忘れられないひとがいる。
燃え盛る火の中へ飛び込んで、幼い自分を抱き上げてくれた腕。「もう大丈夫だよ」と柔らかな声をかけてくれた、優しい眼差しのひと。気持ちがいいと思った。その腕の中は今まで味わったことのないほど幸せなゆりかごのようで、無意識のうちに安心して眠ってしまったのだ。
そして次に起きた時、その人はいなかった。
「あれから10年か」
当時、悟は8歳だった。自分以外の人間すべてザコ、視線を向けられることすら不快だったその時期。家を抜け出した先で見つけた空き家に忍び込み、探索しているうちにいつの間にか火に囲まれていて。賞金目当てのザコが放火したのだろうが、悟にそんな方法が通用するはずもなく。ひとつの怪我もなくその場をあとにしようとした、その時。飛び込んできたのだ。ずぶ濡れの男が一人、必死の形相で。『無事でよかった。もう大丈夫だよ』そんな言葉をかけて、唖然と見つめるだけの悟を大事そうに抱きかかえ倒壊する空き家を飛び出した。煙が充満するそこで、彼から香るのは爽やかで落ち着く匂いだった。
「会いてぇ~~」
どこの誰かもわからないけれど、匂いを嗅げばきっとわかる。彼は悟の運命のひとだった。クソの掃き溜めみたいな呪術界に身を置いて、腐りきった上層部を日頃から見せられているおかげで、真っ新で綺麗な人は一発で見分けられるようになった。彼がその真っ新で綺麗な人なのだ。一瞬で自分の心を持って行った男、そのひとを10年間探し続けているのだけれど。
「まだ見つからないのかい?」
「すぐる……」
仕方ないなとでも言うように眉を下げた傑が話しかけてくる。彼には以前”あの人”の話をしたことがあるので、『悟の会いたい人イコール例の彼』という方程式が出来上がっていた。
任務帰りか、教室に入ってきた傑は砂埃を裾につけて薄汚れている。
「年齢も名前もわかんねーから探すのムズイんだよな」
「住んでる地域もわからないんだよね」
「東京近郊は探し尽くした。旅行者の可能性あり」
「ピンクっぽい髪で当時20歳前後の筋肉質ないい匂いの男の人、って情報が多いのか少ないのか……」
傑は悩んでくれているようで実のところそんなに深く考えてもいない、といった表情で隣の席に座った。10年間の片思いの重みをこいつはわかっていないのだ。なにせ以前「美化しているだけじゃないかい?」なんて言ってきやがったので。恋をしたことがないからそんな前髪になるのだとボヤいたら喧嘩になった。8割傑が悪いが。
「憂いてるところ悪いけど、きみ、あと1時間で出張だよ」
「は?聞いてねぇよ」
「私もさっき聞いたからね。仙台に2週間だって。お土産よろしく」
「土産の催促する男なんてサイテー」
べっと舌を出して抗議するが彼には効果なしだった。担任も自分で伝えに来ず何をしているのやら。溜息を吐いて席を立つ。1時間なんてあっという間だ。荷物はあまり持たない主義だが、一応持っていくべきものはある。下着とか。
喜久福食べてみたいなぁなんて大きな独り言を背に受けながら、頭の中に持ち物を浮かべて寮へ向かう。
「あのひと、仙台にいねぇかなー」
そんな奇跡、あるはずもないのだけれど。
▽
奇跡とは、あるはずもないことが起こることなのである。
仙台出張2週間。3日で終わらせると息巻いて車を降りた悟は、真っすぐ目的の場所へ向かい5秒で呪霊を祓った。まだ蚊と格闘する方が手間がかかるというもの。明日はまた別の場所で、と言った補助監督に手を振って遊びに出かけた悟は現在、なにもない、本当になにもないあぜ道を歩いていた。あのままホテルに戻ってもよかったのだが、どうにも”彼”の姿がチラついていけない。落ち着かなくてブラブラしているうちに、全然しらない田舎道を歩いていたというわけだ。
つまり迷子である。
「クッソ……どこだよここ……」
彼を探すにしてもこんなに人気がないと手がかりのひとつも見つけられやしない。どうすっかな。頭を掻いて辺りを見回すが、周辺には田んぼや畑が広がっているだけで地元民しかわからないであろう目印しかない。『熊出没注意!』なんて看板までたてられている。どれだけ歩いたのかわからないが、ドのつく田舎であることには違いなかった。
パチン、パチン。携帯を開けたり閉めたりしながらイライラと一本道を歩いていると、前方からランニングしている人らしき影を見つけた。老人の早寝によって人気のなかった此処で初めての村人である。悟はひとつ「お!」と声を上げて人影に近づいた。
一歩、二歩。近づくたびに何か違和感を覚える。三歩、四歩。どこか懐かしくも切ない香りが鼻腔を通って、脳へ届いた。
「……ぁ」
点滅する古い街灯が、その人物の顔を照らす。口や額に傷はあるが、ピンク色の髪にがっしりした体格、なによりこの匂い。煙の中でも香った強くも爽やかなそれ。
間違いない、あの人だ。
横を通り過ぎようとしたその人の腕を、反射で掴んでいた。緩く走っているように見えたのに、力強く掴んだはずの悟がよろめく。ランニングを邪魔された彼は不快感を表すこともなく驚いた声を漏らしただけで悟を責めようともしない。
その顔を、姿を、まじまじと見つめる。あの時より年を重ねた男の顔は、童顔か、当時とあまり変わらなく見えた。はくはくと口を開閉する悟に、彼は「どうした?」と優しく声を掛けてくれる。あぁ、この声。そうだ。この真綿で包まれているような多幸感。
「な、まえ……」
「ん?」
「名前!!なんていうん……ですか!!」
すべてのストレスが解き放たれていくような、己自身も優しい人なのではと錯覚するような空気感。
悟はドキドキと高鳴る胸を口から吐き出すような勢いで、不審者極まりない質問を投げかけていた。だってこんなあっさり、しかも突如再会するとは思っていなかったから、一言目をなににするか決めていなかったのだ。
彼は目をパチパチ瞬かせて、それからニカリ、笑った。
「ゆーじっていいます!」
「ゆうじ……」
ゆうじ。もう一度口の中で名前を口ずさむ。心が浮足立って頬が緩んだ。
彼の名はゆうじ、仙台に住んでるっぽい、童顔だがあの時から逆算するに社会人。掴んだ腕は鍛えられていて筋肉質。顔に傷が増えているので、恐らく危険な仕事をしているのだろう。下から上まで視線をやって最低限の情報を得ると今度はこちらの自己紹介である。ゆうじが不思議そうな顔で視線を向けてきているので。
「俺は五条悟、です。18歳。俺の事、覚えて……ますか」
「え」
「いや覚えてないならいいんだけど、これから知ってほしいというか、あ、いや、ちがくて、」
驚いたような声を出されて思わず言葉を重ねる。焦って変な声が出た。じっとこちらを見つめるゆうじの視線に耐えきれず、ドキドキと高鳴る胸を押さえて俯く。走り込み専用か、ボロボロになったスニーカーが目に入った。仲良くなったら新しいスニーカーをプレゼントでもしようか。悟が現実逃避している間に、ゆうじはピコンと頭上に豆電球を光らせて「ああ!」と声を上げていた。え、なに。
「お前アレか、火事の時の子供だろ!」
「へ、」
「うわー!でっかくなったな!もう高校生!?」
「お、覚えて……」
「覚えてるよ!だって……あ、いや、それはいいや」
「……?」
首を傾げた悟に、ゆうじは嬉しそうな顔で手を伸ばしてくる。掴まれた腕とは逆の方の手でくしゃくしゃと撫でられるとなんだか照れくさくて、でも嫌な気持ちは全然なくて。むしろもっと撫でてほしい、触れてほしいと欲求は膨らんでいく。
ふわり、相変わらずいい匂いがする。ランニング中で汗をかいているはずなのに、恋は盲目とはこのことか。この匂いに包まれていると気分がよくなって、自分の奥底に眠る柔らかい部分が表に出てくる感覚に陥ってしまう。けれど決して不快なものではない。今なら誰にでも優しくなれそうな気さえしてくるのだ。
―――ピリリリリッ
ポケットから鳴り響く着信音に邪魔されるまでは。
「……チッ」
「あ、親御さんとか?送っていこうか?」
「いいのっ?あ、そうだ俺迷子だったんだよ」
「あはは!じゃあ尚更送っていかないとな!とりあえず電話出なよ」
催促されて仕方なしに出ると、やはり予想通り補助監督だった。いつになってもホテルにチェックインされないので心配になってかけてきたらしい。ゆうじに会うまでの悟なら迎えに来いと指示していたけれど、今となっては邪魔なだけ。無事だということだけ伝えて通話を切ると、待っていてくれたらしいゆうじが今度は悟の手を取って「こっちだよ」と声をかけてくれた。先ほどまで歩いていた方向と真逆である。
とぼとぼとわざとゆっくり歩く悟に、ゆうじは何も言わず合わせてくれた。迷わず人助けをする優しいところ、変わってない。きゅうと締め付けられる胸に唇を噛んで、引っ張られるがまま足を進めた。その間、ゆうじはずっとなんでもない世間話を振ってくれた。悟が暗闇のなか迷子になって心細いと思ったのだろうか、努めて明るい声を出してくれていたように思う。
わかったことは、ゆうじは悠仁と書くこと。それから職業は消防士だということ。昔、悟を助けた一件で志すようになったらしい。彼の人生に自分が関わっていることが、純粋にうれしかった。「悟は将来何になるんだ」と聞かれたけれど、呪術師だなんて一般的ではないものを言う訳にもいかず。まだ決めてないとだけ伝えた。悠仁はそっかと何を言うでもなくニコニコしていた。それがまた、くすぐったかった。
悠仁に会ったら伝えたいことは山ほどあった。「助けてくれてありがとう」、それから「ずっと好きです」。どちらも未だ、果たせていない。
「あ、あそこだ」
「……もう着いたのか」
「そんなに遠くなかったな!今度は迷うなよ」
「うん。……悠仁」
繋がれた手が離れそうになって、思わず縋りつくように握りしめた。肉刺のできた手。人を守るために完成された大きくて優しいそれ。好きだな。改めて、そう思う。
「あの時、助けてくれてありがとう」
「……おう!悟が大きく成長してくれてて俺もうれしいよ」
「それと……あの、」
ポケットの中に入れっぱなしの携帯をぎゅうと握りしめる。メキ、と小さな悲鳴が聞こえて、少しだけ力を抜いた。
勇気を出せ、五条悟。
「れんらく、さき、教えてください」
緊張で声が震える。断られたらどうしよう。もしかして街でナンパしてくる女たちもこんな気持ちだったのだろうか。否、ヤツらは『あわよくば』声をかけてくる品のない生き物なので一緒にされては困る。誰が困るか。俺が困る。悟は純粋に悠仁が好きなだけなので。
ぐるぐるぐるぐる、脳内で取り留めもない思考が巡って、同じように視界まで回ってきた時。悠仁がまたあの眩しい笑顔でポケットから携帯を取り出した。
「いいよ!困ったらいつでもかけてこい!へへ」
尊さで死ぬという言葉を、悟はその時身をもって知ったという。
▽
悠仁と再会して5日経つ。その間悟は何度も連絡をしようとしては任務に邪魔され、勇気が出ず、また明日と先延ばしにしてしまった。仙台出張は2週間しかない。だというのに、ほぼ1週間も会わずにいるなんて本当にもったいない事をしている自覚はある。しかし、だって、仕方ないのだ。10年。18年生きてきた中で半分以上、彼への恋に身を焦がしてきた。なのにこんな突然再会してどう接すればいいというのか。そりゃあ、どうアプローチすべきかを考えてこなかったわけではない。けれど実際悠仁を前にしたらすべてが吹き飛んでしまったのだ。恋する男に計画性などない。この人と決めてしまってはもう一直線に向かっていくしかないのである。
「つっても、そろそろメシとか誘いてぇよな……」
ホテルの一室で携帯を眺めながら、ぽつり、呟く。部屋中に響いたそれがやけに緊張していて、乾いた笑みをこぼした。女には困らない容姿で言い寄られることも多々ある自分が、なんと情けないこと。
よし。一つ自分に喝を入れて、下書きに放り込んでいたメール画面を開く。宛先、悠仁。『お久しぶりですね』……消去。これは緊張がもたらした別の人格が書いたものである。自分らしくない文章は送るのを躊躇う。最初の一通は絶対に失敗したくないのだ。
「普通に……普通に……」
学生らしく『メシ連れてって』と打つか、年下と意識させないために『メシ行こうぜ』にするか悩んで、結局後者に決定した。恋愛をするにあたって、年齢差は重要なことなのである。彼が悟を未成年だからと壁を作ってしまう前に距離を詰めなければならなかった。
そわそわと返事を待つこと20分。カーペットにミステリーサークルが出来るのではないかというほどぐるぐる歩き回った悟は、ピロピロと悠仁専用に設定した着信音でその場から飛び上がった。震える手でメールを開いて、おそるおそる細めた目で短い文章を読み上げる。『いいよ!今日は要請なければ18時上がり』最後につけられたキラキラの絵文字に心臓を大きく跳ねさせて、天井に向かい大きく拳を突き上げた。
「ッッッッシャア!!!!!」
同時に床へ着いた膝をそのままに慌ててメールの返信を打つ。『じゃあ18時半に仙台駅前』……不愛想すぎただろうか。いやでもあまりにグイグイいきすぎるのは惹かれる可能性も……なんて思っているうちにまたも返信がくる。了解とだけ書かれたそれを先ほどのものと一緒に保護して、携帯を閉じる。現在時刻15時、残り3時間半。本日の任務は既に終了している。しかし初デートの予定など少しも予想していなかったせいで、私服は一枚も持ってきていない。
「………服、買いに行くか」
興奮冷めやらぬままの頭をのろりと持ち上げ、制服のまま部屋を出た。携帯で仙台のブランド店を調べ尽くし、厳選した店でデート服を購入。ガチガチに意識した服ではなく、あくまでもラフに、しかし気を抜きすぎない服を。店員にケチをつけまくって、それでも何十万とする服で全身コーディネートしていれば、あっという間に18時を過ぎていた。
ドキドキ跳ねる心臓を誤魔化すためのショッピングでもあったというのに、真剣にデート服を選んでいたら緊張を和らげるどころか一層増してしまった。悠仁はどんな服で来るのだろう。仕事終わりなのだから、おそらくラフな格好ではあるのだろうけれど。時計へ視線を落とす。18時25分。悟が5分前行動するなどと、傑や硝子が知ったら鉄の傘を作り始めるだろう。明日は槍が降るとか言って。
「お、さとる~!早いじゃん!」
どきり。心臓が一層跳ねて、背中に投げられた声に反応する。ギシギシと機械的な鈍さで振り向けば、そこには予想通りラフな格好の悠仁が立っていた。散々想像した彼の姿より何倍もかわいい。かっこいい。好き。ぽやぽや、脳内が花畑に侵され頬が熱くなる。
「お、そい。すげー待った」
可愛げのない言葉が飛び出す。本当は5分も待っていないのに。心の中では気障な自分が「さっき来たばかりだよ」とにこやかに微笑んでいるが、実際出たのはいつもの悟で。この時ほど普段の態度を後悔したことはない。咄嗟に出るのがこんな言葉だなんて、ガキ臭くて恥ずかしい。
けれど悠仁は気にした素振りもなく「ワリー!」と白い歯を見せて笑っていた。好き。再びその言葉で頭が支配される。
「で、どこ行く?俺がいつも行ってる店は居酒屋だしなー……」
「居酒屋でいい。酒飲まねーけど」
「そりゃそうだろ未成年!んじゃ行くか」
ちゃんとついてこいよ、迷子になるなよ。子供にかけるような言葉ばかり吐く悠仁に焦って反論するけれど、彼はカラカラと喉を鳴らして笑うだけ。その余裕がどこか恨めしい。数歩離れて歩く距離は悠仁との心の距離を表しているようで、寂しくもある。けれど、そう、これからだ。これから距離を縮めていけばいい。なにせ再会したばかり。あの時は悟も小学生、正真正銘のガキだったこともあって、もしあのままアタックしていたとしても彼は相手にしなかっただろう。しかし今は、今ならば。
淡い期待を抱きつつ、悠仁の背中を追う。身体のラインを強調させるようなぴったりとしたシャツは、少し近くに寄るだけで鍛えられた筋肉が丸わかりだった。所謂ハッテン場みたいな場所に行けばさぞモテることだろうその体つきにコクリと喉を鳴らし、数歩先で立ち止まった悠仁に倣い足を止める。くるりと振り返った悠仁の目はクリクリと可愛らしくこちらを見つめていて、思わず買ったばかりの服を握りしめてしまった。
「ここ。メシもちゃんと美味いから安心して」
「おー」
「悟なに好き?デザートもあるよ」
「食う」
二文字でしか返事ができない自分の情けなさ。小さくため息を吐き、店へ入っていく悠仁の後に続いた。奥の方から愛想のいい中年男性が悠仁を「ゆーちゃん」と呼んでいるのが聞こえる。疑っているわけではないが、本当にここの常連のようだ。
奥の席に案内されて、通しで出てきた鰹のたたきとお冷を暫し眺め、メニュー表へ視線を流す。本日のおすすめにまぐろの刺身がデカデカと書かれていたので、とりあえずそれと悠仁のおすすめを頼んだ。ぐるりと辺りを見渡すと仕事帰り風のOLやガタイのいい男が多く、東京のように悟の容姿に惹かれてジロジロと視線を向けてくることもない。唯一若い店員女性がチラリとこちらを覗き見ているが、それも数分経つと他の客と同じように跡形もなくなっている。いい店だ、というより、いい地域、なのだろう。悠仁の人柄が、『ここで育ちました!』と言っているようなものだった。
「んじゃ、とりあえず乾杯する?」
「おぉ」
「かんぱーい!」
先に届いたビールとオレンジジュースのグラスを掴んで、カチンと音をたてる。友人たちとはしないノリに圧されて、思わずポカンと眺めてしまった。社会人ってこんな感じなのか。乾杯程度で大げさかもしれないが悠仁を通して大人の世界を垣間見たようで、なんだかくすぐったい。
「鰹うま」
先に通しを口にした悠仁が少量しか入っていないそれをもう平らげていた。同じように悟も口に含むと、確かにうまい。近頃はてんで行っていないが、常連だった寿司屋にも負けず劣らずの味だった。じんわり広がる風味がなかなかに味わい深い。
「そういや、悟はなんで仙台来たの?」
「あー……」
思い出したように悠仁が疑問を口にする。そういえば再会した時は悠仁ばかり話していて自分の話はまるでしていなかったように思う。
「にん……バイトで」
「バイト?今のバイトって出張とかあんの?」
「まぁ、あれだよ。ヘルプ的な」
「へぇ……ヘルプで呼ばれるってことは仕事できんだね」
かっけーじゃん。ニッと笑った悠仁にまた心臓が暴れ出す。落ち着け、落ち着け。せっかくいい感じに話ができているのにまたキョドって台無しにしたくない。
すーはー、すーはー。バレないように深呼吸を繰り返して、普段の自分をほんの少しだけ表へ呼び出す。とにかく冷静に、ガキっぽいと思われないように。悠仁に意識してもらえるような言葉をひとつでも残せたら、今回のデートでは上出来なのである。少しの間思考して、なんでもないことのように口を開く。
「本当はあんま乗り気じゃなかったんだけど、」
「ん?」
「ゆ……悠仁に会えたから、来てよかった」
はいかっこ悪。かっこつけて言おうとした言葉は見事に詰まって、顔に熱が集まる。こんなのもう、あなたが好きですと言っているようなものだ。目の前に座る悠仁はキョトンと目を瞬かせている。そのあとすぐ「照れるなー」なんて言いながら頭を掻いて、ニヘニヘと頬を緩ませているのだからたまったものではない。何も意識されていない事実に悟が打ちのめされただけである。
がくり。肩と同時に頭も下げて、落胆を顕著に表す。悠仁は既に運ばれてきた料理へ意識をやっていて、さらに気持ちが落ちた。手強いな、この男。
「俺も悟に会えてうれしいよ」
しかも食事の片手間で的確に悟の心臓を射抜いてくる。もういっそ怖い。最強が形無しだなんて、実は本当の最強は悠仁なのではと疑念まで湧いてきた。
「でもよく俺だってわかったよな」
そんなに顔変わってない?と首を傾げる悠仁に、顔というか、雰囲気というか。そんな言葉を溢した後、またもあの香りが漂ってきた。食べ物のにおい、油のにおい、OLの香水、ガタイのいい男たちの汗。その中でひと際強い、爽やかな、それでいてほんのり甘い香り。
「においが、」
「え?」
「悠仁の匂いを覚えてたんだよ」
火に囲われ煙臭い中でもわかった、悠仁のにおい。包まれていると心地よくて、どこかふわふわと気持ちがよくて。物心ついて初めてではないかというほど久しぶりに、悟が安心できたにおい。
「それがこの間も……」
そこまで言ってハッとする。待て、待てよ。もしかしてこれめちゃくちゃキモくないか?悠仁からすれば男のにおいなんていちいち覚えているものでもないし、というか悟自身、悠仁以外の男のにおいなどひとつとして覚えていないし、覚えていられてもキッショとしか言えないし。
耳まで熱を持っていた顔がザッと青ざめていく。意識してもらうどころか、引かれた可能性のほうが高い。ヤバイ、ミスった。弁解しなくてはと口を開くけれど、はくはくと開閉をだけで一向に言葉が出てこない。まずいまずい。焦れば焦るほど声が出なくて、箸を握る手が汗ばんでくる。額にすら薄い汗が滲んでいた。
「ぁ……いや、ちが、くてだな……これは、その、」
「悟って、」
悟って変態?絶対次に出てくる言葉はこれだ。終わったわ初恋。10年の恋もこんな失言ひとつで簡単に終わってしまうのだから、結婚してまで一緒に居たいとぬかした夫婦だってそりゃ終わるよな。いやなんの話だ。頭がこれまでになく混乱を極めている。
今、悟の精神は悠仁の手のひらに握りこまれていた。浅くなる吐息に酸素が薄くなり始めた頃、目の前の薄い唇がゆっくり開く。
「悟ってやっぱコアラだよな?」
――――ん?
▽
ぼんやりと天井を眺めながら、今日の悠仁の言葉を思い出す。
ユーカリ、コアラ、解毒行為。唐揚げの油でテラテラ光る唇が紡ぎ出す言葉を、悟は何ひとつ理解できなかった。正直に言おう。なにを言ってるんだ?混乱する頭でなんとかやり過ごし、ホテルに帰ったあともずっと考えているのだが一向に理解が及ばなかった。
曰く。この世には『コアラ』と『ユーカリ』という二種類の特性を持つ人間が存在するらしい。『ユーカリ』は体内に毒を所持しており、その毒を定期的に発散しなければ体調を崩したり最悪の場合死に至るという。それは『コアラ』に接触することによって発散でき、『コアラ』はその毒でストレスを解消するのだとか。
それらは解毒行為と呼ばれ、双方の相性がよければ抱きしめあうだけで多幸感を得られる、らしい。そして悠仁は自分を『ユーカリ』、悟を『コアラ』だと言った。
「いや初耳~~」
携帯で調べてみたが該当する項目は見当たらなかった。医者に診てもらわないと判明しないのだろうか。悟は今まで生きてきて一度もそんな診断を受けたことはないのだけれど。
傍に放置していた携帯を開いて、傑宛てにメールを作成する。『お前ってもしかしてコアラ?』となんの説明もなく送ると、『意味は分からないけど悪口かい?』とあたかも悟が普段から悪口を言っているかのような返信が送られてきた。大変遺憾である。
しかしこれで傑もこの特殊な人種らしきものが存在することを知らない、ということが分かった。自分だけが知らなかったわけではなかったと知れただけでも収穫である。パチンと携帯を閉じて、ついでに瞼も閉じる。
悠仁はあんなタイミングでくだらない嘘を吐く人間ではない。食後に解毒サプリだとかいう錠剤を飲んでいたし、油臭い居酒屋を出た直後だというのに彼からはふわふわといい匂いが漂っていたのがいい証拠である。なのでこれはれっきとした事実のはず、なのだが。
なにせ初めて聞いた人種なので理解が及ばないのだ。くっつけば多幸感を得られると言われても、悠仁とくっつけばコアラだのユーカリだの関係なく幸せに決まっている。いや、でも待てよ。こんな都合のいいものを利用しない手はないのではないか。だって悠仁によれば悟は『コアラ』だ。そして悠仁は『ユーカリ』。解毒するにはコアラの抱擁かサプリの力が必要不可欠。つまり悠仁と悟が抱き合えば双方に利益が生まれるということだ。
―――これは使える。
傑曰く『悪いことを思いついた時の悟の顔』をしているだろう自分を自覚する前に、メールにて悠仁へ『近々会いたい』と連絡を送る。いかにもな雰囲気を出して、真剣な話がありますよと言う風を装って送ったメールへの返信は、ゴロゴロとベッドを転がりながら待つ悟の期待を裏切り。翌日深夜に届いたのであった。
▽
「いや無理」
「えっ」
悠仁と再会してちょうど一週間経つその日。悟は再び彼とテーブルを挟んだ向かい合わせに座っていた。
そう、初デートの夜に思いついた、作戦というにはお粗末すぎるそれを決行するためである。名づけて『俺と悠仁でハグしてサプリ要らずの人生を送ろう!』作戦。再三言うが、恋に浮かれた男は一直線にしか進めないのである。悟も例外ではない。ありのまま、思いついたがままに悠仁に伝えた。「俺とハグしていればサプリなど必要ない」「一緒に東京へ行かないか」「お互いのためにもいいと思う」などと安直且つ単純な言葉で彼を丸め込もうとした。すべて大人しく聞いていた悠仁はキラキラと向けられる悟の瞳にニコリと笑みを返し―――冒頭に戻るのである。
「な、なんで?」
「なんでもなにも、俺ここで就職してるし」
「あっちで再就職できねーの!?」
「また就活すんのキチーもん」
がたりと椅子から立ち上がった悟を宥めるように、悠仁がよしよしと頭を撫でた。それだけで足から力が抜けるのだから、二人の相性は推して知るべし。絶対に自分と来た方が悠仁にとってもいいはずなのに、と拗ねた表情を見せれば苦笑を返された。
「それにさ、俺は毒素が強いらしいんだ」
「……?なんだよそれ」
「うーん。つまり、俺の毒素に悟が耐えらんねーかもしんないから無理ってこと」
「やってみねーとわかんないだろ」
「お試しでやるのも危険なくらいなんだよ、俺の毒素。少し流し込むくらいなら平気だけど、あんま密着すんのは命に関わる」
悠仁は頼んであったポテトを齧りながら、悟の目を真っすぐ見つめる。
「俺と居て心地いいって思うなら、それはこの特性のせい。俺じゃなくても、別のユーカリ探せばいいよ」
「………は?」
思考が止まる。別の、ユーカリ。別のユーカリってなんだ。悟は別に、ユーカリだから悠仁に惹かれたわけではない。いくら腕の中が心地よかったからといって、10年もの間一途に思い続けたりもしない。煙の中でキラキラ輝く笑顔と優しい声が、ずっと頭から離れないものだから。だから、こんな必死に、縋りついているというのに。
「……馬鹿にすんな」
「あ、え!?し、してないって、」
「コアラだのユーカリだの訳わかんねぇ。今までそれで困ったこともねぇのに何でわざわざ他のヤツ探さねぇといけねんだよ。俺はお前自身に惚れてんだ、そんなもんに振り回されてたまるか……!」
「…………え?」
「試してみりゃいいだろうが!オラ!俺を抱きしめろ!」
もうヤケである。怒りの余り告白してしまったことにも気づかず、悠仁のすぐ傍に寄って両手を広げた。此処は某ハンバーガーショップ。学生も仕事帰りのサラリーマンも、店員もOLも。みんなが悟の奇行に視線を向けている。しかしこの男の意志は変わらない。悠仁がこの腕の中へ飛び込んでくるまで絶対に止まれない、止まらないのだ。
対する悠仁は顔を真っ赤にして悟を見上げている。その視線は他に向けられることなく、先ほどの告白を脳内にリフレインしては迷うように手を右往左往していた。
「さ、さとる……」
「最強の俺はお前の毒になんか負けねぇ!寧ろ吸い取られすぎて倒れても知らねぇからな!」
「倒れはしねーけど、はぁ、もう……お前マジか……」
さぁ!と更に両手を広げる悟に、悠仁も観念してそろりと立ち上がる。キィ、と椅子が音をたてた。店内は先ほどまでの喧騒がなかったかのように静まり、二人の動向をうかがっている。結果的に野次馬のようになってしまった人たちは立ち上がった悠仁が悟の服の袖をちょんと握った瞬間、「おお~」と思わず声を上げ、そして瞬時に黙り込んだ。威圧感のある青に睨みつけられたからだ。
悠仁はそれに気づくことなく、握った袖から脇腹へ、そしてゆっくりと背中へ手を回す。きゅ、と優しく腕がまわり、大きく広げられていた悟の腕も悠仁の首に回り込んだ。
すぅ。息を吸えば悠仁の優しい香りがする。心の柔らかい部分を刺激されて、泣きたいような、飛び跳ねて喜んでしまいたいような多幸感が押し寄せた。誰と触れ合っても得られなかった高揚、それからビリビリと背筋を通る快感のようなものが腕の中の悠仁から流れ込んできて、悟は歓喜で震えていた。確かにこれは、得体の知れないコアラだのユーカリだのといったものの性質でもあるのだろう。しかし悟の頭の中には悠仁を抱きしめている事実が大半を占めていて、長年の片思い相手と夢にまで見たスキンシップを行えたことがこの幸福を生み出している最大の理由だとはっきり分かった。
「さとる、」
腕の中に埋もれていた悠仁が声を上げる。それはどこか頼りなさげで、それから先ほどよりもずっと甘い響きを持っていた。自分の名前がこれほどまでに輝いて聞こえたのは初めての事である。悟はぶわりと赤らんだ頬を隠すことなく、目下の桃色を見下ろした。
そこには同じく顔を赤らめた悠仁が、目に涙の膜を張りこちらを見上げていて。
「あっ」
初恋を拗らせた厄介男、もとい五条悟の意識は、そこで途絶えている。
▽
「あ、起きた」
見知らぬ天井、見知った匂い、優しい声と、そして愛しい人。これが結婚か……。悟が起きて早々に得た情報で再び意識を失いかけた時、「おーい、起きろ!」と楽し気に跳ねる笑い声が脳を刺激して飛び起きた。
悟が寝転んでいたのはシングルベッドの上で、どうやら悠仁が普段眠っている場所だったらしい。枕やシーツから香る匂いで思わず前かがみになってしまった。それを誤魔化すようにして口を開く。
「あー……、俺、気絶?した?」
「したな。焦って病院まで担いでったんだけど、それは毒のせいじゃないって言ってた。こういうことよくあんの?」
「いや、ねぇけど、思い当たる理由はある……」
頭を抱えて悠仁をチラ見すると、彼はニコニコと上機嫌にこちらを見ながら笑っていて。かわいいなぁなんて思いつつ、その可愛さにやられて気絶したことも思い出した。情けない。
悠仁の部屋には消防士の制服か、オレンジ色のパンツか壁にかけられていたり、随分古い表彰状だったりが飾られている。それから幼い悠仁と、祖父であろう人との写真も。今は一人暮らしなのか、悠仁の気配しか感じない部屋が少し寂しげだ。
「あのさ、悠仁……」
「待った」
「え」
「俺から話させて」
手のひらをこちらに向けて、悠仁は気まずそうに顔を俯けている。それにドキリと心臓が鳴って、もしかしてフラれたりするのだろうかと嫌な予感が過ぎった。そういえば、気絶する前に勢いで告白した気がする。思い出したら嫌な汗が背中を伝って、顔が血の気を引いたのが分かった。それを目ざとく見つけた悠仁が「ただの昔話だから」と付け加えてくれたので、とりあえずホッと肩の力を抜く。
「……俺さ、10年前のあの日、本当に偶然お前を見つけたんだよ」
ムスッとした顔を隠そうともしないで、たった一人廃屋に入っていく少年を見かけて。何してんのかなって気になってしばらくその場に立ってたら、そのうち中から煙や炎が出てきたので、火遊びかなにかして火事を起こしたのかと思ったらしい。
「ちょっとの間待っててもお前は出てこねーし、裏口かなんかから出てったのかもって思ったけど、やっぱ心配でさ。気づいたら火の中に飛び込んでた」
そしたら炎の中で突っ立っている悟を見つけて、慌てて抱きあげた。すると悟は無意識にか、悠仁の中に溜まる毒をするすると吸い取ってしまったらしい。居心地がよさそうに腕の中で眠る子供を起こすこともできず、しかしサプリでは緩和されない一切の不快感、倦怠感を丸ごと全部失くしてくれた悟に、悠仁は運命めいたものを感じたという。
当時、悠仁は毒素が強い事でパートナーを作ることもできず、体調を崩すことも増え遂に悩んで東京まで改善法を探しに来ていたらしい。しかし大きな病院で診てもらってもサプリでしか毒素を抜くことはできず、諦めて帰ろうとしたところに悟を見つけた、と。随分長い間悩んでいたことをいとも簡単に、それも意識せず解決してくれた少年に運命を感じてしまうのは仕方のないことと言えるだろう。
「そんで、実は……」
「……実は?」
「ごめん、勝手にマーキングしてしまいました!ほんっとごめん!10歳も下の子供にすることじゃないってわかってたんだけどさぁ、だって俺もあの時結構マジで悩んでて、急に解決されたから興奮状態だったっていうか、パニックになってて……!」
「いやいや待て待て、悠仁落ち着け!」
土下座をする勢いで頭を下げる悠仁に、悟も慌てて肩を掴んでその顔を上げさせる。マーキングが何かも正直わからないし、なぜ謝られているのかも全然わからない。悟はそれで何か不便したこともなければ、今までその存在を認識したこともないのだ。そもそも自身がコアラに分類されることも、この数日で初めて知った事実である。
「まずマーキングってなに?それしてたらなんかあんの?」
「ああ、そっか知らんのね……マーキングってのは、ユーカリがコアラに自分のにおいをつけて『コイツは俺のだぞ!』って他のユーカリに牽制することなんだよ」
そうすると他のユーカリに触れても解毒行為なるものをできなくなるという。コアラは一般的にユーカリから毒を貰ってそのストレスを解消するので、解毒行為を行わなければ精神的な病に陥ることが多い。なのに悠仁は勝手にマーキングした上、悟の前から姿を消してしまった。それに関しての、謝罪。
「ごめん、本当にごめん。悟が今までなんの問題もなく生きてこられてよかった。勝手にマーキングしたくせにその責任も放棄して帰っちゃって、ずっと気になってたんだ」
時間があるときに東京へ出向いて悟を探したが、呪術師であり特殊な環境に身を置いている悟は当然のことながらそう簡単に見つからず。完全に入れ違いになっていたわけだ。
悟はそれを聞いて深い、本当に深い溜息を吐いた。びくりと肩を揺らした悠仁に怒っているわけではないとジェスチャーで伝え、未だ陣取ったままのベッドの端へ腰かけた。悠仁との距離は、数センチ。じんわり伝わってくる隣の熱に、緊張から高鳴る心臓の音がやけに耳につく。
「俺も、悠仁のこと運命だって思ってた」
「え」
「今まで生きてたきた環境がすげぇ特殊でさ。あんな優しい顔とか、柔らけー声で接してもらったのが初めてで」
マーキングだのユーカリだのって、そんなものがなくとも自分が悠仁を好きになるのは変わらない。だって彼に片思いして10年間、もう二桁台に突入しているのだ。今さらそんな裏事実がありましたなんてことを聞かされても揺らがないほどには気持ちが固まってしまっている。自分には悠仁しかいないのだ。この人しか、求めてない。
「悠仁が悠仁として存在してんなら、俺は絶対お前のこと好きになってる」
「………」
「だからさ、そのー……なんだ、まだ俺の事好きじゃなくてもいいから、とりあえずパートナーとして………あー……」
「……………ふ、」
「……ふ?」
「んはは……っ」
俯いていた悠仁が唐突に声を上げて笑い出す。目尻に涙まで滲ませて、頬を紅潮させて。心底可笑しそうに笑うものだから、真剣に告白し直していた悟としては心外である。なんだか恥ずかしくなって熱を持ち始めた頬をそのままに、握りしめた拳を中途半端に上げて未だ笑いが止まらない悠仁に抗議した。人がせっかく真剣に話しているというのにド失礼である。普段悟が級友たちに言われている言葉をそのまま引用しただけだが、腹を抱える悠仁はそれにも可笑しそうに、そしてどこか嬉しそうに笑った。
「あは、ご、ごめん……!悟があんまり可愛いもんだから……!」
「か、かわ……!?」
「ん……うん、はは、可愛いよ。だってこんな必死に考えて、あんな小さいころからずっと俺の事好きでいてくれるんだもん」
可愛くて仕方ないよ。悠仁は蕩けた瞳をこちらへ向けて、また柔らかく微笑んでいる。その表情があまりに優しいものだから、つい。悟は本心をぽろりと口に出してしまうのだ。
「やっぱ俺の事好きになって、そんで付き合って」
「ぶはっ!本心出てるぞ!」
「そりゃ出んだろ!な?いいだろゆーじぃ……」
「ウ……可愛い顔すんなよぉ……」
首を傾げて精一杯のぶりっこをすれば、悠仁はぎゅっと目を瞑って悟の顔を押しのけた。逃げるようにベッドから離れて、床に腰を下ろす。その頬は悟と同じく赤いまま。キョロキョロと視線をあちこちに向けては、こちらを盗み見るように見上げてくる。可愛すぎか?ムッと口をへの字にして悠仁の言葉を待っていると、暫し考え込んだ後、意を決したように握った拳を胸の辺りに持ち上げ悟を真っすぐ見つめた。
「お前が成人したら、いいよ」
「エッ、は!?あと2年も待つのかよ!」
「俺これでも公務員だからさぁ、未成年に手出すのはちょっと……それまではパートナーとしてってことで……」
「うっそだろ!!パートナーっつっても、俺もうすぐ東京帰るんだけど!?」
電話できんじゃん?なんて呑気に笑う悠仁にわなわなと肩を震わせ信じられないと顔で表現してみせるが、そこは10歳上の余裕か、まったく効果がなかった。今時の小学生でももっと進んでるぞとか、アラサー間近の男が純愛貫こうとすんなとか、いろいろと失礼すぎる言葉は思い浮かぶが口には出せず。
結局悟は、惚れた弱みか反論の言葉ひとつ出せず。『帰るまでの間は悠仁の家に泊まり込む』ことを条件に、提案を受け入れることとなったのであった。
▽
焼きたての目玉焼きとウインナー、温かな味噌汁、ほかほかご飯。朝ごはんの見本といってもいいそのレパートリーに、両手を合わせていただきます。
「帰りたくねぇ~~~~」
朝っぱらから大声を出しているのは、先日再会を果たしパートナーとなった五条悟18歳。将来的には恋人になる予定の男である。彼は綺麗な所作で箸を持ち上げると、ここ数日でお気に入りと化した味噌汁へ真っ先に口をつけた。うめぇ。緩んだ頬がそれを本心であると証明してくれている。
「帰ったら電話してよ。時間あったら会いに行くしさ」
「俺も絶対ぇ来るし……つーかやっぱ引っ越さねぇ?一緒に住もうぜ」
「うーん、じいちゃんの墓もあるからなぁ……それは暫く待ってよ」
「うぐ……それを出したら俺が黙ると思ってんな……クソ……」
実際黙ってしまうのだからかわいいものである。目玉焼きの黄身を潰すと中からじゅわりと黄色が広がって、垂らしたしょうゆと混ざり合う。黒が混ざったそれを口に含むと、目の前に座る美男子から熱視線を浴びた。これもここ数日で慣れたもの。
「見すぎ」
「今見とかねーと次いつになるかわかんねーだろ」
「写真くらい送るって」
「ナマで見てぇの!」
サングラスを外した悟は朝日を浴びて睫毛をキラキラと輝かせている。一緒に暮らして慣れたものだと思っていたけれど、やはりこの綺麗さには目がつぶれてしまいそうだった。
悟とはここ数日、やましいことは無しという前提のもと同じベッドで眠っている。抱き合って眠ると夜勤明けでどれだけ疲れた体でも翌朝スッキリ起きられるのだ。それは悟も同じようで、初日に抱き合って眠った際「今ならどんな呪霊でも0.1秒で消せる」とつぶやいていた。ジュレイが何かはわからないけれど、ゲームの敵キャラかなにかだろうか。だとしてもすごい効果である。
最初は突き放そうとしたし、さりげなくマーキングも解いていた。幼い彼に自分勝手な執着を纏わせるなんて最低の行為であるし、そもそもあの時の悟は眠っていて意識がなかった。それに悟は過去を美化しすぎているふしがあったので、実際の悠仁を見ればそのうちにガッカリしてしまうのではないかと思ったのだ。
しかし彼はそれでもめげなかった。悠仁がやったこと、自分たちの性質を1から100まで説明しても、悟は悠仁を求める姿勢を一切変えず。そうして必死にこちらへ手を伸ばす姿がかわいいと、愛しいと思ってしまった。それが今日で、しばらく見られなくなるのだから当然、
「……まぁ、離れたくはないよなぁ」
ぽつり。呟いた言葉は間違いなく悟に届いてしまった。言うつもりはなかったというのに、思わず口をついて出たそれはもう取り返しがつかず。ウインナーを摘まみ上げていた悟は見開いた目をそのままにぽろりと箸ごと床へ落としてしまって、しまったと思ったときには遅かった。
携帯を素早く開いた彼は止める間もなくどこかへ電話をかけて、「俺今日から此処に住むから手続きよろしく」と早口に言い終えぱたりと携帯を閉じてしまった。待て待て、学生が何を勝手気ままな。慌てて携帯を取り上げリダイヤル。すぐに出た通話口の男性は「困りますぅ!」と湿っぽい声で半泣きになっていて。
「すんません本当に!ちゃんと帰しますんで!」
「おい悠仁!」
「黙ってろ悟!一人でなんでも決めんな!」
ごちん!固く握った拳を脳天に振り下ろせば、綺麗な白髪が床へ撃沈していた。蹲って悶える悟を放って電話を切り、食べかけの朝食へ箸を差し入れる。彼が成人するまではもう絶対に失言しないと心に誓い、チラと時計を見れば出勤時間まで残り5分を切ってしまっていた。
「ヤベッ!悟、俺もう出ないとだわ」
「え!?嘘だろ、感動のお別れは!?」
「感動も何もまた会えるじゃん」
「暫くは会えねーだろ!せめてハグ!」
バッと腕を大きく広げた悟は、あの日、バーガーショップで見た姿と一寸の変わりもなく。嘘偽りのない真っすぐな瞳でこちらを見つめている。出勤時間まで残り2分程度しかないというのに、この腕の中に収まる心地よさを知ってしまった以上、もう抵抗することはできなかった。
慌てて掴んだ出勤用の鞄を床へ落とし、ぶつかる勢いで平らな胸に飛び込んだ。どすっとおおよそ抱擁の音とは思えない鈍い音をもぐりこんだそこで、悟のうっすら香るシャンプーのにおいを吸い込む。ここで過ごして数日、同じシャンプーを使っているというのに、彼から香るというだけで違うもののように感じる。
「悠仁、」
「ん?」
「マーキングして」
勝手に解除したろ。そう言って不満そうに見下ろしてくる悟に、悠仁はバレてたかぁと眉を下げた。わからないはずなんだけどな。そう言って笑えば、頭一つ分上にある顔が得意げに鼻を鳴らしたのがわかった。
「でもさぁ、マジでいいの?俺以外のユーカリの匂いわかんなくなるんだぜ」
「何がダメなんだよ。悠仁の匂いだけわかったらそれでいいじゃん」
「………そっか」
きゅん。胸の奥が甘く痺れる感覚がして、悟の腕の中からそろりと顔を上げた。ほんのりと色づいた頬は相変わらず可愛らしくてずるい。悠仁以外いらないとばかりに心を曝け出す悟の姿は、少なくとも大人の世界に慣れ切った悠仁には新鮮に映る。先日、級友だという傑くんと話をした限りでは、普段の彼は傍若無人で人の話をまともに聞かずわがまま放題らしいのだが。悠仁の前ではそんな素振りを見せようとしないので、真相は謎である。悠仁の前でだけいい子ぶっているのか、それとも純粋に素の悟を見せてくれているのか。どちらにしろ健気で可愛いとしか思えないのだから、自分も十分末期なのかもしれない。
そんな彼がマーキングの方法を知ったらどんな顔をするのだろうか。幼い彼にあんなことをしたとわかったら、ショタコンだと引かれてしまいそうだけど。
愛しい子供のお願いなのだから、聞いてあげないと、だよな?
ニイと口端を上げて悪い顔を作る。頭一つの差だけれど、なにも届かない距離ではない。柔らかな白髪をゆるりと撫でて、後頭部へ手を回す。そのまま引き寄せ、プルプルの薄ピンクへ唇を寄せた。ぴったり、元からそうだったように合わさった唇同士をすりすりと押し付ければ、背に回っていたはずの手がびくりと跳ね、行き場を失う。中途半端に彷徨うそれを背中に感じながら薄く目を開くと、真っ赤に熟れた耳が視界に入って。
……やっぱり、可愛い。
悪い大人である。時間もなく今日で暫しのお別れという時に、こうやって劣情を煽るような行為に及んでしまうのだから。
「……ん、はぁ…ゆぅ……っ」
悟の手が再び背中に触れようとしたその瞬間、ぱっと唇を放し、次いで腕の中からも飛び出した。右往左往するその手は、また飛び込んでしまいそうになるので視界にも入れない。
「はいおしまい!じゃ、行ってくるな!その家の鍵は悟の分だから失くすなよ!あと食器は流しに突っ込んどいて!」
「は、え、」
「気をつけて帰ってな!じゃ!」
「あ!?おい!はやっ……」
悟が何事かを発言する前に鞄を持って家を飛び出す。いつもは祖父の仏壇に手を合わせてから出勤するのだが、時間はないしなにより悟がまた迫ってきそうだったので、何もかもを省略して走り出してしまった。じいちゃんごめん、帰ったらちゃんと挨拶するから!心の中で謝って、風に当たって頬の熱を冷ます。
「ゆーじ!」
背中に掛けられた必死な声に思わず立ち止まり、振り返る。
「愛してる!またな!」
真っ赤な頬を冷ますこともせず、手を振る悟に頬が緩んだ。可愛い可愛いあの時の子供が、自分より大きくなって会いに来てくれた。人生の分岐点ともいえるあの日から、ずっと頭を離れなかった大切な存在。祖父の遺言である「人を助けろ」という言葉に沿って選んだ職ではあるけれど、あの日の彼が決定打になったのは間違いない。あの時は逃げるように帰ってしまったので、まさか彼の方から求めてくれるとは思わなかった。悟の前では余裕ぶってはいるけれど、これでもかなり動揺していた。
それにしても「愛してる」なんて、大人でも口にするのを躊躇う言葉をあっさり口にするんだから、大人ぶれるのも今のうちかもと思ったり。
「俺も愛してるよ!またなー!」
遠距離恋愛だとしても、素直すぎる彼とならばうまくいきそうだ。負けじと放った悠仁の『愛してる』に真っ赤な顔を更に赤らめた悟が蹲るのを見届けて、また走り出す。
来月は有給とってサプライズで会いに行ってやろっかなぁ、なんて。まだ残る唇の感触に頬を緩ませた。