家と外とで、飲酒時の様子が違うらしい 悠仁の声と呼気は、俺のスウェットの腹部に吸い込まれていた。
「ちょ〜う〜そ〜〜」
繰り返される少し鼻にかかったその呼びかけに、毎度律儀に返事をする。
「なんだ?」
「んー。なんでもない。呼んだだけ」
悠仁は帰宅してからずっとこの調子だった。
俺がリビングのソファでくつろいでいたところへ膝枕を要求し、ひとしきり堪能した後、流れるように腰へ抱き着いていたのだった。
「いーいにおい」
悠仁は緩みきった顔でにへらと笑い、肺いっぱいに酸素を取り込むように深く呼吸をした。いつも以上に高い体温が俺の身体に纏わりつく。
見ての通りと言うべきか、今悠仁の口から吐き出される呼気は酒気を帯びていた。
夕方に連絡があったが、今日は任務終わりの術師同士で突発的な飲み会があったそうだ。悠仁はベロベロというふうに見える。時間も早いし、この様子だときっと二次会の前に帰されたのだろう。
俺はそう推測しながら、悠仁の頭を撫で続ける。
そうしてやれば、もっともっとというようにぐりぐりと頭を押し付け、
「んん〜〜……すき」
顔を上げないまま、衒いのない言葉を捧げてくる。
きらきらときらめく愛の言葉は心を照らし、舞い上がるような気持ちにさせる。が、これも酔っ払いの戯言だと思うと複雑であった。
普段悠仁はそんなことは滅多に言わない。
『滅多に』どころか、そんなことを言われたのは告白されたときぐらいだった。
兄としてはこんな酔い方では他人に迷惑をかけているのではないかと心配になる。
そして恋人としては──他の人間にも同じことをしているのではないかと不安を覚える。
そんな懸念が俺の眉をひそめさせていた。
◇◇◇
数日後 高専内
ツンツンとした黒い髪が特徴的な頭が廊下を行くのを見かけた。俺は思い切ってその男──伏黒恵──に声をかけた。
「伏黒」
「あ、脹相……さん」
「前にも言ったが脹相でいい。これから任務か」
「ええ、はい」
そうやって話し掛けてはみたものの、当たり障りのない話題はすぐに尽き、元々口数の少ない俺達の間には沈黙が横たわった。
それでも「わざわざ呼び止めたからには何か用があるのだろう」と考える伏黒は立ち去るでも不機嫌になるでもなく、こちらの出方をじっとうかがっていた。
その様子に──伏黒恵という人間を信頼し──本題を切り出す。
「悠仁のことなんだが」
「虎杖の?」
悠仁と俺の──親密な──関係を考えれば、俺の口から出るのはきっと悠仁のことであるだろうとは伏黒も予想していたらしく、驚いた様子もない。
しかし、俺が深刻そうな顔をしてしまっていたせいか、伏黒は神妙な面持ちで俺の言葉の続きを待った。
「悠仁が、酒の席で迷惑をかけていないだろうか」
「酒の席でですか?」
「いや、かけているだろう。いつもすまない……」
自分はともかく伏黒はじめ友人たちは下戸の悠仁に絡まれて鬱陶しく感じているに違いないだろうと考え、悠仁に代わっての陳謝をした。
しかしその実、酔った悠仁が俺以外の人間に、過度なスキンシップを取ったり甘い言葉を吐いているのではないかという疑惑を晴らしたい思いがあった。伏黒の反応を待つ。
問われた伏黒は、そんなことは露知らず、『酒の席』『迷惑』それらの言葉から思い当たる節を探して顎に手を当て頭をひねる。少しの間を置いて伏黒は表情を変えないまま答える。
「たしかに──アイツがいると飲み放題にしないと、割り勘だと割に合わない」
それはたしかに『酒の席での迷惑』の話ではあるものの、俺の想定とは少し違う角度から始まった。それでも俺はその話を「あんなにベロベロになるほどの量を飲んでいるのか」という納得に繋げていた。
この後伏黒の口から語られた事実は、さらに予想外のものだった。
「ピッチャー頼んでもバカスカ空けてくんすよアイツ。ザルなんで。ジュース感覚で」
「そうやって飲んで食って馬鹿騒ぎしてた矢先、急に『帰る』って。具合が悪くなったわけでもなく用事を思い出したでもなく、そうすることが当たり前みたいに。金置いて、挨拶して。スタスタその場を後にするんです」
伏黒の証言の端々から、俺の頭にはいくつもの疑問が湧く。
「悠仁が……ザル……?」
ザル。底無しに酒を飲む人間を指す言葉。
しかしそれは少しのアルコールで頬を赤らめ呂律が回らなくなる──自分が知る──悠仁の姿には似つかわしくない言葉だった。
自宅での悠仁の様子を思い起こす。記憶の中の悠仁は──家ではあまり酒を飲まない。缶ビールだか缶チューハイだかをちびちびと飲みながら、何がおかしいのかへらへらにこにことしている。
酒に弱くて、笑い上戸。それが俺から見た飲酒時の悠仁の印象だった。
先ほどの伏黒の言葉を反芻する。
『具合が悪くなったわけでもなく』
『スタスタその場を後にする』
それもやはり俺が知る悠仁の姿と矛盾した。
酔ったときの悠仁は、背骨が抜かれたようにぐにゃぐにゃだ。酒がすっかり回ると今度は子どものように甘えてくる。膝枕をねだり、身長の割にがっしりとした体躯を狭いソファの上で折り曲げるのだ。
俺の記憶の虎杖と、伏黒の証言する虎杖の様子は明らかに食い違っている。
話を聞きながら、頭の上にはたくさんの疑問符が浮いた。もっと詳細を問い詰めたい気持ちにもなる。
しかしながら──悠仁の酒癖の真偽はともかく──外では大酒を飲み割り勘の単価を上げ、それでいて付き合いが悪い酔っ払いであるらしいことには感心できないため、「俺からも言っておく」と身内として注意しておくことを伏黒に告げた。たくさんの疑問符は頭の上を漂ったままだったが──立ち話の礼を言い、その話を切り上げた。
◇◇◇
週末 リビングルーム
「これウマいよなー」
「個包装のやつはちょっと高いから、じゃあ自分で切るわって安い方買っちゃうんだよな。んで、包丁がネチャネチャになって、やっぱ切れてるのが便利だわって結論になんの。いつも」
ソファで隣に座る悠仁は、カマンベールチーズの銀紙の包装を剥がしながら持論を展開する。
「そういやブラックペッパー味食った? 食ってなくね? 食え食え。ウマいから」
チーズが入ったプラ容器を寄せて勧めてくる。
「ありがとう。いただこう」
「あ。剥いてやるよ〜」
「悪いな」
「いいっていいって」
既に酒が入った悠仁はにこにこと上機嫌だ。しかし悠仁は缶入りのレモンサワーをまだ一本も飲みきっていないはずだ。俺も悠仁が買ってきた白桃味の缶チューハイをちびちびとあおる。
このまま楽しく飲みを続けたいのはやまやまだが、やはり伏黒の言っていたことが気になる。
どうも友人の前での悠仁は、自分が知るそれとは随分違う。
これは真偽を確かめねば。
そう考えて話を切り出す。
「ところで──」
「オマエ外では随分と飲んでいるようだが」
その質問に悠仁はチーズの銀紙を剥ぐ手が一瞬止まったものの、
「うん? そんなことないけどな」
そう答えて包装を剥いたチーズを俺の皿に置き、レモンサワーの缶を手に取り、一口飲む。
そののらりくらりとした話しぶりは自覚がないのかしらばっくれようとしているのか判断がつかなかったが、後者だとして続けた。
「飲むのはいいが、多めに払って、飲まない奴に不公平がないようにしろよ」
それは兄として弟の飲みの席での振る舞いを心配する言葉だった。
「そもそも弱いのに無理して飲んでるんじゃないのか?」
次いで家ではいつも少し飲んだだけでぐにゃぐにゃになってしまうのだから、外ではセーブが必要だろうという、純粋に悠仁の体を心配しての言葉。
「たくさん飲むのがカッコいいわけじゃないんだぞ?」
最後の言い方は刺々しく説教じみてしまっている自覚はあっても、自身の体を気遣って欲しいという恋人としての願いが込められていた。
苦言を黙って聞いていた悠仁がレモンサワーの缶を握りながらぽつりと口を開く。
「……たしかに俺、外ではいっぱい飲む。けど、家ではあんま飲んでない」
外と内とで飲酒の量が違うという事実を認めた。
何故悠仁がそのようにするのか。理解が及ばず『俺と飲んでも楽しくないのだろうか』などと後ろ向きな言葉が浮かんだ。
だが、その思考はすぐに別の情報で上書きされた。
「だって、後でエッチなことするかもだし……」
悠仁はばつが悪そうに言った。
エッチなことをするかもしれない。
何と言うことはない。アルコールのせいで勃たないかもしれないという懸念が、悠仁に自宅でのアルコールの摂取量を抑えさせていただけのことだった。
たしかに思い返せば酒を飲んだあとは〝そういうこと〟に及ぶパターンが多かったと、ようやく思い至り、逢瀬の記憶と共に自身の誤解を恥じた顔が熱くなった。
「そういうことか……。すまん。てっきり──」
悠仁が他の人間にもこんなふうに甘えているのではないかと疑っていたこと、伏黒に話を聞いたことなどを洗いざらい白状した。
隣でそれをじっと聞いていた悠仁が頭を抱えるようにして嘆いた。
「脹相は飲み会来んからバレんと思ってたのに……。くそ恥ずい……!」
それは疑いの眼差しを向けられていたことに対してではなく、己の嘘が露呈したことへの嘆きだった。悠仁からの告白は続く。
「でも酔ったふりしてるってわけではなく、ちょっとは酔ってて、楽しいから大げさになっちゃってるだけ……」
「酔ってると、甘えられるし……」
「好きだとかも……言ってるのは、嘘じゃない」
そう呟くと俯き加減に俺の肩にもたれかかってきた。アルコール由来でない顔の紅潮を見られるのが恥ずかしいらしい。
俺の喉からは、呆れと安堵の混じった小さなため息が漏れた。
「酔ったフリなんてしなくても、むしろ酒なんて飲まなくても、シラフでこうすればいいだろ」
その指摘に、悠仁はがばっと顔を上げた。
「いやだって、一応大人だし! それにこんなガタイの男がさゴロゴロ甘えてきたら、キモくない⁉」
早口に言ったが、それはすぐさま否定する。
「キモくない。俺はオマエを甘やかしたい。それに」
「それに?」
「それに、それなら俺が甘えたくなっても我慢しなきゃいけないな」
「え⁉ なんで! 来いよ! 甘えに」
勢いよく両手を広げ歓迎の意を示す悠仁だったが、
「〝ガタイのいい〟、〝大人の男〟が甘えるのは変なんだろ」
そう返すと悠仁は「う!」と言葉を詰まらせ、わななく両手を自身の膝に置き、返答を絞り出した。
「……変じゃない、です……」
「そういうことだ」
◇◇◇
出会ったとき悠仁は十五歳。酒が飲める歳になるまで一緒にいて、こんな関係になったのはつい最近だ。敵、戦友、兄弟、仲間、友だち。そんな様々な関係で過ごした長い時間が、恋人としての悠仁を照れさせてしまっていたのだろう。
これからはもっと積極的に悠仁と触れ合っていこう。
そんな反省とこれからの意志を胸に、脹相は目を閉じ腕を組みうんうんと頷く。そんな様子に、
「出た! お兄ちゃんぶって勝手になんか納得するやつ! 俺の方が駄々こねてるみたいにするやつ!」
虎杖はブーブーと文句を言うが、怒気はないその声に怯むはずもなく。
相変わらずお兄ちゃんと呼ばれると嬉しく感じてしまうが、今脹相は兄として隣にいるのではない。
ぷりぷりと怒る虎杖を横目に『こうなったら今夜はとことん甘やかしてやろう』そう決心した。
脹相は虎杖の肩を抱いて引き寄せると、先ほど彼が剥いたチーズを手にした。
「ほら悠仁。口開けろ。あーん」
「エエッ! あーんしてくれる…… そんなことまで、いいの⁉」
「食べないなら俺が食う」
「食べる! 食べます」
虎杖は目の前に運ばれてきたチーズにかじりついて一口で頬張った。
「うまいか?」
「ウマい」
嬉しいやら恥ずかしいやらといった表情でモチャモチャとチーズを咀嚼している。
「俺にもやってくれないか」
「え! い、いいけど」
言われた通りに虎杖がそろそろとチーズを脹相の口に運ぶ。脹相は二口に分けてゆっくりとチーズを味わい、感心しながら言った。
「手ずからモノを食べさせてもらうというのも……良いものだな。いつもより美味く感じる」
そのはにかんだような微笑に、虎杖は心臓が締め付けられるような心地になり、思わず自身の胸のあたりをギュッと掴んでしまった。もっと触れ合いたい、甘やかしたいと思う虎杖の心中を知ってか知らずか脹相は、
「悠仁」
優しく呼び掛けると、ソファの上で身を屈めた。そしていつも虎杖がそうしていたように──腰に腕を回した。さらにそのまま虎杖のパーカーの腹部に顔を埋め、深い呼吸を幾度となく繰り返した。
「たしかに悠仁の匂いがするな」
「これ、やられる側だと恥ずかし〜〜〜! 大丈夫? 臭かったりしない」
顔を赤らめ騒ぐ虎杖に「オマエはこれをいつも俺にやってたんだぞ」と脹相は思った。顔を上げて率直に答える。
「いい匂いだぞ?」
「よかった〜〜〜。それはそれで恥ず〜〜〜」
キャーとふざけた黄色い声を上げながら顔を覆った。虎杖の反応に気を良くした脹相はさらなる希望も追加する。
「撫でてくれるか?」
そのお願いには「おう!」と弾んだ返答がされた。
「わ〜。触っても逃げなーい」
野良猫に接するときのような声を上げて脹相を撫で回す虎杖。
しばらくそうやって愛でられるのに甘んじていたが、脹相は小さくハッとすると静かに言った。
「たしかに心地好いが、シラフでこれをねだるのは少し恥ずかしいかもな」
「だろ⁉」
虎杖は空いている方の手で力強く指を差しながら同意し、引き続き脹相の背や頭を撫で回した。
「やる側は嬉しいのに奇妙だ」
「な。癒やし効果を感じるわ」
「これからはいつでもやってやるから。遠慮するな」
「オマエもなー」
それには、スンとした顔で脹相が言い返す。
「俺はオマエみたいに変に遠慮したり意地を張ったりしない。俺はいつだって正直だ」
「な⁉ さっき恥ずかしいかもって言ったのに ってかまたそうやって俺をガキみてーに!」
「悠仁にとっては恥ずかしいだろうという意味だ。やれやれ、変わらないな。そういうところは」
脹相は虎杖の腰への抱擁を解いて身を起こすと、虎杖の顔をじっと見つめた。
そしてそのまま顔を──唇を──近づける。
虎杖は騒いでいた口を閉じる。唇が重なり脹相が目を閉じると、それに追従して彼の瞳も閉じられた。
『キスはしたいがそれで黙らされてしまうことには釈然としない』そんな虎杖の心中を察している脹相は、彼を大人しくさせるダメ押しの一言を放つ。
「でも──」
「弟とも──ガキとも──こんなことしない」
その夜──多少酒は入っているとはいえ──素直になった虎杖から好きだの愛してるだのの雨あられを浴び、脹相の心身が大いに乱されることになったのは言うまでもない。