共に夜明けを その崖の底は見えなかった。
正確に言うならば私の目視で把握できる限りでは何も見えず、ただ黒曜の暗闇が広がっている。辺りの空は僅かに白け始めていた。門番が交代する僅かな隙からコトブキ村から逃げ出し、三日月が頂点に達していた時刻からひたすらに走り続け、身も限界に達していた時に、この場所を見つけたのだった。
【時空の狭間】。
かつて銀河団調査隊長として、コトブキ村の住民としてそう呼んでいた場所。普段なら陸地にできるはずのその空間が、崖に向かってポッカリと空いていた。
「……なんの偶然だろうな」
空いた時空の狭間は、禍々しい見た目と明け方という時間も相まってか非常に不気味な空間と化していた。崖から落ちたら最後、未来も過去も消し去ってしまいそうな程の暗闇だけが、私を呑み込んでしまうのだろう。
「丁度良い」
そう一人呟くと、ゆっくりと穴……崖の方に向かって歩き出す。一歩づつ進むたびに小さい足音が響く。そろそろポケモン達も起き出す頃だ。襲われる可能性が無いなんて言えない。むしろ今まで浴衣一枚のこの格好で襲われなかったのが奇跡なのだから。
思えば酷い人生だった。
いつも誰かのため、何かの為に身を削っていた。頼られて嬉しかったのは最初のうちだけで、憔悴するほうが多かった気がする。誰かが悪いわけではない。きっと騙すような悪い人間にも……出会わなかった。誰かに、相手に過度なまでに入れ込んでしまう私が、相手には制御を求め自分は出来ない私が、誰よりも醜く、惨めだった。そして今、自分の責任からすらも逃げ出そうとしている。
「どうか深奥の神、居るのであればお許し下さい……銀河団の夢半ばで責任から逃げてしまう私と、愛しいあの」
「゛愛しいあの人゛って、誰です」
私はゆっくりと後ろを向いた。自身に心の準備を持たせる為に。あくまでも銀河団調査隊長として振る舞えるように。
「ウォ、ウォロ!どうしてここに……?」
「どうしても何も、打ち首にされた訳では無いですし、生きていてもおかしくはないでしょう」
「お前がコトブキ村やコンゴウ、シンジュから追放されて三ヶ月は経っているんだぞ、そ、そんな、生きてるだなんて」
「シマボシさんはジブンをみくびってます、こう見えて丈夫ですし簡単になんて死にませんよ」
ウォロは嬉々として語った。ジブンは目的の為に死ねない、何百年でも生きてやるのだと。何百年も生きれる訳がないしそれが銀河団によって阻止されてしまったことだと言うのに性懲りもなく。
「本当に反省していないようだな……」
あまりの元気の良さに呆れてしまうと同時に、生きていることに安堵してしまう私がいた。
「それにしては嬉しそうですね?」
「馬鹿にしているだろ」
「いいえ、事実を言ったまでです」
その声色はひどく落ち着いていた。今までの明るい声色と同一人物は思えないほど喉の奥から滲み出るかのような、低い声。
「シマボシさん、死のうとしてましたよね」
「そんなことはない」
「薄着で一人、周りに調査隊や警備隊の姿は無くこの時間帯……夜中に出てきてここまで走ってきたという所でしょうか」
「そんなことはないと言っているだろう!」
「じゃあ何をするつもりだったんです?」
「そ、それは……」
「答えられないんじゃないですか、死にたいならさっさとそう言ってくれればいいのに」
「言えるわけ無いだろう死ぬだなんて……! 死にたい……だなんて……」
「……一回泣いた方がいい」
そう言うとウォロは見覚えのないコートを脱ぐと、これまた見覚えのない白い服だけの姿になったと思えば、抵抗する隙すら与えずに、私の身体にかけてその場に座らせた。
暫くは随分と見慣れない服装だなと思っていたが、そうかこの男、罪人として追われる身になっていたのを忘れていた。服装も以前のままでは生きていけない。どうりで見覚えのない服装なのだ。
「こんなことして、何の為になる」
事実はねじ曲がってくれない。真っ直ぐにたったひとつを示す。泣いたところで変わらないのだから、なく必要なんてない。
「貴方は最後まで神の存在を、否定してはくれなかった、それどころか何度も何度も話を聞いてくれましたね?」
「あ、あれは……」
ウォロはその場で立膝のような姿勢をとると、強く私を抱きしめた。そして大きく温かい手を優しく私の頬にやると、にっこりと笑った。目を優しく細めるような、いつも満面の笑顔ばかり見せるウォロがあまりしない笑顔だった。
「なので一度恩を返させてください、……勿論これはただのジブンのワガママです」
「ありがとうございます」
何も言わず溢れてくる涙にそっと身を任せている間も頬に手を当てられ、高揚する頬が掌の熱のせいで更に高揚する。暫くして波が収まると、私はゆっくりと顔を上げた。
「……顔真っ赤ですよ」
「違う!これはウォロ、お前が掌を押し付けるからだ」
「ならいいんですが」
上機嫌な声でウォロは私の頬から手を離した。まだほんのりと当たっていた場所が熱を持っている。そっと触れると、先程までの温かい時間が蘇ってくるようだった。それがなんだか嬉しくて、思わず笑みが溢れる。
「良かった、もう死のうとなんてしないでくださいね」
子供に諭すかのような声でウォロは語る。親指と人指を突き立て楽しそうに振る様子は、自慢をする無邪気な子供のようにも見える。
「あぁ、そうだな」
少なくとも当分死のうとは思わないだろう。何度も黒曜の原野まで出てこれるとは思えない、それに……こんな素敵な笑顔と元気な様子を見ることが出来たから。
「……ふふっ」
「何がおかしいんです」
「なんでもないわ」
「そうやってまた隠し事ですか、つまらない人生ですねぇ」
「つ、つまらない人生とは何事だ」
「だってそうじゃないですか、ジブンの話を聴くだけで満足してますし、銀河団に歯向くことが出来ないのにこんなところまで来る程苦しんで」
「ウォロ、だからその話は……」
話を聴くだけで満足していたのではなく、何に対しても嬉々として話すウォロの様子を見るのを密かに楽しみにしていただけのだが、そのことを話す隙が全く見当たらない。それにしてもよくもまぁこんなに話せること。
「シマボシさんからしたジブンのしたことは馬鹿みたいなことなのかも知れませんが、反省も後悔もしてません、何故だと思います?」
「反省も後悔もして欲しいのだが」
ウォロは手厳しいですねぇ、なんて茶化して誤魔化す。
「何故か、それは常に正直に生きてきたからです、ジブンのやりたいことが世間一般には理解されなかった、それだけの事なのでジブンはあの件にはなんとも思ってません、シマボシさんももう少し自分に素直になるべきなんじゃないですか」
「そんなの分かっている」
もう少し自分に正直になるべきなのは私も分かってはいるつもりだ、でもそれを認めてしまうと、いよいよ歯止めが効かなくなりそうで、私の自己犠牲が間違った方向へ行ってしまいそうで怖かった。
「分かっているならどうしてそうしないんです」
「お前に分かる訳無いだろう、私の気持ちなんて」
「……それもそうですね、人なんてわかり合えるわけない」
違う、分かります、なんて突っかかってくると思っていたが、ウォロは呆気なく認めた。まるで分かるわけ無いと分かっているかのようだった。
「分かるとか分からないとかはどうでもいいんです、ただもう少し素直になっても良いのかなと思いまして……あ、見てくださいよシマボシさん!」
「なんだ?」
ウォロが指さした方向を見ると太陽が登り始めていた。眩しさに思わず目を細めてしまうが、美しいことには変わりなかった。ヒスイ地方、まだまだ危ない場所だらけのこの場所だが、怖いだけの場所では無いのだと実感する。
「……美しいですね」
「あぁ、綺麗だな」
ふとウォロを見ると、ウォロも私を見つめていた。
「ウォロ……?」
「素朴な笑顔は、誰だって美しいんですよ?」
「変なことを言ってからかうんじゃない!」
ウォロは冗談なんだか本気なんだか分かりもしない笑みで笑った。その笑顔を隣で見るのが好きだったんだと、今ならハッキリと言えるだろうか。
「あの、ウォロ」
「なんですか」
「私は、お前の話が好きだった訳じゃない」
「そんなの知ってましたよ」
「……え?」
「だって同じ話を何度しても初めてのように話すじゃないですか、だから話をあまり聞いていなかったのは知ってました」
「でもさっき何度も話を聞いてくれた、って」
「話を全部聴いて理解するだけが聞くとは言いません、ただ頷いてくれるだけでも話を聞いてるんです」
それに、楽しそうにしてくださるだけでジブンは満足でしたよ
最初から全て気付かれていたのだ。私が話をまともに聞いていない事も、その様子をじっと見つめていた事も。あまりの惨めさに顔から火が出そうだった。
「……面白がっていたのか」
「いいえ、お互い様ですから」
「お互い様?」
「シマボシさんがジブンの事を見ていたのと同じ様にジブンもシマボシさんのことを見ていましたから、人のこと言えません」
「良くもそんな恥ずかしいことが言えるな」
話込んでいるのは建前でお互い見つめ合っていました、なんて。
「愛の告白みたいだな」
「みたい、ではなく愛の告白なんですけどね」
「人のことをからかうのも大概にしろ」
「だから事実なんですって……さて、そろそろお別れしないといけませんね」
空がだいぶ明るくなってきた。人も起き始めているだろう。ウォロの言う通りだ、早く帰らなば。もう銀河団は私を探し始めているだろう。
「……そうだな」
「別れが惜しいですか」
「そういう訳ではないが……なんだか寂しいな」
「そうですか、珍しいこと言うこともあるんですね」
ウォロは立ち上がってその辺に置かれていたコートを取り、手慣れた手つきで私の手を取った。
「……なにをする」
ウォロは私の言葉に返事もせずうやうやしくお辞儀すると、そのまんま手の甲に口付けた。僅か数秒、流れるような仕草に私はただ呆然としていることしか出来なかった。
「……それでは。またお会いできるといいですね」
そういうとウォロは足早にその場を去ってしまった。私はその大きな背中が小さく、やがて見えなくなるまで、私はただじっとウォロを見つめ続けていた。
「それにしても、結局何も言えなかったな」
相変わらず臆病なのは変わらない。でも、もしまた会えたら、その時はあの口づけの返事をしてもよいだろうか。