は先程の状況を思い出しながら、確認するように答えた。
「ふーん……。なら、いいけど……」
いいと言いながらも悠仁は明らかに納得していないようだった。彼は脹相から視線を外すと、唇を尖らせ押し黙ってしまった。
再び沈黙が流れる。
脹相は視線を前に向け、考えを巡らせていた。だが、『どうも先程から弟の様子が変だ』ということは分かっても、その原因に思い至れていなかった。
一方で、悠仁は心の内に湧くフラストレーションを処理しかねていた。原因は分かっている。脹相が知らない男に、二人きりでの外出の誘いを受けているのを目の当たりにしたからだ。
脹相にとっては職場の人間なので知らない男ではないのだが──楽しそうに話す男とそれを聞いている脹相の構図が頭から離れない。まるで自分の居場所が取って代わられたような、言いようのない不快感を覚えていた。もちろん、そんなものは被害妄想だと言って良い。あの場では思わず牽制までしてしまったが、悠仁にもそれは分かっている。
それでも、一度回りだしたネガティブな思考は簡単には止まらなかった。
『もし誘われたら、一緒に行くのか』『俺がいるのになんで』『脹相は悪くない』『あの人だって悪くない』『拗ねた態度は良くない』『嫌だ』
頭では割り切ろうとしても、心が着いてこなかった。誘いを受けたことをなんでもないことのように語る脹相の態度も──気に入らなかった。
とうとうモヤモヤした気持ちが抑えきれなくなり、その心とは真逆の台詞が口から出た。
「いいよ。別に行ったって。俺、そういうの気にしないし」
そう言い放った。それは一見、あっけらかんとした様子だった。
悠仁はそうは言ったものの、反応が怖くて、脹相の顔を見ることができなかった。面倒だと思われたくなくて、寛大なふりを、気にしていないふりをした。嫌に速く脈打つ心臓がうるさかった。歩く速度も自然と早くなった。
ふたりの間に埋めようのない亀裂が走りそうになったそのときだった。
脹相が突然歩みを止め、ぴたりと立ち止まった。
悠仁は数メートル歩いた後、隣に脹相がいないことに気付き、彼もまた立ち止まった。何事かと後ろに向き直った悠仁を、頭上から街灯が照らしている。
「……兄ちゃん?」
悠仁は恐る恐る脹相を呼んだ。脹相の行動の意図が分からず、その顔はみるみるうちに困惑と不安に染まった。
脹相の返事はなかった。未だ暗がりにいてその表情が読めないことも、悠仁の不安を加速させた。
『困らせてしまった?』『俺のことが面倒になった?』『嫌われた?』──事態を悪い方に悪い方に考えてしまう。嫌われたくない一心で、謝罪の言葉を叫びそうになったそのとき──
「悠仁‼」
悠仁よりも先に脹相が叫んだ。予想外のことに悠仁はびくりと震えた。
脹相は力強い足取りで、一歩一歩と悠仁に近付いた。
反対に、脹相が怒っているものと思った悠仁はその場に立ちすくんでしまった。二人の距離が縮まるに従って、徐々に脹相の表情も見えてきた。
しかし、脹相の顔に怒りなどは微塵もなかった。
悠仁は小さい頃、迷子になったときのことを思い出した。思い出の中の脹相の姿と、目の前の脹相の姿とが、不思議とオーバーラップした。
怒っているわけではないのかと安心しかけたが、すぐさま自分の状況を思い出した。あのときとは事情が違う。子どもじみた嫉妬心でこの人を困らせている──再びネガティブな声が頭の中に響き、これから起こりうる最悪の展開を想像してしまう。
悠仁の目の前まで来た脹相が再び弟の名を呼んだ。
「悠仁」
「うん……」
悠仁は消え入るような声で返事をすると、脹相の言葉の続きを待った。
「すまなかった」
なぜ謝罪の言葉を言われたのか悠仁には理解できなかった。
脹相は悠仁の目をまっすぐに見つめながら続けた。
「お前を不安にさせてしまった。そんな顔をさせてしまうまで……お前の気持ちに気付けなくて……。本当にごめんな」
そう言われて初めて、悠仁は自分が泣きそうな顔をしていることに気が付いた。
「ちがっ……兄ちゃんは悪くないのに! ……あの人だって悪くない。俺が、勝手に『俺がいるのに!』って思っちゃって……」
「俺はすっごいモヤモヤしてんのに兄ちゃんは平気そうなのも、勝手にムカついちゃって……。んで、勝手にヤキモチ妬いて、ガキみたいにふてくされたのに……今度は『嫌われたかも』って……不安になっちゃって……ほんと自分のことばっかりで……」
悠仁が苦しそうにたどたどしく紡ぐ言葉を、脹相は小さく頷きながら聞いている。ひとつも取りこぼさないよう、『ちゃんと聞いている』『ちゃんと伝わっている』というように。
悠仁は心を吐露するうちに、こみ上げてくる涙を抑えることができなくなっていた。頬を伝う雫を自身の袖で拭っている。そうして悠仁の言葉が途切れたところで、今度は脹相がゆっくりと言葉を紡いだ。
「……もし、逆の立場だったら……俺も嫌だ。俺はこういうことにも不慣れだから……。きっとお前以上に、嫉妬に駆られてしまう。いや、嫉妬していることにすら……気付けないと思う。そうして気持ちが抱えきれないほどに、どうしようもなくなって、手遅れになって……しまうと思う」
悠仁の気持ちを想像し、その胸に同じかそれ以上の痛みを抱いた脹相が、言葉を絞り出す。
悠仁は嗚咽でしゃくりあげてしまうのをこらえながら話を聞いている。脹相が続ける。
「……だから、こうして、気持ちを伝えてくれて、ありがとう。こんなに……俺を好きでいてくれて、ありがとう。……俺もお前のことが大好きだ」
脹相の嘘偽りのない真摯な思いが、不安と自己嫌悪で潰れてしまいそうだった悠仁の心を優しく拾い上げた。
「わ〜〜〜‼ も〜〜〜〜〜‼」
緊張の糸が切れ、脹相の言葉に感極まった悠仁がわんわんと泣き出した。
我慢することをやめた悠仁の目からは、大粒の涙がボロボロとこぼれた。だが、その涙に先程までの悲痛さははもうない。
実は泣いてしまわないよう我慢していたのは脹相も同じであったが、つられてその瞳から涙がこぼれた。
一筋の涙が頰を伝う感覚があった。それでも、今はそれを拭わなかった。自分の涙よりも、目の前で泣く愛しい男のことをなんとかしてやりたかった。
悠仁が堰を切ったようにさらなる本音を喋りだす。
「ほんとは、本当は俺以外の奴とふたりきりなんて、俺以外と仲良くすんのなんてヤだ。でも……行くなら……行くなら俺も行く!」
「一緒なら良いのか?」
「『行くな』なんて言ったら束縛みたいじゃん! 重いじゃんそんなの〜……」
「そもそも行かない。誘いだって断るつもりだった」
「ほんとに……?」
「本当だ。それに、重くていい。……さっきも言ったがたぶん俺の方が重いぞ。……もう泣くな。目が零れ落ちそうだ」
脹相は両手でそっと、悠仁の頰を包み込んだ。
「兄ちゃんだって泣いてんじゃんん〜〜」
悠仁はされるがままになりつつも、べそをかきながら言い返した。
「泣いてない。俺はお兄ちゃんだからな」
あまりに明らかな嘘だった。その得意げな顔に涙が似合わず、悠仁は思わず噴き出してしまった。
「ふふっ……! はいウソ〜〜泣いてま〜〜す」
「お兄ちゃんは嘘なんか吐かない」
「……もう、大丈夫そうだな」
脹相はそう言うと親指で悠仁の目元の涙を優しく拭った。
街灯に照らされる──悠仁を見つめる──慈愛に満ちたその顔は、ひどく美しく見えた。
「も〜〜〜〜‼ ずるい‼ ワザとやってんの⁉ そういうの‼」
すっかりいつもの調子を取り戻した悠仁は、抗議の声を上げた。
「そういうの?」
何を言っているのか分からないという風に、脹相はコテンと首を傾げる。
「そういうのも〜〜〜‼」
悠仁は身悶えしながら脹相を指差している。
「こら、人を指差すんじゃない。それより顔が赤いぞ。寒いか? 風邪をひいたら大変だ。お兄ちゃんのマフラー使うか?」
「風邪じゃない‼ です! 寒くねーし! いいからはやく帰ろ!」
悠仁はマフラーを解こうとした脹相の手をひったくると、そのままぎゅっと握り、グイグイと引っ張りながら歩き出した。
「……ああ。帰ろう」
脹相はその手から伝わってくる温度を噛み締めるように呟いた。
そして、同じだけの強さでその手を握り返した。
その後はお互い言葉もなく、早足に家路を急いだ。歩を進めるたび、涙が伝った箇所が夜風でひんやりとした。
先刻、脹相は悠仁に顔の赤さを指摘したが、きっと今は──自分の顔も同じようになっているだろうと感じていた。
しかし、己の内を満たす心地好い熱は、それが決して風邪ではないと、脹相には分かっていた。