「……ただいま」
「おかえり」
師匠はまだ起きていた。パソコンに向かってメールを打ってるようだった。
「結構遅かったな」
「同期の子たちと話が弾んじゃって」
スーツのジャケットを脱いでラックに掛けると、僕は着替えもせずにそのままワークチェアに座る師匠の前へと立つ。
「……師匠、話があるんですけど」
「……着替えてこいよ」
「今聞いてください」
師匠が僕を見上げる。僕は小さく深呼吸をした後、
「結婚するのやめましょうか」
と切り出した。言った。言ってしまった。もう後には戻れない。師匠の返事が急に怖くなって、僕は彼から目を逸らした。そのまま秒針の音だけが部屋に響く。何を言われるのか身構えて待っていたんだけど、しばらく経っても師匠からの返事は無い。師匠、本当は僕と結婚するの、乗り気じゃなかったんでしょう。何とか言ってくださいよ、師匠。
何も言われないまま時間が過ぎる。無言を通されることに段々腹が立ってきた。
「師匠っ……」
文句のひとつでも言ってやろうと目を向けたらそのまま息が止まってしまった。師匠が泣いていた。声もなく、さらさらと、涙が目の端から次々と溢れ出ては頬を伝って落ちていた。
「っ……ごめん」
彼はそのまま顔を覆って俯いてしまった。
顎の先へと伝う涙が手の隙間からこぼれ落ちるのが見える。
僕は彼の前に膝をついて、両脚の間で投げ出されているもう片方の手を静かに握って諭すように話しかけた。いつだったか、ずっと昔に師匠がしてくれたのと同じように。
「……ねぇ、師匠。思ってること、全部話して」
「元々、結婚できるなんて思ってなかったんだ」
彼の両手を握りながら僕は黙って話を聞いた。
「そもそも、こんなに長く交際が続くと思ってなかった。お前はずっと告白し続けてくれたけど、まだ若いし、環境が変われば同世代の奴らの方が魅力的に見えてくると思った。一緒に住もうって言ってくれたのもすげえ嬉しかったけど、いつか終わるんだろうなって覚悟してたんだ」
「それなのに、お前にプロポーズされて、ずっと一緒にいたいって言われて、めちゃくちゃ嬉しかったんだ。すっげえ浮かれてた。モブとずっと一緒にいてもいい権利が欲しかったんだよ。だからお前のプロポーズを受けた」
「でも、実際話が具体的になって、お互いの親に会いに行くってなったら急に怖くなった。俺は男で、モブと14も歳が離れてて、自称霊能力者。師匠なんて呼ばせて子供のお前をずっと騙して仕事させてた詐欺師なんだぞ。認められる訳無いだろ、そんな奴」
「自分たちが大切に育てた息子を、お前はずっと騙して誑かしてきたのかって、お前の親御さんに面と向かって責められたら……俺は……何も言えない……」
師匠の目からまた涙が零れ、繋いだ手の甲へと落ちていく。
「……お前には言わなかったけど、俺の親、田舎の古い考えの人間でさ、今までも散々孫の顔見せろって見合い話持ってきてたんだ。全部断ったけど、そんな感じだったから、モブとの事を話してもすんなり上手くいくとは思えなかった」
「何度も実家に連絡入れようとしたんだ……。でもモブとのことを否定されたら、お前との、この関係が終わっちまうきっかけになったらどうしようって、そう考えたら、言い出せなくなって……」
「こんなの男らしくないよな。お前は覚悟を決めて俺にプロポーズしてくれたのに……。モブに対して誠実じゃない。……別れを考えるのも当然だと思う。ずるずる引き伸ばすような真似をして、本当にすまなかった……」
そう言い終わると、師匠は僕に頭を下げた。
「そんなの、やめてよ師匠…。僕の方こそ、師匠の不安に気づいてあげられなくてごめんなさい。師匠はこんなにいっぱい僕のことを考えてくれてたんですね。もっと早く、話を聞いておけばよかった……」
「……お前のことじゃない。全部俺のことなんだよ」
「それでも、僕との将来を本気で考えてくれたんでしょ?嬉しいです。すごく」
僕は師匠の手を握り直して目線を合わせた。
「大丈夫ですよ師匠。僕の両親には同棲する時に師匠と一緒に住むことを伝えてあるし、僕達が付き合ってることも知ってますよ」
「……同棲ごっこと結婚じゃ訳が違うだろ」
「二人とも僕が幸せなら相手が男だとか年が離れてるだとか気にしませんよ」
「職業、霊能詐欺師は気にするだろ」
「僕は超能力者ですよ?僕の師匠が霊能力者なのは普通じゃないですか。それに、詐欺師じゃありません。あんたはいつだって自分の力で人を救ってきた。目の前にいる、超能力者の子供とかをね」
僕は大きく息を吸った。
「師匠、言ったじゃないですか。僕には力があったから今の僕があるんだし、師匠には嘘があったから僕と知り合えたって。師匠が嘘つきでよかったです。おかげで師匠と出会えたから」
繋いだ手が小さく震えているのがわかる。
「師匠のご両親へだって、一緒に土下座しに行きますよ。新隆さんと結婚させてくださいって。僕が何年あんたに告白し続けたと思ってるんですか?何度だってお願いしに行きますよ。それくらい全然平気です。あんたと結婚できるならなんだってします」
「でも…強制はしません。結婚するのも両親に会いに行くのも、やっぱり師匠に望んでしてもらわなきゃ、意味がないと思うから…。だから、あんたが望まないなら結婚なんかしなくても構いません。僕の恋人でいてくれるならそれ以上は望まない。その上で、もう一度、僕との将来を考えてくれませんか?」
「……お前、それもう、プロポーズだろ……」
彼はもう隠そうともせず肩を震わせて泣いていた。涙が次々と溢れ出て彼の頬を伝っていく。悲しみの涙じゃなくて、今度はきっと嬉しい方の。
「えへへ……ね、師匠。僕、あんたが思ってるよりずっとあんたのこと愛してますよ」
「……俺も。モブを愛してる」
俺と結婚したいって思ってくれてありがとう。
僕達は手を繋いだまま、おでことおでこをくっつけて内緒話をするみたいに二人で静かに笑いあった。二人の心を分け合うように。二人の永遠を誓うように。
◇◆◇
「影山茂夫さん、俺と結婚してください」
後日、彼は小さな箱を開けて見せながら、照れくさそうに僕の前に跪いてプロポーズの言葉を言った。
あまりの衝撃に、僕はポカンと口を開け、間抜けな顔をしたまま何も考えられなくなってしまった。目をまんまるにして、師匠の持つその箱の中身を見つめる。中心で光る、シンプルな銀色の指輪。きっと僕があげたのとお揃いのもの。
モブ……?と、何も言わない僕に不安そうに彼が声をかける。
でもすぐに息を呑むのがわかった。
僕が泣いていたからだ。
「僕でよければ……よろこんで……」