ぺたりぺたりと素足で屋敷の日の当たる廊下を歩いている時、男の背中を見かけて跳ねそうになる心臓を抑えながら声を掛ける。
「おーい」
そう呼びかけて振り向いた時の、男の目が微かに細まるのを見るのが好きだ。
何時もは無表情な男の表情が少しだけ和らいで見えて。
長い黒髪が靡く様に揺れる。
手入れをしているのだろう、触った事は無いが絹の様に艶やかなのは見ただけで分かる。
男から頭を撫でられる事があるというのに、逆は出来ないのは不公平だと思うが触れたら触れたで、心臓が持たない気がする。
立ち止まってくれた男に近付いて、
「……」
かたり、と鳴った物音で眠りから浮上する。
夢うつつの間の様な意識の中で目を彷徨わせてみれば男が一人、ベッドしかない部屋の中にカツカツと靴音を鳴らしながら入ってきていた。
誰だったっけ、と思いながらゆっくりと瞬く。
ここまで思考がはっきりとしないのは寝起きだからなのだろうか。
「……起こしに来てくれたのか、ハッシュヴァルト」
そうだ、男の名前はハッシュヴァルトだ。
何故忘れていたのかも分からない。
舌に乗せた名前のざらりとした違和感に微かに眉を顰めた。
「陛下が呼んでいる」
「ん……そうか」
未だ起き上がる気がしなくて、ベッドの上で寝転がりながらぼんやりとする。
夢を、見た気がする。
誰だったか、顔も声も覚えていない。
ぎしり、とベッドの軋む音が聞こえて、目を向ければ男がベッドに腰かけ、少しだけ身を屈ませていた。
「如何した」
目の前で長い髪が揺れる。
部屋の電灯が付いておらず開いた扉の廊下から漏れる光で、逆光になった男に影が落ち金の色はともすれば黒にも見える。
夢の中で靡いていた黒はもっと、と思ったが思い出す事が出来ない。
「———」
口に出そうとした名前は喉に閊え、結局誰の名前を言おうとしたのか分からず吐息と共に押し流した。
「何も」
俺が好きなのは、一体誰だったんだっけ