半宵痛みの残るまどろみの中、バランの寝言でオレは目を覚ました。
誰かも知らぬ、女の名。
それが何を意味するのか、あえて聞くほどオレも野暮ではない。こいつもダイの父親を名乗る以上、かつて妻にした女がいたのは分かっていたことだ。
オレが気になったのは、その目尻からあふれる、ひと筋の涙を見たからだった。
バランは竜魔人の時と人間の時とで、かなり気性が違う。
竜魔人の時は好戦的で、容赦なくこちらを叩きのめしてくるが、人間の時はひたすら自分を抑え、思いに蓋をしているように見える。
そんな男の涙を見たのは、これが初めてだった。
「ソアラ」
人間の、柔らかい肌にまた雫が筋を作る。
大魔王の命令で引き合わされ、それぞれ司令官と軍団長の座に就いてから一年ばかりの縁になるが、この男はめったに表情を崩さない。
怒り、泣き、うめき、喘ぎ、そしてごくたまに、小さく笑う。そんな表情をそばで見るようになったのは、こんな関係になってからのことだ。
「バラン」
手を伸ばし、魔獣の爪で刺さぬよう気を付けながら目尻を拭う。と、濃い眉毛にシワが寄り、深く閉ざされていたまぶたがゆっくりと開く。
しばし視線が宙をさまよい、こちらを向いた。
「……私は、なにか言っていたか」
「いや」
「顔に、なにか付いているか」
「いや」
「聞きたいことがあるなら言え」
正面からそう言われ、息を呑んだ。こいつと違い、オレはそれほど感情が顔に出ているのだろうか。
「バラン、お前は……いや」
女の名を出そうかと口を開きかけたが、すぐに思いとどまった。聞きたいのは知らない誰かではない、オレの事だ。
「なぜ、オレを選んだ」
言ってすぐに、こんなことを聞く自分を恥じた。愛とか恋とか、そんな甘い言葉でも期待しているというのか、オレは。
バランは身を起こすと、しばし口元に手をやり、思案した。
「ハドラー、お前は強い。私が手を焼くほどには」
「……光栄だ」
「だから、誰に殺される心配もない」
「それだけか」
「私には、それで十分だ」
単純で簡潔な答え。かといって粗略に返されたような気もしないその返事の早さは、バランの中でも前から思うところがあったのだろう。
ついさっき、噛みつかれたばかりの肩の痛みを思い出す。交わる前にいつも繰り広げる、戦いの激しさを鑑みれば、これ以上ない説得力があった。オレを殺すことができるのは、あのダイを除けば目の前にいるこの男しかいないのだから。
「私は答えた。お前の理由も、聞かせろ」
「む……」
顔が降りてきて、いつもの調子で唇が重なる。
そのまましばらく口を塞がれ、答えることができたのは、ずいぶん後になってからだった。