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    りりっと

    @RiRitto200328

    @RiRitto200328
    書きなぐった小説とか、ちょっといかがわしい雰囲気の絵とか
    創作メインです

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    りりっと

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    セストルお兄さん視点で語られる、セストルお兄さんの悲惨な半生。
    読後感はそこまで悪くないと思うけど、多分過去部分はかなり暗めです。
    もっとセストルお兄さんのことが知りたいの……! という方向け。
    ただし長いです(1.6万字)

    ##創作(小説)
    ##あいおて

    番外 セストルという男(裏)「はい、チェックメイト」
    「うっ」


     にこやかに勝利宣言をする男と、苦々しい顔をして決着のついた盤面を眺める男。
     主人不在の屋敷で、二人はなぜかチェスに興じていた。


    「だんだん攻め方が雑になってきてるよ。まだ最初の方が手強かったかな」
    「くそ……、もう一回、もう一回です!」


     負けを認めたくないのか、ザンニは悔しい顔を隠さずに再戦を申し込んでくる。それを涼しい顔でセストルは受け入れると、静かに駒を元の位置に戻していく。


    「そんなに悔しがるなって。僕には及ばないけど、かなり強い方だよ?」
    「だとしても、貴方に負けっ放しなのは気に食わないんです」
    「負けず嫌いだなぁ。勝利に執着してると損するよ。ときには敗北に甘んじ、機を伺うことで、大局的な勝利を得られるのさ」
    「……それは接待の作法ですか」
    「はは、そうとも言えるね」


     セストルのチェスの腕は相当なものだった。なぜ彼がこれほどまでに強いのか、なんとなく理由を察したザンニはいつものように彼を睨みつけた。


    「貴方にとって、こうした遊びですら人心を操る道具なんでしょうね」
    「ひどい言い方だなぁ。僕はちゃんと君とのゲームを楽しんでるよ? その証拠に、君は僕に一度も勝てないじゃないか」


     手は抜いてないぞと遠回しに言うセストルに、ザンニは悔しそうに歯噛みする。確かに今のセストルは純粋にザンニを負かすゲームを楽しんでいるようだ。


    「でもまぁ、ただ勝敗を決めるだけじゃ緊張感に欠けるよね。次からは、勝った方が負けた方の言うことを一つ聞く、そういうルールはどう?」
    「随分とリスキーな賭け事ですね」
    「そっちの方が燃えるだろ?」


     唐突な申し出にザンニは眉根を寄せる。だが彼自身も自分の打ち手が精彩を欠いているのに気付いていたのだろう。特に反発することもなく提案に乗ってくれる。


    「確かに、賭けるものがある方がより慎重にゲームを組み立てられるかもしれません。次こそは絶対に私が勝ちます。私が勝ったのなら……」


     駒の位置を戻し終えたザンニは、一瞬考え込むように間を置いた。


    「貴方の半生を語ってもらいましょうか」
    「あれ、意外だな。てっきり君なら、二度と屋敷に来ないでください、とでも言うかと思ったのに」
    「そんなもの、エルミーニアが嫌がるから駄目に決まっているでしょう」


     ぶっきらぼうに言い放つザンニを一瞥して、セストルは小さく微笑んだ。ザンニがエルミーニアに惚れ込むのは大体彼の予想通りだったが、それでもザンニのような男が恋愛感情に振り回される様は愉快だった。


    「別にいいけど、僕の過去なんて面白くないよ」
    「貴方の過去に面白さなど求めていません。貴方は私の来歴も勝手に調べて知ってるんでしょう。それが気に入らないだけです」
    「まぁ、フェアじゃないかもね。でもザンニくんなら大体想像はつくんじゃない? 似たもの同士なんだし」
    「似たもの同士ではありません。それは貴方がそう思い込みたいだけです」
    「相変わらず君はナイフのように鋭いね」


     そんなことを言いながらも、セストルの反応は嬉しそうだった。滅多に本音を口にしない彼は、こうして自分の本心を言い当てられるのが好きだった。そういう手合いこそ、彼にとって好ましい人物、と言える。


    「それで、貴方は私に何を望むんですか」
    「んー、僕の友達になる、とか」
    「…………」
    「嘘ウソ、冗談だよ」


     本気で嫌そうな顔をするザンニを見て、セストルは笑いながら首を横に振った。それはまるで、ザンニが思った通りの反応をしているのを見て楽しんでいるようだった。


    「僕の要求は、ザンニくんが負けたら開示することにするよ」
    「それでは賭けになりません」
    「いいじゃないか。僕にとんでもない要求をふっかけられないよう、頑張って勝ってみなよ」


     横暴とも言えるセストルの言葉に、ザンニは怪訝そうに眉根を寄せた。セストルがまた何か企んでいるのではないかと、そう怪しんでいるようだ。
     けれど、セストルの企みを暴くよりも、彼を負かす方が早いと思ったのだろう。何も言わずに自分の駒を一つ手に取り、前のマスへと進めた。


    「半生、か」


     小さく呟いて、セストルもまた駒に指をかける。

     この勝負、負ける気は一切しなかった。それでも、万が一負けた時のことを考えて、セストルは自分の辿ってきた道を頭の中で振り返り始める。



     ◆



     大領主の次男坊。そう自分を紹介すれば、誰も彼もが羨んだものだ。セストルの父は頭の切れる男で、貴族の間でもかなり名の知れた人物だったからだ。
     金もある。土地もある。コネもある。他人が想像するセストルという男の半生は、きっと薔薇色に染まっていたことだろう。

     けれど、現実はそうじゃなかった。


    「己が有能さを証明せよ。お前たちに期待するのは、それだけだ」


     セストルの記憶は、そんな言葉から始まる。
     薄暗い父の執務室に、兄弟三人が横一列に並んで立っていた。逆光のせいか顔の見えない父は、感情など欠片も感じさせない低い声で、彼らに言い放った。

     その家に温かな家族などというものは存在しなかった。
     父が求めていたのは家名に相応しい能力を持った跡継ぎだけ。故に、セストルを含む三人の男児は、物心ついたときから兄弟同士で競い合うことを定められていた。

     そんな環境でも、セストルは至ってマイペースな子供だった。大人の都合は自分には関係ないとあっさり切り捨て、勉強も、剣術や馬術も、その日の気分で適当にこなしていた。
     けれど、適当に日々を過ごすだけでも、彼の非凡さは次第に周知されていくようになった。


    「セストル様、ちゃんと本気を出してください。旦那様も貴方には期待しているんですよ」
    「期待ねぇ……」


     だったら少しでも声くらいかけてくれてもいいのにと、セストルは余計にやる気を削がれたように机に項垂れた。
     話すどころか、ほとんど会うことすらできない父に、セストルは一足先に愛想を尽かしていた。彼の家族愛の向く先は、自分と同じくこんなくだらない環境に縛り付けられた兄弟たちだけだったからだ。

     一日のスケジュールも勝手に決められ、お目付役に拘束されるせいでなかなか話す機会がなかったが、それでもセストルは兄と弟を愛していた。兄と弟はきっと誰よりも、自分を理解してくれる相手だと思ったからだ。


    「あ、兄さん!」


     就寝前の僅かな自由時間、そこで偶然セストルは兄の姿を見つけた。今ならば話すことができると思った彼は、嬉々として兄に駆け寄ってその手を掴んだ。


    「兄さん、どこに行くの? ねぇ、僕とお話ししようよ」
    「っ、セストル……」


     あまりセストルと似ていない兄は、彼の姿を見るなり怯えたような顔をする。そんな顔をされる理由が分からずセストルが混乱していると、兄の手を掴んでいた手を払われる。
     払ったのは兄ではない。さっきは気付かなかったが、兄の側には母がいたのだ。セストルの手をまるで羽虫を払うように、彼女は叩いた。


    「あ……母さん」
    「行きますよ、リヒャード」


     セストルには目もくれず、母は兄の手を掴んでどこかへ行ってしまう。
     なんとなく二人のことが気になったセストルは、気付かれない程度の距離を取りながらその後を追いかけた。そして兄の私室に辿り着き、周囲の視線がないことを確認すると、そっと扉に耳を当てて室内の音を聞こうとする。

     すぐに聞こえてきたのは、乾いた音だった。


    「何を怠けているのですか。このままではお父様の跡を継げませんよ」


     セストルは息を呑んだ。それは母が兄を叱りつけている声だった。そしてまた、母が兄を叩く音がする。


    「貴方がこの家を継ぐのです。あんな妾腹の子供に負けるなんて、あってはならないことですよ……!」
    「ごめっ、ごめんなさい、お母様……」


     啜り泣き、何度も謝罪を繰り返す兄の声。それにも構わず、苛烈になっていく母の怒号。

     セストルは何も言わずに兄の部屋から離れた。

     分かっていた。自分と弟は母と血がつながっていない。だから母は、最初からセストルと弟のことなど眼中になかったのだ。
     そしてセストルと弟は、兄のスペアだった。兄が跡を継ぐに足る器でなかったときの、もしもの保険。そのためだけに父は、愛人との間に子を設けた。


    「……兄さん」


     兄のことを考えると胸が苦しくなった。自分と兄では背負う重圧が全く違うことに、今更ながら彼は理解した。
     弟たちよりも優秀であることを求められ、母からの叱責を恐れ、父の失望に怯え、兄はそれでも必死に喰らい付いているのだろう。長兄という立場に、跡継ぎという名誉に。


    「僕が兄さんを、守るためには……」


     その日からセストルは、愚か者になった。
     勉強をサボり、剣術指南も勝手に休み、天気の良い日は庭で昼寝をして、追いかけてくる使用人たちを適当に巻いて遊んだ。無理やり受けさせられたテストもことごとく不正解を書き続けて、教師の叱責も天井をぼうっと眺めてやり過ごした。

     責務から逃亡し続けるセストルを、次第に周囲も見放していった。だがそれも全て、セストルの計画通りだった。


    「セストル様はもう駄目だ。元から不真面目だったが、完全に腑抜けちまった」
    「跡を継ぐのは順当にリヒャード様だろう」


     使用人たちの噂話を盗み聞きして、セストルはしてやったりと笑みを浮かべた。
     これで兄は母にも父にも怯えなくて済む。跡継ぎとして用済みになった今なら、兄も自分を怖がることなどないだろう。
     そう思ったセストルは、兄に会いに行った。もはや二人の仲を阻むものなどない。これでようやく、本当の兄弟になれるのだと思った。


    「兄さん!」


     人懐っこい笑みを浮かべて、セストルは兄に呼びかけた。ようやく甘えられる相手を得た、そんな子供らしい喜びもあったのだろう。
     けれど、彼の甘い予想は、あっさりと裏切られた。


    「一緒に遊ぼうよ、兄さん!」
    「触るな」


     伸ばした手は、今度はしっかりと兄の手によって払われた。
     思ってもいなかった反応に驚いていると、軽蔑するかのような兄の視線が突き刺さる。


    「話しかけてくるな、汚らわしい」
    「兄さん」
    「俺に弟なんていない」


     セストルは言葉を失った。すぐに自分に背を向ける兄を見つめながら、頭の中では恨み言が溢れてくる。
     僕より勉強できないくせに。僕のおかげで跡継ぎになれたくせに。僕に感謝もしないなんて。


    「……駄目だ。これは、仕方ないことなんだ」


     思わず口から出てきそうになる暗い感情を、彼は必死に抑え込んだ。そして兄を擁護する言葉を苛立つ自分に言い聞かせる。


    「兄さんは、父さんと母さんの方に、行ってしまったから……僕なんかに、構っちゃいけないんだ。仕方ない、んだ」


     聡い彼には分かっていた。だから、兄を責めなかった。
     兄を愛していた。だから彼は、兄に関わることをやめた。

     けれどこの出来事がもたらした変化は、兄との縁を断ち切るだけに留まらなかった。兄を救うために、彼は致命的なところまで自分を犠牲にしてしまっていたのだ。


    「ケセド、今日、オムレツが食べたい」


     それなりに仲のいい厨房の使用人に、いつものように彼は夕食のリクエストをした。そこは彼にとって数少ないわがままが言える場所だった。
     けれど馴染みの使用人は、セストルを見ることもなく言う。


    「今晩のメニューはもう決まってます」
    「えぇ〜、今までは聞いてくれたじゃん」
    「セストル様」


     感情のこもっていない死んだ声に、セストルは表情を引き攣らせた。この冷え切った空気だけで、自分の置かれた状況が分かってしまう。


    「もうここには来ないでください」
    「…………」


     愚か者。放蕩者。不真面目で不出来なセストル。
     父はもう、彼に価値を見出さなくなったのだろう。有能さを証明できなかった出来損ないには、もはや家に居場所などない。そう、突きつけられた気分だった。


    「あーあ」


     他人事のように感嘆を零して、セストルは空を見上げた。


    「やっちゃった」



     ……



     彼が父との決別を軽く流せたのには理由があった。
     セストルには弟がいた。恐らく、同じ愛人の母から生まれたであろう、唯一無二の弟が。
     弟は残念ながらセストルのような賢さを持たなかった。その上、兄やセストルよりも更に幼かった彼は、過酷な家の環境に怯え引っ込み思案になってしまっていた。

     そんな弟を、セストルは溺愛していた。


    「トーマ、兄さんと遊ぼう!」


     勉強中の弟の部屋に入り込み、セストルは画材を片手に弟に微笑みかけた。


    「セストル様、勉強の邪魔をしないでください」
    「うるさいなぁ。僕に口答えしないでくれる?」


     教師のタイを掴み、セストルはその耳元で呟く。


    「お前がうちのメイドを騙して手を付けてるの、言いつけてやってもいいんだよ」
    「そ、それは……」
    「分かったらさっさと出ていきなよ。ほら、邪魔邪魔」


     冷たくそう言い放てば、教師は顔を青くしながら部屋を出ていく。


    「あんな奴、トーマの教師に相応しくない。これからは兄さんがトーマの先生だよ」
    「セストル兄さんが先生なの?」
    「そう! 今日の勉強はお絵描きだ。トーマの好きなものを描こう」


     そう言えば弟は花も恥じらうような眩しい笑みを浮かべる。その顔を見るのが、セストルにとって何よりも幸せなことだった。
     弟は勉強や運動よりも絵を描くのが好きだった。大きくなったら画家になりたいと無邪気に語って、好んでセストルの似顔絵を描いてくれた。
     大事な弟だった。そのころのセストルにとって、弟だけが世界の全てだった。


    「ねぇ、セストル兄さん」
    「どうしたの?」
    「僕、あんまり勉強できなくて……このままじゃ、お父様に叱られちゃう、かな」


     不安そうな顔で見つめてくる弟に、セストルは優しく笑いかける。小さなその肩を抱き寄せて、こつんと額を合わせた。


    「大丈夫だよ、トーマには兄さんがいる。勉強のことは兄さんがなんとかするから、トーマは好きなことをやっていればいいんだ」
    「そう、なの?」
    「うん。兄さんがトーマを守るから、何も心配いらないよ」


     汚れを知らない弟。悪意も害意も知らない、天使のような大切な家族。
     セストルは誓った。ありとあらゆるものから弟を守ると。汚いものも、苦しいものも、その一切を弟から切り離そう。ただ健やかに、弟が幸福であるように。


    「愛してるよ、トーマ」


     セストルの弟への庇護は、エスカレートしていった。
     気に入らない教師を追い払い、勉強の代わりに好きに遊ばせ、一日中そばで弟を愛でた。些細なことでも弟の手助けをし、弟の好きなもの以外の全てを排除していった。


    「今日も勉強しなくていいの?」
    「いいのいいの。さ、兄さんと遊ぼう、トーマ」


     弟と一緒にいるときだけは、セストルは幸福だった。だからずっと弟のそばにいたかった。
     自分がそばにいなければ何もできない、可愛らしい弟。
     ずっとずっと、この時間が続けばいい。そのときのセストルは、深く考えることもなく、本気でそう願っていた。
     だから、自分の幸福に浸っていたセストルは、とても大事なことに気付かなかった。


    「お前のような出来損ないが、俺の血を継いでいるなど思いたくもない」


     セストルはすぐに自分が置かれた環境の歪さを理解し、両親という存在が自分にとって何の益にならないと判断して、簡単に切り捨てることができた。
     けれど、幼い弟は違ったのだ。


    「我が家の恥晒しめ!」


     初めて聞く、父の怒声。それを受け止めたのはセストルではなかった。

     父の執務室の前で立っていたセストルは、そのときようやく自分の過ちに気付いた。
     弟は無垢だった。今は無理でも、いつしか父と母が自分を息子と認め、愛してくれると信じていた。
     なぜか。それは、セストルがそうあれと願ったからだ。理想や夢を信じて、酷い現実など見ないよう、セストルが弟の目を塞いでしまったからだ。
     故に父の叱責は、弟にとって耐えられるものではなかった。


    「どうしよう、セストル兄さん」


     父の執務室から出てきた弟は泣いていた。そしてうわ言のように、セストルに問いかける。


    「どうすればいいの、兄さん、僕は……分からない、分からないよ……」
    「トーマ……」


     自分のせいだと思った。
     自分の身勝手な願いのせいで、弟は何もできなくなってしまった。弟は未熟なまま成長できなかった。だから父に罵られ、見放されてしまった。
     全て、自分のせい、自分のせいで。


    「(僕が、純粋なままでいてほしいなんて、思ったから)」


     もはやセストルがどう呼びかけても無意味だった。
     現実は弟にとって、あまりにも残酷だった。セストルによって守られていた弟の心は脆く、いともたやすく壊れてしまった。
     その日から、弟は自室から出てこなくなった。


    「あーあ」


     また空を見上げて、セストルは呟く。


    「何やってんだろ、僕……」


     上を向いても、そのときは勝手に涙が溢れてきた。



     ……



     それから数年が経って、弟という支えを失ったセストルに居場所などなかった。それでも彼は家に居座り続けた。自分のせいで壊れてしまった弟を守るために。

     だが家に居続けるのは、流石のセストルも苦しかった。だから家の外をふらついては、素性も知らない男と酒場で酒を飲み明かしたり、名前を聞いたこともない領地を歩き回ったりした。
     いろんな人と会った。いろんな人と話した。その度に、このまま何もかも忘れ去って逃げ出してしまいたくなった。


    「(駄目だ、僕はずっとトーマの側にいる。トーマがああなったのは、僕のせいなんだから……)」


     後悔と罪悪感で己を縛り、自分が楽になれる道の全てを塞いだ。セストルはそれほどまでに、弟の人生を狂わせたことを重く受け止めていたのだ。
     そんな鬱屈とした日々に転機が訪れたのは、こんな噂話からだった。


    「そうだ兄ちゃん、裏通りにある店の噂、聞いたことあるか?」


     馴染みになりつつある酒場で、噂好きの男は赤ら顔でそう訪ねてくる。


    「裏通りにある店?」
    「そう。アテルなんちゃらとか、そういう名前なんだけどよ、そこでは人間が売ってるらしいぜ」
    「へぇ……人身売買をする店なんてあるんだ」


     世界は広いなぁなんて思っていると、セストルの反応に気をよくした男は熱く語り始める。


    「それがよ、何でもできる美男美女が絶対服従してくれるとかなんとか! かぁーっ、俺も美人の姉ちゃんを奴隷にして好き放題したいぜ」
    「派遣とかじゃなくて買い切り? 相当値が張りそうだね」
    「そりゃ、超が付くほどの金持ち連中しか買えないだろうさ。兄ちゃんなんか、案外買えたりするんじゃねぇか?」
    「人間買って一体何をするんだよ。僕は興味ないなぁ……ん」


     そろそろ結婚を考える歳とはいえ、セストルはあまり異性や恋愛ごとに関心がなかった。それもあって、下卑た男の発想にもどこか共感できなかった。
     けれど、何でもできる、という言葉が彼の関心を引いた。


    「(もしも本当に何でもできるなら、トーマの身辺警護にいいかもしれない)」


     あの家にはセストル以外に弟を庇護してくれる者はいない。腐っても父の息子と認識されるため、今のところ害されることはないだろうが、いつまで生活の面倒を見てくれるかも分からない。


    「(もう少し調べてみるか。もしかしたら友人とか、話せる相手になってくれるかも……)」


     セストルは万能人間を売っている店について情報を集めていった。だが確かな情報を掴むたびに、彼が求めているものとは少し違う代物のような気がして頭を抱えた。それでも、もしかしたら弟の興味を引けるかと思い、不安に蓋をして弟を件の店へと誘った。

     そして。


    「いらっしゃいませ。お初にお目にかかります。私が、ここアテルラナの店主、パンタローネと申します」


     セストルと弟を出迎えたのは、胡散臭い髭面の男だった。
     アテルラナ。白昼堂々と人身売買を行える、恐らく唯一の店。この店が売る商品は調教された人間であり、権力を持った上流階級の客を数多く抱えているという。
     商品である人形は万能であることが謳われる。だがその真たる用途は性玩具だ。


    「(来てしまった……でも、トーマも興味を持ってくれたみたいだし、今日は見るだけでも)」


     慣れない外出に怯える弟の手を握りながら、彼の代わりにセストルはパンタローネに声をかけた。


    「商品を見てみたいんだ。どんなのがあるんだ?」


     僅かに自分と同じ人間を買うことに躊躇いを感じながらも、セストルは平静を装った。


    「ご要望通りの品を紹介いたしますよ。かの有名なグラッド様のご子息方に、相応しい人形を」
    「……そうだな」


     弟の反応を見ながら、セストルはパンタローネに要望を伝えた。
     芸術の教養があること。身辺警護を担えるほどの力を持っていること。細かな身の回りの世話ができること。


    「型はどうされますか?」
    「型?」
    「男型か、女型か、好きな方をお選びください」


     直球の質問に、セストルは頭を抱えた。
     人形は愛玩用だ。弟にそんなものを贈りたくない、とは思う。
     けれどもはやセストル相手でもまともな会話もできない弟が、これから新たな出会いを望めるとも思えない。そう考えれば、都合の良い女の一人や二人、居た方がいいのかもしれない。


    「……今日は品定めをしにきただけだ。君に任せるよ」


     結局判断を先送りにして、セストルはパンタローネに選択を委ねた。


    「分かりました。それでは……ルフィアーナ」


     パンタローネが呼びかけると、店の扉の一つが開かれ、高級そうな給仕服に身を包んだ美しい女性が歩いてくる。人形は皆美男美女揃い、その噂は本当だったらしい。


    「ルフィアーナは護衛としての実力も高く、芸術方面の教養にも秀でております。無論、人形である以上使用人の仕事は一通りこなせます。いかがでしょうか?」
    「へぇ……」


     初めて人形を見たとき、セストルは本当にこれが人間なのかと疑った。

     視線はブレず、じっと床を見つめている。本来常人にあるはずの身体の僅かな揺れも、個性が出る所作の癖なんかも一切その人形にはなかった。
     虚な目。感情が伺えない仮面のような表情。すぐにセストルは、これは今の弟と一緒にしてはいけないものだと思った。


    「おや、お気に召していただいたようですね」


     愉快そうなパンタローネの言葉に、セストルははっとなって弟の方を向いた。
     さっきまでセストルの背後で縮こまっていた弟は、ぼうっと人形を見つめていた。恐怖で濁っていたその目を、キラキラと輝かせて。


    「トーマ……」
    「今日は品定めのご予定でしたか? 実はルフィアーナには別のお客様が目をつけておりまして」


     小声でパンタローネはセストルに話しかけてくる。その声からは、下衆な思惑が微かに滲んでいた。


    「私めは一向に構いませんが……先に売れてしまう可能性があることを、お伝えしておきます」
    「…………」


     駄目だと叫んでしまいたかった。目を覚ませと、こんなものを美しいなどと思わないでくれと、弟に言いたかった。
     けれど、セストルは言葉を呑み込んだ。純粋であれと願ったのは自分だ、なのに今更、どうして弟の純真で歪んだ想いを壊すことができるのか。


    「……、分かった。買っていこう」


     この不安は杞憂のはずだ。そう自分に言い聞かせて、セストルはパンタローネの真偽も分からぬ口車に乗った。
     そして下調べで確認した倍近くの値段が書かれた請求書を見て、腹の中で暴れ回る怒りを、必死に抑え込んだ。


    「僕は……どれだけ間違えるのかな」


     セストルの問いに答えてくれる者など、いなかった。
     弟の部屋の前で、彼は死んだような顔でため息をついた。部屋から聞こえてくる不気味な話し声のせいで、今にも頭がおかしくなってしまいそうだった。


    「人形は、どう足掻いても人間に戻せない……何をどうしたら人間があんな風に、なってしまうんだ」


     不安は的中した。万能の人形を手にした弟は、もはやセストルの存在も忘れたかのように人形に依存した。自分の望みに何でも応えてくれる人形を、弟は愛してしまっていた。人形の中身は空っぽだということにも気付かずに。
     せめて人形の意思や感情を戻せないものかと、セストルはあらゆる方法を探し回った。だが神業と呼ぶに相応しいその調教技術は、とても突き崩せるものではなかった。


    「あーあ、やになっちゃうな、本当に」


     どこまでも彼は、空回りしていた。
     本当は気付いていた。兄弟のためだと嘯いて彼がしたことは、全部自分のためだったことも。兄と弟に愛されたくて、自分を見て欲しくて、自分勝手を押し付けようとしていただけだということも。


    「僕が救いようのない馬鹿だから、こんなに苦しいのかな」


     幸せだったころのことなど、もう思い出せなかった。兄に憧れた時のことも、弟と遊び回っていた時のことも、全て後悔と絶望で塗りつぶされていた。


    「どうすればいいのか、僕にも分からないよ、トーマ……」


     いっそこのまま逃げてしまおうか。そう、何度目かになる逃避行を計画しようとしたとき。
     偶然セストルの耳に使用人たちの談笑が聞こえてきた。何やら、使用人の一人が結婚を間近に控えているらしい。


    「この指輪、高めのやつ買ってくれたのよ」


     幸せそうな声だった。くすくすと笑う声も、楽しそうだった。


    「……」


     羨ましい。妬ましい。
     今まで堪えてきた感情が溢れてくるように、彼は心の内で幸せそうな声の主を呪った。吐き気がするほど酷く苛立って、頭痛がするほどに怒りが湧いてきて、じっとしていられなくなる。

     叩けば埃が出てきた。結婚を控えたその使用人は、過去に屋敷の備品を盗み出しては換金していたようだ。更にその罪を同僚に被せて、本人は処分を免れたという。
     そんな奴が幸せになれて、なぜ自分がこんなにも不幸に見舞われるのか。セストルはあまりの不条理さに、自分を制御することなどできなくなった。

     けれど、暴力などというものに訴えることはなかった。賢い彼は、どうすれば相手を一番苦しめられるのか、簡単に分かってしまったからだ。


    「……そんなに、幸せならさ」


     もう、悲惨な状況に甘んじるのはやめようと思った。これからは自分のために、幸福を求めていいと。
     そのために、彼は。



    「僕にも分けてくれないかな」



     絶望に染まったその顔に、ひどく昂った。助けてくれと縋る声に、勝手に笑みが浮かんだ。
     そうか、こうすればよかったんだ。今までにない多幸感を覚えたセストルは、悪魔のような自分の所業を歪んだ心で受け入れてしまった。

     しばらくして、その使用人が結婚するという話は、なかったことになった。



     ……



     セストルは我慢しなくなった。苛立つ心を抑えずに、幸せそうに笑っている奴らをあらゆる手段を以て貶めた。
     幸せだった。自分の掌の上で無様に踊る様が愉快で、状況を理解して青くなる顔が滑稽で、人が最高点から堕ちていく姿は、度が過ぎるほどにセストルを魅了した。

     苦しいでしょう。悲しいでしょう。悔しいでしょう。憎たらしいでしょう。
     ありとあらゆる悪感情がごちゃ混ぜになり、混沌としたその不幸な姿だけが、彼の心を満たしてくれる。


    「それほどの才能を持ちながら、やることは何の益にもならぬままごとか、セストル」
    「あんたにはもう関係ないだろ? 僕はあんたにとって、不要なものなんだから」
    「……俺と決別するつもりか」
    「初めから僕はあんたと同じ場所になんか立ってなかったよ」


     父の言葉も、もはやどうとも思わなかった。
     人の幸福を憎み、人の不幸を悦び、そんな一時の快楽を求めるたびに、彼は自分の本心が分からなくなっていった。
     父の申し出を断ったのは、兄のためだったのか、それとも幸せな家族を与えてくれなかったことへの意趣返しだったのか、それすらも分からない。
     ただ、鬱屈していく胸の内を意識するほどに、もっと他人が無様に堕ちていく様が見たくなる。兄の姿を見るたび、人形に延々と話しかける弟の声を聞くたびに、その衝動は激しくなっていく。


    「これが最後のチャンスだ。セストル、役目を果たせ」
    「…………」


     縁談の話も、その相手も、全てどうでもよかった。


    「相手が話の分かる貴方で良かったわ。結婚なんて、ぜーんぜん興味ないもの」
    「僕も同じ気持ちだよ。お互い厄介な家に生まれたものだね」
    「本当よ」


     くすくすと目の前の女は笑う。その無垢な笑みに心がざわつくも、必死に抑え込んだ。
     相手は公爵家の一人娘だ。流石のセストルも、彼女相手に欲求を発散するのは不味いと思っていた。


    「でもでも、私はお父様が大好きよ。私が欲しいって言ったもの、なんでもくれるもの」
    「へぇ」
    「セストルも分かるでしょ? ストレス発散には、活きのいい使用人、特にメイドがいいわ。いろんな手を使って追い詰めて、痛めつけて……すぐに辞めてく軟弱者だらけだから、お父様も頑張って候補を探してくれていたの」


     彼女もまた自分と同じ、屈折した人間だということは分かっていた。けれど、違う。


    「それでね、この前アテルラナの人形ってのを紹介してもらってね、私とっても気に入っちゃった!」
    「…………」
    「反応が薄いのが残念だけど……でもお父様、買ってくれたのよ。結構揉めたけどね」
    「優しいお父上だね」
    「ええ!」


     きっと自分の気持ちを理解してくれる同士を得たと、彼女は舞い上がっていたのだろう。目の前にいる男の獰猛さを見抜くこともできず、自分から簡単に弱みを晒してしまった。
     獲物を眼前にチラつかせられたセストルは、もはや我慢できなかった。アーネという女は、彼の地雷をことごとく踏み抜くような存在だったからだ。

     優しい父親。アテルラナ。人形。そして、同族意識。


    「それでね、その人形のことで……相談があるのだけど」
    「そういうことならもちろん。いくらでも話を聞くよ」


     柔らかな笑みで苛立ちを隠して、セストルは彼女に言った。


    「君の力になりたいんだ」


     どこまでも、堕ちていった。

     他人の不幸は蜜の味。いや、彼にとっては麻薬のようだった。
     酩酊にも近い幸福感。そしてそれが終わった後の、飢餓とも焦燥とも言えぬ苦痛。
     彼は本当の意味で満たされてなどいなかった。頭の片隅ではそんなこと分かっていたはずなのに、それでも彼はもがき続けた。

     助けを求められる相手などいなかった。話を聞いてくれる者などいなかった。

     自分の苦痛を、分かってくれるものなど、誰もいなかった。


    「…………あの男」


     そんな中、彼に目をつけたのは偶然だった。たまたま好き勝手に馬車を走らせている最中、セストルにとっては背景の一部と言ってもいいほどの小さな領地でその男を見つけた。
     素朴な領地の、優秀な小領主。最近はその功績が認められて、新たな土地を与えられたという。領民からも慕われて、娘に支えられながら領地を歩く姿は、誰よりも幸せそうに見えた。


    「レグダ……、エルミーニア」


     セストルはすぐに、その二人を次の標的に定めた。
     狂ったように二人のことを調べ上げ、どんな風に破滅させてやるかを考えては、今までにないほど高揚した気分を味わった。頭の中で不幸を味わった二人の顔を思い浮かべるたびに、それだけで満たされた心地になれた。

     レグダ。自分の娘を溺愛していて、穢れを知らぬ無垢な存在として飼い殺している、愚かな男。
     エルミーニア。愚かな男の娘に生まれてしまった、哀れな女。馬鹿で阿呆で無知で、その笑った顔を見るたびに苛立ちが止まらなくなる。


    「きっと、これで……僕は、満たされる」


     そんな確信を抱きながら、セストルは計画を練り続けた。ようやく自分を苛む苦痛が終わるのだと、何の根拠もなく思い込んで。

     けれど、幸か不幸か、セストルの目論見が日の目を浴びることはなかった。
     セストルが行動を起こすよりも前に、元々身体が弱かったレグダが亡くなったのだ。レグダの死から、あんなにも明るく温かな場所だった彼の領地は暗く沈み、活気も失われていった。

     そして、彼の娘であるエルミーニアも。


    「……」


     毎日のように父の墓前で彼女は泣いていた。あんなにも憎たらしかった笑顔を一瞬たりとも見せることもなく、たった一人の肉親の死に苦しみ、嘆き続けていた。


    「あーあ、せっかくいろいろ考えたのに、無駄になっちゃったよ」


     そんな彼女の姿を、セストルもまたほぼ毎日のように眺めていた。
     理由はよく分からなかった。だから勝手に、エルミーニアの無様な泣きっ面を拝んで、悦に浸るためだなんてこじつけていた。

     けれど、立ち直る様子もなく日々を泣いて過ごすエルミーニアの姿を、次第に彼は直視できなくなっていった。


     ――どうすればいいの、兄さん、僕は……分からない、分からないよ……


     そして、気付いたのだ。自分がやろうとしていたことの罪深さに。


    「…………、トーマ」


     エルミーニアの姿に、泣いていた弟の姿が重なる。


    「トーマ、僕は……君を、幸せにしてあげたかった、だけなんだ。だから……泣かないでよ……」


     レグダに目をつけたのは、愚かだった過去の自分と似ていると思ったからだ。彼ならば、この世で一番大切な娘が壊れる様を見たとき、自分と同じ苦痛を感じるはずだと、そして同じ苦痛を分かち合ってくれると、思ったからだ。

     けれど、そんなことをして何になる? 苦痛を分かち合ったところで、一体何が変わる?


    「僕は結局、逃げていたんだ……君に何もしてあげられない自分から、何かをしようとしてまた失敗する恐怖から」


     ようやく自分の気持ちを受け止めて、セストルは自分が進むべき先を見据えた。
     話したことすらない、一方的に知っている男の墓前に花を供えて、そして小さく呟く。


    「だから、エルミーニア。せめて君は、笑ってくれよ」



     ◆



    「はい、また僕の勝ちね」
    「くっ……」
    「惜しかったね。やっぱり賭けるものがあると熱が入るのかな」


     ゲームの終了と共に、セストルは記憶を辿るのをやめた。正確には、それ以降の記憶を辿っても、特に意味はないと思ったからだ。

     レグダの死から、彼は変わった。エルミーニアに近づいて、贖罪のように彼女を導こうとした。けれど依存させないように、何より自分自身が深く彼女に入れ込みすぎないように、決して親密な関係にならないよう注意を払った。
     距離をとりたかったのはきっと、エルミーニアの近くにいるのが苦しかったせいもあるのだろう。彼女の姿を見るたびに弟を思い出して、そして自分が彼女とその父親にしようとしていたことの罪悪感に襲われる。

     でも、いつしかエルミーニアに弟を重ねることはなくなった。それは、どうしてだったか。


    「はぁ……負けは負けです。貴方の要求を飲みましょう。それで、何をして欲しいんですか」
    「ん? ああ、そうだったね」


     そこでセストルは過去を思い返すのに夢中で、ザンニに何を要求するのか一切考えていなかったことに気付いた。
     宙を見つめて固まるセストルに、ザンニは怪訝そうに眉根を寄せる。そうしていると屋敷の玄関が開いて、領民たちの家を回っていたエルミーニアが帰ってくる。


    「ただいま戻りました。あれ、二人仲良くチェスですか? なんだか絵になりますね」
    「おかえりなさい、エル」


     反射的にセストルはぼうっとエルミーニアを見つめる。あの頃とは打って変わって、間抜けな笑顔をよく見せるようになった彼女は、あどけない表情でセストルの方を見て首を傾げた。
     二人で見つめ合っていると、何かを察したザンニが慌てた様子でエルミーニアを抱き寄せる。


    「言っておきますが、エルミーニアだけは絶対に渡しませんからね」
    「え?」
    「別にそんなこと考えてないよ。いつ見ても馬鹿っぽい顔だなぁって思っただけで」
    「だ、誰が馬鹿っぽいですか……!」


     いつもの悪態にエルミーニアが怒る素振りを見せれば、セストルは安心したように微笑んだ。


    「そう、勝者の要求ね……今晩の晩御飯はオムレツ! 一番美味しいのを頼むよ」
    「オムレツ……? な、なぜ」


     思っていたものとは全く違う要求にザンニは動揺している。自分の適当な言動に振り回される彼の姿を愉しげに見つめて、あることを思いついたセストルはまた駒を戻し始める。


    「次の一局が本命だよ、ザンニくん。晩御飯のメニューが決まったなら、次は酒だ」
    「酒?」
    「そう。エルミーニア、まだあのお酒は残ってるよね?」


     唐突に話題を振られたエルミーニアは、ザンニの膝に座ったまま首を傾げた。だがセストルが何を言いたいのか分かったか、すぐに頷く。


    「前にセストルが持ってきたお酒なら……残ってますけど」


     中に入っているもののせいでザンニに飲ませるわけにもいかず、かといってエルミーニアが飲む気にもならず、あの人形用の特別な酒はまだ残ったままだった。
     それを聞いたセストルは満面の笑みを浮かべる。


    「じゃあ、次僕が勝ったら、今晩ザンニくんには残りを全部飲んでもらおうかな」
    「えぇ!?」
    「私を酔わせる気ですか」


     ちなみにまだザンニはあの酒が特殊なものであると知らなかった。だがあの酒を飲んだザンニがどうなるのか、身を以て知っていたエルミーニアは大慌てする。


    「だめ、ダメですよセストル!」
    「だったら勝つしかないよねぇ」
    「ザンニさん、頑張ってください! この悪魔を打ち倒すんです!」
    「分かりました」


     エルミーニアに応援されたザンニは強く頷く。膝に座る彼女を片腕で抱き寄せて、そのまま対局する姿勢をとった。


    「ならば私が勝ったら、逆に残りはセストル様が全て飲むということで」
    「いいよぉ、受けて立とうじゃないか」


     心底楽しげにセストルは笑う。こんなにもチェスに熱くなったのは、初めてだった。
     その一局は、一進一退の白熱したものになった。



     ……



    「眠っちゃってますね」
    「そうですね。今のうちに顔に落書きでもしておきますか」
    「だ、ダメですよっ」


     ソファで横になって眠るセストルを、二人は物珍しそうに眺める。
     勝負の結果は、ザンニの勝利だった。遂にセストルを打ち倒した彼は見事薬入りの酒を回避し、セストルに残りを飲ませることに成功したのだ。


    「セストル、実はお酒に弱かったんですね」
    「あの酒をあの量飲んで酔わない人間はそういませんよ」
    「そうですか? 一杯飲んだ頃あたりからベロベロでしたよ。前もあんまりお酒飲んでませんでしたし」


     小声でそう言いながら、エルミーニアは彼に毛布をそっとかけてやる。


    「それにしても……なぜオムレツだったんでしょう」
    「ああ、オムレツはセストルの好物? だと思いますよ。私も、初めてセストルを夕食に誘ったとき、何が食べたいか聞いたらオムレツって言われました」
    「……単にオムレツが食べたい気分だったんでしょうか」


     未だにオムレツを要求されたことに納得がいかないらしく、ザンニは不思議そうに目を伏せた。何せセストルが賭けていたのは自分の過去を暴露する、というものだ。それがオムレツと吊り合うとは到底思えない。


    「何か思い入れがあるんだと思います。だって、私がオムレツ作ったときなんか、こんな庶民的なオムレツ食べたことないー、とか言われて」


     そのときのことを思い出したエルミーニアは、少しだけ悲しそうな顔をする。


    「でも、そのときのセストルは、なんだか今にも泣き出してしまいそうな顔をしていて……頑張って誤魔化そうとしてたから、私も気付かないフリをしてましたけど」
    「そんなことが」
    「はい。だから今日もちょっと心配だったんですけど、全然そんなことなかったですね。ザンニさんの絶品オムレツをとても美味しそうに頬張ってました」


     安心したと話すエルミーニアを見つめて、ザンニはぐっすりと眠るセストルの方を見遣った。


    「……きっと、泣きたくなるほど美味しかったんですよ」
    「そうですか?」
    「ええ。私も、最初にエルミーニアの料理を食べたとき、妙に来るものがありました」
    「そ、そうだったんですか……?」


     小さく笑って、ザンニはエルミーニアを抱き寄せる。


    「さぁ、このまま眠らせて差し上げましょう。邪魔をしてはいけません」
    「そうですね……いい夢を見てそうな寝顔です」


     少しだけ緩んだその寝顔を眺めて、二人は静かにリビングの明かりを消した。


    「おやすみなさい、セストル」


     確かなセストルの変化に、エルミーニアは嬉しそうに微笑みながら、そう言った。

     ちなみにセストルは、翌日の朝ソファから転がり落ちた痛みで起きたそうな。




    セストルという男 了
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