約束の百年 むかしむかし、あるところに、たいそう美しい神様がおりました。キラキラと眩い白髪に、吸い込まれそうなほど綺麗な碧眼。人の目に映れば誰もが見惚れてしまう、そんな容姿の持ち主でした。
神様は参拝してくる人間を眺めては、きまぐれに助けたり罰を与えたりして過ごしていました。毎日毎日同じことの繰り返し。神様は長い間、ずっと退屈していました。
そんなある日。神様は一人の少年と出会いました。人の目には映らないはずの自分を視認できる珍しい人間です。彼は明るく活発で、困っている人を放っておけない優しい子でした。神様はすぐに彼と仲良くなりました。
神様は言いました。
「人間はすぐ死ぬから。俺はいつも置いて行かれる」
少年は言いました。
「俺がずっと一緒に居てあげるよ」
そんなのできっこない。神様は頑なに信じませんでした。けれど少年は諦めません。
「俺がずっと一緒に居るから、百年経ったら俺を信じて」
「そしたら百年後、俺と――」
▽
「―――ん……」
目を開けると見慣れた天井が視界に広がる。白いそこに、均等に開けられた穴。医薬品の匂い。
「……あー」
またやっちまった。
寝そべっていたそこから起き上がると、締め切られたカーテンが僅かに開かれる。
「起きたか、虎杖」
「あ、おはざす!スンマセン、ベッド借りて」
「いや……お前の荷物は五条が持ってる。大丈夫なら行ってやれ」
「うす!」
ベッドを降りて廊下へ。ドアの窓から薄っすら見えた影がやたら大きかったことから、そこに居るのはわかっていた。
「悟くん」
五条悟。黒髪黒目の整った容姿、それを隠すようにサングラスをかけた大男。悠仁のふたつ上の先輩であり、幼馴染。
最近そこにもう一つ、恋人という関係が付け加えられたばかり。
「悠仁、もう大丈夫なの?」
「おう!もうヘーキ!いつも心配かけてごめんな」
「そんなの気にしなくていいよ。僕は悠仁の彼氏なんだから」
笑みを浮かべてさりげなく悠仁の鞄を遠ざける五条に甘えて、ぴとりと隣に寄り添って歩き出した。
この間、祖父が他界してから。
今までの健康優良児が嘘のように眩暈が増え、体調を崩すことが多くなった。何の前触れもなく視界が霞んで、時たまに人を認識できなかったり、反してそこに居ないはずの”なにか”を見つけてしまったり。これが病気なのか、はたまた霊的なものなのかは不明だが、恋人に心配をかけている以外に特段困ったこともないので放置している。五条も心配した素振りをするけれど、病院に行け、などの具体的な解決案を出さないので大したことではないのかも。なんて。
祖父が亡くなってからというもの、体調を崩した時に甘えたり何らかの判断をするときに決断を委ねたりと、彼に依存気味なのは自覚済みだ。
もっともこれは、五条が喜んで受け入れてくれているからこそできる、悠仁なりの最大の甘えなのだが。
「最近増えたね、倒れること」
「んー。日に日に増してってる感じはあるかも」
「―――」
「え?」
「なんでもない!それより明日、悠仁の誕生日でしょ」
泊まりでお祝いしようね!
主役よりも嬉しそうにそう話す五条に、悠仁も目を細めた。今までは祖父と二人、誕生日くらい一緒に過ごしたいと真っすぐ家に帰っていたが。今年からは恋人と二人きりで。
え?あれ?二人きり?それも泊まりで?
「え、」
「ん?」
「と、泊まんの?悟くん」
「えっ……ダメだった?」
しゅんと肩を落とした五条が上目使いで見つめてきて、それだけでもう少しの邪な考えは吹き飛んでいった。一瞬、ほんの一瞬だけ考えた『恋人同士のお泊り会』は忘れよう。自分たちにはまだ早い。
「ダメじゃない!一緒に居て、悟くん」
「やった!でっかいケーキ作っていくね!」
「俺も飯めっちゃ作るよ!」
「悠仁のご飯、美味しいから楽しみだなぁ」
下駄箱で靴を履いて、校門へ。
五条とは幼馴染という関係ではあるけれど、実際、彼の家を訪問したことはない。家の人が厳しくて友達を誰一人と呼んだことがないのだとか。友達は選べだの、家柄がいい人と付き合えだの、忌々しい言葉ばかり投げてくるとぼやいていたのを覚えている。そのため五条は、悠仁が嫌な思いをしないよう自身の家から遠ざけてくれているのだ。
泊まりとなると、やはり悠仁の家になるだろう。
「帰ってケーキ作ったら家行くね」
「うん、待ってんね」
校門に着いて、いつも通り手を振る。五条は悠仁の姿が見えなくなるまで動かないため、すぐに背を向けて歩き出した。
帰ったら。お風呂に入って、ご飯を作って、五条を迎え入れて――
「あー--!!忘れろ!!俺!!!」
邪な想像は去れ!布団の中で朝チュンすんな!!
頭を掻きむしって、走り出す。今日はとびっきり手の込んだ料理を作って煩悩を祓おう。悠仁は秒で辿り着いたスーパーでカゴを片手に、スマホで難解レシピを探し始めた。頭に恋人の柔らかな笑顔を思い浮かべながら。
▼
「神様、神様」
「あの子を殺した者たちに、どうか罰を」
「そしてきっと、あの子が次に生まれたときは」
▽
「い、いらっしゃい……」
「うん……なんか疲れた顔してる?大丈夫?」
「ダイジョブ……」
大きな箱を持った五条が大きな身体を縮めて玄関を潜ってくる。
結局悠仁は煩悩を捨てきることができず、ただただ手の込んだ料理をテーブルいっぱいに並べ必要以上に疲れて恋人を迎え入れることとなった。対する五条はいつも通りである。これが二つ分大人の男の余裕というものか。少しだけ悔しい。
廊下を抜けて居間へ顔を出した五条が目をキラキラさせて料理を眺め、「誕生日は明日だよ?」なんてはにかんでいる。ぐう。なんだこの男、かわいい。
「じゃあ、はい、ケーキ」
「やっぱそのデカイのケーキだったんだ!わはは!」
「大きいの作るって言ったでしょ。明日一緒に食べようね」
差し出されたドデカケーキを受け取って、四苦八苦しながら冷蔵庫へ入れる。なんとか入ったそれを数秒見つめて頬を緩めてから、手を洗ってきた五条と共に食卓についた。並べられたそれらをパクパク嬉しそうに食べる五条の表情は、幼いころから変わらない。
祖父が居ないとき、寂しい時、五条は察したかのように現れ傍にいてくれた。一緒に遊んで、時には何も言わず隣に寄り添って、暗くなる前にさよならして。出会ったのはいつだったか、思い出せないほど昔の話だが。
「ねぇ悠仁」
「ん?」
「ご飯食べ終わったらさ、ちょっと出かけない?」
「え、でもこんな時間だし、もう店なんも開いてねーよ?」
「開いてなくて大丈夫なとこだから、ね!お願い!」
パン!と勢いよく両手を合わせて頭を下げてきた五条に、そこまで言うならとうなずいた。渋るようなものでもない。誕生日という特別な日を、特別な場所で迎えたいと言われて断る理由もない。
承諾した悠仁に破顔する五条を見て、やはり頷いてよかったと、悠仁も心から笑みを浮かべたのだった。
▼
少年はある日を境にぱったりと来なくなりました。
待てど暮らせど、少年の気配は一向に見つけることができません。神様はしびれを切らして少年の暮らす村へ向かいました。そこには豊かに実った作物と穏やかな人の暮らしが広がっており、少年がどうやって育ってきたのか知ることができました。きっと優しく愛情たっぷりに育てられたのでしょう。神様は誇らしいような気持ちになって、しかし少年の姿が見えないことに不安を覚えました。
まさか、他の村へ移ってしまったのだろうか。
人の生は短い。その短い生の中で、彼にしたいことができたのなら応援するつもりでした。しかし「そばに居る」と約束した以上、所在くらいは知らせてほしいというもの。せめてどこに行ったのかは知りたい、その一心で、神様は少年と似た気配を持つ青年たちに近づきました。
――あの子はどこへ行ったの?
神様の力を使って、青年たちの会話を誘導します。すると驚きの内容を聞かされてしまいました。
少年は彼らに殺されていたのです。
神様は激怒しました。少年の危機を察知できなかった自分に、少年を殺してしまった青年たちに、少年がいなくとも穏やかに暮らす村人たちに。
人の醜さに絶望した神様は、白く美しかった髪を黒く淀ませてしまいました。神様の加護で豊かに実っていた作物はあっという間に枯れ果て、晴れ渡っていたはずの空はどんより厚い雲に覆われました。
嵐が来ます。
海の近い村は津波に襲われ、あっという間に村民たちが飲み込まれてしまいました。それでも神様の気は済みません。この村には今後一切の作物が実らぬよう、力の限りの呪いをかけました。
「返せ」
「返せ」
「あの子を返せ」
うわごとのように呪いをまき散らし、神様はどんどん姿を変えていきます。お世辞にも神などとは呼べないような悍ましい姿になったとき、その声は聞こえました。しゃがれた老人の、祈るような声でした。
「ああ、ああ、天罰が下った」
「お前を殺した者たちすべてに」
「感謝します、神様」
「けれどお前はきっと、喜ばないのだろうな」
その老人は、少年の祖父でした。
▽
二人でお腹いっぱいご飯を食べて、家を出る。どうしてもと五条が言うので、祖父の仏壇に手を合わせてから。
家を出てからの五条は無言だった。どこか緊張しているようにも見える。繋いだ手はそのままで、ゆっくり、ゆっくり夜道を歩いた。途中、悠仁も知らない道に入って、木でできたアーチを潜り、開けた場所に出る。
そこは、今まで生きてきた15年間で初めて来る神社だった。薄汚れて、誰も参拝していないのだろう、蔦や落ち葉で綺麗とは言えない場所。
「こんなとこあったんだなー」
「悠仁と初めて出会った場所だよ」
「えっ!そうだっけ!?ごめん、俺あんま覚えてなくて」
「いいんだ、僕が覚えているから」
本当に気にしていないような口ぶりで、五条はそっと悠仁の手を放した。
歩む道は、神様の通り道。通路ど真ん中。一歩、また一歩進むたび、五条の後ろには小さな花が咲いた。
「え、な、ど、何それ!手品!?」
「ふふ、どうかな~」
「すげー!」
まさか自分の誕生日を祝うためにこんなネタを仕込んでいたとは。喜びと驚きで興奮しきった悠仁に、五条は嬉しそうに頬を緩め振り返る。
「悠仁も、もうすぐ16歳だね」
「へ?あ、うん。あと10分くらい?」
「あと10分かぁ……長かったなぁ」
16歳ってそんな感傷的になるもん?という悠仁の疑問に答える声はない。五条は境内へ辿り着いたその足でくるり、回って見せた。悠仁の脳裏に幼い五条が過ぎる。真っ白な着物を着て、太陽の光でキラキラと美しい白髪を靡かせる彼が。
「……え?」
誰だ、今の。
目の前に居るのは確かに美しいが真っ黒な髪をした恋人のみ。あんな姿は見たことがないはず。そもそも、子供の頃だって彼は黒髪だった。……だった、よな?
「ずっと待ってたんだよ。ずっと、ずーっと、悠仁だけを」
困惑する悠仁に構わず話し始めた五条に違和感を覚える。彼はこんな話し方だっただろうか。もっと粗雑で、もっと子供っぽくて。
「はじめ、きみは9歳だった。村の大人に殺されて死んだ。僕は絶望して、きみを殺した人間すべてを根絶やしにした」
「え、なに」
「次は15歳だった。殺されそうになってた女の子を助けて死んだ」
「なんかこわいって、悟くん」
次も、その次も、ずっときみは15歳より長生きできなかった。決まってその年になると命の危険にさらされて。他人を助けては自分を顧みない人生を送り、僕を一人にした。今回だって、僕の加護がなければ早々に病で死んでいる。
淡々と話す五条をじっと見つめ返すと、その瞳はいつの間にか黒から青へ色を変えていて。吸い込まれそうなそれから目が離せずにいれば、真っ黒な髪は薄っすら白くなり始めていた。
「きみが生まれるたび、きみと出会うたび。僕はまた恋に落ちて、そしてきみを見送った。今回だって、そう。僕はきみと再び出会って、恋をした」
風に揺れる毛先から徐々に色素が抜け、やがて完全な白へと変化したとき。ざぁ、という風の音と共に、彼は先ほど脳裏に過った少年と同じ、真っ白な着物に姿を変えていた。
「そうしてようやく今日で、約束の百年だ」
泣き笑いのような表情で、五条は悠仁の手を優しく掬い取る。きゅ、と握りこまれたそれを唖然と見つめたあと、唐突に。ずっと昔の約束を思い出した。
大切な大切な約束を。
▼
『人間はすぐ死ぬから。俺はいつも置いて行かれる』
神様はむくれた顔で空を見上げている。真っ白な着物は、どれだけ遊んで汚しても次の瞬間にはきれいになっていた。神様が人間と過ごす時間は着物と同じように、次の瞬間には真っ新になっているのだろうか。
それって、なんだかすごく寂しい。なら、
『俺がずっと一緒に居てあげるよ』
自分一人だけでは物足りないかもしれないけれど。でもずっとそばに居れば、寂しさだって紛らわせるんじゃないか、なんて。
『そんなのできっこない』
神様は信じてくれないけど。でも、やってみなくちゃ分からないことだってある。例えば、そう。今回長生きできなくたって、神様はずっと生きているんだから。悠仁が今世で短命だったとしても、また次がある。全部の生を傍で過ごしたら、それはもう『ずっと一緒に居る』のと同じではないのか。
『じゃあさ、俺がずっと一緒に居るから、百年経ったら俺を信じて』
今回がだめなら、その次。その次も駄目なら、またその次で。すべてをかけてそばに居る。そうして百年、神様の傍で過ごせたら、
『そしたら百年後、俺と――』
▽
「結婚しよう」
目の前の青を見つめ返して、はっきり告げる。長い睫毛に覆われた瞳は大きく見開き、くしゃりと歪ませた。
「なんで思い出すの」
「ダメだった?」
「駄目じゃない。でも、思い出さなくても、それでもよかった」
傍にいてくれたら、それだけで。
ぽろぽろと大粒の涙を零す恋人の目尻に唇を落として、優しく笑いかけた。ずっと寂しがってたくせに、強がり言って。
「いいの?今の生活を捨てることになっても」
「いいよ、じいちゃんも居なくなっちまったし。悟くんが守ってくれたから、俺は今生きてるんだろ」
「……うん。眩暈は抑えてあげられなかったけどね」
「そんくらい平気。悟くんが傍に居てくれたから」
「ふふ、よかった」
「あっ!でも悟くんのケーキは食いたい!」
「それは大丈夫。悠仁の家はもう僕の神域にしてあるから」
「それなら何も思い残すことはねーな!」
ずびっと鼻をすすった五条が笑って、両手で悠仁の頬を包み込む。赤くなった目元が幸せそうに緩んで、そして。
「絶対絶対、幸せにするからね」
言葉は重ねた二人の唇に溶けて。
風が吹く。
ざあざあ、木々が音を鳴らし。
二人の姿はまるで最初からそこになかったかのように、ゆらゆら揺らいで――消えた。
▼
「神様、神様」
「あの子を殺した者たちに、どうか罰を」
「そしてきっと、あの子が次に生まれたときは」
「誰よりも幸福な生を送れますように」
終