出るかもしれない左寂マフィアパロ 汽笛が遠吠えのように鳴る。
暮れ始めたばかりの藍と赤が混じる空に紫煙を溶かすように吐けば、虚しく船の鳴き声が轟いた。
碧棺左馬刻は携帯灰皿に短くなった煙草を放り込み、波止場からより薄暗い方へと足を向ける。待たせていた車の運転席を奪い、エンジンを吹かす。音楽などかけない。喧噪と灯り始めた街明かりだけが左馬刻の意識を彩る。
目的地は、シンジュク。
高速道路をひた走り、法定速度をややオーバー気味に駆け抜ける。
欲しいものがある。
今手がけている麻薬密売組織の元締めを突き止めることが最優先だが、それ以上に、喉から手が出るほど欲しいものがある。
夜の街・シンジュク――その闇に君臨する麗人。
左馬刻が現在向かっている場所にいる彼――神宮寺寂雷を想う。
絹のような菫色の髪は長く、肌はビスクのように白く滑らかだ。憂慮に濡れることの多い青い瞳も、形の良い薄い唇も、そこから時折漏れる悩ましげな溜息さえも。全てが美しく、そして左馬刻の神経をぞわりと粟立たせる
「先生……」
呼び慣れた呼称を口にすれば、それだけで胸が熱くなる。
いつものように、情報を仕入れに行くだけだというのに。直接会えるというだけで此程までに高ぶるとは。思春期の小僧のようだ、と自嘲するが、鼓動は治まることを知らない。
寂雷が来客用にと契約している月極駐車場に車を停め、徒歩で目的地を目指す。
華やかなりしシンジュク。不夜城を着飾った蝶たちが舞い、誘われたスーツの企業戦士達が憩いの場を探す街。少し路地に入れば、ネオンの明かりすら届かぬ闇がそっと呼吸をしている。左馬刻は一歩、闇に踏み入れた。
向かう先は、『麻天狼』という漢方薬局だ。
神宮寺寂雷は、その店を営む漢方医である。そう、表向きは。
左馬刻が身を置く裏社会において、彼の名は漢方医としてではなく、調達屋として轟いている。
人材、情報、武器、薬品エトセトラ。彼に集められないものはない。
そしてそれをどう差配するか。それは寂雷の手によって決められる。
路地裏に乱立する雑居ビルの一つ。一階のテナントは空室で、向かって右側の階段は狭くて急だ。
左馬刻は無意識に周りを見渡した。誰もいない。忌々しいバイクも停まっていない。
ふ、と溜息をついた後、階段を上り始めた。カツカツと固い音を立て、二階で足を止める。どこから切ってきたのか分からないが、酷く高価に見える木材に、流麗な筆跡で屋号――麻天狼と書かれていた。
コンクリートの雑居ビルに似つかわしくない、中華風の扉を開ければ、金髪の青年と赤髪の青年が左馬刻を出迎えた。
「いらっしゃい、さまちん」
「おい、一二三! 失礼だろうが。いいいいいらっしゃいませ、碧棺さん」
赤髪の青年――観音坂独歩が、無礼な口調の金髪――伊弉冉一二三を窘めた。独歩は寂雷の求める品々をかき集める手伝いをし、一二三は宝石級の美貌を駆使して情報を集めている。二人とも、麻天狼に欠かせない青年だ。
「おう、邪魔するぜ」
漢方独特の匂いに顔を顰めながらも、左馬刻は店の仲に足を踏み入れた。
何に使うのかよく分からない植物の干物、花の苗、乳鉢に蒸留水。いつ来てもこの部屋は寂雷の思考のように取り留めがなく、複雑だ。
だが、肝心の主の姿が見えない。
「……先生は?」
「あのぉ……それがですね……先生は少々来客中でして……」
「ぁあ?」
「ひぃぃぃっ! す、すみませんすみませんすみません! 先生のスケジュール管理をしている俺のミスです!」
「違うって、独歩ちん。アイツが長いこと居座りすぎなんだよ」
「アイツ? 誰だ?」
「ナゴヤの弁護士」
一二三の言葉にカッと熱くなった。
「なっ……んで、アイツが……!」
「報酬払いに来てんの」
クスクスと小馬鹿にするように一二三が笑う。
寂雷は調達した品々に対して、それに見合った金額とは別の報酬を求めることがある。誰に対しても、というわけではない。選定基準は全く分からないが、左馬刻が知るだけでも二人は確実に別の支払いをしている。
オオサカを拠点としている黒豹のような詐欺師と、一二三の言う、ナゴヤの弁護士だ。
左馬刻はその二人が大嫌いだ。
なるべく鉢合わせないようにしてはいるで、今日のようなニアミスは珍しい。完璧なタイムスケジュールを組む独歩の采配が間違っているとは考えづらい。やはり、一二三の言うとおり、支払いに時間がかかっているということなのだろう。
ぶつけようのない怒りを抱えたまま、左馬刻は寂雷の居室に向かうべく、踵を返した。
「ちょ、碧棺さん!?」
「次の客が来てんだって、ナゴヤのクソリーゼントに言ってくるだけだ」
引き留めようとする独歩の手を振り払い、店の奥にある螺旋階段を一段飛ばしで上る。三階が一二三と独歩の居住スペース。四階が寂雷の私室に繋がっている。
薄暗い廊下は青白い水槽の照明だけが光源だ。決して日当たりは良くないであろうそこに、植物の鉢植えと、水生生物が生息する水槽が互い違いに並ぶ。気味の悪い色合いのヒトデ、触手を揺らすクラゲ、棘のある魚や蛸のような軟体生物。植物に至っては、名前すら見当も付かない。
薄気味悪い水族館と植物園を通り抜け、シノワズリの扉のノブに手をかけた。
「先生、入るぞ」
許可を得る前に扉を開ければ、驚いたような顔の寂雷と、あからさまに顔を顰める男が目に入った。
「……ノック位しろ。ウチのクソガキ達でもできることだぞ」
彼こそが、ナゴヤの弁護士こと、天国獄だ。特徴的なリーゼントは彼のこだわりで、いつもどうやって固めているんだと思うほどにぴっちり決まっているが、今は珍しく僅かに崩れていた。それもそうだろう。左馬刻が会いたい彼の人――寂雷が、ベッドの中にいるのだから。
「おや、左馬刻君。もう約束の時間だったかい?」
とぼけた顔で笑う寂雷の声は、ざらりと艶めいた掠れを伴っている。素肌にかけられた白の羽織はしどけなく崩れており、首筋には散り始めた桜のように鬱血痕が散らばっていた。明らかに情交の後だ。よく見れば、ワイシャツのカフスをはめている獄の太い首にも、噛み痕がある。左馬刻の視線が己の首筋に注がれていることに気づいた獄が、ハン、と鼻で嗤った。あからさまな挑発に、カッと頭に血が上った。
「てめぇ……っ!」
掴みかかろうとする左馬刻の手を踊るように躱し、獄は寂雷のいるベッドに腰掛けた。
「邪魔が入った。また来るぜ」
「ああ、また今度」
左馬刻が見ているにもかかわらず、二人は別れ際の恋人のように口づけを交わし、目と目で語り合い、離れる。去り際に獄が左馬刻に中指を立てたのは、寂雷には見えていない。
悔しい。悔しい。悔しい!
年上の男に小馬鹿にされたことも、寂雷が左馬刻のことを歯牙にもかけないことも。何もかもが悔しい。
それでも左馬刻は、寂雷に縋るしかない。彼の持つ情報網が、左馬刻には必要だった。
漢方医であり、調達屋でもある神宮寺寂雷の求める別報酬。
それは、彼が興味深いと感じた男達とのセックスだ。
そして未だ左馬刻は、その対象外であった。
「ねぇ、先生? な~んで先生はさまちんとは寝ないの?」
洗い立てのシーツに替えたキングサイズベッドの上で、寂雷の右頬に唇を寄せながら一二三が尋ねた。愛らしい薔薇色の唇にそっとキスをすれば、クスクスと幼子のように笑うのが可愛くて仕方がない。
「そうですよ。先生は天国さんとも、天谷奴さんとも――俺たちともするのに……どうして碧棺さんとだけはしないんですか?」
そう尋ねる独歩は、頻りに寂雷の左胸をまさぐっている。
「こらこら。今日は君たちとはしないよ。まだお尻に獄のが入っているみたいな感触がするからね。今日一日はこれを味わっていたいんだ」
「えー?! ずるい! 俺っちも先生としたい!!」
「そうですよ! あの二人の依頼をこなした僕たちへのご褒美はまだおあずけですか?!」
「また今度ね。ちゃんと埋め合わせはするから」
キャンキャンと吠え立てる二人を宥めるように、色のないキスをすれば、きゅうん、と鳴き声すら聞こえそうな程しょんぼりと引き下がった。そんな子犬のような顔をされると、つい甘やかしたくなってしまう。だが、体力的にも今日は二人の相手をするのは無理だった。本当ならすぐにでも眠ってしまいたいのだが、甘えたがりの子犬のような二人をそのままにしておくのは忍びない。
「じゃあ今日は二人でシてるところを私に見せてくれるかい? 可愛い君たちが見たいな」
「……だってさ、独歩。どうする?」
「……先生のお望みとあらば、全力で叶えるのが俺だ」
ごそごそと位置を移動し、二人は可愛らしくキスから始める。
「先生、ちゃんと見ていてくださいね」
「途中で入ってきても、俺っちたちは全然OKだからね!」
「はいはい」
二匹の子犬たちのじゃれ合いを見守りながら、寂雷は先程の来客を思い出す。
深雪のように白く輝く髪、燃えさかる炎よりも赤い瞳。その炎には、寂雷に対する思慕と獄に対する嫉妬が含まれており、より鮮烈に輝いていた。
――ああ、興味深い。
ぺろり、と無意志に口の端を舐め、寂雷は艶然と微笑む。
自分よりも十も若い青年を、手玉にとって、彼の望む別報酬をいただくのは簡単だ。だが、それは寂雷の望む結果ではない。
――もっと、もっと激しく私を求めて。左馬刻君。
目の前で繰り広げられる、独歩と一二三の痴態を糧に、寂雷は己の願望を育てる。
寂雷は望む。
いつか左馬刻が、常に抑えている感情を己にぶつける日を。
それが恋情なのか劣情なのか。どちらであっても寂雷は受け入れるだろう。
神宮寺寂雷は恋をしている。
だからこそ、報酬などという形で抱かれたくない。
「せんせっ、せんせぇっ! 見てる? ねぇ、見てる?」
独歩に激しく揺さぶられながら、一二三が寂雷を求めて手を伸ばす。
「見ているよ、一二三君。上手に独歩君のを咥えて、えらいね」
「先生っ……俺、俺……っ、先生ともキスしたいです……!」
一二三を抱きながら独歩が舌を出して寂雷の唇を強請る。
「独歩君のおかげで、一二三君がとっても気持ちよさそうだよ。ご褒美のキスをしてあげるから、こっちに顔を向けて」
睦み合う二人に、それぞれ深いキスをする。声を上げて達する二人を愛でながら、寂雷は左馬刻を想う。
いつか、あの瞳に見下ろされながら抱かれてみたい。
恋人などという、甘い関係を築けたら、それはどれほど満ち足りた人生だろうか。裏家業の身には望むべくもない願いだ。
寂雷は恋に憧れている。
世間一般の恋人のように、手を繋いでみたい。街を歩いて、微笑み合い、その上で抱き合いたい。
無論、獄や独歩、一二三のことも愛しいとは想っている。だが、左馬刻に抱くこの感情だけは、どうやら位相が違うようだ。
――どうしたら、左馬刻君は私に告白してくれるのかな?
獄には悪いが、今日は彼を利用して嫉妬心を駆り立ててみた。だが、左馬刻は寂雷に嫌味の一つも言わず、淡々と仕事の話をして帰ってしまった。
――言わせたい。あの口から。
嗜虐的とも取れる笑みを零しつつ、寂雷は次の算段を練り始めた。